CubとSRと

ただの日記

気分が大事(千木と勝男木)

2020年11月01日 | 神社
 以前に書いた日記です。

 ・・・・・・・・・・・・・・
  思いついたことを一つ。
 思いついただけです。だから今日は(今日も?)薄味です。

 でも、実はこんな時こそ当人の心情が出て来るものです。

 私はいつも他人様の言葉を借りて、昔笑福亭釣瓶がやってた「突然ガバチョ!」の中の「いきなりにらめっこ!」の指摘マン「ワシもそう思う博士」みたいな尻馬に乗った言葉を発していますが、その際でも、私なりの根っこは動かないと自負しています。私なりの根っこ、それはこれまでにつくって来ただろう感性です。

 そして、その感性を「本当に日本人の感性だろうか?」と自問自答し続けるということは続けています。
 それは物を知らないおっさんの、絶対に譲れない、「最後の一線」、です。


 さて。
 キリスト教の教会、仏教の寺院、神道の神社、と、俗に「宗教施設」という呼称で一括りにされるものでも、それぞれに成立理由は違うものだから、趣もそれぞれに違います。
 教会は司祭が、天国、神の国について話をするところで、その建物は神の国である天上へ人々の目が向くように高くそびえたっている。尖塔を有するのがその特徴です。
 対して仏教の寺院はというと、極楽浄土というのは己が心の中にあるものだから別に天に向かう必要はない。
 却って心の中だから、と、寺院は空、天、ではなく心の中を見るように、と仏像を安置し内観を心掛けるために、修行の場(道場)の体裁をとる。

 では神道ではどうか。
 神社は元々社殿などはなかったというのは、御存じの通りです。
 神は「上」であって、光は上から降り注ぐ。或いは水は上から流れてくる。
 だから、その光に照らされたものがそのまま神の依り代だったりする。(桃太郎が上から流れてくるのも同じかもしれませんね)
 そうそう、滝(垂水)も神の依り代でした。

 勿論、光そのものが神です。キリスト教のように光があって影が生まれたというような相対的な発想はない。光だけ、です。
 それ故に鏡を神の依り代とすることが多いのでしょう。
 けれども鏡というものは光が当たらなければ光らない。そして光はいつもあるわけではない。
 光のない時はどうする。
 光がない時は「光あれ」と思う。これが「清明正直」でしょう。
 「清く明かく正しく直き」心です。常に前向きの心持ちです。

 そんな風にいつも光を、つまり、「上=神」を意識して生きる。
 それが神道であり、だから社殿はその象徴であるはずです。

 日本人はお寺と神社、どちらも大事に思うのが普通でしょう。
 だけれども、何となくその両者の建物に対して、同じ「大事」と思いながら、何だか違った印象というか、感情を持っていませんか?
 やっぱりここまで書いて来たように、お寺では自分を真面目に見詰めるような気分になって、神社ではただ何となく「有り難いな」と思うだけだったりしませんか?何にも考えない、いや考えられない。
 「圧倒されて願い事なんかできなかったよ」と、以前ビートたけしが内宮へ参拝に行った番組で言ってました。

 厳粛な?(敬虔な?)気持ち?
 これこそが「かしこむ(かしこまる)」、だと思います。あれですよ、祝詞(のりと)のおしまいに出てくる「かしこみかしこみまをす(恐み恐み、または畏み畏み曰す)」という決まり文句。
 畏(かしこ)まる気持ち。
 畏れ多いから、だらしない格好やだらしない、いい加減な気持ちでは向かえない。
 それをビートたけしは
 「圧倒されて願い事なんかできなかったよ」
 と照れ隠しに言ったんじゃないかな、と私は今でも思っています。
 あ、脱線しました。

 戻ります。
 お寺を見た時と、社殿を見た時と、では、「感じ」、「思い」が違う。見ただけで、です。何故かしら感じるものが違う。
 空に向かう教会や、静かに瞑想しているかのようなお寺の建物。
 神社の社殿はそのどちらとも違う感じがある。
 何だろう。
 そう思っているうちに、
 「地にしっかりと立っては居るものの、空への高さも感じさせる、神社の社殿独特の形にあるんじゃないか」
 と気が付きました。

 神社独特の形。・・・なんて言って、そんな大袈裟なものじゃない。
 「千木」です。そして鰹木(勝男木)です。
 何という事もないもの。本来は屋根の始めになる棟にX型に括りつけられた木材の先端です。
 後にはわざわざX字型の大きな組み木をつくって、棟の上に実用の意味など全くないのに取り付ける。
 そしてこれまた、本来は屋根を葺いた萱などが風で飛ばぬように重石の代わりに括りつけられた丸太棒を実用の意味などないのに今でもわざわざ載せる。

 でも、このX字の組み木が、また、和太鼓の胴のような形をした勝男木が、見る者の心に大きく映るのではないか。

 大祓(おほはらへ)の祝詞に
 「~下(した)つ磐根(いわね)に宮柱(みやばしら)太しき立て、高天原(たかあまのはら)に千木(ちぎ)高しりて~」
 とあります。

 「強固な岩のような地に太い宮の柱を立て、高天原に届くかのように千木を高く組んで~」
 ということは
 「地に足をしっかり踏みしめて、天にも届けよ、と立つ」
 、或いは
 「天壌無窮(天地に窮まりなし)」
 という、その形。
 早い話が、「弥栄えに栄える」という末広がりの心持ちを千木が表し、拡「散」せず、拡「充」の気持ちを勝男木が表す。千木と勝男木はその象徴ではないのか。

 こんなことをごちゃごちゃ書かなくたって、誰でも神社の社殿を見、同時に棟の上の千木や勝男木を目にしたら澄明な気を、清らかな気分を感じるのではないか。

 人の心の初め、というのはこんな単純なものなんじゃないでしょうか。

 そして
 「その感応力で、世の中を見る」。


  2014年1月31日の日記より 
 
 蛇足ですが。
 「神社仏閣」というところを「寺社仏閣」というのは間違いです。「寺社」或いは「社寺」だけなら分かるけど、そこに「仏閣(仏教の建物)」だけわざわざ付け足すのは変でしょう。建物があろうとなかろうと神社だから、神社を意味する言葉を創出して付け足すのも面倒な話。
 まあ、最近の「何なら」と同じで、ちゃんと意味を考えないで聞きかじりから使い始めたことなんでしょうけどね。
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