新丸の内ビルのメインエントランス前から撮影した丸の内駅舎です。1941年(昭和16年)、日本にとって最初で最後の「国家総力戦」である太平洋戦争が始まります。高度に訓練された兵士の能力という「質」と、軍隊の規模や兵の数という「量」を基にした軍事力で勝敗が決まるそれまでの戦いと比べて、「国家総力戦」とは国家が国力のすべて、すなわち軍事力のみならず経済力や技術力、科学力、政治力、思想面の力を平時の体制とは異なる戦時の体制で運用して争う戦争のことをいいます。
東京駅丸の内駅舎を擁する日本国有鉄道は戦時ダイヤを作成して、日本(朝鮮・台湾・満州を含む)の鉄道輸送の全てを「戦争に勝つ」ための運用を始めます。大まかに言うと運賃を値上げして戦費を調達する、旅客列車のダイヤを削減して軍事輸送に必要な貨物列車の運行を増発するなどの処置です。そして陸軍主導で東京~大阪~下関~朝鮮半島~満州を結ぶ高速鉄道「弾丸列車」計画が制定され、戦後の東海道新幹線の建設へと進められていくことになります。
丸の内駅前広場の北側の周辺は以前と比べて全く変化の兆しが見えないです。駅前広場の中の緑地帯は雑草が生え放題になっていて放置状態だし、丸の内駅舎が開業する10月以降に何か動きがあるのかもしれません。少なくとも、このままで維持というわけにはいかないでしょう。
太平洋戦争勃発と同時に三菱合資会社(三菱財閥)はその本性を存分に発揮します。そもそも、三菱の原型である土佐藩の「海援隊」はイギリスから武器を輸入し、 薩摩や長州に卸す商いをしていたことと相まって、日本の軍事産業を独占的に担うようになり、特に戦争や動乱が発生すると政府の軍事輸送や軍艦の製造などを担い莫大な利益をあげてきました。また政府とのつながりを利用し鉱工業など他業種へも積極的に参入して一大財閥へと発展してきたのです。
太平洋戦争の勃発の直前、三菱財閥は分社化を進めていた中で三菱飛行機と三菱造船を合併して「三菱重工業」を誕生させます。「国あっての三菱」とまで言われる三菱財閥は、まさに日本政府と一心同体であり、三菱としても戦争に負けるわけにはいかなかったのです。三菱重工業は戦争が始まると同時に、日本陸軍・海軍への兵器の供給を担う中核的存在となります。
「丸の内オアゾ・日本生命丸の内ビル」前から丸の内駅舎をズームで撮影してみました。工事用プレハブ小屋や工事用の仕切り板が完全に撤去されたことによって、丸の内駅舎をすっきりと見渡すことができるようになりました。
とあるデータによると、三菱の兵器製造部門である三菱重工は、太平洋戦争中に民間造船所が建造した軍艦の40パーセント、戦闘機総生産量の機体重量で約40パーセント、エンジン馬力数で約50パーセントを生産したと言われています。直接的な兵器の生産だけでなく、財閥として三菱鉱業・三菱内燃機工業・三菱電機・三菱化成などの有力メーカーなども下請けとしてフル動員出来たからだと思います。
日本の総力戦の遂行を支えてきた三菱財閥ですが、1945年(昭和20年)9月11日に敗戦(ポツダム宣言を受け入れたのが8月15日であり、連合国によって日本の指導者たちが逮捕されたのが9月11日です)を迎え、連合国の財閥解体政策が三菱財閥に襲い掛かります。当時の三菱財閥のトップである岩崎小弥太は「国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」と語っています。また、同年3月の東京大空襲で丸の内駅舎はアメリカ軍の空爆を受けて炎上しました。
「丸の内オアゾ・丸の内ホテル」前から八重洲口側を見上げると「グラントウキョウノースタワー」「丸の内トラストタワー」が見えました。丸の内駅舎の華々しい完成によって八重洲口側の話題が薄い気がしますが、同時期に「大丸東京店」の増床工事が完成してグランドオープンしています。
今回の丸の内駅舎の復原工事によって、余った容積率を八重洲口側へ移動して高さ200メートルの高層オフィスビルが建設されています。丸の内側では歴史的に価値のある丸の内駅舎を復原することによって東京駅周辺のブランドイメージを高めることに成功し、八重洲口側ではツインタワーと大丸東京店の建て替え工事によって、鉄道事業以外の収入を増やすことにつながります。
最後に「丸の内オアゾ・ショップ&レストラン」前から丸の内駅舎方向を撮影してみました。時間帯の関係で思い切り逆光になってしまいましたが、奥にはJPタワーの特徴的な外観である日射遮蔽ルーバー(庇)と高性能遮熱断熱ガラス(Low-Eガラス)によるエアフローウィンドの壁面が目立ちますね。「折り紙で作った紙飛行機」をモチーフにデザインされています。
東京駅の丸の内駅前広場の北側の広大な一等地にはかつての旧鉄道省、旧日本国有鉄道本社ビル、民営化後のJR東日本本社ビルが建っていました。1990年代の中盤、とある休日に緑は東京駅丸の内を散策していたことがありますが、重厚な雰囲気のビルが休日で人がいない寂しい丸の内に建っていたことを覚えています。
旧国鉄の本社ビルを受け継いだJR東日本は、国鉄清算事業の一環として本社ビルと敷地を売却することを決定します。新本社ビルはJR新宿駅南口に建設され1998年(平成10年)に竣工します。1990年代の終わりから21世紀初頭にかけて丸の内の旧本社ビルは取り壊されました。
同じ敷地内にはJR東日本本社ビルだけでなく交通公社ビル(旧ジェイティービー本社)・東京中央ビルが建っていましたが同時に取り壊され、三菱地所、日本生命保険、中央不動産によって再開発工事が行われました。2004年(平成16年)に「丸の内オアゾ」が完成しました。
丸の内オアゾの「ショップ&レストラン」の吹き抜け空間から撮影した丸の内駅舎です。1990年代は休日になると人がいなくなり「ゴーストタウン」などと揶揄されていた丸の内ですが、この丸の内オアゾや2002年(平成14年)に開業した丸の内ビルなどによって徐々にそのイメージが覆されてきました。これで開業前の東京駅の散策は終わりです。