梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

開き直って漂泊の旅に出る

2022-12-12 09:35:46 | 漂泊の記

恐らく昭和41年の暮れの浅草

中学を卒業し一度名古屋に就職したが新聞の募集を見て東京の亀戸にある日立製作所の臨時工に応募した、
学生服しか持たず布団はチッキで持って上京し江戸川区の上一色町と言う所の借り上寮にはいる、
総武線の小岩から歩いて10分程度、新中川放水路の近く、6畳に2畳くらいの流しがついてトイレは共同と言う部屋に二人で住むことになった、
風呂はこのアパートのすぐ隣と言う好立地だったのでさほど苦にはならない、もっとも生まれて初めて銭湯と言う共同風呂に入るのは慣れるのに少しかかった、
15歳の9月に上京しその暮れに帰ったとき親父は下の姉と同居していた
卒業直後親父の会社で手伝いをしていた時期があるのだが多分6月頃、梅雨で増水した川に親父と乗っていたバスが転落事故を起こした、5m位下の増水した川に180度回転してひっくり返った、
雨のせいで普段は自転車通学の学生が多く乗っていて親父は座れたが自分は立っていたのだが其れが幸いし裏返ったときに天井に手を突いていたので軽い打撲で済んだのだが座っていた親父は手すりに頭を打ち付けて事故唯一の重症となってしまった、
その時介護で来ていた下の姉が隣に同じく事故で入院していた男性に口説かれて結婚して一人住まいだった親父と同居することになっていたのだが上京して未だ1年も経たない16歳の夏、親父が倒れた、
事故の時に受けた脳出血が元だろうが再度脳溢血を起こし、当時の医療では手の施し様は無かった、
(因みに当時の法律では事故後退院して3か月たった後の死亡は事後の後遺症とは認められていないので全く補償は無い、)
中学生の頃から「只今」も「お帰り」もなかったので「帰る家」と言えるかどうかという生活だったのだがこれで“名実ともに“(あまり適切な表現ではないが)無くなった事になる、
兄弟とはいっても年も離れているし所帯も持っている、いずれにしても連れ合いにとっては余計な存在である事は間違いない
友人が招いてくれてその後2回ほど年末年始と厄介になったのだが(自分が居てはいけない場所)である事に気が付くのには遅すぎた、
貧乏暮らしと親父との3年間で日々の生活には左程不便は感じなかったのだが暮と正月には閉口した、
特に大みそかから三が日にかけては当時の東京はまったく店が開いていない、
蕎麦屋も年越しそばを配り終えたら三が日は休業する、
定食屋も勤め人が帰省する時期は開けても仕方ないので当然休みだし社食で生活の大半を過ごしている自分にとってはまさに死活問題である
コンビニなんぞは未だなかったしデパートも休み、正月開いているのは正月値段の寿司店位である、
出回り始めていた袋ラーメンと餅、食パンで少しのおせち料理が副食で誰も居なくなった寮で寂しく過ごす、
15歳の年に“意気揚々”ではなく不安いっぱいで丸木舟どころか丸太に跨って大海に漕ぎ出したと思ったら親船が沈んでしまったわけだ、
寄せる港もない、頼る親船もない、こうなったら「初めて見る景色を楽しんで行き先定めず漂泊するか」と覚悟を決めてお気楽な漂泊旅の始まりである

