2010.09/30 (Thu)
「リアリズムと防衛を学ぶ」というブログを見ています。
先日来の、尖閣諸島沖での領海侵犯、公務執行妨害事件について、防衛、という観点から、平易且つ、詳細に説かれています。
ご存知でなかった方は是非、御覧下さい。
「リアリズムと防衛を学ぶ」
http://d.hatena.ne.jp/zyesuta/?of=0
「リアリズムと防衛を学ぶ」というブログを見ています。
先日来の、尖閣諸島沖での領海侵犯、公務執行妨害事件について、防衛、という観点から、平易且つ、詳細に説かれています。
ご存知でなかった方は是非、御覧下さい。
「リアリズムと防衛を学ぶ」
http://d.hatena.ne.jp/zyesuta/?of=0
今日、官房長官が(シナは)「20年前と司法、行政が、あまり変わっていなかった(展開に対する想定が甘かった)」というような発言をしています。
言外に、自分が船長の釈放に関与したことをにおわせています。
これまでの、彼にも似合わぬ発言ではありましたが、冒頭に掲げたブログを読むにつけ、この二者の間、(ブログ主と、官房長官)に、大変な認識能力の差(対象の把握能力差)を感じさせられ、思わず、唸ってしまいました。
ブログ主は、おそらく自衛隊出身であろうと思います。
対する官房長官は、確か、弁護士ではなかったですか。全共闘、でしたね。
闘争の過程で、機動隊との衝突などにより、大怪我して、社会復帰出来なくなった学生を多く見聞きしている、と思います。(前衛ではなかったようですから、千葉前法相ほどではないかもしれませんが)
よく言えば、それにめげることはなかった。現実社会に、何食わぬ顔で潜伏し、社会党員から民主党員となり、現在は政府の中心、官房長官となった。
そして当時の「革命実現への思い」を、現実のものにしようとしている。
勿論、「あのままでは駄目だ。あのやり方では駄目だ」と知恵もついたから、あんな中途半端な武力闘争はしません。
その代わり、もっと効率的に、日本を社会主義国に「変えられればいい」と思っている。
「変える」、つまり、「革命を起こす」、ではありませんよ。相当程度、他者(他国)の力をあてにしています。依存の癖が今もあります。
70年安保の時期の活動家ですからシンパシーを感じているのは、ソ連、ではなく、中共シナです。
「司法、行政共、変わっていると思っていたが、20年前のままだった。」
何とも危なっかしい発言です。「敵を知り、己を知らば~」なんて、官房長官ならずとも、政治家なら、当然身についている筈のこと。
それとも、「彼の国は敵ではない。革命を実践する同志である」と、心底思っていたのでしょうか。
ここで感じたのは、現総理と同じく、民主党自体、「政権をとる」のが目的であって、そのために、小沢一郎という男が、いくつもの目標を立て、常に成果を挙げ、「政権をとる」という「目的」が達成できた。
目的達成、したら、「その先が、ない」。
民主党は「何もしない」のではなく、「何もできない」「何をしたら良いのかわからない」政党なんだな、ということです。
その場しのぎで、予定になかったASEMに行く、と言う。温家宝首相に「会えればいいな」、ということだそうで、計画も何も、ない。
さて、ここからが本題なんですが、標題を「怒りから義憤へ」と書きました。
朝、テレビで、例によって街頭インタビュー。
「20人に聞きました」と言っていたから、「朝ズバッ!」、じゃないですか。
①尖閣諸島の正しい位置6/20
②尖閣、と書ける者 これは 1/20
どうなんでしょう、これ。
確かに尖閣と書ける者が1/20、とは、俄かには信じ難い。けど、事実です。これは情けない。あれだけ騒いでおいてこの程度か、とは思います。
そうは言いながら、正しい位置、6/20についてはどうでしょう。
大したものだ、と思いましたよ。
蛇足ながら、島根県なんかは、どこにあるか分からない県のNO,1で、鷹の爪団がつくった宣伝用Tシャツには「島根は鳥取の左側です」と書いてある。
