皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」に国が公費を支出するのは政教分離を定めた憲法に違反するとして、キリスト教の牧師などの宗教者や市民ら計241人が10日、差し止めを求めて東京地裁に提訴した。信教の自由を侵害されたことによる精神的苦痛への慰謝料として、1人あたり1万円の支払いも求めている。
原告側は、即位の礼の儀式の中に神器などを引き継ぐ「剣璽(けんじ)等承継の儀」があることなどを踏まえ、「全体として宗教性を帯びており、政教分離の原則などに反する」と指摘。「国が特定の宗教と結びつくことは、ほかの宗教者や無宗教者に不安や恐怖を及ぼす」と主張している。来年4月30日に予定されている天皇陛下の「退位の礼」についても、違憲性を訴えるという
これは少し前に記事だが改元の日に同じ様な記事が載っていた、
信教の自由を侵害されたと言う事によると言うのは成り立っていない、神教以外を禁止している訳はなく日本は先進国としては一番自由な国だ、
国が行う神事が宗教だと言う事自体どうも私には納得ができない、
キリスト教徒・イスラム教は世界の宗教信者の7割近くを占めているが両者とも絶対一神教である意味かなり排他的だ、
しかし東洋の宗教と言うのは仏教にしてもヒンズーにしてもゾロアスターにしても神の言葉に従えと言う様な教えは見えない、
特に日本の神教と言うのはどちらかと言えば自然崇拝と言うか感謝が教義の宗教でそういう意味では宗教ですらない、
因みに宗教法人の要件は
宗教団体の定義
第二条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする下に掲げる団体をいう。
一、礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体
二、 団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体
となる、
第二条本文において宗教の協議を広め、儀式行事を行い、信者を教化育成する目的の下に
とされているが天皇が神教の「協議を広め、」ることはしない
儀式行事は行うが、信者(この場合訴えている人にとっては彼らと日本国民)「教化育成」はしていない、
法的に宗教団体(相応しくない言い方だが)の要件を満たしていないのだ、
日本と言う名前が出来る前、仮に大和の国としてもできる前から神教と言う形態はあったらしい、
魏志倭人伝の卑弥呼もこのような形態で国を治めていたらしいがあくまで自然界にお伺いを立てると言う様なシャーマンの様なものだったらしい、
稲作が入る前も入った後も大自然の移ろいに人間の生活は極めて脆弱だ、
気象を読み、天体の移ろいを観測しそれでも推し量れない自然の脅威にひれ伏し
大過なく過ごせた時に心から自然に感謝しまたその継続を祈る、
だから神教には仇なす神は出てこない、八百万の神々は全ての自然界におわす、
恐れ敬えば決して「神の試練」などは与えない、
天皇家と言うのはおそらくその役割をずっと担ってきたシャーマンの系譜と言えるのではないか、
科学が発達し自然界の観察から分析、利用と言う時代になりご神託は不要のものになったが精神は「感謝」として連綿と残り今の日本を形成しているのではないだろうかと思う、
本来は人間同士の社会も自然界の営みの一環として人間が生きると言う事に感謝し互いに敬うことで穏やかな社会を続けてきたのだが明治維新以降合理的な運営のみが重視され権力と経済が目的の社会に変わってしまったのではないか
無論私は戦後生まれで実際に知る由もないが当時の本を読む限り未だ御一新前の空気は明治が終えるまで、あるいは大正ロマンが失われるまであったのではないかと感じる、
「降る雪や、明治は遠くなりにけり」と言う言葉にはただのノスタルジーではない重みがあるような気がする、
平成が終わり「昭和も遠くなりにけり」である、
今回のキリスト教宗教団体のしていることを見ているとその昔キリスト教を禁教にしたのがわかる気もするな
原告側は、即位の礼の儀式の中に神器などを引き継ぐ「剣璽(けんじ)等承継の儀」があることなどを踏まえ、「全体として宗教性を帯びており、政教分離の原則などに反する」と指摘。「国が特定の宗教と結びつくことは、ほかの宗教者や無宗教者に不安や恐怖を及ぼす」と主張している。来年4月30日に予定されている天皇陛下の「退位の礼」についても、違憲性を訴えるという
これは少し前に記事だが改元の日に同じ様な記事が載っていた、
信教の自由を侵害されたと言う事によると言うのは成り立っていない、神教以外を禁止している訳はなく日本は先進国としては一番自由な国だ、
国が行う神事が宗教だと言う事自体どうも私には納得ができない、
キリスト教徒・イスラム教は世界の宗教信者の7割近くを占めているが両者とも絶対一神教である意味かなり排他的だ、
しかし東洋の宗教と言うのは仏教にしてもヒンズーにしてもゾロアスターにしても神の言葉に従えと言う様な教えは見えない、
特に日本の神教と言うのはどちらかと言えば自然崇拝と言うか感謝が教義の宗教でそういう意味では宗教ですらない、
因みに宗教法人の要件は
宗教団体の定義
第二条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする下に掲げる団体をいう。
一、礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体
二、 団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体
となる、
第二条本文において宗教の協議を広め、儀式行事を行い、信者を教化育成する目的の下に
とされているが天皇が神教の「協議を広め、」ることはしない
儀式行事は行うが、信者(この場合訴えている人にとっては彼らと日本国民)「教化育成」はしていない、
法的に宗教団体(相応しくない言い方だが)の要件を満たしていないのだ、
日本と言う名前が出来る前、仮に大和の国としてもできる前から神教と言う形態はあったらしい、
魏志倭人伝の卑弥呼もこのような形態で国を治めていたらしいがあくまで自然界にお伺いを立てると言う様なシャーマンの様なものだったらしい、
稲作が入る前も入った後も大自然の移ろいに人間の生活は極めて脆弱だ、
気象を読み、天体の移ろいを観測しそれでも推し量れない自然の脅威にひれ伏し
大過なく過ごせた時に心から自然に感謝しまたその継続を祈る、
だから神教には仇なす神は出てこない、八百万の神々は全ての自然界におわす、
恐れ敬えば決して「神の試練」などは与えない、
天皇家と言うのはおそらくその役割をずっと担ってきたシャーマンの系譜と言えるのではないか、
科学が発達し自然界の観察から分析、利用と言う時代になりご神託は不要のものになったが精神は「感謝」として連綿と残り今の日本を形成しているのではないだろうかと思う、
本来は人間同士の社会も自然界の営みの一環として人間が生きると言う事に感謝し互いに敬うことで穏やかな社会を続けてきたのだが明治維新以降合理的な運営のみが重視され権力と経済が目的の社会に変わってしまったのではないか
無論私は戦後生まれで実際に知る由もないが当時の本を読む限り未だ御一新前の空気は明治が終えるまで、あるいは大正ロマンが失われるまであったのではないかと感じる、
「降る雪や、明治は遠くなりにけり」と言う言葉にはただのノスタルジーではない重みがあるような気がする、
平成が終わり「昭和も遠くなりにけり」である、
今回のキリスト教宗教団体のしていることを見ているとその昔キリスト教を禁教にしたのがわかる気もするな