2016.08/14 (Sun)
八月十五日が近付くと毎年同じことが繰り返される。
ここ三年、明らかに諸事情が変わってきているのに。
稲田防衛大臣が参拝しない。
「行くべきではない」、「波風を立てるな」
反対に
「逃げた」、「ビビった」、「大臣になったら弱気になる」、「あんな者、偽保守だ」etc・・・・。
いい加減うんざりする。そんな程度の事しか言えんのか。
十年一日のごとく、右も左も自国の大臣を貶して代わりに何かできるのか。
挙句の果てに、「総理が行けば良いだけのことだ」・・・。
イミョンバクの竹島訪問と同レベルの問題なのか?
「あれで大統領支持率が上がったじゃないか。それでいいのだ」?
勿論、毅然とした行動の積み重ねが世界に響く。政治家は国民の代弁者なのだから。
つまり、全国民がそれを熱望している、と分かれば、普通、参拝しないはずがない。
つまり、「しない」のではなく「できない」のだ。国民が熱望しないから。
しかしそれ以前に、何故八月十五日にこだわるのだ。
五年前の日記です
↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
産経新聞、こんな記事を載せて居たんだそうですね。
この感じからするに、「産経抄」でしょうか。
おそらくは、昨年、一昨年も似たようなことが書かれていたのでしょう。
しかし、これはひどい。
どこが酷いのか。
「冗談にも言っていいことと悪いことがある」
なんていいますが、靖国神社は冗談の対象にすべきところではありません。
勿論、国のために命を捧げた人々が祀られているからです。
同じく、だから、政治問題、政争の具、外交問題にしてはならないことです。
最後の砦、みたいに思っていた産経の、これが良心だろうか、とショックを受けました。
でも、やっぱり、「潰してしまえ!」ではない。立て直す方向に軌道修正を、と
言い続けることが必要だと思います。
2011年7月28日の日記、「夕刻の備忘録」から大半を転載しました。
*************
6月25日
▼「菅さんの権力に対する執着心が、自身の再生エネルギーになっている」と渡辺喜美・みんなの党代表はうまいことを言うが、それほどまでに延命したいのなら抄子が知恵をお貸ししよう。霊験あらたかで効果抜群の妙案を。
▼最近の歴代首相は、さきの大戦で亡くなった人々を悼むため6月23日の沖縄を皮切りに広島、長崎を巡り、8月15日の全国戦没者追悼式に参列するのが常である。これに靖国神社参拝を加えればいいだけの話である。
▼国のために命を捧げた兵士の霊に首相が頭を垂れるのは、どの国でも当たり前の話である。毎年参拝した小泉純一郎首相が5年の長期政権を全うし、参拝しなかった首相が、いずれも短命に終わっているのは偶然ではない。ひとたび首相が参拝すれば、支持率はアップし、政権延命は間違いない。(2011.6.25 02:35)
(ここまで産経の記事)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110625/plc11062502...
