河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

ハンコがなくなる!!ついでに!!

2020-10-29 10:48:34 | 絵画

やっとハンコが無くなりそうだ。お役所でハンコを忘れると「規則ですから」と手続きも進まなかった。拇印ではどうかと聞いても拒否され、家に帰って来直さなければならなかったのが、無くなれば良いといつも思った。拇印を拒否するのは、行政文書でもそれほど厳密なものではなく、規則という形式のものだからである。

外国人も日本に住めばハンコを作らされた。私の元カノはカタカナで小さな丸にマリリンと作らされて、余りのつまらなさに呆れたものだ。

三文判を作る会社は商売が挙がったりになるが、もともと原価が10円くらいのものを100円で売っていたのだし、大量生産でハンコの持つ独自性はなかっただろう。何処にでもある三文判を買うと私は他人と区別するために縁のどこかに傷をつけておいた。

行政文書であろうが、契約書であろうがハンコを突かせるのは、日本だけだろう。ヨーロッパの機関では機関が受け付けた日時まで入れた「スタンプ」を押すことがあるが、ハンコと目的意義が違う。電車に乗って切符の検査に、これもスタンプを押す。そうハンコとスタンプではその利用目的が違っていたので、スタンプは残ることに異議はない。

私はデッサンに押す落款(らっかん)を真似た印章を作ったことがある。実は中国に行って、余暇に文房具屋を回って、紙と筆そして印章を彫る道具と滑石を購入した。今は画材室の片隅に埃をかぶっているが、画家が押す落款は作品の完成を認める事と、偽物を防ぐ目的で押す。これはその作品の表現の一部であり、美的な表現の一つとして、そこにあらねばならないから、作者はそれほど気を使うのものである。

いずれにせよ、目利きであれば作品が誰の手に依るかは落款など無くても帰属させられるはず。そういう意味ではハンコ文化の無かった西洋ではサインが大事だった。手書きのサインがあれば個人を確定できることが合理的であることは明らかだ。(実は実家の土地に接した道路工事の際に業者が「認印」を求めたが、そのハンコを押したのは所有登録した本人ではなく、親戚のものであった。その後、いつの間にか我が家の土地は業者のミスで他人の土地になってしまったことがある。三文判を押してもこういう事に使われた。もし所有者のサインが必要であったら、このようなことは起きなかった。)

しかし何故、非合理的なハンコ文化を延々と続けたのか?この国の文化には「形式」がいっぱいあって、これが日本人の独自性だと思い込んでいる人が多いのだ。これまで長い間継承してきたものは疑いなく存在させ受け入れる・・・ここに「多様性や革新を拒む集団の価値観」がある。日本人の「曖昧さ」の根源でもある。例えば、貴方は「仏教徒」あるいは「神教徒」だろうか?心情的に除夜の鐘を突きに行き、葬式、法事を行い、祭りにはみこしを担ぎ、お賽銭もあげる?

ハンコについては「無くても良い」と考える人は「絶対なくしてはいけない」と考える人より、何となく多くなるであろうから・・・河野太郎は大臣に成ったら言ってみると気楽に思えたであろう。実印の扱いについても正当な解釈を示せるかどうか!!婚姻届けに不要ならもういらないではないか。

似たような問題はこの国にはたくさんあって、ハンコをつく紙が要らなくなって行政事務はあっというまに合理化されるだろう。

もう一つ合理化して欲しいことがあって、それは「元号制」である。公文書にはこの元号制が決められていて、私の免許証は有効期限が「平成33年」とある。これって「令和」いうと何年?

美術館勤めで公文書を扱っていた時には、海外とのやり取りでは西暦で、館内文書では元号表記で・・・と、するとあの工事は、展覧会は何年だった?とか面倒くさかった。こういうのを非合理的というのだが、公務でのエネルギーの無駄が一番閉口する。

「元号表記法」を制定したのは「安倍」ですよ。「美しい日本」とか言って、訳の分からない「心情」を押し付けて・・・それは安倍にとって「信条」だったのです。思想信条の自由というのが憲法には保証されているけど、曖昧にして説明が出来ない信条を押し付けてはいけないのだよ。菅はそれを継承して、学術会議の問題も「いえないこともある」と・・・言えば政権支持率はあっという間に50%を下回っただろうから、「政権に反抗する者は切った」とは白状しないのだ。

人間が作るものは「未完成なもの」であって、絶対的な価値を与えてはいけない。人は権威とか勲章とか好きみたいだけど、聖書にこういう言葉がある。

「神は人の頭に冠を授けず」

ああ、天皇も国王も人が作ったものだからね。