大社幼稚園 対話型鑑賞 2回目
作品「孫に本を読んで聞かせるカサット夫人」 メアリー・カサット
最初に前回の作品を思い出す発問をしました。多数の園児が手をあげました。
「夏の服を着た人がいた絵」
「日傘をさしていた」
など、2ヶ月くらい前にみた作品なのに、ちゃんと覚えています。答えてくれた園児以外の子たちも、うんうんとうなずく仕草がみられ、多くの園児が前回の作品「径」(小倉遊亀)を覚えていたことがわかりました。
いつも思うことですが、100の作品を解説して知らせるより、1点でも対話をして、作品をみることの楽しさを感じさせた方が、将来にわたる美術愛好者を育てられるのではないかと、だからこそ、この鑑賞法をあまねく体験させたいと願うのです。
次に、この会のルールを思い出してもらいました。これも、たくさんの園児が手をあげました。
「だまって、手をあげる」
(これは「はい」「はい」と大きな声を出しながら手をあげると、声の大きな子に威圧される雰囲気が生じることを避けたいという思いと、静かに考える雰囲気を大切にしたいと考えているので、私の私的手法としてそうしています。)
「よくみる」
「ひとが話している時は、だまって聴く」
ちゃんとルールも覚えています。すごいなあと思います。園児たちは年長クラスなので、4月に小学校入学です。この年齢くらいになると、集団のきまりを守ることができるようになるのだと思います。でもそれは、幼稚園の先生方が、そういうことのできる力を日々育てているからだとも思います。子どもの発達段階に応じながら教育を進めていくことの大事さを、幼稚園で実践するたびに感じます。
また、この度日本語版が発刊されたVTSですが、VTSのなかでも、幼稚園(アメリカではキンダーガーデンですが)での実践が報告されています。キンダーガーデン用の作品も選定されていて、幼少期にこの活動を行うことに意義があることが認められています。私も、VTSJでフィリップの講義を受けて、幼稚園での実戦にチャレンジしました。出来るのか、半信半疑でしたが、やるたびに手ごたえと充実感を得ることができます。そして、幼少期でこの活動を行うことには意味があると思います。
今回、園長先生(元小学校長)が参観してくださいましたが、実践後のMTGで、園児たちの発言や態度をご覧になられて、作品を鑑賞する力を育てるだけでない、その他にも大きな価値があると感じられ、この活動を認めてくださるお話があり、うれしく感じました。
園長先生は
・子どもたち同士が、仲間が話すことを聞いて、自分との違いに気付きながら、友だちを認める空気が生まれていくのではないかと感じた。
・みんなの前で、発表することができていた。
・答えのない、間違いのない、自分の意見を自由に言える活動だから、安心して発表できている。
・ちゃんと、約束を守って、活動していた。
と、語ってくださいました。
まさに、そのとおりで、みんなでみているものは絵画作品なのだけれど、そのことについて語り合いながら、「仲間を認め、自分も認めてもらう」「仲間の意見も聴きながら、自分の意見を考える」という、対話型鑑賞の醍醐味を、幼稚園児でも実践することができているということは、やはり、この手法は優れたものであるということが言えると思います。そのことの価値を園長先生が認めてくださったのも、今後の活動につながると、手応えも感じられて収穫でした。
さて、ルールを守りながら、対話を始めました。(以下か、常体で記述)
みんな、身を乗り出して作品をみている。きょろきょろするような園児は一人もいない。すごい!!しっかりみている。
「もうちょっと、みたいひと?」と聞くと
半分以上の園児の手があがるので
「では、もう少しみましょう。」
また、みはじめる・・・。
「しっかりみましたか?」今度は多くの園児の手があがるので、
「はい。何でも。みつけたことを話してくれるかな?」
いっぱい手があがります。一人1回は発言してほしいので、同じ子に当たらないように指名していく。出来るだけ名前を聞いて、名前を呼んで話してもらうようにしている。また、園児は、なぜか、最初に「あのね。」と言う。まあ、小学校でも「あのね帳」というのがあるので、「あのね。」と言い始めるのが、話しやすいのだと思う。そのことも大切にしたいと思っている。
「あのね。お母さんが、子どもに絵本を読んでいるところ」(いきなり核心?)
