乃木坂陸橋下から再び東京都道319号赤坂杉並線を歩いて赤坂方面へ向かいます。陸橋下に立って赤坂方向をジッと見てみると、緩やかな下り坂が北へ向かって伸びているのがわかります。六本木地区を擁する麻布台地の高台から赤坂・溜池山王周辺の低地へ向かって緩やかな斜面の上に市街地が形成されているのです。
乃木坂陸橋下から赤坂サカス周辺にかけては丘陵地帯を降りて低地へ向かうことになります。坂下の奥の方を見ると赤坂・溜池山王といった低地に広がる高層ビル群を見渡すことができました。まさに「坂の都・東京」の真髄とも言える景観だと思います。同じ大都会であっても大阪の街中にはこのような立体的な都市景観というのはそう見かけることはできません。
ちなみに東京都港区の赤坂八丁目と九丁目の境、乃木神社前を西へ外苑東通りへと上る坂は「乃木坂」と呼ばれています。江戸時代にはこの坂は幽霊坂と呼ばれていました。また「行合坂」「膝折坂」とも呼ぶこともあったそうです。乃木坂の名は1912年(大正元年)9月に大日本帝国陸軍の重鎮で、学習院院長であった乃木希典大将の殉死を悼み、赤坂区議会が改名を議決したことに由来します。
「乃木坂」という住居表示があるわけではなく、この周辺は港区の「赤坂八・九丁目」となっています。しかし戦後に東京地下鉄千代田線乃木坂駅ができるなど、「乃木坂」の名称は一般的なものになりつつあります。
乃木神社の前を通り抜けて、赤坂八丁目の斜面に広がる市街地の中を散策していきます。この周辺はオフィス街である溜池山王・赤坂に近い事も有り、住宅夜中低層マンションが密集している中に事務所などが混在しているような町並みとなっています。
港区立赤坂小学校の手前で大通りは緩やかに右へカーブしていきます。平日の昼下がりの時間帯、自動車の通行量は非常に多いですが、人通りは極めて少なかったです。朝夕の時間帯以外はこんな雰囲気なのかもしれません。
歩道橋の上から赤坂・溜池山王方向を撮影してみました。「赤坂」と聞くとオフィスビル街というイメージが強いですが、意外と閑静な雰囲気の住宅地の割合が高い場所です。1947年以前は「赤坂区」と呼ばれていて、芝区・麻生区と合併して「港区」の一部になりました。
区名の由来は、見附から四ッ谷へのぼる紀伊国坂を「赤坂」と呼んだことからとなっています。赤坂と呼んだ理由には以下の説があり、坂上に茜草が生えることから赤根山(あかねやま)と呼ばれ、この山にのぼる坂を赤坂と称することから。もう一つは染物屋が坂に赤い絹を干したことからとなっています。
歩道橋を渡って港区立赤坂中学校の脇を通り抜けていきます。この中学校のさらに東側には東京ミッドタウンの敷地が広がっています。東京ミッドタウンは六本木にあるというイメージが強いですが、正しくは赤坂九丁目にあるのが正解です。
江戸時代の赤坂周辺は多くの武家屋敷が立ち並ぶエリアとなっていました。現在の赤坂御用地には、紀州徳川家の上屋敷(紀州藩赤坂藩邸)があり、その武家屋敷の周辺には市街地が発達していました。
「赤坂小前交差点」を抜けるとこの先はほぼ平坦な地形となっています。
この先は完全なオフィス街・繁華街の雰囲気が強くなってきました。昭和30年代の赤坂は銀座と並ぶ高級繁華街としての雰囲気が強く、近隣に在日米軍基地や宿舎などがある影響からか、外国人が非常に多い町だったそうです。
大通りの両側にはオフィスビルが立ち並び、人通りも増えてきました。
交差点前からズームで撮影すると「赤坂サカス」の二つの高層ビルが見えました。手前の屋上にリングを冠した建物は「TBS放送センター」、その奥の先進的なデザインの高層ビルは「赤坂Bizタワー」です。
周辺は完全に繁華街・ビジネス街の雰囲気へと一変しました。乃木坂陸橋前から歩いてわずか500メートル程の距離を離れたにもかかわらずです。
外苑東通りが尾根筋として通っている麻布台地の高台から赤坂・溜池山王の低地へ向かって広がっている緩やかな斜面の上に市街地が形成されています。