日本の文化に「もの申す」と。言いたくてしょうがないから・・・。
日本文化は古来より「伝承した文化」と「伝統した文化」をちょっと分けておきたくて「日本の文化」とした。
この国で古来より積み上げてきた特異な「仏教」から、生活の端々に感じ取れる習慣は拒否するほどのこともなく身についているだろう。「神道」というのもあるが、仏教ほど身近ではなく、御前で同じく手を合わせても「祈る内容」も異なる。せこいのは私だけかもしれないが、神社でお賽銭を挙げても「何かいいことがありますように」とお願い(?)するていど・・・相手の神様が良く見えないので、ちゃっかりした付き合いになる。それに対してお寺にいくと「佛」という「不可侵」に祭られた存在を感じさせる環境が作られているせいか、どんな糞坊主が居る寺でも、一応敬を払ってきた。
こうした精神的な思い込みは理屈ではない情緒に固定されている。しかしこんなことは知らん!!という人もいる。子供のころから関係しなかったからだろう。私の嗜好は美術だから「仏教美術」様々な生活様式にも関係してきたことに興味を感じるが、子供の頃には「まったく煙たいもの」の一つであった。だが絵を描く立場には無視できない存在として、自分に覆いかぶさってきた。そこに精神性を「伝承する文化」を受け入れてきた。しかし生きる上で、生活に取り込んでいるということとは違う。
では「文化の伝統」となるとちょっと違う。物や形式としてそこにあるが、変化していくものであり、維持させるために誰かが頑張らないと消えるものである。はかなく流行して過去のものとなる。だから少しでも姿を変えながらでも「受け継ぐ」のが「伝統」だと思う。かつてこの国には木造建築の伝統があった。その最盛期は大正時代と言われる。短いが「大正ロマン」とか「自由」が花開いた時代と言われた。心にゆとりがあったのだろう。お金持ちは「最高の邸宅」を求めて、金を惜しまず大工の能力を最大限に出させたのだ。この木造家屋は各地にあったのだが、多くはその後継者や馬鹿な成金の手に渡って壊され、鉄筋の住宅に化けたのだ。もう失われたものは戻らない。先日NHKで木造の教会を壊す番組をやっていた。情けなくてすぐチャンネルを変えた。
またNHKだが「大工が不足している」というテーマでクローズアップ現代という番組をやっていて、現代の木造建築の実際を取り上げて、かつての「伝統」が失われて「会社形式」の中で、家を作る「工法」さえ変化して、工場でつくる組み立てパーツ式産業になっていることで「個人の才能で成り立つ大工の棟梁」が居なくなってきた。つまり「伝統」が変わって失われてきたのである。
この国は「個人の能力」を無視する国だ。だから、どんなに優れていても「伝統」は失われる。