「あのね。子どもがね。3人いる」
「あのね。お母さんに絵本を読んでもらっているけど、電車に乗って、遠足に行っている」
「どうして、電車に乗っていると思ったの?」
「あのね。窓の向こうの、草が、なんか・・・(手振りで理由を示した)」
「草が、ばあーーーって、動いているから、この窓の向こうが、だから、この人たちは電車に乗っていると思ったのね。」
「でも、どうして電車なの?」
「う~~~~んっとね。それはね。窓が大きいから」
「なるほど、この窓をみて、こんな大きな窓なのは、電車だと思ったわけね。」
この、「電車説」は、前にも実践したことのある幼稚園でも出る。窓の大きさや形状がやはり日本の家屋と違うからではないかと思う。「電車説」と言う園児は電車が好きな子だったり、電車をよく利用する(親戚の家に行く時よく電車に乗っている)子どもだったりするのだが、大きな横長の窓は子どもたちに「電車」を連想させるのかもしれないと思っているところだ。
「ほかに、ないかな?」もっと発見はないか、尋ねる。
「あのね。はしっこのほうに、英語の字がある」
「どこにあるかな?指さしてみて。」
(絵の左下の方を指さします。)
「おお、こんなところに、本当に、英語の字が書いてあるね。よくみつけたね。」
「みんな、みえる?みえてた人?」
数人が、手をあげる。
「ここに、英語の字が書いてあるのはね。みんなも絵を描くと、自分の名前書くでしょう?」
みんな、うなずく
「それと一緒なの。だから、これは、サインと言って、この絵を描いた人が、私が描きましたよ。って、自分の名前を書いたの。わかったかな?」
ここにサインをみつけるのは、なかなか困難である。茶色っぽい背景色よりやや濃い茶色でサインが書かれているからだ。この子に言ってもらわなかったら、私も見逃していた・・・。で、この子のお母さんは、英語塾を開いているそうで、普段から英語の文字が身近にあるから、この発見があったのではないかと思われる。また、ナビが「隅から隅まで、しっかりみてね。」と言った言葉に素直にしたがった成果でもあるかも知れない。いずれにしても、本当によくみている。そして、「サイン」については、知識として与えてもいいのではないかと思って、教えた。みつけたことに対するご褒美の意味もある。そうやって、よくみることへの意欲を喚起しようと考えた。
「ほかに?」
「あのね。あの子が、お母さんの方をじっとみて、話を聞いている。」
「あの子って、どの子?」
「お母さんの向こうにいる子。」
「どうして、じっとみてると思ったの?」
「う~~~ん。」
「よくみて、いいことに、気付いたんだよ。だから、じっとみてると思ったのはどこからなのかな?」
問い詰めているのではないこと。気付きが素晴らしいので、それを思いついたのがどこからなのかを、褒めながら、自分で口にして言えることに意味があると思ったので、しっかり待った。
「あのね。目がね。」
「目が、なあに?」
「目がね。こっちを向いてて、お母さんの方を見てるから。」
「おお、いいこと言ったね。目がね。そうだね。こっち向いているね。で、お母さんの方を見上げてるね。だから、じっとみていると思ったんだ。すごいね。」
「この子が、お母さんが絵本を読んでくれるのを、お母さんの方をじっと見ながら聞いていると思ったんだね。いいよ。」
「みんなも、言ってることわかった?」
こんなふうに、園児とやるときは、時々確認をする。また時には、「同じこと考えていた人?」と問いかけて、手を上げさせたりする。園児の集中力は短いと思うので、飽きさせない、自分も参加している感覚を途切れさせない工夫をする。
「ほかに。」
「あのね。絵本の字が英語だから、この人は、日本じゃなくて、外国の人。」
すごいこと言う!!
「絵本の字が、英語なの?」
「うん。英語が書いてある。」
「なるほど、で、英語の本を読んでいるから、この人たちは、日本人じゃなくて、しかも、韓国や中国の、日本に近い、アジアの人たちでもなくて、英語を使う、外国人だと思ったのね。すごいね。」「気付いていた人?」と、挙手を求めると、たくさんの子たちの手があがる。
この作品で何度も幼稚園児と対話をしているが、ここに描かれている人物を「外国人」として発言した子に出会ったのは今回が初めてである。今までこの絵をみてきた子どもたちは、実は、この人たちは「外国人」だと気付いていたのかもしれない。しかし、それを口に出して言うことを今までの子たちはしてこなかった。なぜか?周知の事実と思われるようなことは敢えて言おうとしないのは、国民性なのだろうか?みんな分かっていることは、言わないのだろうか?「みればわかるでしょ。」なのか?でも、本当にみんな分かっているのかは未確認だ。だから、私はこの子の「発言」は、とても大きな意味があると感じる。本人は分かっていないと思うけれど、私にとっては『勇気ある言葉』だ。『分かっているはずのことなのかも知れないけれど、でも、ちゃんと確認しようとする』この姿勢を育てていかないといけないのではないかと思う。『分かったつもり』になる危険性を防ぎ、『分かってくれていたのでは』という誤解を防ぐためにも・・・。それが、相互理解のための第1歩ではないだろうか。
ここで、かなり描かれているものについての発言が出尽くしたと感じたので、園児の発言の中で、みんなで、もう一度考えてほしいことにつなげていく。
それは、以下の3つで、こうして、フォーカシング(焦点化)してみた。
・真ん中の女の人は、お母さんなのか?
