CubとSRと

ただの日記

目と手 手段と目的

2020年03月13日 | 神社
2018.02/22 (Thu)

 先日、洗車をしてもらいに行った。
 と言っても、自動洗車機で水洗いだけの簡単な奴だ。洗車の間中、洗車機の方が動いているのに、車の中にいるとこっちが前進しているような錯覚にとらわれる。勿論、目を閉じたらそんな感覚は消えてなくなる。

 我々の入手する情報というのは五感覚器官(五感)からのものなのだけれど、およそ6割(?)は視覚からだという。つまり半分以上の情報は視覚に頼っているのであって、それで物事の認識をし、判断をしているというわけだ。
 妙なものだ。だってそうじゃないか。目、ってのは鍛えようがない。あとの耳・鼻・舌・皮膚(聴覚・嗅覚・味覚・触覚)、特に皮膚感覚の中でも手触り、触感というのはとんでもないもので、熟練工は鏡面のような平面でさえ機器以上の精確さで凹凸を捉えるという。
 聴覚・嗅覚・味覚だってそうだ。なのに、磨けぬ感覚である視覚からの情報が大半を占め、それで認識、判断をしている。それでは進歩向上に関して無駄が多過ぎる。
・・・・・なんてこと言って、「だから本当は目が一番下だ!」なんて決めつけるのは早計だ。
 目だけが、他の器官と違って間接的に(或いは二段階で)情報を得ているからだ。その代わり、触れなくても情報を得ることができるという利便性を持つ。
 逆に、その故に「文字」や「絵」のような人為的な約束事を、判断の際に用いるよう強いられる。結果、当然の如く信頼度は低下する。しょうがないことなんだ。

 が、思ったのは、
 「『しょうがない』のだけど『当然(或いは当たり前)』ではない。『ただ漫然と何でも鵜呑みにしてしまう』のは危険なんじゃないか」
 、ということだ。
 「ま~た、重箱の隅を」、と思われたかもしれないけど、実はこの間、こんなテレビ番組を見たもんですからね、情報の入手法について、もやもやと思ったわけです。

 「こんなテレビ番組」、というのはNHKの教育テレビ。「趣味どきっ!」って番組があるんですが、それで、先日から「神社めぐり」というのをやってたんです。
 その中で、國學院で神話学専攻という女性教授が、その回に出演していた或る女優の手水のつかい方を見て「それ、駄目です」だったか「はい、間違ってます」だったか、とにかくそんな言い方をした。
 どんな風に手水を遣ったか。
 まず、水を汲んで、左手にかけ、それから左手で受けて口に(飲んだのかな?)。それで残った水を捨ててしまった。
 「手水のつかい方をよく知らない」、と初めに言ってるんだから、まずは作法を教え、続いてそれらの理由を説くべきでしょう。手直し、注意はそれからする。教育テレビなんだから。
 (まあ、「趣味どきっ!」、なわけですからね、神社参拝を「趣味」ってんだから、こんなものかな?)

 引っ掛かったのは「それ、駄目」とか「それ、間違ってる」とか言う、その言い方の背景にあるものです。「判断するのは誰だ」ではなく、「判断の『基準』は何だ」ということが蔑ろにされているんじゃないか、ただのクイズになっているんじゃないか、ということです。
 (まあ、「趣味どきっ!」、なわけですからね、神社参拝を「趣味」ってんだから、こんなもの・・・・)

・・・・ これ以上書いたって出来の悪いギャグにもならないから、もうやめます。

 今日のまとめです(?)
 「柄杓一杯で、全て終えねばならない」、なんてことはない。そんなこと言ったら、五十鈴川で手水を、という時はどうする。柄杓はないぞ?水垢離をするのに柄杓なんか使わないぞ?
 手水は水垢離(水で穢れを祓う)の簡略形としての「作法」であって、その真意は水垢離と同じく
 「自らの身体の内外(身心)の穢れを払って神前に額づく準備をする」
 ということだよ?
 
 左は陽(火)、右は陰(水)だから、左を先にする。
 左手に水をかけることで、「身体の内外を祓う仕事を左手にしてもらう準備」をする。
 祓われた左手で、身の象徴としての右手に水をかけ、全身の穢れを祓う。
 今度は左手に水を受け、口に含み、漱ぐことで心の穢れを祓う。
 最後に、柄杓の柄を残った水で祓う。
 ・・・となれば、祓えの意識で言えば、別に「何が何でも柄杓一杯で」というのは本末転倒じゃないか、手段である作法が目的となってんじゃないか、と思うんです。

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