緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

開業前の東京駅:JPタワー低層棟前から眺める丸の内駅舎

2012年10月01日 14時08分12秒 | 東京駅周辺


JPタワー低層棟脇の歩道を散策しながら丸の内駅前広場へ戻ります。江戸城の「本丸の内」と呼ばれていた現在の東京駅周辺は明治維新後に官有地となり、陸軍の兵舎・練兵場(演習場)として整備されます。明治23年(1890年)に練兵場などが他所に移転すると、丸の内周辺は雑草が生い茂る荒地と化していました。当時の官営東海道本線の始発駅は新橋、民営(日本鉄道)東北本線の始発駅は上野でした。




明治時代から大正時代にかけて東京をはじめとした日本国内の大都市の構造を改造する「市区改正事業」が始まります。明治時代に「三菱商会」を立ち上げ、政商として活躍した岩崎弥太郎の実弟である岩崎弥之助によって丸の内周辺・有楽町・三崎町の土地がまとめて買い取られました。その後丸の内周辺の荒地は「三菱が原」と揶揄されて呼ばれることになります。




ついに工事用の仕切り板が全て取り払われた丸の内駅舎の南ウイング部です。太陽光の加減によって、復原された3階部分の赤レンガの色と、1・2階の赤レンガ壁の色の違いが鮮明すぎてしまい、思わず緑はその場で一人で苦笑いしてしまいました。




明治時代中盤から後半にかけての東京の繁華街は東北本線上野駅前の上野と浅草でした。また東海道本線新橋駅(汐留)に程近い銀座が中産階級の人たちで賑わいを見せていました。そして京橋・日本橋が東京を代表するビジネス街・金融街であり、東京駅周辺の丸の内・八重洲はその名の通り「荒地」だったのです。その荒地に「政商」と呼ばれた三菱の建物が次々と建設されて街が作られた経緯を述べていきます。




当時の三菱商会は大久保利通・大隈重信といった後援者を次々と失い、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗するなど「国をあげての三菱潰し」と呼ばれる猛烈な「三菱バッシング」が行われていました。元々、台湾出兵や西南戦争の輸送業務などによって利益を上げていた三菱商会は権力闘争に巻き込まれてしまったのです。




南ウイング部の建屋の壁面をじっと見ていると、赤レンガの壁面の美しさも然ることながら、窓枠などに用いられている花崗岩の存在がその赤色を引き立てているのだと思います。石は主に二種類の花崗岩が使用されており、腰部にはほんの少し茶色がかった北木島産花崗岩、窓台やまぐさ等には白みが多い稲田産の花崗岩が用いられています。確かに遠目で見ていても、色合いの違う花崗岩が使われているのがわかります。




振り返ると2007年(平成19年)12月に開業した「グラントウキョウサウスタワー」の巨大なタワーが見えます。リクルート、三井住友トラスト・ホールディングス(三井住友信託銀行の持株会社)、BMW JAPAN等が入居していて、八重洲口のシンボル的存在となっています。




JPタワーの正面玄関前から丸の内周辺の高層ビル群を撮影してみました。北側に続いている大手町駅周辺の高層ビル群と相まって、高さ150~200メートルクラスの高層ビルが立ち並ぶ風景は見ていて壮観です。現在も工事が続けられている「(仮称)大手町1-6計画」の高層ビルが完成するとまた風景が変わりそうですね。




三菱商会と協同運輸の競争のさなか岩崎弥太郎は死去し、実弟である岩崎弥之助が跡を継ぐことになります。その後丸の内の軍用地が民間に払い下げられることが決定し、当時の蔵相の要望に応じて150万円で購入することが決定します。当時の丸の内は鉄道はおろか、道路一本さえない本当の荒地だったのです。




明治27年(1894年)、三菱の私有地である土地(JR有楽町駅西側・現在の東京国際フォーラムがある場所)に東京府庁舎が日比谷から移転する形で建設されます。当時はまだJR有楽町駅は存在していません。今の感覚では信じられない話ですが、一般国民であれ民間企業であれ、国のために無償で尽くして、始めて国家から認められるという考え方が一般的でした。現在では死語になっていますが、当時はそれは「報国」という言葉で表現されていたのです。




丸の内南口の前には専用のタクシープールは整備されていませんが、駅前広場の道路にタクシーが並ぶ形で実質的なタクシー乗り場が出来上がっています。しかし、北口ほどタクシーを待っている人々の数は少ないように見えます。




