引きこもりの問題がNHKで語られていた。
引きこもりになる人のタイプは「物事を敏感に捉える人」「高度な知的領域を目指していた人」とか挙げられていた。そこに外部からの要因で自分の目指す方向を失ったり、疑ったりしてしまう人が引きこもってしまう傾向にあるそうだ。少なくとも私は違うタイプだ。
引きこもりになるタイプの人が受けている、この社会環境の問題から考えてみたい。
以前から取り上げているように、この国では集団の価値観が優先されて、生き方を束縛されている。この国以外の国でどのような考え方があるのか考えたり、感じたりすることが出来なかった人たちは、この集団の価値観を当たり前のこと、つまり「正義」として考えている。最近の殺人事件で母と息子が息子の妻の異常な性格に耐えかねて殺してしまったという事件で、裁判員裁判の中で、中年女性の裁判員が法廷に控えていた妻を殺した息子の父親に対し「貴方は息子に人を殺すような教育をしたのか?」と質問した。そして「親として謝罪したらどうか!!」と言った。フジテレビのお昼のグッディの中でのさいげんVTRでの話だだが、少し誇張した演出は感じられたが、大筋裁判員の発言に違いはあるまい。この裁判員の発言をどうして裁判官が許したのか?想像もつかないが、裁判員が何故事件と無関係の父親に責任を問うのか理解できなかった。父親の返答は「アメリカで長年育って、この場合謝罪することはしない」と。当たり前のことである。
この国ではメディアが加害者の家族を見つけ出し、インタビューを試みる。「加害者の親としてどう感じるか」とマイクを向けるのが日常的にある。だからこの裁判員は、ここで親に謝罪させようとしたのだろうか?
謝罪は何か悪いことをしたときにするものだが、その謝罪すべき原因と結果に合理的な理由がなければならない。それにしてもこの国では皆ペコペコ謝るのが日常化して軽く感じる。「謝ったのだから如何する」と聞きたい。これまで書いたと思うが、ベルリンに居た頃、ある日本人の学生が国立図書館で本を写すのをめんどくさがって、1ページを破いて持ち帰った。当然それを見たドイツ人が許す訳はない。彼は裁判で「追出来心で、初めてやりました」と認めた。「初めてだから許してください」と言ったかどうかは定かではないが、彼は9か月の実刑判決を受けた。器物損壊と窃盗の罪だ。日本であれば執行猶予付きであろうが、ドイツでは応法刑主義である。謝罪は罪を認めることで、罪を許してもらうための手順の一つではない。責任を取るということだ。
この国の裁判では、犯罪者が「謝罪」したかどうかで「量刑」が異なる。そして裁判官は判決以外の「判決理由」として、「被害者の家族の無念さをおもんばかれば極刑もやむなし」とか言う。殺人事件などでは被害者の家族も法廷で傍聴し、裁判官は意見を述べさせるようになった。昔はそんなことは無かったのだが・・・・裁判員制度とともに法務省が始めた制度である。殺人事件であれば、被害者の感情としては「極刑を望む」となる。そして死刑判決ともなれば、私にそれは「裁判で被害者と被害者の家族に代わり「報復」を行うとしか思えない。先に述べたドイツでの裁判であれば応法刑つまり「法律に従ってのみ量刑は考えられる」ということで、これが責任を重んじる合理主義というものだと思う。
この国の社会環境の問題は、このような一場面でも議論が尽くされていなくて、国民が情緒的にどう感じるかで世の中が大きく動いていることに気が付いてほしい。これはとても危険で、この国の個人は集団の中の一人で、自分ではない。自分がどう感じようが、逆らってモノが言えないことが一人の人間としての独立性を阻害しているのだ。裁判員で父親に「謝罪を求めた」女性は自分が考えたことではなく、周囲に同化して「正義」であると思い込んだことを自分の外に発信しているのである。この女性のタイプと対極にあるのが「引きこもりのタイプ」である。
引きこもりのタイプの人は外部の環境で起きていることに自分を照らして見ている。例えば親や学校の教師、同級生、仕事の同僚、上司などが個人を取り巻く環境要因だ。彼らが何気なく発する言葉に敏感に感じる。自分の考え方や感じ方が他の者たちと違うことが問題と感じてしまう。私に言わせれば「これで当たり前」なのだが、自分が確立できなければ、この環境に負ける。悪意のある言葉では追い詰められることもあるだろう。悪い奴は「人を追い詰めるために、傷つけるために言葉を選択している」こともあるだろう。私のように「はみ出し者」で結構!!とか考えられる生き方を選択できるだけの人生経験がないことが悲しい方向に人を向ける。つまり自分をダメ人間だと思い込んでしまうことで、世の中から遠ざかることで解決しようとする。何かをしたいのはやまやまなのだろう、しかし外に向かってはできない。いや、させてくれない環境がある場合もある。大学を出たらすぐ就職しなければならないとか、(今年の就職内定率は70%を超えている、すでに!!)私に異常だ。もっと若い内に経験すべきことが山ほどあって、本来人生の時間は自分で自由に配分できなければならない。欧米のどの国でも、日本や韓国のような悪習じみた社会構造は見つからない。(国連が日本のメディアの独立性が危ういと言ってもピンとこない政治家ばかり・・・で気が付かないのだ)欧米と比べて社会構造に問題があるのだ。そこに自分の立ち位置を置けない社会がある。要するに最も自分が自分らしく生きようとする時期に、教師や親が当人の為にと、ああしろ、こうしろとおせっかいを焼くこの国の人間関係がある。安倍が「美しい日本」という旧式の家族関係が日本民族の強さだと言う・・・まさに集団でいようとする考え方が個人の成長を妨げている。そこに引きこもりがある。
最近、元事務次官の人が引きこもりの息子を刺殺した事件があって、今回のテーマを語るべきだと考えた。この事件の場合、追い詰められた家族の暴発ということらしいが、殺された息子のケースは「引きこもりの問題」を超えている。もう年も40過ぎの息子のことだ。中学生のころから外部環境と自分の関わり合いが出来なくて子劣等感と優越感が(劣等感、優越感は同時に存在する裏返し)がコントロールできなくなったのだろう。(親が優れていると無言の圧力を子供は感じているものだ)そして暴力で解決を試みるところまで行ったのだ。
今引きこもっている人たちの多くはここまで至っていないだろう。彼らに最も大事なのは「自分が自分であること」だろう。他人と比べないことだ。自分の最も好きなこと、やりたいことをやるべきだ。
私は絵を描きながら、自分の芸術的主題について考えた。長い間自信が持てなかったが、現代美術界がよしとするもの、流行しているもの、美術史上優れているとされるもの、「くそくらえだ!!」ここでは自分しかいない。
今私は引きこもっているのと変わらない。それでこそ、いい絵が描ける。
ともちゃんが2匹の子猫を連れてきた。茶トラとキジトラだ。エアコンの室外機の下に暮らし始めた。彼らの人生は始まったばかりだ。早く一緒に遊ぼ!!
今日の朝、子猫をチラ見しようと、室外機を見たら向うからガン見している。何ともう一匹いた。三匹で私を見つめている。こういう時手を出すと、母親がみんなをどこかに避難させてしまう。もう一時、我慢だね。