梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

竈と水瓶

2021-01-04 09:03:30 | 昭和の頃
毎朝珈琲を淹れる、
水道を開きながら昔のことを思い出す、
私の生まれは昭和23年の1月、山奥の寒村だ
未だ戦後と言う言葉が現実だった頃お勝手は竃と水瓶だった
貧乏な我が家だけではなく村に水道はなかった
裏の沢から竹を半分に切った樋で裏口の出たところまでかけいをかけて子供の背丈くらいの甕を置いてそこから更にお勝手に置いたひと回り小さな甕に移した水を使う
竈は土で作られていて連結した二つの焚口と真中に石綿の煙突が立ててあるがこの頃の煙突は殆どこの石綿だ
今では肺気腫の元凶だとして禁止のアスベストである
燃料は薪である、50cm程度に切った丸太を斧で幾つかに割って縁の下や壁際に積んで置いて使う、
それだけでは足らないのと最初に火をつけるのに必要な枯れ枝や杉の落ち枝を山から採ってくるのは子供の仕事である、
お袋が入院していた時は下の姉と親父が家事をやっていたが中学に入った年の4月に亡くなると姉は家を出て自然と家事は親父と分担することになった
夕飯の片づけと朝飯の用意は親父が、朝飯の片づけと夕飯の準備と風呂の用意は私の仕事だった

竃の片方でご飯を炊いてもう一方でみそ汁とおかずを作るのだが煮炊きが出来るまでが結構時間がかかる、
まず新聞紙を丸めてその上に乾いた杉の枯葉をのせ、更にその上に小枝を乗せて徐々に太い枝を燃え上がらせてからやっと火力の高い割った巻きに火が移ってから鍋や羽窯をのせる
二つの釜口の間に煙を通す煙突があるのだがそこにひと回り小さな釜口があってここには最初からずっと薬缶を乗せておいて常に湯は沸いていた、
ある日親父が石油コンロと言うものを買ってきた、これは廻りの家にもなく妙に鼻が高かった覚えがある、
この文明の利器(昭和30年代の田舎では)劇的に家事が楽になった、
寒い土間に立つ事も無く3畳ばかりの板の間で煮炊きができ、味噌汁もいつでも熱いものが飲める、
ガスどころか水道すらなかった田舎から上京して60年が経つ、
起きて当たり前の様に水道の蛇口から流れ落ちるきれいな水を眺めながらこんなことを思い出していた