次男の学生時代のテストが出てきました!
我が次男が27歳の頃に診て頂いてた第二外科の先生(医師)から貰った手紙
当時は、黄疸も正常な値(0.9~高くても3.3)で、移植しなくても良い状況だったのです
次男が子供の頃は小児外科、成長してからは第二外科、そして肝臓内科に変わってから10年の間に、何が体の中で起こっていたのでしょうか?普通に、元気に働いていたのに!
できれば、ずっと第二外科の医師に診ていただきたかった!
去年の2月15日に高熱(腎盂腎炎も発症)で肝臓内科の『重〇医師』に診察して頂いた際、次男は「熱でシンドイのに、あちこちへ検査(CTやレントゲンなど)に連れまわして!腹が立つ」と私に訴えました
最後の検査が始まる頃には、次男は車椅子で看護師さんが付き添って移動してました
2月26日に次男が退院するまで、私は(仕事を終えてから)毎日三重大学病院に通って、次男に衣服の替え・飲み物・スポーツ新聞などを届けました
その退院時の次男の姿は、体全体が浮腫み・・足も象のようになっていました
このような状態で退院させられたのは初めてでした(重〇医師の感覚を疑いたくなりました)
その後、6月22日(火)に、再度、三重大学病院に入院!
その際には、中々血圧が上がらず・・心電図にも繋がれた状態になりました
次男は「トイレ行くのもシンドイ!どれだけシンドイか・・」とラインしてきました
ずっと絶食だったのですが、6月29日から食事が出るようになりました
「アルブミンが低い訳を、主治医に聞かないと」と次男は不安に思っていたようです
そして、血液検査の結果が安定しているから(?)7月6日に退院
7月28日(水)の検診日に「医師から仕事OKの指示が出たら、週明けから復帰しようと思ってるから」と次男は言いました
そして、8月初旬に、仕事に復帰
9月3日にコロナワクチン1回目接種(三重大学病院での接種を希望しましたが、叶わず)
(医師は、コロナワクチンは打ったほうが良いと、市に手紙を書いてくれました)
9月22日、検診日に「血液検査で変なものが出ているから、24日に血液内科を受診するように」と告げられました
次男は「24日は、コロナワクチンの二回目の接種日です」と伝えると「接種が済んでからで良いから、来るように」と言われたそうです
その日、次男は「もう、いつどうなるか分からないから、悔いのないように生きたい」とラインを送ってきました
週末に友達と馴染みの御店に通い、その店のオーナーに美味しいものを食べに連れて行ってもらったり、私と共に大好きな大阪にも出かけ、大阪在住の妹に大阪の旨いもの店を案内してもらったね
「病院は嫌や!殺される!」と懇願するので、10月末から自宅療養に入りました
(週に二回、検査や輸血などのために三重大学病院に通い続けました)
10月末から翌年の2月初旬まで、通院時には必ず「院内のト〇ールコーヒーを二人で飲みました」
毎年、GWになると皆で出かけた『四季の里』
ユニバーサルスタジオでの楽しくも恐怖の体験(左から三男・我が妹・姪っ子・私・次男)
『いつのことだか 思い出してごらん』
右から、次男・長男・三男
『あんなこと こんなこと あったでしょう』
次男はコロナワクチンを接種する前、芽球の値はゼロでした(正常)
何事もなく、会社に自家用車で通い、元気に仕事をしていました
(8月25日の血液検査の結果)
(9月22日の血液検査の結果)
コロナワクチン接種後には芽球の値が5,5になっていました
「血液検査で変なものが出ている」と肝臓内科の医師から告げられたそうです
次男は三重大学病院でのワクチン接種を希望したのですが、医師から「集団接種でしてください」と言われたそうです
医師は「私が接種した人で、ひとりも副反応はないから」次男にも「接種をしたほうが良い」と!
私は特定疾患の次男に接種するのが怖かったです
次男は「接種しないと会社でも肩身が狭い」と、会社の検診担当医から接種をしてもらいました
それが、9月初旬のことです(2回目は9月24日)
次男は、後に「接種したことを後悔していました」 無念だったと思います
診察日に「末期がんですから治りませんよ」「延命治療は、本人さんの希望を自筆で」とか「よく頑張っていますよ。余命1ヶ月~3ヶ月なのに、もう5ヶ月経っていますよ」とか、『患者にとっては残酷な死刑判決』を発するような、デリカシーの欠片もない医師
「病気に打ち勝つ!」と頑張っていた次男が、その医師の言葉を聞く度に「うなだれていました」
私は「毎回、毎回、そのようなことを言わないでください!」と大声で抗議しました!