・子どもの関係は?
・この場所は、電車の中なのか?
なぜかというと、一人の子どもの発言で出たこと(お母さん、電車の中)、そこに疑問を感じさせることをしなかったら、この一人の子どもの言ったことが、正解になってしまうからだ。だから、「本当にお母さんなの?どうしてそう思ったの?」と、揺さぶることで違う意見をもっている子どもに発言の機会を与え、多様な見方があることを、答えはひとつじゃない!!というこの鑑賞法の核になるものを体感させる目的を秘めている。(これは私の戦略)
では、続きを・・・。
「じゃあね。みんな、この人は、お母さんって、言ってくれた人が多かったけど、本当にお母さんかな?どこからお母さんだと思ったのかな?」
「あのね。メガネかけているから。」
「メガネかけているとお母さんなんだ。あなたのお母さんはメガネかけているの?」
「うん。」これは、この子なりの理由なので、認めることは大事だと考えている。
「お母さん。髪が長いから・・・。」
「どこから、髪が長いと思ったの?」
「あのね。後ろのとこを、結んでいて、なんか、髪をこう、(と手振りをしながら)留めるもので留めているから。」
「あなたのお母さんも、髪が長くて、この人みたいに、髪を留めているのかな?」
「うん。」園児たちにとって、母親は一人であり、それが、全てのモデルになるのではないかと思う。
「お母さんって、いう人が多いけど、ほかには?」
「あのね。おばあちゃんだと思う。」
勇気ある発言!!これが言わせたかった!!!
「どうして、おばあちゃんだと思うの?」
「メガネかけているから。」
理由は、前に「お母さん」と言った子と、理由が一緒だ。
「あなたのおばあちゃんは、メガネかけてるの?」
「うん。」これも、おばあちゃんはメガネという、この子なりの根拠だ。でも、もっと他にないか、ちょっとかわいそうだけど、再度、訊く。
「おばあちゃんメガネかけているんだ。でも、メガネだけじゃなくて、ほかにはない?」
絵をじ~~~~っとみながら、すご~~~~~く考える。
「あのね。・・・・・・・・・・・・しわがある。」すご~~~~~く、考えて言った。
おお、しわ!!いい言葉がでたぞっ!!!
「しわがあるのね。どこにあるのかな?」
かなりしつこく訊いている。ごめんね。
「う~~~~~~~~んっとね。ほっぺのところ」
「なるほど。このあたりに(指さしながら)、しわがあるから、この人は、おばあちゃんじゃないか。って、言ってくれました。」
「おかあさん、っていう人と、おばあちゃんっていう人がいるね。どっちなのかな?みんな自分でどっちなのか、しっかり考えてね。
じゃあ、この3人の子どもは、どうかな?兄弟なの?別々の友だちなの?」
ここで、視点を子どもに向けさせる。中心の女性は実は祖母なのであるが、この時にその正解は必要ないと思う。どっちなのかを自分なりに考えるということが、求められる姿勢ではないかと考えるからだ。そして、次に、多様な解釈のできる子どもの関係について考えさせることにする。
「どうかな?兄弟?友だち?」
「あのね。兄弟。」
「みんな、3人とも?」
「ううん。青い服の大きい人と、こっちを向いている人」
「じゃあ、この人は?」女性の右肩側にいる背中を向けた人物を指さしながら・・・。
「違う。」
「違うって。兄弟じゃないってこと?」
「うん。」
「じゃあ、この人は誰?」
「別の人」
「なるほど。この人は、この人たちとは兄弟じゃないって、言ってくれました。ほかに。」
「お母さん。」
「はい?お母さんって、誰が?」
「青い服の人。」
「どうして?」
「なんか、大きいから。お母さんだと思った。」
「じゃあ、ほかの2人は?」
「子ども」
この3人の人間関係については、2人が兄弟説が有力だった。中心の女性をおばあちゃんだと思った子は、青い服の人物をお母さんと考えていた。男の子2人と女の子1人という、みんな兄弟という説も出た。
次に、この場所について考えさせた。これも電車じゃなくて、家だという意見があるだろうと予測できるからだ。家だと思う子どもに、発言の機会を与えてやらねばならないと思う。
「じゃあ、この場所は、電車っていう人もいたけど、どうかな?」
「あのね。電車だと思う。」
「どうして?」
「窓が大きいから。」
「その意見は、Y君も最初に言ってくれたよね。ほかの意見はない?」
「外が、草だから」
「窓の外が草が生えていると思ったのね。そこは、どこ?」
「後ろの、窓のところが緑だから・・・。」
「ああ、ここが(と指差しながら)緑色だから、草が生えていると思ったのね。で、そういうところは、電車の走るところと思ったのかな?」
うなずく。
ここで、最初に「電車」説を唱えた、Y君が手をあげる。
「はい、じゃあ、最初に電車って言ってくれた、Y君、どうぞ。」
「あのね。窓のあそこのところ(指さす、けど、遠いので、近づかせる)ここが、黒くて、ここは、窓の鍵。電車の窓の鍵だと思う。」
「なるほど、ここの黒いところが鍵だと思ったのね。で、こんな鍵があるのは、電車の窓だと思ったんだ。だから、電車なのね。」
うなずく
「ほかに?」
「あのね。お家だと思う。」
いいぞ。電車じゃないという意見を言うことに意味がある!!勇気ある発言!!!
