2018.01/31 (Wed)
「知行合一」ってのはカッコいいけどなかなかできない。
できない理由のほとんどは己の実力不足。
それでも「見果てぬ夢」、じゃないけど、とにかくそれを追い求める。
「それ(夢を追い求めること)だってそれなりにカッコいい」。
そう言って自分を納得させる。
勿論、「(それなりに)カッコいい」というのは「知行合一」ができない故の妥協の産物だから、カッコいいとは言っても、内心忸怩たるものがある。
この「知行合一」、日常にあって具体的に、と見ると「言行一致」というのがある。
「言葉と行動が一致している」、「有言実行」、みたいに見ていたけど、これも能く見るとなかなかできることではない。
「我ながら情けない、何もできていないじゃないか」と自分に対して言い続けてきたこの数十年だったが、ふと思ったことがある。
何かをやっても、ちょっとでも曖昧な、いい加減なことがその中に混じっていれば、その時点で自身が必ず「これじゃまだまだ駄目だ」、と駄目を出す。
だからこそ進歩、向上があるわけだけれど、もしかして実は自分の実力のなさをあまりにも漫然と、ただ大きくとらえているだけなのじゃないか。向上を目指すが故のダメだし、じゃなくって全否定しているのではないか。
曖昧とかいい加減とかいう判定は、自分の今ある実力でしかできないのに、
「判定することに関しては実力がある、絶対確かだ、判定力・判断力は完璧なんだ」、と妙な自信を持っているのではないか。
実力不足は全てに於いて、なのだから、「判断力」だって怪しいもんだ、なんて考えもしなかった。この歳になるまで、だからお恥ずかしい限りだ。
「知行合一」ってのはカッコいいけどなかなかできない。
できない理由のほとんどは己の実力不足。
それでも「見果てぬ夢」、じゃないけど、とにかくそれを追い求める。
「それ(夢を追い求めること)だってそれなりにカッコいい」。
そう言って自分を納得させる。
勿論、「(それなりに)カッコいい」というのは「知行合一」ができない故の妥協の産物だから、カッコいいとは言っても、内心忸怩たるものがある。
この「知行合一」、日常にあって具体的に、と見ると「言行一致」というのがある。
「言葉と行動が一致している」、「有言実行」、みたいに見ていたけど、これも能く見るとなかなかできることではない。
「我ながら情けない、何もできていないじゃないか」と自分に対して言い続けてきたこの数十年だったが、ふと思ったことがある。
何かをやっても、ちょっとでも曖昧な、いい加減なことがその中に混じっていれば、その時点で自身が必ず「これじゃまだまだ駄目だ」、と駄目を出す。
だからこそ進歩、向上があるわけだけれど、もしかして実は自分の実力のなさをあまりにも漫然と、ただ大きくとらえているだけなのじゃないか。向上を目指すが故のダメだし、じゃなくって全否定しているのではないか。
曖昧とかいい加減とかいう判定は、自分の今ある実力でしかできないのに、
「判定することに関しては実力がある、絶対確かだ、判定力・判断力は完璧なんだ」、と妙な自信を持っているのではないか。
実力不足は全てに於いて、なのだから、「判断力」だって怪しいもんだ、なんて考えもしなかった。この歳になるまで、だからお恥ずかしい限りだ。
それで思いついたことなんだけど。
「ちょっとでも曖昧な、いい加減なことがその中に混じっていれば」我々はすぐに「これじゃ駄目だ」と言う。けど、現実は実力不足なんだから、ちゃんとできないのが当たり前で、その時点で「これじゃ駄目だ」と切り捨てるのはおかしいことだ。
「まだ」駄目だ、と将来に含みを持たせる、期待を持たせて、と言うことならいいんだけど。
ほんの少しの注意をする。
全体にはできずとも、実力の最大限で、「ほんの少し」の注意を、その都度繰り返していけば、曖昧・いい加減なところは段々に減っていく。その積み重ねの結果、「言行一致」は少しずつながら現実のものになって来るのではないか。
「ほんの少しの注意」。例えば「文字」を丁寧に書く、とか。
私の場合は、思いついたことを忘れぬうちに書き留めておかねば、と焦るあまりに、つい走り書きになってしまう。
この「つい」、が曲者で、焦って書いた走り書きは「判読できないこともある」、から解読に無駄な時間を必要とする。
いや、それよりも重大なことがある。丁寧に書いていると無意識の裡に考えたことを再確認するといった作業をしているものだが、走り書きの場合は「とにかく書き留めねば!」という思いに支配されているためそんな余裕はない。
私の場合だけかもしれないが、ただでさえ走り書きは判読に時間がかかり、無駄な時間を費やすことになる可能性が高く、それに加えての「再確認」の手続きをする時間が余分にかかる、という二重の無駄をしていることになる。
ならば、できること、やるべきことは一字一字の「留め」や「撥ね」からだ。上手、下手ではない。
クルマで行けば車窓の景色は流れるだけ。自転車で行けば景色の中に匂いくらいは感じ取れるかもしれない。けど、歩いていけば。
ほんの少しの注意をする。
全体にはできずとも、実力の最大限で、「ほんの少し」の注意を、その都度繰り返していけば、曖昧・いい加減なところは段々に減っていく。その積み重ねの結果、「言行一致」は少しずつながら現実のものになって来るのではないか。
「ほんの少しの注意」。例えば「文字」を丁寧に書く、とか。
私の場合は、思いついたことを忘れぬうちに書き留めておかねば、と焦るあまりに、つい走り書きになってしまう。
この「つい」、が曲者で、焦って書いた走り書きは「判読できないこともある」、から解読に無駄な時間を必要とする。
いや、それよりも重大なことがある。丁寧に書いていると無意識の裡に考えたことを再確認するといった作業をしているものだが、走り書きの場合は「とにかく書き留めねば!」という思いに支配されているためそんな余裕はない。
私の場合だけかもしれないが、ただでさえ走り書きは判読に時間がかかり、無駄な時間を費やすことになる可能性が高く、それに加えての「再確認」の手続きをする時間が余分にかかる、という二重の無駄をしていることになる。
ならば、できること、やるべきことは一字一字の「留め」や「撥ね」からだ。上手、下手ではない。
クルマで行けば車窓の景色は流れるだけ。自転車で行けば景色の中に匂いくらいは感じ取れるかもしれない。けど、歩いていけば。
歩いて行けば、景色も匂いも立ち止まらずとも十二分に味わえる。
「小さなことからコツコツと」を宣伝文句にした西川きよしじゃないけれど、いくら大きな理想を持ったって、やっぱり、「一字一字を丁寧に」と「一事一事を丁寧に」、から始めるしかなかろう。
「大きな理想」がなくって、「小さなことからコツコツと」だけ、なんてのは欺瞞だけれど。
「小さなことからコツコツと」を宣伝文句にした西川きよしじゃないけれど、いくら大きな理想を持ったって、やっぱり、「一字一字を丁寧に」と「一事一事を丁寧に」、から始めるしかなかろう。
「大きな理想」がなくって、「小さなことからコツコツと」だけ、なんてのは欺瞞だけれど。
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