その鳥取も、あまり知られておらず、それじゃ、うちも、とつくったTシャツは目玉オヤジが「鳥取は島根の右側です。」
「どうなんでしょう」と書いたのは、実は漢字が書けなかったからでは、ない。
現総理は、疾病(しっぺい)を国連の議場で、「しつびょう」と読んでるくらいなんだから、「努力して総理大臣になった」人と、努力していない国民、となれば漢字くらい、どうって言うことはない。
それより、地図をしっかり見なければわからないのに位置がちゃんと分かっているのが3分の1、なんて「えらい!」
「どうなんでしょう」、は、そんな下らん質問を用意する、テレビ局のことを思ったんです。
今回、大半の国民は、「怒り」を感じています。前回の会見強要の時は天皇陛下への遠慮があったけれど、今回はごく普通に怒っている。
けれど、「怒り」というものは、すぐ収まってしまいます。そこで一過性のものにしてしまったら、つまり、受け身の形で怒っただけなら、それでお終い。
日本の滅亡への歩みは、また始まった、ということになる。それで良いわけはない。
「怒り」は収まってしまう。でも、習練によって四情はコントロールできるし、「怒」は誰だって、自身、本源に持っている。
その怒りを、自分で発掘してみようということで、「大声を出してみる」、という方法もある。収まっている怒りを、自分でコントロールする。平静な状態から、いきなり「怒」の情を爆発させ、次の瞬間、再び収めてしまう。
これを繰り返すことは、意図的に(コントロールして)「怒る」ことを可能にする。
意図的に「怒る」、となると、それまでの「怒り」とは質的に違ったものになっています。
私情ではない、公のことで怒る。これを「公憤」と言います。
我々は、今、この中の「正しさを思う、不正を許さない」、という怒りを、意図的に持つことをしなければならないのではないでしょうか。
不正を許さない怒り、「義憤」、です。
「大義は我が国にある」、のではなかったですか?
それを、枉げようとする者に対して、「義憤」を感じるのは当然のことではないですか?
常に怒っていたら、自分に返って来るだけです。
でも、折々に「それ、おかしいよ!」と思うこと。
胸中に義憤の炎を燃やすこと。
口論することではなく、声高に主張することでもない。
けれど、「それ、おかしい」と、胸中で憤れば、人は必ず胸中が表面に出ます。
それで間違いなく、世の中の雰囲気は変わるのです。
言外に、自分が船長の釈放に関与したことをにおわせています。
これまでの、彼にも似合わぬ発言ではありましたが、冒頭に掲げたブログを読むにつけ、この二者の間、(ブログ主と、官房長官)に、大変な認識能力の差(対象の把握能力差)を感じさせられ、思わず、唸ってしまいました。
ブログ主は、おそらく自衛隊出身であろうと思います。
対する官房長官は、確か、弁護士ではなかったですか。全共闘、でしたね。
闘争の過程で、機動隊との衝突などにより、大怪我して、社会復帰出来なくなった学生を多く見聞きしている、と思います。(前衛ではなかったようですから、千葉前法相ほどではないかもしれませんが)
よく言えば、それにめげることはなかった。現実社会に、何食わぬ顔で潜伏し、社会党員から民主党員となり、現在は政府の中心、官房長官となった。
そして当時の「革命実現への思い」を、現実のものにしようとしている。
勿論、「あのままでは駄目だ。あのやり方では駄目だ」と知恵もついたから、あんな中途半端な武力闘争はしません。
その代わり、もっと効率的に、日本を社会主義国に「変えられればいい」と思っている。
「変える」、つまり、「革命を起こす」、ではありませんよ。相当程度、他者(他国)の力をあてにしています。依存の癖が今もあります。
70年安保の時期の活動家ですからシンパシーを感じているのは、ソ連、ではなく、中共シナです。
「司法、行政共、変わっていると思っていたが、20年前のままだった。」
何とも危なっかしい発言です。「敵を知り、己を知らば~」なんて、官房長官ならずとも、政治家なら、当然身についている筈のこと。