「どうして?」
「お母さんの周りにみんな座っているから。」
「周りに座っていると、お家なの?」
「電車だと、こんな風に座れない。」
「そうなんだ。電車だとこんな風に座れないから、この座っている様子から、お家だと思ったのね。ありがとう。ほかには?」
「お家だと思う。」
「どうして?」
「お兄さんが正座している。」
「正座しているの?それはどこからそう思ったの?」
「足がみえる。」
「どこに?」
前に出てきて
「(指さしながら)ここが、足だと思うので、正座しているから、家だと思う。」
「なるほど。ここが足なのね。で、こんな風に座っていると思ったのね。」
正座のポーズをしてみせる。
まだまだお話しできそうだけど、ここまでで、30分が経過・・・。そろそろ切り上げ時。
「みんな、いっぱいお話してくれたね。ありがとう。この人がお母さんなのか?おばあちゃんなのか?この3人は兄弟なのか?別の人たちなのか?ここは電車なのか?お家なのか?いろいろ考えたね。でもね。本当のことはわからないの。だってね。この絵を描いた人はもう死んでしまっていて、(園児たちが息をのむ、死んでいるという事実がショックなのだろう)どうなのか聞くことができないの。でもね。分からないから、みんなでいろいろ考えることができて、楽しかったんじゃないかな?先生は、すごく楽しかったよ。みんなはどうだった?楽しかった?」と聞くと・・・。
園児は全員手をあげた。
「じゃあ、今日、お家に帰ったら、こんな絵をみたよって、お家の人にお話ししてね。で、自分はこんなことを考えたよって、教えてあげてね。じゃあ、今日のみるみるの会はおしまいです。次は2月に来ます。それまで、元気でね。」
といって、みんなで拍手をして、2回目が終わった。
対話型鑑賞のナビゲーターはこの幼稚園で12月に実践して以来約2か月ぶりです。いつも感じることは、ナビゲーターとして、鑑賞者の考えていることを聴くのはとても楽しいということです。しかし、楽しいと感じるためには、様々な仕掛けが必要だと思っています。でも、仕掛けにこだわりすぎず、場の空気を読みながら臨機応変な対応をしていくには、場数を踏むしかないと思っています。多様な見方や解釈を引き出すことのできる懐の広さを身に付けるためにこれからも実践を続けたいと思います。
今回の実践中の気付きについては、実践レポート中に記述しています。いつも言うことですが、幼稚園児だって、ちゃんと語ります。子どもたちなりの世界観で語ります。その語りに耳を傾け、子どもたちの成長にとって有意義な活動になるよう、今後も精進したいと思います。
最後に、前回の実践に対する、担任の先生の感想を載せて終わります。
園児は
A)しっかり絵をみることができていた 評価3
B)絵をみてしっかり考えることができていた 評価2
C)自分の意見を言うことができていた 評価3
D)友だちの意見をしっかり聞くことができていた 評価3
E)友だちの意見を聞いて、自分の考えをより深めることができていた 評価3
F)このような鑑賞は園児に有意義だ 評価3
・最初に3つの約束をしてもらったので、一人一人が約束を守りながら発表をしようとしていた。
・普段、クラスの中で意見を言いにくい子どもも、自分から手を挙げて発表しようとしていた。最初は目に見えること(絵を見てわかること)を発表していたが、春日先生からの投げかけや、友達の発表を聞いて、「どうしてそう思ったのか」という理由を少しずつ考える姿が見られるようになったと思う。
・かさをさしている絵を見て、日がさだと思う子どもがいたり、サンダルを見て、海に行くと思う子どもがいたり・・・と、大人の私が思う考えとは違った子どもの発想にふれることができた。
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