(ここから「夕刻の備忘録」本文)
産経は靖國問題をオモチャにしているのだ。この記事を書いた人間の品性の下劣さは譬えようもない。靖國参拝が「霊験あらたかで効果抜群」の延命策だとハッキリ書いている。本気なら許せない、冗談ならなお許せない。この程度の認識で、自民党歴代総理の靖國参拝問題を論じ、様々な批判を書き連ねて自民党支持率の低下に貢献してきたのが、彼等の正体だということになる。よくもまあ、「靖國に行けば支持率アップで延命間違いない」などと書けたものである
(中略)
靖國問題における対応においても、麻生太郎は一つの模範を示した。参拝云々を無力化させることに尽力した。これは安倍晋三の「曖昧戦法」と同様の効果があった。麻生の靖國に対する思いは、その著作に存分に書かれている。そして、その任期中にマスコミに対して最も激しい怒りを示したのは、靖國参拝を云々したぶら下がり取材であったことも忘れてはならない。その時に吐き捨てるように言った言葉が、全てを表している。「靖國は静かに祈る場所であり、政治から最も遠くにあるべき場所である」と。
(転載了)
~「靖国参拝」 2011年7月28日の日記より~
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もう一つ。これは二年前の日記の部分転載です。
↓
靖國神社のみたままつりは七月の十三日から十六日まで。
早い話が、盆の供養と同じです。敗戦後、始められたそうです。
明治時代に国が設けた神社ですから、本来なら旧暦で行うところを、新たに採用した太陽暦でとなったため、八月ではなく七月に行われます。
盆は仏教の行事ですから、それを神社である靖國社で、というのは?と思われる方もあるかもしれません。
これは神社ではあっても、戦没者の家族は仏教だけ、というのが大半であるので、参拝者からお盆に先祖の供養のために参りたいという要望が多く寄せられたからのようです。
だから盆踊りも行われるようになったし、供養という言葉も見掛けられます。
神社という名ではあっても、春秋の例大祭は「春秋の彼岸」の太陽暦版。
みたままつりは陽暦の「盆」。
つまりは英霊達に向かい、時にはお礼を述べ、時には国防を誓い、時には御霊安かれと祈り、時には国を護って下さいとお祈りする。
それは全ての国民が行うことであって、為政者が「代表」として参拝し、政争の具とされるべきところではない。為政者だって一国民として同じように参拝すべきところです。手水を遣い、「自ら」汚れを祓って参拝するところです。
それが靖國神社です。
一人の為政者より、一人でも多くの国民が参拝する事。それ以上に日本の姿勢を雄弁に物語るものはありません。
以下は2013年10月17日の日記から転載です。
と言っても、「夕刻の備忘録」からの転載がほとんどですけど。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ ★ ★ ★ ★
さて今一度、「靖國批判」の一方の典型である産経の「主張」の一部を引く。
『首相が国民を代表して慰霊することは国の指導者としての務めだと思われる』
この種の文章は、「保守派」と称する人達がしばしば、ほとんど何の疑ひも無く、書かれてゐるやうであるが、本当にこれは正しい主張なのであらうか。こんなレベルに甘んじてゐて、我々国民はよいのであらうか。
最も問題視すべき言葉は、「代表」である。
「甲子園大会出場おめでとう、諸君は県民を代表して云々」。
なるほど、誰でも甲子園に行けるわけではない。八百屋のおじさんも、魚屋のおばさんも、みんなで応援することは出来るが、その土を踏めるのは選ばれた者だけである。これは確かに「代表」である。「代議士」といふ言葉にも、この意味での「代表」が含まれてゐる。
要するに「代表」とは、誰かの「代理」であり、時に「シンボル」の意である。
しからば「靖國参拝に代表が必要か」。
我々はある程度の交通費と二本の足があれば、誰でも何時でも志一つで「靖國神社」に詣でることが出来る。
選ばれた者のみが土を踏める甲子園とは違ふのである。専門知識も無くそれを為す暇も無い、一般の有権者の代理として選ばれた代議士とは違ふのである。
我々は望みさへすれば、何時でも靖國参拝が出来る。
ならば何故、その参拝に「代表」が必要なのか。我々国民こそが、先陣を切つて参拝し、「政治家よ、後に続け!」と云ふべきではないのか。
いや、英霊の前では、民間人も政治家も、政府高官も、首相も何の意味も持たない、唯の今を生きる一国民に過ぎないのではないか。何の意味があつて、首相が「国民を代表」出来ると考へるのか。極めて「場か馬可しい」話ではないか。
先にも書いた通り、国民が率先して靖國参拝の環境作りをし、政治家がそれに続けばよいのである。二言目には「国民を代表して参拝する義務がある」などと云ふのは、全く自己の責任を他に転嫁する言動であり、それこそ「保守」の名に恥じるものである。
★ ★ ★ ★ ★
(略)
政治家を批判すれば政治家が動き、そして国民が動くと考へるのは大間違ひである。国民が動くから、政治家は動かざるを得ないのである。
先ず批判すべきは「国民の怠惰」である。原稿が売れないことを覚悟して、それが出来るか否か、この点こそが、「保守派」を自称する人間の矜持でなければならぬ。
