河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

事の始まり 2

2024-11-19 10:59:59 | 絵画

いい年をこいて「事の始まり」なんて言っているが、これまでの人生の20%くらいしか思い出せないほど頭が老化してきたから、何か「事の始まり」でもしないといけないと思う気持ちだけは残っている。それがアトリエを建て、死に場所とすることで、そこで何か新しいことをやってみようと思う。新しくないのは絵画修復をまた再開して、それ以外に「絵画教室」をやって、身近な人を集めてみようと思っている。人が来てくれるかどうか分からない。

絵画教室の生徒を集めなくてはいけないが、主に「暇なおばさん」だろうと思う。しかし募集のビラには「あなたの心を描いてみませんか?」と呼びかける。この「心」の意味が分からん!!と言う人が多いだろうが、子供時代にやりたいことを押しつぶされた人には分かりにくいことだろう。だからこそ教室に来て、分かりにくかった自分の中にあった自我を感じて欲しいという教室なのだ。

絵の描き方は人それぞれだろう。私の専門は「具象絵画」だが、だからといって、その自分の表し方の方法論に拘らない。しかし描き始めたら「なにそれ?」を連発するだろう。この問いで「自分」を感じて欲しいのだ。心の中から引っ張り出すイメージは、目の前のモチーフをただ描くのとは違って、難しいようで簡単なのだ。それに慣れれば、描く者は自分を疑うだろう。「なんじゃこれ??」と思っていると、自分に実感が湧いてくる。これが自分なのだと。

子供のころは、そんなことは考えもせずに「自分が自分であった」のだ。ただ日本の教育が悪く、親がその悪い教育の在り方をそのまま子供に押し付けるから「自分が失われた」のだ。その自分を取り戻しに来てほしい教室にする。

授業料は月3500円で、光熱費だと思ってほしい。イーゼルと画板くらいはこちらで用意する。キャンヴァスや紙、鉛筆、絵の具の道具は自分で。じかし教室の大きさが思ったより小さい。場合によってはギャラリーの中や廊下を使うかも・・・。教室には昔ながらの石膏像(マルス、ジョルジュ、パジャント)に静物画用のモチーフなどを置くが・・・・別にそれを描けとは言わない。昔ながらのアトリエの雰囲気だ。

と、事の始まりはまだ遠い。

加筆;

スーパーにコメを買いに行った。5kgでなんと3600円を超えていた。一番安い銘柄で、前は1650円だったのに、あの自民党の農水大臣が「備蓄米は放出しない。コメの値段が下がると困るから」とぬかし!!この値段だ。自民党が作った農協とコメの組合まで含めて、新米が出始めた時に出さずに、新米の価格が吊り上がるようにした。これがいつもの自民党の選挙対策だったが・・・ばかめ!!負けたろう。農家の数は減っているが、みんなコメを食わなくなってきた。私もコメ以外にパスタやパンが増えた。そして食べる量を減らして、体重制限まで始めた。たまに食べるご飯は五尺になり、茶碗に一杯で終わりだ。ざまあみろ!!

要は、年を取って運動不足、食欲減退だからね。


事の始まり 1

2024-11-10 10:04:19 | 絵画

人は何かを始める前に「決意」する。さらにその前には「選択」を行っている。だから選択は決定なのだ。しかし絵を描くことを選択しただろうか?それは「物に対する意識」が形成される子供の頃に始まっているから、決意も選択もない。気が付いたら絵を描いていた。クレヨンを買ってくれた親・・・・子供は平らなところから、壁、床まで絵を描いて行く。だから親は「紙」を与えて、そこに描くように指示する。そこで子供は優しい親に感謝して「丸を描いて、チョンの線を描く」のを繰り返し、「これは何?」と問えば、一番大きい丸を指さして「パパ」と言い、つぎは「ママ」と言い、一番小さな丸を自分だと言う。それを見て私は感心した。子供にとって絵のモチーフは親だった。他にいきなり風景や静物画は無い。教えれば猫とか犬も描くが近くにその存在が必要だ。教えれば次第に各対象は増える。それどころかいつの間にかイメージの世界が出来あがる。「これは何を描いたの?」と尋ねれば、いろいろ説明してくれる。こんな時、黙っている子は居ない。「楽しい遊び」が始まっているのだ。