村には江戸時代が残っていた

2022-12-09 10:31:06 | 漂泊の記

お袋に癌が見つかったのは小学5年の夏の終わりころだったと思う、
新聞で乳癌の記事を見たお袋は自分の乳房にしこりがある事に気が付いて親しくしていた診療所の先生に見て貰ったらそのまま緊急手術となったので今考えるともう手遅れだったのだろう、
殆どあばら骨が見えるほどまで胸を切除して退院したが一年も経たずまた入院をして数か月で亡くなった、
大人になって姉から最初の手術の時から助からない事は知っていたが幼かった自分には隠していたらしい。
中学になってすぐお袋が入院すると姉は仕事を求めて浜松に出て行き掘立て小屋は親父と12歳の自分だけになった、
親父も町に働きに出ていたので帰りは6時を回る、そうしろと言われた記憶は無いが自然と夕飯の用意や風呂の用意は自分の仕事になった、
村には水道もガスもない、煮炊きは竃と七輪だ、風呂は楕円形の木の桶に鋳鉄の釜をはめ込んだ「へそ窯風呂」である、
水を大バケツで井戸から何度も運び、親父が座ると丁度肩までつかる程度まで入れると直径40cm位で奥行50cm位の竈に火を入れる、
煙突が無いので常に空気を送り込まなければすぐ消えてしまうのでその前からは動けない
冬は氷柱が垂れ下がる程水温は下がっているのでその作業は2時間近く、或いはそれ以上かかった、
ある程度沸くと竃に火を入れて味噌汁とご飯を炊く、おかずは七輪を使って干物を焼いたり、野菜を煮たりする、
ある時親父が「石油コンロ」と言う物を仕入れて来てからこの仕事は劇的に(当時としてはである)変わった、薄暗く湿った土間から食卓のある板敷になったのである
貧乏だった我が家は電気契約が「定額」と言う契約で、メーターがない代わりに電線は1本しか引かれていなくて「100wまで」しか使えないという契約だった、
部屋にワイヤーを引いてそこに電灯をぶら下げて移動して使うようにしていたのだがお勝手は土間で別になっていたのでこちらはかなり薄暗かった、
しかし「松下電器」をナショナル電気に押し上げた二股ソケットの登場で我が家の電灯は二股、三股を組み合わせて電灯が増えて、更に中古品だがラジオまでつく様になった
「100wまで」もどうやら安全器の中のヒューズを太いやつに変えれば結構使える事も学んだ、
学校から帰ると家事が待っている、風呂は三日に一度か四日に一度だが焚き付けの薪は調達しなければならないので帰ると山に入って枯れ木を集めてきて使いやすい長さにきったり割ったりして風呂釜の近くの縁の下に積む作業がある、
風呂を沸かす日には親父が戻る6時半頃には食事の用意が済んでいなければならないので3時頃からずっと作業が続く
しかし風呂焚きの2時間余りは学校で借りて来た本を読んだり予習や復習をするのでこの作業の副産物としてテストだけは結構いい成績を残していたのは効用だった、
お蔭でこの年代にやるべき遊びと言うのは略なくて全く可愛げのない少年が出来上がったのは間違いない、
60代になって村に行ったときに会った年配の方は全く覚えていなかったが相手は覚えていたらしい、
名前を聞かれたので「清一の息子です、覚えていますか?」と効いたら「あ~覚えてるよ、妙に大人びた子だったな」と言われたので(やっぱりな)と妙に感心した、
姉たちからも「あんたは嬉しいのか嬉しくないのかさっぱりわからない、可愛くないね」と言われ続けていたので自覚は十分にあった、
しかし帰る家が無くなって生きて行くには他人様に嫌われるとぐれるしかない、
他人に媚を売るのは貧乏の自覚があるだけに惨めだが人を不快にするのは無用な敵を作ってしまう
他人にされて不快になるようなことは極力避ける世渡りはこの頃がルーツかもしれない