多くの参拝者の列の中を、如何にも颯爽と本殿に向かひ、やんやの喝采を浴びることで自己満足せず、もつともつと裏方に徹して、全国民が自らの足で参拝し、心を一つにする、そのための予備的活動に従事されれば如何か。
★ ★ ★ ★ ★
これも先の記事にも書いたことであるが、麻生首相が参拝されても、されなくても、その支持には全く揺らぎがない。
首相の地位を「シンボル」と見倣し、「代表」といふ言葉の濫用を止めない人は、それはそれで結構であるが、霊前においては全く無意味であること、そして何より我々国民は自らの意志で立てること、「代表」など仰がずとも立派にその志を受け継げることだけは理解して頂きたいと思ふ。
従つて、「代表」といふ言葉に執着した意味での靖國参拝に関しては、『国の指導者としての務め』ではない、といふのが一つの結論であり、同時に、「靖國参拝国民運動を展開せよ」といふのが一つの提案である(最初のターゲットは10月17日から20日までの四日間、「秋季例大祭」である)。
選挙ともなれば「普段とは逆に」、如何にも政治家を見下ろして、有権者ここにあり、を強調される方が少なくないやうであるが、「ならば普段から」、政治家を従へて、その先陣を切るやうに、国民としての行動規範を変へやうではないか。
自己責任を回避し、その責を全て他人や社会に求めるのが、左翼の現実である以上、参拝に「代表」を求めて止まぬ精神は左翼である、と断じることが出来やう。
我々国民は「踏絵保守」ほど単細胞ではない。衣食住に忙しい「現実の世界」を生きてゐる人間は、自然と多面的である。「ワンビット」で政治が出来ぬことぐらいは承知してゐる。「何が保守」で、「何が保守ではないか」などといふ議論が、全く不毛であるとする所以である。
★ ★ ★ ★ ★
(以下略)
「靖國参拝考(後編):100万人の靖國参拝運動」
2009.08.15
~夕刻の備忘録より~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(転載了)
~「日本の姿勢を世界に知らす (知らせる、ではなく)」 2014年7月18日の日記より~
八月十五日が近付くと毎年同じことが繰り返される。
ここ三年、明らかに諸事情が変わってきているのに。
稲田防衛大臣が参拝しない。
「行くべきではない」、「波風を立てるな」
反対に
「逃げた」、「ビビった」、「大臣になったら弱気になる」、「あんな者、偽保守だ」etc・・・・。
いい加減うんざりする。そんな程度の事しか言えんのか。
十年一日のごとく、右も左も自国の大臣を貶して代わりに何かできるのか。
挙句の果てに、「総理が行けば良いだけのことだ」・・・。
イミョンバクの竹島訪問と同レベルの問題なのか?
「あれで大統領支持率が上がったじゃないか。それでいいのだ」?
勿論、毅然とした行動の積み重ねが世界に響く。政治家は国民の代弁者なのだから。
つまり、全国民がそれを熱望している、と分かれば、普通、参拝しないはずがない。
つまり、「しない」のではなく「できない」のだ。国民が熱望しないから。
しかしそれ以前に、何故八月十五日にこだわるのだ。
五年前の日記です
↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
産経新聞、こんな記事を載せて居たんだそうですね。
この感じからするに、「産経抄」でしょうか。
おそらくは、昨年、一昨年も似たようなことが書かれていたのでしょう。
しかし、これはひどい。
どこが酷いのか。
「冗談にも言っていいことと悪いことがある」
なんていいますが、靖国神社は冗談の対象にすべきところではありません。
勿論、国のために命を捧げた人々が祀られているからです。
同じく、だから、政治問題、政争の具、外交問題にしてはならないことです。
最後の砦、みたいに思っていた産経の、これが良心だろうか、とショックを受けました。
でも、やっぱり、「潰してしまえ!」ではない。立て直す方向に軌道修正を、と
言い続けることが必要だと思います。
2011年7月28日の日記、「夕刻の備忘録」から大半を転載しました。
*************
6月25日
▼「菅さんの権力に対する執着心が、自身の再生エネルギーになっている」と渡辺喜美・みんなの党代表はうまいことを言うが、それほどまでに延命したいのなら抄子が知恵をお貸ししよう。霊験あらたかで効果抜群の妙案を。
▼最近の歴代首相は、さきの大戦で亡くなった人々を悼むため6月23日の沖縄を皮切りに広島、長崎を巡り、8月15日の全国戦没者追悼式に参列するのが常である。これに靖国神社参拝を加えればいいだけの話である。
▼国のために命を捧げた兵士の霊に首相が頭を垂れるのは、どの国でも当たり前の話である。毎年参拝した小泉純一郎首相が5年の長期政権を全うし、参拝しなかった首相が、いずれも短命に終わっているのは偶然ではない。ひとたび首相が参拝すれば、支持率はアップし、政権延命は間違いない。(2011.6.25 02:35)
(ここまで産経の記事)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110625/plc11062502...