こうして子供の頭の中に「絵の世界」が形成されるが、これが大人になると失われる。なぜか大人になると別の遊びを求めるようになるからだろう。

私は子供の頃、絵は嫌いではなく、どちらかというと学科の「図工」の時間は、次は何をやらせてくれるのだろうかと心待ちにしていた。だから絵を描くことは其の一部でしかなかった。中学生になってクラブ活動はまず先にブラシバンドを選んだ。とにかくトランペットが吹きたかったが、数が無く一番多いクラリネットをやらされて・・・・これが一丁前の「音」が出るには相当な試練があることに失望した。で、難しいからと言ったら「メゾホルン」ならあるということで、これを始めたら、取り合えず「音(?)」が出ればと、いきなり楽譜を渡されて、演奏が始まった。しかし楽譜にはドとミとソシカナク、ミソミソ間をおいてまたミソミソだったのにガッカリ!!ホルンに主旋律を吹く場面は無いそうで・・・。やめた。

次に行ったのは剣道部!!なぜかと言われるとこまるが「チャンバラ」ぐらいに思っていたに違いない。先輩が指導で竹刀で「持ち方が悪い」とか言って叩くし、終いには屋上の鉄扉の「大きな鍵」で頭をたたくので、怒って指導の担任教師の所に苦情を言いに行ったら「君たちのことをもって先輩は指導しているのだから、我慢しなさい」と言う。これでやめた。今時であれば「暴力教師のクラブ活動」として訴えられるところだ。で次は姉が「美術部」に属していて、じゃあ私もと「入りたい」と担任教師に言ったら、じゃあ「自画像を描いてくるように」ということで、「自画像」を画用紙に鉛筆で描いて、姉に渡したら「グロテスク(気持ち悪いの意味)」の返事でムカついた。たかが中学の美術教師で何様のつもりだ!!と憤慨して、写真部に行った。ここには変な事を言う担当教師は居なかったため三年の御終いまで続いた。しかしどういう訳か写真部は毎日部活動があるわけではなく、放課後は直!!家に帰り机に向かった。中学二年生から私は姉と同じ部屋だが勉強部屋をもらっていて、何やら「独立心」が湧いてきて帰宅後はプライベートタイムだった。姉はピアノをやっていて将来の進路は決まったようなものだが、私はのんびりと構えていて、実は帰宅後勉強すでもなく、美術部を拒否されたせいか、新聞広告の裏が白いのを集めて、そこに絵を描いていたのだ。人物画は難しいので描かず、自分で思いついた建物を描いていたのだ。それを知らない隣のおばさんは「いつも公男さんは帰宅したらすぐに机について勉強している」と勘違いしていた。その勘違いも勉強しなくても、中間テスト、期末テストは学年で15番以内に入っていたから、やる気はさらさらなかった。だが、ある日私が描き貯めたデッサン(?)と週刊誌から手に入れたアメリカ女性のセミヌードのページが母に見つかって、すべて没収廃棄された。要するに高校受験で「まじめにやれ」と監視されていたのだ。こうした障害を乗り越えて今がある。

日本の教育では「自己認識」は持たせないようにしている。「皆と同じ判断力」が重要で、自分は違う意見だとは言わせない。山口高校の教師は「高校生に人権などない」と平気に言っていた。だから日本人は「労働力」でしかなく大学も労働を提供するために行くので、「主体的に行動できる者」はほんの僅かに「社会と戦って自律する」のだ。私が自分の「エゴ」に気が付いて「唯我独尊」を得たのは25歳になってからだ。この頃自分の絵の世界が見えてきた。

山口高校は戦後の吉田の次の総理大臣になった岸信介や佐藤栄作が出た学校だ。ろくでもない学校だと言えるだろう。その反面教師が自分の中にある。

 