赤貧だったのかもしれないが

2022-12-06 10:36:45 | 漂泊の記

駅から村の一番奥のトンネルまで「4里ある」と言っていたので少し手前にあった我が家までは恐らく15km位だろう、
トンネルの少し手前に「眞砂屋」と言う万事屋があってこの村の唯一の店である、
酒と煙草、味噌醤油などの調味料と石鹸などの生活雑貨、若干のパンとお菓子類がある
因みにこの時代の洗剤は粉も液体もない、固形の洗濯石鹸で風呂や洗顔に使う石鹸は「化粧石鹸」と呼ばれていて洗濯用は「洗濯石鹸」と言われていた、
固形石鹸と洗濯板と盥が洗濯のスタイルである、洗濯機も冷蔵庫も家庭用には普及していない、
店にある冷蔵庫も上の扉を開けて氷柱を入れるいわば保温装置であり、現在の冷蔵庫が発売されたときはわざわざ“電気”を付けた「電気冷蔵庫」、
洗濯機も「電気洗濯機」と言われていたが其れも未だ先の話である、
したがって村には「肉屋」も「魚屋」もない、「八百屋」もあるわけもないがこれは季節ごとではあるが手に入るので問題は無いが魚と肉は中々手に入らない、
肉は冬になると村の猟師が捕ってくる兎、山鳥と猪位だ、隣の家では卵を取るために鶏を100羽以上育てていて年老いて卵を産まなくなった鶏を潰して調理する、
その時に分けてもらう鶏肉か獣肉、今風に言えば「ジビエ」だがそんなしゃれたものではない、獲物の分け前である(無論買うのだが)
魚の方はすべて干物か味噌漬けで生の魚はまず手に入らない、秋刀魚の味醂干しか鯖の味噌漬け、後は目刺し、
当時は未だ焼津にも秋刀魚が上がった、大漁になると捌けない分をトラックの荷台にそのまま裸積みで山間の村を廻って売り捌く、
何匹と言う売り方ではなく「バケツ一杯」と言う単位で持って行った入れ物にスコップで山盛りにして「はい!〇円」と言う売り方である
冷蔵庫が無いので買った秋刀魚はバットに塩を敷き詰めて数段重ねの塩漬けにする
買った当初は脂ののった秋刀魚が夕飯にも弁当にも出て喜んで食べるのだがなにしろ数十匹だからしまいに飽きてくる上にやたらに塩辛くなって閉口してくるが贅沢は言っていられない、
何しろ魚を喰えるのはそんな時と偶に自転車で廻ってくる行商から手に入れる味噌漬けだけだ。
貧しいと自覚するのは相対的な環境である、貧村では殆どこんな程度なので自分が貧しいという自覚は東京に出るまで無かった、
一部の友人は今考たらごく普通程度の生活レベルだったが子供社会からするとあっちが特別で「御大尽 」でその他大勢は「普通の生活」だったのである
15歳で東京の日立製作所に務めるとそこには大きな食堂があって日替わりで定食券とうどんかパン2個の副食券と言うのが支給される(無論給料から天引きされる)
白米のご飯とおかず、味噌汁と漬物(取り放題だった)の定食は他の工員たちには大不評で「豚の餌か!」と言われていたが自分にとっては今までの食事からすると実に美味しかったがそんな事はおくびにも出せないが実はハムカツだのクジラの竜田揚げだの竹輪の磯部揚げだのにお目にかかったのだ。
第一家での食事が銀シャリになったのは中学2年ころでそれまでは押し麦が3割ほど入った麦飯だったのだ、
もっとも村で麦飯を喰っていたのは恐らく我が家位だろう、いくら貧農だと言っても農村だから自家米である、
東京に出て敗戦で戻って来た親父には田畑が無いので村で唯一の「配給米受給者」だった
多分米券が足らなかったのだろう、いつも押し麦の入ったご飯か、それも無くなると薩摩芋を炊き込んだ芋飯、更に足らないと水団になった、
それでも「家は貧乏なんだ」と言う意識は皆無で、「田圃が無いからしょうがない」程度の認識だったので全く惨めと言う感覚は無かった
要するに“ぼ~っと”しているのであるがその性格は人生において実に有用であった。

たんたんと、あるがままに

2022-12-05 10:51:08 | 我が漂泊の記
気が付いてみると夫婦とも親兄弟親戚はほぼ居なくなった、少し自分史を書くのも一興かと思いこんなカテゴリーで書き綴ることにする