岩手の名所巡り、仙台の八木山動物園
子供たちが小さかった頃は、毎年ゴールデンウイークに『四季の里』に連れて行った
正月には、伊勢神宮参拝に連れて行った 全て、年中行事のようになっていました
USJ 大阪のユニバーサルスタジオジャパン
子供会のバス旅行、私の職場での旅行など・・様々な処に出かけたね
小学校・中学校の修学旅行、特に高校時代のスキー旅行は「ものすごく楽しかった」と!
三重大学病院での輸血を終えて、帰りに「大好きな寿司(回転寿司)を御腹いっぱい食べたね」
焼肉・ラーメン・アジア料理・和食・中華・ドライブスルーのカレー&ハンバーグ&牛丼も、病院からの帰路の途中で、一緒に味わったね
毎週土曜日には、必ず出かけていた鶏肉専門店では「ビールで乾杯して楽しい会食」
その店のオーナーには、伊勢志摩やBUMPOFCHICKENのコンサートにも連れて行ってもらって・・とても嬉しそうに帰宅した
元子さんが贈ってくださった花束
二人(母子)で、病気が治ることを信じて頑張ってきました!
次第に悪くなっていく血液検査の結果を見て、絶望したり、陰で号泣したりして地獄でした
ただ、自宅で過ごしたいという次男の希望をギリギリまで叶えられたことは幸せだったと思います
三重大学病院に入院して、付き添いを許可されて、最後まで看取ることができました
寝返りしか打てない状態の次男の体をさすり、話しかけて、椅子に座って夜を過ごしました
とても無口な次男だったのに、入院して二日目の夜は・・ずっと喋り続けていました
噺家のように、時々面白いこと話したりして、私は笑いをこらえていました
そして「もう行くから、準備しておいて」と・・・
果物水やオレンジジュース、スポーツ飲料もゴクゴクと飲んでいました
三重大学病院に入院後は絶食で、御茶さえ提供されませんでしたから・・
(入院当日の朝は、私が炊いた白粥を美味しそうに完食したのに)
10日の朝、急に次男が大人しくなったので、私は名前を呼びながら頭をさすり続けました
心電図が変な音をさせたので、名前を叫びながら次男を抱きました!
看護師さんたちが部屋に入ってきて「お母さんの声が、まだ聞こえていますよ」と・・・
次男の名前を呼び続けると、顏が穏やかに優しくなって、黄疸で黒かった色がすうっと消えて綺麗な可愛い顔になりました
看護師さんの1人が「体を綺麗にしないと」と言うので「暫く、二人にしてください」と伝えました
ずっと・・ずっと、ずっと!号泣が止まらない!!!
白血病は、本当に惨い病気です!悔しいです!
悔しい!!!
父母と兄弟だけの家族葬で、次男を送りました
「病院は嫌だ!!」と訴える次男の意志を尊重して、10月末から自宅療養を始めました
週に2回は、検査と輸血の為に三重大学病院に通い続けましたが・・・
通い始めた頃は元気に歩いていた次男ですが、段々と杖を使ったり車椅子での移動になっていました
それでも、私達は「奇跡を信じていました」今までも、困難な状況から何度も復活したからです!
そんな次男が、余程えらかったのか・・「病院に連れて行ってほしい」と2月7日深夜に言いました
久しぶりに会った父親と入浴した翌日「主治医が看ますから病院に8時半着で来てください」との三重大学病院からの連絡通りに(父親が次男を抱きかかえるようにようにして車に乗せて)私の運転で必死に津まで走りました
何度も何度も、次男に声をかけて・・どんな思いで車を走らせたことでしょう!
やっとの思いで!三重大学病院の、いつもの三階診察室前にたどり着きました
暫くして、やってきた主治医の口から出た言葉は「お宅の近くの病院を紹介しますから、行ってください」
「こんなことを言ってしまえる医者って、この世に存在するんだ」とショックでした!
私は「どんな思いで、津まで走ってきたか!そんな私達に、来た道を戻れと?」と抗議しました
「この子(次男)は、鈴鹿まで戻る体力などありませんよ!」という私の前で、医師はスマホで電話をかけました
「あっ!先生!実は、こういう状態の患者を診ていただきたいのですが」と次男の病状を説明している途中で、相手の医師は(怒って?)電話を切ってしまわれました
それでも、何度もかけては切られている様子でした
私は「この子がシンドイ状態なので、処置室で休ませてもらいます!」と次男を連れて行きました
中に入ると、看護師さんたちが「ベットで横になる?」と次男を寝かせてくれました
その後、PCR検査をして、次男は入院することができました
(私の付き添いも許可が出ましたが、1日11,000円の部屋代が要る個室でした)