事の始まり

2024-11-09 22:45:20 | 絵画

最近は家の建築トラブルとか猫の話とかが多いと「苦情」がきた。仕方がないと言えばそうだが・・・。実は最近全く絵を描いていない。だから「・・・の絵画とは何であったか?」なんて話が出来ないが、構想だけは大まかにある・・・・。

ここ浜田に来てから描いた絵は、カラフルでフランドル技法で描こうなんて思いが殆ど成功せず落ち込んできた。それ以外に浜田に来たら大鯛を釣って記録を更新するという願いも実現せず、いつの間にか日本海の潮目は悪く、上物(青魚の様に回遊する魚)は対馬暖流は浜田の海岸から遠く離れて、せいぜい底物(大きく移動せず海底に居ついている魚)の狙っていたら、それさえも釣れなくなるほど海水温が上がったり下がったりしていた。そのため釣りもしなくなって、道具はさび付いた。

絵の道具もさび付いてきたようだ。しばらくブリュッセル時代に描いた人体デッサンの保存が気になって、15枚ほど自分で額装した。額縁は西美時代に版画素描係が新しく額装を替えると言って、前の楢材で出来た高級な額を捨てるというから、ほとんどをもらっておいた。西美でのお土産はこれが一番だった。額装すると馬子にも衣裳だ。ずいぶんよく見える。もし嘉川の家に引っ越せればギャラリーに二段掛けにでもしようかと思う。二段掛けは美術館ではありえない作法だ。

「継続は力なり」という言葉があるが、私の様に努力でしか才能を維持できない者に与える言葉だろう。デッサンも描き続けないと力は落ちる。その力は「感覚的な捉え方」を意味しているからだ。

この捉え方が失われかけていた。カラフルな絵を描こうと目的を誤った時から、多くを犠牲にして「自分の感性」を捻じ曲げて、自然に出てくる形を描く力を失い、見た目をよくすることが目的になっていた。それより自分の頭の中にある「絵画世界」をこの世に生み出せるようにするには、「自然とそう変化した」と言えるように「継続」が大切だった。それはちょっと前にもブログに書いたが、「描くこと」は頭でなく「筆が行く先を決めるように」手が動くことが望ましく「綺麗、美しい」は二の次とすべきだ。

私が気が付いた自分の「世界」は美しい世界」ではなく「グロテスク(日本語的には気持ちが悪いという意味)」であり、それを「無いものを在るが如きに」到達することが目標だったはず。

さあ、民事裁判の公判が11月23日に迫るが、「必ず勝つ」つもりで、時間を取り戻そうと思う。そして原点に戻る。

補筆:

昨年のこの頃のブログに「さあ、引っ越しの準備だ」というのがある。建築計画の契約を結んで、まず土地改良が動き出しているはずであった。しかし表土の田んぼの黒土は指示通り隣接する農地に移されずに盗まれた。そして黒土があった部分にじ「砂利」を入れるように指示されていたのにも拘らず、どこかから「古い廃土」が持ち込まれて。それを隠すために「真砂土」が被されていた。

そして今、その犯人たちは弁護士を雇って、私の訴えに反論している。今回の「事の始まり」は私が浜田の建築工事斡旋業を信じたためだ。この一年は失われた。

 


イライラが良くない

2024-10-25 13:19:44 | 絵画

人生イライラしているときはきっと寿命を縮めているに違いない。

車の中では「くそババア!!免許返納しろ!!」とか、制限速度50kmの道路でも「ここは60(km)で走るんだ」と叫ぶ。私はまだコンビニに飛び込んだことは無いので、言いたい放題だ。危ないだろう。

年を取って背が4cm縮んで悔しい。かかり付けの先生は「背骨の骨が縮んできて背が低く成ります」と。そういえば足が短く、胴が長かったのだ。170cmを切ったらしいから5cm短くなったのか?坐骨神経痛を病んでから、左足が良く動かなくなって、いつの間にか「左方向」に向かって歩いていて、靴も左側がすり減っている。がっかり。歩くのは遅いから、若い人と歩くときは速足でなくてはいけない。