(ここから「夕刻の備忘録」本文)
産経は靖國問題をオモチャにしているのだ。この記事を書いた人間の品性の下劣さは譬えようもない。靖國参拝が「霊験あらたかで効果抜群」の延命策だとハッキリ書いている。本気なら許せない、冗談ならなお許せない。この程度の認識で、自民党歴代総理の靖國参拝問題を論じ、様々な批判を書き連ねて自民党支持率の低下に貢献してきたのが、彼等の正体だということになる。よくもまあ、「靖國に行けば支持率アップで延命間違いない」などと書けたものである
(中略)
靖國問題における対応においても、麻生太郎は一つの模範を示した。参拝云々を無力化させることに尽力した。これは安倍晋三の「曖昧戦法」と同様の効果があった。麻生の靖國に対する思いは、その著作に存分に書かれている。そして、その任期中にマスコミに対して最も激しい怒りを示したのは、靖國参拝を云々したぶら下がり取材であったことも忘れてはならない。その時に吐き捨てるように言った言葉が、全てを表している。「靖國は静かに祈る場所であり、政治から最も遠くにあるべき場所である」と。
(転載了)
~「靖国参拝」 2011年7月28日の日記より~
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もう一つ。これは二年前の日記の部分転載です。
↓
靖國神社のみたままつりは七月の十三日から十六日まで。
早い話が、盆の供養と同じです。敗戦後、始められたそうです。
明治時代に国が設けた神社ですから、本来なら旧暦で行うところを、新たに採用した太陽暦でとなったため、八月ではなく七月に行われます。
盆は仏教の行事ですから、それを神社である靖國社で、というのは?と思われる方もあるかもしれません。
これは神社ではあっても、戦没者の家族は仏教だけ、というのが大半であるので、参拝者からお盆に先祖の供養のために参りたいという要望が多く寄せられたからのようです。
だから盆踊りも行われるようになったし、供養という言葉も見掛けられます。
神社という名ではあっても、春秋の例大祭は「春秋の彼岸」の太陽暦版。
みたままつりは陽暦の「盆」。
つまりは英霊達に向かい、時にはお礼を述べ、時には国防を誓い、時には御霊安かれと祈り、時には国を護って下さいとお祈りする。
それは全ての国民が行うことであって、為政者が「代表」として参拝し、政争の具とされるべきところではない。為政者だって一国民として同じように参拝すべきところです。手水を遣い、「自ら」汚れを祓って参拝するところです。
それが靖國神社です。
一人の為政者より、一人でも多くの国民が参拝する事。それ以上に日本の姿勢を雄弁に物語るものはありません。
以下は2013年10月17日の日記から転載です。
と言っても、「夕刻の備忘録」からの転載がほとんどですけど。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ ★ ★ ★ ★
さて今一度、「靖國批判」の一方の典型である産経の「主張」の一部を引く。
『首相が国民を代表して慰霊することは国の指導者としての務めだと思われる』
この種の文章は、「保守派」と称する人達がしばしば、ほとんど何の疑ひも無く、書かれてゐるやうであるが、本当にこれは正しい主張なのであらうか。こんなレベルに甘んじてゐて、我々国民はよいのであらうか。
最も問題視すべき言葉は、「代表」である。
「甲子園大会出場おめでとう、諸君は県民を代表して云々」。
なるほど、誰でも甲子園に行けるわけではない。八百屋のおじさんも、魚屋のおばさんも、みんなで応援することは出来るが、その土を踏めるのは選ばれた者だけである。これは確かに「代表」である。「代議士」といふ言葉にも、この意味での「代表」が含まれてゐる。
