筍の季節が来ると思い出す。母の事。前回は桜並木に赤い毛氈とお茶会だったが、前にも書いたかもしれないが、竹の葉が黄ばんで苦しそうにしている季節。
筍が出ると竹は精一杯栄養を与えて筍を育てる。枯れるのではないかと思うほどに竹の葉は黄ばんで茶色く変色している。そんな時、「子を育て色を変えて竹の秋」という俳句を詠ってみた。1994年の春に母は、早半年になる入院をしていた。脳腫瘍の手術を受けて、やぶ医者が言語中枢をいじって言葉を失っていた。微笑むことぐらいしか出来なくなっていた母を父と姉と私は母を車いすに乗せて庭に出た。春先、温かくなってきた良い日よりの日であった。その時詠って悲しかった。
良性の腫瘍だと言った医者は、母の頭の左こめかみを開けて、チョンと突っついてふたをした。インフォームドコンセントという言葉が裏切りの日々を重ねて、手術をして長い闘病生活をさせて、金を稼いだ。夕方暗くなる前に病院の横にある自宅に供えたテニスコートで看護婦長とテニスを楽しんでいるのをよく見かけた。これは日本の医療の大方の姿である。
母はこの年のクリスマスイブに息を引き取った。介護を依頼していた者が痰を吸入せずに放置して、呼吸困難で亡くなった。「死因」は呼吸不全という言葉でくくられる。
生前、母は「呼吸が苦しくて死ぬのが一番いや」と言っていたのに・・・。亡くなる前の晩に家に帰る前に母に「また明日来るからね」と言って去ろうとしたとき、母は声にならない苦し気な顔をして、しきりに何か言おうとしていた。「先に逝くからね・・・」という言葉だったかもしれない。去年の6月に亡くなった姉も全く同じような最期だった。「先に逝くからね・・・」と。
私は彼らと比べて、ストレスを受けずに長生きをする覚悟を決めた。まだ私の芸術観は完成していないから、描き続けるしかない。