10時に住職様がみえて、我が家で『次男の四十九日法要』が行われました
(涙は流さないと決めていたのに!終了間近に・・零れ落ちて止まりません)
大阪の妹も、次男が好きだった御菓子(お供え)を送ってくれました
10時に住職様がみえて、我が家で『次男の四十九日法要』が行われました
(涙は流さないと決めていたのに!終了間近に・・零れ落ちて止まりません)
大阪の妹も、次男が好きだった御菓子(お供え)を送ってくれました
次男が此の世を去ってから1ヶ月半経ったというのに、今日、コロナワクチン3回目の接種券が送付されてきました
母親の哀しい心に、塩を塗り込むような行為です!怒りと共に、涙が込み上げてきました!
市役所に抗議の電話を入れましたが・・「一寸、お待ちください」と言ったきりで、明確な返事はないまま・・・ずっと音楽を流し続けています!
あまりにも長時間待たせるので、受話器を置きました
次男の2回目接種日から、今日で丁度6か月
なので、市役所は接種券を送ってきたのでしょうが・・
あまりにも怠慢な仕事ではないでしょうか?
次男の学生時代(中学校~高校)に、付き添いで共に名古屋のライブに行きました
細長い階段に、ファンと共に並んで・・3階(たぶん?)の小さなライブ会場に入って・・
椅子などない立ち席ばかりでしたが、前の方に行って、次男の好きな北海道の少女4人のコンサートを楽しみました
TVでは、ボーカル以外は楽器を演奏していましたが・・当日は生演奏なしでのコンサート
モーニング娘。のコンサートにも、複数回(未成年=中学生の保護者として)同伴しました
ビックリするぐらい前方の席の時もあれば、真ん中だったり、後ろの席だったりしました
コンサートが始まると、全員が立ち上がってライトを振って応援します(誰も座っていません)
次男の嬉しそうな顔を見ながら、私も一緒に歌いました
『あみ』コンサートが岐阜で行われた時、共に行って・・私は「ずっと岐阜駅で待つことに」
嬉しそうに飛び跳ねるように、次男は会場までのシャトルバスに乗って行きました
私は、我慢強く!夕方の4時頃まで、駅構内や駅前の百貨店などで長時間を過ごしました
名古屋や大阪にも共に何度も出かけたし、明治村・ラグーナ蒲郡・岐阜の長良川球場・甲子園
本当に様々な処に出かけました(カラオケも)
まだまだ涙が止まらない日々を過ごしていますが、次男の哀しいことばかり思うのは止めたいと・・
確かに、自宅で最期まで過ごすことを望んだ次男との三ヶ月余は「本当に幸せ」であり「本当に辛かった」
あんなに辛いことは、もう2度と味わいたくない!思い出すだけで涙が溢れる!
病院で輸血している最中に「もうすぐ連ドラの時間だから、1階ロビーのTVで観てきたら?」と、処置室外の通路で待っている私にラインを送ってくれた優しい子が・・・38歳という年齢で・・たった独りで亡くなっていかなければならない恐怖や孤独感と戦っていたと思うと、白血病が憎い!おぞましい病が憎い!と怒りが込み上げてきます
でも・・次男にとって友人達と過ごした楽しい「ひととき」や、幸せだった思い出も数えていきたい
次男が自分の部屋として使っていた応接間の本棚から、数十枚の折り紙が出てきました
何かの導きだと思って・・・次男の重ねた年齢の数だけ折りました
1歳、2歳、10歳、二十歳、二十五歳、二十六歳、三十歳と、数えながら・・
38枚の折り鶴を綺麗にラッピングして、仏間に置きました
3月17日の今日、次男は『39歳の誕生日』を迎えるはずでした
その誕生日に合わせるかのように、昨日、座敷の三段ボックスからアルバムが出てきました
古いアルバム冊子です
♪ 君の 誕生日 ♪
♪ 皆で 祝ったよ ♪
♪ あれは 過ぎた日の 思い出の ひとこま ♪
次男が馴染みの店に出かける時に(お土産として持参するために)毎回立ち寄ったケーキ屋さん
次男の誕生日祝いとして、買ってきました(母にも、お供えしました)
次男が使っていた「もうひとつの部屋」を整理していたら、友人達との写真が出てきました
いつも真面目(?)な刈上げ頭で、このように金髪に染めた姿を見たのは「たった1度だけ」
たぶん、25~26歳ぐらいの頃だったと記憶していますが・・・?