それとも、「彼の国は敵ではない。革命を実践する同志である」と、心底思っていたのでしょうか。
ここで感じたのは、現総理と同じく、民主党自体、「政権をとる」のが目的であって、そのために、小沢一郎という男が、いくつもの目標を立て、常に成果を挙げ、「政権をとる」という「目的」が達成できた。
目的達成、したら、「その先が、ない」。
民主党は「何もしない」のではなく、「何もできない」「何をしたら良いのかわからない」政党なんだな、ということです。
その場しのぎで、予定になかったASEMに行く、と言う。温家宝首相に「会えればいいな」、ということだそうで、計画も何も、ない。
さて、ここからが本題なんですが、標題を「怒りから義憤へ」と書きました。
朝、テレビで、例によって街頭インタビュー。
「20人に聞きました」と言っていたから、「朝ズバッ!」、じゃないですか。
①尖閣諸島の正しい位置6/20
②尖閣、と書ける者 これは 1/20
どうなんでしょう、これ。
確かに尖閣と書ける者が1/20、とは、俄かには信じ難い。けど、事実です。これは情けない。あれだけ騒いでおいてこの程度か、とは思います。
そうは言いながら、正しい位置、6/20についてはどうでしょう。
大したものだ、と思いましたよ。
蛇足ながら、島根県なんかは、どこにあるか分からない県のNO,1で、鷹の爪団がつくった宣伝用Tシャツには「島根は鳥取の左側です」と書いてある。
その鳥取も、あまり知られておらず、それじゃ、うちも、とつくったTシャツは目玉オヤジが「鳥取は島根の右側です。」
「どうなんでしょう」と書いたのは、実は漢字が書けなかったからでは、ない。
現総理は、疾病(しっぺい)を国連の議場で、「しつびょう」と読んでるくらいなんだから、「努力して総理大臣になった」人と、努力していない国民、となれば漢字くらい、どうって言うことはない。
それより、地図をしっかり見なければわからないのに位置がちゃんと分かっているのが3分の1、なんて「えらい!」
「どうなんでしょう」、は、そんな下らん質問を用意する、テレビ局のことを思ったんです。
今回、大半の国民は、「怒り」を感じています。前回の会見強要の時は天皇陛下への遠慮があったけれど、今回はごく普通に怒っている。
けれど、「怒り」というものは、すぐ収まってしまいます。そこで一過性のものにしてしまったら、つまり、受け身の形で怒っただけなら、それでお終い。
日本の滅亡への歩みは、また始まった、ということになる。それで良いわけはない。
「怒り」は収まってしまう。でも、習練によって四情はコントロールできるし、「怒」は誰だって、自身、本源に持っている。
その怒りを、自分で発掘してみようということで、「大声を出してみる」、という方法もある。収まっている怒りを、自分でコントロールする。平静な状態から、いきなり「怒」の情を爆発させ、次の瞬間、再び収めてしまう。
これを繰り返すことは、意図的に(コントロールして)「怒る」ことを可能にする。
意図的に「怒る」、となると、それまでの「怒り」とは質的に違ったものになっています。
私情ではない、公のことで怒る。これを「公憤」と言います。
我々は、今、この中の「正しさを思う、不正を許さない」、という怒りを、意図的に持つことをしなければならないのではないでしょうか。
不正を許さない怒り、「義憤」、です。
「大義は我が国にある」、のではなかったですか?
それを、枉げようとする者に対して、「義憤」を感じるのは当然のことではないですか?
常に怒っていたら、自分に返って来るだけです。
でも、折々に「それ、おかしいよ!」と思うこと。
胸中に義憤の炎を燃やすこと。
口論することではなく、声高に主張することでもない。
けれど、「それ、おかしい」と、胸中で憤れば、人は必ず胸中が表面に出ます。
それで間違いなく、世の中の雰囲気は変わるのです。
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