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ただの日記

口訣 歌訣(道歌)の意味

2020年03月17日 | 日々の暮らし
2010.05/31 (Mon)

 「道歌、というのを御存知ですか。」
 きっと誰しも知っているもの。「ああ、あれか」と言われそうです。
 各界にある、修業の心境、レベルなどを歌にしたものです。歌の形にしてあるので、「道歌」と言いますが、「ことわざ」みたいにしてあるものもあります。
 もう、そんなの集めたら、山ほどあります。「人生訓」なんてのも、歌の形式を採ってないだけで、道歌と同じです。「口訣(くけつ)」とでも言いますか。
 「損して得取れ」なんていうのは、間違いなし、商人の道歌、口訣、ですね。人生訓なら「急がば回れ」、反対の「善は急げ」、いずれも、ちゃんとした論理があるんでしょう。
 仏道修行に「心こそ 心転がす心なれ 心に心 心して居よ」というのがあります。
 弘法大師の歌に
 「降らば降れ 積もらば積もれそのままに 雪の染みたる松の葉もなし」
というのがあるそうです。
 平常心(びょうじょうしん)を詠んだ歌だそうです。 

 「切り結ぶ 太刀の下(もと)こそ地獄なれ 一足進め そこは極楽」
 勿論、剣術の道歌です。間合と心持を説いています。

 そうそう、面白いのでは「数稽古の後は風呂に入るな」というのを読んだことがあります。口訣、ですね。
 「折角身についた技が風呂に入ると流れてしまうぞ」、と説明されるそうですが、実際は、数稽古として、一本一本全力でやるうちに、身体面、精神面共に、緊張させる部分と弛緩させねばならない部分とを、身心が覚えていきます。
 仕組まれた、急激な「量質転化」ですね。その、折角覚えた身心の昂揚感を、風呂に入ることで、乱暴に弛緩させたら「流れてしまう」。
 「折角身についた技が風呂に入ると流れてしまうぞ」。直感的な説明ですが、道理、と思います。一旦寝て、翌日、身体の痛みと、まだ残る気持ちの高ぶりの中で、自身の数稽古を、肯定的に評価する。これまた、意義深いことではないか、と門外漢ながら、想像します。

 勝手な思い込みによる解説は止めて、元に戻りましょう。
 この、歌訣や口訣、「もうちょっと丁寧に、文章にしておけばよいものを」
と思いませんか?勿論、この歌訣、口訣などの内容は、伝書で説かれていたり、師匠から懇切丁寧に教えられたりするのです。その上で、この道歌があります。

 じゃ、説明が別にしてあるのに、わざわざこんなのをつくるのは何故か。
 覚えるためです。
 何故、覚えなければならないのか。
 習ったもの、身につけたものは、実際に、無意識に遣えるようにしなければならないわけです。でも、無意識に遣えるようになるためには、意識がある状態の中で(言い方、変ですね、意識的に、ですね)、遣えるように常に気をつけながら、練習をしなければなりません。
 そんな時、心の持ちよう、技の形などをいちいち伝書を開いたり、師匠に聞いたり、では稽古になりません。短い言葉でまとめられたものを、稽古中であろうがなかろうが、常に必要に応じて、思い出し、現実と対比させてみる。
 これが、歌訣、口訣の目的です。

 結果、実際の「身体の動かし方」と「考え方」を、常に同時点検しながら、身につける練習ができる。これは、大きい。
 随分昔、日本の柔道が外国選手に勝てなくなった時、「強い相手と数多く練習ができる場をつくらねば」と提案されたことがありました。
 なるほど、そうだ、と大勢がそっちに動く中で、正反対の意見を述べる人々もいました。主に空手の関係者でしたが、彼等はこう言いました。
 「強い相手と練習しなければならないと言うが、ヨーロッパの選手こそ、練習相手のない中で稽古をしているではないか」。こっちが道理、ですね。
 柔道の側でも、同様の意見を述べる人がいました。「鬼」と言われた木村政彦選手です。何しろ、この人、十年間も柔道日本一でした。
 氏はこう言いました。「基本稽古をしっかりやることが大事なのに、それをおろそかにして、乱取りばかりやっているではないか」。これまた、核心を衝いています。
 
 戦前、その木村政彦氏が無敵を誇っていた頃、「日本柔道選士権大会」の南樺太代表に選ばれた選手がありました。軍人でした。南樺太代表、というのは大変な栄誉なのですが、元々東京で稽古をしていたものが、転属で、南樺太に来たのです。稽古相手が、それこそ全く居ないのです。早い話、代表になったのも、南樺太には柔道を本格的にやった者がいなかったからです。

 代表として行くのは良いけれど、稽古相手なしで、当日だけ戦うなんて、勝てるわけがない。「南樺太代表」という名を汚すことにもなる。
 「さて、困ったな」、といくら悩んでも、稽古相手が湧いてくる筈もない。
 で、閃いたのです。
 「稽古は自分の技を研ぎあげるもの。ならば、一人でできる技を研ぎ上げれば良いではないか。」

 と、いうわけで、早速帯を一本、一抱えもある木の幹に括りつけ、帯の両端を袖、襟に見立てて、引きながら根元に足払いをかける練習を始めました。
 一抱えほどもある木です。しっかり根を張っているわけですから、当然びくともしません。人間では、あり得ない、圧倒的な強さを誇る選手、みたいなもの。
 来る日も来る日も(実際には半年余りではないでしょうか)足払いの稽古を続けていた或る日、「自分の足払いで倒せない人間はない」、という絶大な自信のようなものが湧いてきたのだそうです。人間が相手なら、無敵ということを、確信したわけです。
 大会当日、予想通り、南樺太の稽古相手の大木よりも強い選手はいなかった。
 稽古する相手がなく、一人黙々と、木に足払いを繰り返し叩き込んで来たその選手は、足払いだけで勝ち進み、決勝までいったそうです。
 (最後には、木村選手に僅差で負けたのか、引き分けだったのか覚えてないので、そこは追求しないで下さい。)

 この柔道の選手の話に、直接には道歌も口訣も出て来ません。
 しかし、「今、存在しないものを作り上げる」、「自分を変える」ということを考え、実行する場合、「ただ、ひたすらやれば良い」というものでもない。
 その時、どんなに「ひたすら取り組んで」いても、その中に、必ず「目的の意識」は浮かべておかなければならない。
 「稽古は自分の技を研ぎあげるもの。」
 それには短い言葉が一番なのだということを知っていて、先人は、ちゃんと当たり前にやって来たのです。

  (せめて、三大法則は覚えておかねば、ということです)
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