要するに「代表」とは、誰かの「代理」であり、時に「シンボル」の意である。
しからば「靖國参拝に代表が必要か」。
我々はある程度の交通費と二本の足があれば、誰でも何時でも志一つで「靖國神社」に詣でることが出来る。
選ばれた者のみが土を踏める甲子園とは違ふのである。専門知識も無くそれを為す暇も無い、一般の有権者の代理として選ばれた代議士とは違ふのである。
我々は望みさへすれば、何時でも靖國参拝が出来る。
ならば何故、その参拝に「代表」が必要なのか。我々国民こそが、先陣を切つて参拝し、「政治家よ、後に続け!」と云ふべきではないのか。
いや、英霊の前では、民間人も政治家も、政府高官も、首相も何の意味も持たない、唯の今を生きる一国民に過ぎないのではないか。何の意味があつて、首相が「国民を代表」出来ると考へるのか。極めて「場か馬可しい」話ではないか。
先にも書いた通り、国民が率先して靖國参拝の環境作りをし、政治家がそれに続けばよいのである。二言目には「国民を代表して参拝する義務がある」などと云ふのは、全く自己の責任を他に転嫁する言動であり、それこそ「保守」の名に恥じるものである。
★ ★ ★ ★ ★
(略)
政治家を批判すれば政治家が動き、そして国民が動くと考へるのは大間違ひである。国民が動くから、政治家は動かざるを得ないのである。
先ず批判すべきは「国民の怠惰」である。原稿が売れないことを覚悟して、それが出来るか否か、この点こそが、「保守派」を自称する人間の矜持でなければならぬ。
多くの参拝者の列の中を、如何にも颯爽と本殿に向かひ、やんやの喝采を浴びることで自己満足せず、もつともつと裏方に徹して、全国民が自らの足で参拝し、心を一つにする、そのための予備的活動に従事されれば如何か。
★ ★ ★ ★ ★
これも先の記事にも書いたことであるが、麻生首相が参拝されても、されなくても、その支持には全く揺らぎがない。
首相の地位を「シンボル」と見倣し、「代表」といふ言葉の濫用を止めない人は、それはそれで結構であるが、霊前においては全く無意味であること、そして何より我々国民は自らの意志で立てること、「代表」など仰がずとも立派にその志を受け継げることだけは理解して頂きたいと思ふ。
従つて、「代表」といふ言葉に執着した意味での靖國参拝に関しては、『国の指導者としての務め』ではない、といふのが一つの結論であり、同時に、「靖國参拝国民運動を展開せよ」といふのが一つの提案である(最初のターゲットは10月17日から20日までの四日間、「秋季例大祭」である)。
選挙ともなれば「普段とは逆に」、如何にも政治家を見下ろして、有権者ここにあり、を強調される方が少なくないやうであるが、「ならば普段から」、政治家を従へて、その先陣を切るやうに、国民としての行動規範を変へやうではないか。
自己責任を回避し、その責を全て他人や社会に求めるのが、左翼の現実である以上、参拝に「代表」を求めて止まぬ精神は左翼である、と断じることが出来やう。
我々国民は「踏絵保守」ほど単細胞ではない。衣食住に忙しい「現実の世界」を生きてゐる人間は、自然と多面的である。「ワンビット」で政治が出来ぬことぐらいは承知してゐる。「何が保守」で、「何が保守ではないか」などといふ議論が、全く不毛であるとする所以である。
★ ★ ★ ★ ★
(以下略)
「靖國参拝考(後編):100万人の靖國参拝運動」
2009.08.15
~夕刻の備忘録より~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(転載了)
~「日本の姿勢を世界に知らす (知らせる、ではなく)」 2014年7月18日の日記より~
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