それと鼻の下が長くなったようだ。若い時は笑うと「はぐき」が見えたが、最近は見えなくなった。そうそう、歯はぼろぼろで、もう5本インプラントされている。

目がかすみやすく、テレビは2時間以上見ない方が良い。もの忘れが激しく、二階に上がると何か忘れて、物事は二つ同時に出来なくなった。猫の名前を忘れて「君の名前は??」とか聞いてみるが、あくびをされる・・・・あくびは「あんた何を言っとるの?」という意味らしい。

スマホを交換した。アイフォンだったのだが「契約」が悪くて、月に3万5千円支払わされるので、年金生活が破たんしている。AUに行ったら、「もっと安いのがります、アイフォンがいけないのです」と言われてランクを下げて「電話がかけ放題」というのにした。以前は電話は余りかけないからと言っていたが、その料金がめちゃ高かった。

で機種はしょぼいが年相応になるということだ。

年を取るとこうなる。さみしい!! 独りでいるのが良くないようだ。


73歳にして家を建てる 5

2024-10-25 12:38:39 | 絵画

いつまで書いているのか??と言われると困るのだが・・・・。年内に終わらないだろうから別のテーマを捜したいが、途中で裁判の経過だけショートに記述したい。

10月23日(水)の午前11時半に2回目の公判があった。初めて相手の代理人に会ったが・・・・。紙がくしゃくしゃの40歳くらいの弁護士なのだろうが、ワイシャツ姿のラフな姿であった。

まあ被告の陳述の代わりに「嘘八百」を書いた人物だろう。裁判官は50歳程度で、これも若い。今回は法廷ではなく会議室のような小さな場所で、真ん中に大きな机があって、殴りたい人も簡単に手が届かないような大きさである(冗談です)。

代理人や裁判官の名前も知らないし、相手も愛想が悪く、挨拶もないから、当方も挨拶はしない。私は時間中ずっとしかめっ面で、耳が遠いから大声で話す。

嘘ばかりの被告の陳述を基に裁判官が話す時は「それは違います!!もう一人の被告とは口もきいたことはありません」と否認する。

裁判というものは相手が嘘を言おうが、原告と被告の陳述は対等に扱われるから、裁判官は要点を絞り込んで「証拠」を求める。

今回の要点は被告が「廃土を持ちこんで見積もりとは異なる工事内容を行ったか」ということに絞られた。被告が嘘を言い、出し抜こうとしても、原告が求める契約解除、前金の返還、現場の原状回復を求める裁判であるから、刑事事件と指定の要件はここではない。

机に座ったままの裁判官には「廃土」がどの様なものか分からないことが問題だ。私の準備書面に説明された内容も理解しているかどうか・・・・分からない。で、証拠になるものがあるかと問う。私は「車の中に廃土に含まれていた廃棄物がある」と答えたが、「物を見せられても、それがそこにあったかどうか不明である」という。

で、山口南署の生活安全課が収集した廃棄物の写真とかがあればという話になって・・・・南署の担当者に電話をかけたら「事件の証拠は公開できない」という・・・。これが殺人事件なら「証拠を公開しない」と言われると「証拠隠滅」なんて思われるかもしれないが・・・・ただの「廃棄物処理法違反」であるので、警察側は「簡単に誰かに見せられない」と来たものだ。

で、これからが問題だ。つまり私はいくつか現場の写真を撮っているから、それで充分証拠とされるのかどうか?裁判官によっては「これじゃ。わからん」と言い出すから。

それでもカメラから現場写真をプリントしたいが、おかしい・・・・出来ない。以前、自分のブログに写真をアップロードできたのに・・・やり方が分からなくなって、大工の原田氏にメモリを送ってプリントを頼んだが・・・。

何だかイライラして消耗している。350ミリのビールを飲んで寝る。