中学1年生の春、もう少しで春休みと言う頃にお袋が死んだ、中学校のすぐ近く、川沿いにある村の診療所の白い病室は良く晴れた陽射しがいっぱいでお袋の死とは場違いな明るさだった、
軍医上がりの時永先生と悲痛な顔の親父を床に座って膝の間から見ていた、その日のうちに親父が隣家から借りて来たリヤカーに布団を敷いてお袋の遺骸を寝かせ一里余りの村道を引いて家に帰って来た、
葬式までの事は断片的にしか覚えていない、集まったのは親父の兄弟達だけで隣家の人だけの葬儀だった気がする、
兄弟も連絡が間に合ったのは東京の一番下の兄と6歳違いの姉だけで連絡が取れなかったり、遠く住まっていて手元不如意で来なかったりと寂しい葬式だった
市の火葬場では何人かいた筈なんだが自分の思い出の中には誰も居ない、
ドラマのシーンでは無いがやはりよく晴れた青空に煙突から上がる煙と焼却炉の鉄の扉ぐらいしか思い出さないがその後何度も見送って来たのでその記憶と重なっているのかもしれない。
家の向かい側の低い山の中腹には村の「焼き場」と呼んでいた火葬場があった、
大きな椎の木のふもとは擂鉢状に掘り下げられていて此処に木を井桁に組んでその上に棺を乗せて焼却する、
木材の火力はそれ程高くないので完全に遺骨にするまでには一昼夜を超える、村の当番役がその数十時間を交代で焼き続ける、
その煙は村中から見え、夜になっても木の間からその火はちらちらと見えた、我が家からは正面の山なので夜間に外に出ると見えていた
お袋は「ああしてみんながずっと見送ってくれる、私が死んでもみんなが“はるちゃんが焼かれてる”って思ってくれるんだね」と言っていたのだが、結局この村で初めて市の火葬場に送られた仏さんとなってしまってささやかな最期の望みも果たせなかった、
それから何人送り出してきたのだろう、そろそろ自分の番もかんがえなければならないが
「今までは、他人の事だと思ったが、俺が死ぬとはこりゃあたまらん」と言う辞世の句は一休禅師だったかな

「戦争と平和」ではなく「戦争で平和」?

2022-12-04 13:25:41 | 雑記

岸田内閣は国会を通さずに防衛力強化政策を強行している
「首相は敵のミサイル基地などを攻撃する「反撃能力」(敵基地攻撃能力)に関し「抑止力を高めてミサイルなどによる攻撃の可能性を一層低下させる」と指摘。「しっかりした防衛力を持つことは、外交努力の説得力を増す」と強調した。」
反撃能力が抑止力を高めるという論法は北朝鮮の核ミサイル連続発射とまったく同じだ
これは威嚇であり「外交能力の虚弱さ」で証明であり「説得力」の訳はない
「防衛力の強化は我が国国民の安全と平和を守る唯一の方法だ」と言う様な事を言う議員もいた、
国境を超える攻撃能力は「防衛」の範疇を超えていることは理論的に当然のことだ、
我が国領内を侵略するものに対して攻撃を加えるのが防衛で有って他国を攻撃するのは戦争そのものになる、
たとえこちらが「攻撃されたから反撃した」と言ったとしても相手国にすれば戦争の開始である
「売られた喧嘩を買った」と言うわけだから「喧嘩じゃない」と言っても客観的にそれは喧嘩である、
「平和」の対義語が「戦争」である事は異議はないだろう、「安心」の対義語が「不安」であり
「災害」の対義語は「安寧」だと思う、
自衛隊はその安心と安寧の為に非常に有力な組織であるがそれを一部のタカ派右翼の議員の言う様に「軍隊」としたら安心より不安が増大する
「平和を得るために戦争能力を保有する」と言う言葉は自己矛盾している
「平和呆けだ」と言う輩も多く見かける、
「平和呆け」結構じゃないか、少なくとも敗戦前の「戦争呆け」よりずっとましだ、
武力で国交は有利に進むと言う夜郎自大の誇大妄想的「戦争呆け」が時代と政策を見誤り国民の1/3を失い、いまだに「敗戦国条項」と言うレッテルを外せない
「日米地位協定」と言う不平等条約も、北方四島も「日ソ不可侵条約」を一方的に犯したソヴィエトに盗られたままに余んしているのもすべて「戦力があれば国交が有利に働く」と言う過信が引き起こした結果ではなかったか
「侵略が無いなんて事はあり得ない、理想主義の戯言」だとしてもあらゆる事は「理想」があってその為に不断の努力をするからこそ進歩がある
世界が我が国の様に「戦争の放棄」を国是とすれば世界の軍事費と言う究極の非生産性コストは人々の為に使う事が出来る、そうすれば「地球温暖化」に対する研究も急速に進むだろう
理想を追及する事を笑う事は愚かしい事だ