友人達と、京都や大阪に出かけた楽しい日々もあったのですね
さらに、手帳も出てきて、次男が誰かに出す予定の手紙の下書きも見つけました
次男とはラインのやりとりだけだったので、次男直筆の文章は「今の私にとっては宝物!」
ずっと大事に残しておきたいので、私の机の引き出しに保管することにしました
この複数の手紙の下書きを発見して、哀しみと辛さだけだった感情が少し和らぎました
次男の母子手帳も出てきました (#^^#)
家事と自宅の片付け(母の部屋の品々の整理など)で動いてはいるものの、どうしても次男のことで涙を流している私のために?
末っ子が、伊勢志摩までドライブに連れて行ってくれました
『カツオ日本1の街』だそうです
末っ子の釣りを、しばらく見ていました
突然、とても美しい小鳥が舞い降りてきました
羽色は、とても美しいブルー
末っ子がスマホで検索すると、イソヒヨドリという鳥なんだそうです
『幸せの青い鳥』って、この鳥のことらしいです
小さな幸せを運んできてくれるでしょうか?
次男が2歳の頃、検査で仙台の東北大学付属病院に入院した際に診てくださった先生(医師)から頂いた手紙です
検査入院したのが昭和60年の春だったと思います
温かい手紙を送ってくださったのが平成3年ですから、本当に嬉しくて宝物のように大事に保管していたのでしょう
守る会から頂いた記念文集も、出てきました
生後86日で次男の手術してくださったのが、大井教授でした
すでに肝臓の状態は悪くなっていましたが、次男は38歳10か月まで生き抜いてくれました
この文集の中で、千葉先生は「胆道閉鎖だからといって、かなりひどい(悲惨な)説明をする医師が多いですが、これは気を乱す悪いことです」と記されています
「西洋医学だけを習った医師に多いのですが、こういう医師の元での治療は不完全なものと私は考えます」
この貴重な文章を、今の三重大学病院の女医(伊〇医師)に読ませてやりたい!!
白血病になった次男に、診察の度に「末期がんだから治りませんよ」「延命治療は拒否しますか?」と言い続け、それを聞いた次男は急に元気がなくなって・・うなだれていました
いたたまれなくなって、私は「毎回、同じことを言わないでください!この子は病気に打ち勝とうと頑張っているんです!患者にだって生きる権利はあるんです!」とクレームを入れました
次男は「病院(三重大病院)は嫌だ、殺される」と、自宅療養を強く望みました
自宅での三か月間は、大変でしたが・・二人三脚で本当に良く頑張りました!
最期まで「弱気になったら病気に負ける」と言い続けた次男は、穏やかに優しい顔で旅立っていきました
次男が亡くなってから、ちょうど1ヶ月後の新聞記事を読んで「いつの日か、きっと」という希望が湧いてきました
三重病院は、津方面に23号線を走って、三重大学付属病院の少し手前を右折した先にあります
『同大病院は若者のがん治療に力を入れており、治験を生かす』
『訪問介護や福祉器具の貸与など40歳位以上だと受けられる介護保険の助成対象にならない』
・・・と記されています(若者に特化した十分な支援制度もなかったそうです)
血液のがん(白血病)だった次男は、時々、高熱を出したり鼻血が止まらなくなったりしました
高熱が出た時は、頭や両脇を冷やし処方された解熱剤を飲ませ、一晩中次男の様子を看ました
鼻血が止まらなかった時も、親子で四苦八苦して止血しました
このような時、訪問介護をして・・救いの手を差し伸べてくれる支援があったらと痛感しました
三重大学付属病院の医師も、最後まで「あちらこちらの病院を紹介しようとしていました」が・・
何故、近くの三重病院を紹介してくださらなかったのでしょうか?