明治28年(1895年)に市区改正委員会から議会に新橋と上野を鉄道で結び、中央停車場を設けてはどうかという提案がなされます。明治30年(1897年)から官営東海道本線の延伸工事が始まりますが、ここでも信じらない話ですが、高架橋や線路は三菱の私有地に造られたのです。とは言っても、建設後に土地の代金はきちんと払い戻されたそうですが。




路線バス乗り場前から撮影した丸の内駅舎南ドームのアップです。時間帯の影響か、ドーム全体がJPタワーの陰に隠れて暗闇になってしまいました。西日の強烈な日差しに照らされて光り輝く南ドームを撮影してみたかったのですが・・・。




「丸の内オアゾ・日本生命丸の内ビル」を真正面から撮影してみました。駅前広場の工事が完成して工事用シートが全て撤去されるのが待ち遠しいです。この日生丸ビルの大理石風の建物と、赤レンガの丸の内駅舎がきれいに並んでいる風景が気に入っています。




皇居のお膝元である丸の内はそれまで雑草が生い茂る荒地だったのですが、中央停車場の建設によって一躍「天皇の駅」を擁するエリアへと変貌していきます。皇居と中央停車場を結ぶ「行幸通り」の整備、丸の内駅前周辺のビジネス街への変貌など、大正時代の丸の内は激動の時期を迎えていきます。

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開業前の東京駅:南ウイング部脇を通ってJPタワー低層棟前まで

2012年10月01日 09時40分20秒 | 東京駅周辺


丸の内南口前に一度戻ってきました。南ドームの建屋からJR有楽町方向に伸びている「南ウイング部」の建物の脇に沿って散策していきます。散策していた当時は、いつもと同じ東京駅周辺の散策になると思っていたのですが・・・。




丸の内南口周辺も舗装が新調されていたり、東京駅丸の内地下中央改札口やJPタワーの地下入口などへ続いている地下通路へ降りることができるエレベーターが新しく設置されました。




南ウイング部の脇を散策し始めたところ、何と今まで建物に沿って続いていた工事用の仕切り板が撤去されていました! その分仕切り板が置かれていたスペース分だけ歩道が拡張されていたので、散策しやすくなりました。工事用の仕切り板がまだあったときは、歩道の幅は1メートルほどしかなかったのです。




南ウイング部の建屋と歩道の間にはフェンスで囲まれている排水口が設置されていました。丸の内駅舎の屋根に貯まる雨水は全て駅舎脇の排水口へ流れる構造になっているのでしょう。やはりここをみても丸の内駅舎の建物は濠に囲まれている雰囲気です。




丸の内駅舎の赤いレンガ壁面に並ぶ白い花崗岩の柱をズームで撮影してみました。遠くから見た感じでは特に何も感じなかったのですが、そばで見上げるとその細かい造りに見とれてしまいました。今回再建された3階部分の赤レンガは既存の1・2階部分の赤レンガの色と調和させるため、試験焼きの措置が取られているそうです。




南ウイング部の建屋は、復原工事以前と同じく東京ステーションホテルの客室が入っています。今回の復原工事ではホテルの客室の内装も大幅にリニューアルされています。




やはりそばで見ていると、1・2階部分の赤レンガの壁面や窓枠などに使用されている花崗岩などは局所的に汚れが目立つところが多いと感じました。汚れや損傷が極端にひどい箇所は、今回の復原工事で洗浄作業等が実施されたそうです。イメージとして「創建当時の姿に戻った」姿を思い浮かべてしまうので、汚れなどを見ると何とかならないものかなと感じてしまいます。




スプリンクラーの受水口が新しく設置されていました。




工事用の仕切り板が完全に撤去されると、やはり全体的な雰囲気が変わると思います。JPタワーと東京駅丸の内駅舎、そして奥には2000年代に入って高層化された丸の内ビル・新丸の内ビルが堂々とした風格で並んでいます。




少し離れた場所からじっと見ていると、本当に創建当時の大正時代にいるような感じですね。ただ駅舎周辺が高さ200メートルクラスの高層ビルに囲まれていますが・・・。




高さ200メートルのJPタワーを見上げて撮影してみました。真横から眺めると雰囲気がまた違って見えます。




南ウイング部で目立つのはやはりこの「尖塔」だと思います。これがあると丸の内駅舎はまるでヨーロッパの中世のお城を見ているみたいです。




三菱電機本社前から撮影した南ウイング部です。




ズームで撮影してみると、ちょうど丸の内駅舎の背後に「日本生命丸の内ビル」の大理石風の高層ビルが写っていました。




背後へ振り返ると「グラントウキョウサウスタワー」の巨大なビルが見えました。




横断歩道を渡り、JPタワー低層棟脇に沿って散策を続けていきます。

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