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ただの日記

参道

2020年03月13日 | 神社
2018.02/27 (Tue)

 「手水について」の続きで、今回は「参道」。
 これもまた以前に書いたことなんですが、どうも世間の「参道(参詣道)」の解釈も何だか間違っているんじゃないか、と。
 その時もやっぱり、手触りというか、頭ではなく皮膚感覚からということで書いたと思います。
 出発点は「参道」という言葉そのものです。「参道」は「参道」であって、古墳の「羨道(せんどう。本当はえんどう、と読むんだそうです)」、ではない。
 「羨道」はあの世とこの世をつなぐ道だから、ということで、母胎と出生をつなぐ「産道」と、「神(上)」とつなぐ「参道」を重ねる考えもあるようですが、それも変です。誕生はめでたいことですが、「参拝」と「誕生」は直接にはつながらない。 

 「参拝」は私欲に濁った心で行うものではないことは少し考えれば分かることです。
 飽く迄も私利私欲を祓い(掃い)、清らかな心で敬虔に頭を下げる、もしくは額づくものでしょう。その故に鉄道会社の陰謀(正月も乗客を減らしたくない)で始まったと言われる「正月三が日の初詣」、というのは私利私欲の凝縮したもので、だからオーバースローで賽銭を投げたりする。・・・あ、脱線しました。

 これも以前に書いたことですが、平常時、神様は「坐(いま)す」のであって、あちこちをうろつかれることはありません。また、実際に神様が目的があって、どこかに行かれる、というのも本来はないことです。
 神意は「発動」されるのであって、人間の思い(人知)をはるかに超えた現象を生み出すのが神様です。そしてそれはあまりにも早いから、見えたとしても震動みたいな形が精々。
 そんなだから、「こうあってほしい」「この願いをかなえて下さい」、なんて祈ったって、人間の欲の範囲内の「ちょうどいい塩梅」で叶えてくれるかどうか。

 そう考えると、神意の発動よりも、「坐」してもらっているだけで有難い。厳めしく坐してもらって、我々民草が真摯に生きている姿を見守っていてほしい。神の思われるままの生き方をしようとしているところを見ていてほしい。
 「神の思われるままの生き方」」。それが「「惟神(かんながら)の道」です。
 神様にお願いに行くのではなく、神様の思いを実現しようと努める。そのために折々に参拝する。
 と言っても、神様に
 「お前、こういう風に生きなさい」
 と直接言われるわけではないのだから、こっち(我々人間)が勝手に
 「こういう風に生きよと仰っているに違いない」
 と予想して、なんですけどね。
 だから八百万の神々全てを思って
 「(お天道様が)見て御座る」
 、と常に意識するんじゃないでしょうか。

 そんな風に思うと「参道」はやっぱり「参道」です。「神前に参る道」であって、決して「神様の通り道」なんかじゃない、となります。
 以前に日記には
 「真ん中は神様の通り道だ、なんて言うけど神様がそんなにしょっちゅう往来していたら危なくってしょうがない」
 、と書いたけれど今回はもっとまじめに
 「神様の正面に立ち、神様を見据えて進むなんて・・・・。敬神の念があるなら、神様と同じ道を正対して歩めるわけがない」
 、と書きたいと思います。
 神意は「常に」「坐す神」から四方八方に発せられている。参道は我々のための道であって、我々はそこをただ敬虔な気持ちで進めば良いだけのこと。そして、神前で赤心を以て奉告する。

 ただ、道の真ん中を歩くと、同じく参拝して退出してくる人々と正対することになり、当然ぶつかってしまいます。
 「ぶつからないように常に神殿の方を見て」というのも、本末転倒。
 「どっちでもいいよ」と言うと、これまた道の両脇で衝突が・・・。
 それで、
 「じゃ、左右いずれかの一方通行で」
 、というのが自然の流れでしょう。

 「真ん中は神様の通り道だから、通っちゃいけない」
 、のではなく
 「真ん中は『ただただ』、神様に失礼だから通らない(歩けない)」。
 これも皮膚感覚じゃないかと思います。
 
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