緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

初夏の日比谷公園:新緑の第二花壇と心字池周辺を散策する PART2

2013年07月08日 10時37分00秒 | 皇居周辺・城西


日比谷公園のシンボルである「大噴水」を撮影してみました。大噴水の周囲は円形の広場となっていて、多くの人たちが休憩したりしていました。この大噴水は毎日、午前8時から午後9時まで稼働していて、夜間はライトアップが施されるのです。




噴水池は上中下段の三段構造となっていて、28分間周期で24ものバリエーションの噴水を楽しむことが可能です。池の直径は30メートル、主噴水の吹き上げ高さは12メートルです。




大噴水の脇から振り返って「第二花壇」の芝生広場を撮影しました。芝生広場を取り囲むように、新緑の鬱蒼とした木々が壁のように植えられています。




大噴水広場前から日比谷交差点方向へ向かってしばらく歩くと「心字池」が見えてきました。以前に日比谷公園を訪れたのは今年の真冬の時期だったのですが、その時とは雰囲気が一変していました。




心字池周辺は鬱蒼とした新緑の濃い緑に覆われていて、池の水面がほとんど見えないくらいになっていました。真冬の時期に散策した時は枯れ木状態だったので、池の水面を見渡すことが出来たのですが…。




心字池の南端部には柳の木が植えられていて、真冬の時期は枯れ木柳となっていたのですが、現在では濃い新緑に覆われているのを眺めることが出来ます。




池周辺も背丈の高い草木に覆われていて、まるで初夏の時期の上高地(長野県)の湿地帯の中を歩いている感覚を思い出してしまいました。




心字池のすぐ脇には交通量が多い日比谷通り(片側4車線・合計8車線)の幹線道路が走っているのですが、車の走る音が全く聞こえなくて、ひっそりとした雰囲気に包まれていました。




日比谷公園の出来る以前のこの場所は、江戸時代以前は「日比谷入江」と呼ばれている湾状の入り江と湿地帯でした。徳川家康によって行われた江戸時代初期の土木工事によって、日比谷入江は大量の土砂で埋め立てられて人工の台地が作られました。




現在の皇居(江戸城)の内濠から外濠の数寄屋橋付近へ伸びる濠がこの場所を通っていたのですが、明治時代初期に日比谷公園の造営計画が作られた際、その濠の水面を利用して日本庭園を造る事が決定します。




池全体を上から見ると「心」の字をくずした形をしていることから「心字池(しんじいけ)」と名付けられました。禅宗の影響を受けた鎌倉・室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法の一つに数えられています。




心字池の水面の東側(有楽町駅側)には、江戸時代に水路だった時代から存在していた石垣が設置されているのが見えます。濠の水面を利用して日本庭園を造る際、石垣はそのまま利用することになったわけですね。




ある意味、江戸時代から現在まで残っている「遺構」でもあるわけですから、貴重な文化財として扱われてもおかしくはないと思います。




心字池を取り囲んでいる鬱蒼とした新緑の切れ間からは、丸の内地区の高層ビル群を眺めることが出来ます。100尺規制(約31メートル)時代の昭和のビル群と、高さ150~200メートル前後の高層ビル群が並んでいる風景を眺めることが出来ます。




心字池の周辺にも散策道やベンチなどが設置されています。第二花壇や大噴水広場と比較すると、人通りはあまり多くはありませんでした。



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