次男が、仙台の東北大病院に検査入院した時のこと(当時、次男は2歳だった)
病室に入ってきた優しそうな女性が、ベットで横になっていた次男の顔を覗き込んだ
「黄疸の無い綺麗な顔の僕ね」と囁き、続けて「私の長男も、子どもの頃は熱を出すと黄疸が出て、熱が下がるとスウ~ッと黄疸が消えて白くなったのよ」と仰った
そして「私の次男です」と、隣に居た男性を紹介するように仰った(次男さんが会釈された)
「長男は、今、この病棟に入院していますが、成長してからは『何で!俺だけが!』と言うので・・なんぼ、あの時に・・と思ったか知れない!幼い頃なら、何も分からないまま・・」と続けられた
(入院中の長男さんは、役所勤めで、ご結婚されてお子さんもみえるらしかった)
昌義が三重大病院に転院して暫くして、その方は脳死移植を望みながら旅立たれたと新聞で知った
昌義が誕生した時・・・
「予後は良くないから、手術はしないほうが良いと思う」と仰った日赤病院産科の医師
「手術して治る病気ではなく、手術してからが病気との闘いになります」と仰った執刀医
治る病気ではないの? 延命だけの手術だった?
昌義へ
小学校高学年から通常の生活を送れて、成人してからも多くの友人たちに恵まれた
共に働き、共に遊び、共に旅行し、共に会食し、共に飲み明かし、共に語り合い
付き合った女性も(2人?)いた 38歳10ヶ月生きた(自己肝では、長生きした方)
いつどうなるか分からないから、ぶっ倒れるまで動く!それまでは自由でいたい!と言った
東京・大阪・京都・名古屋・岐阜・犬山、いろんな場所に昌義と出かけた
子どもの頃の、笑顔で、はしゃぎながらVサインで写っている写真も沢山ある
楽しくて、嬉しくて、幸せな時もあった! 遅い反抗期に、苦労させられたこともあった!
30歳になった頃は「優しくて、親孝行で、福の神のような子」だった
だけど!きっと「なんで俺だけが、こんな体に?」と思ったこともあったと、母さんは思う
「あなた(友人達?)に出逢ったことは本当に良かったです。有難うございます。サヨウナラ」
『次男の遺言』