11月15日(火)
日曜の晩。
「明日は雨も降らないらしいから早く寝よう」
、と書きながら実際に寝たのは11時過ぎていたのではないか。
で、確か目が覚めたのは2時半。そのまま起きていたら体に良くない。
ということで、取り敢えず再び寝ることにした。
「体に良くない」も何も、夜更かししたのは自分だ。
再び目が覚めた時、目覚ましのCDの音はなかった。
先日、音量を絞ったままにしていたことを今になって思い出した。目が覚めなかったのはそのせいだ。
CD再生はとっくの昔に終わっていて、時刻も疾うに4時半を過ぎていた。
ストレッチを十二分に(?)省略した、形だけのものを数回。
大慌てで着替え、4時50分、散歩に出る。
本当に散歩だけ30分少々。勿論、素振りはせず。
シャワーを浴び、頭を洗い、昼過ぎコペンで隣市のドラッグストアに行く。
帰りにスーパーマーケットに寄り、カレイの切り身を数切れ。
例によって煮つけにする。
今日(月曜日)は昨日の失敗に懲りて、起きたのは3時40分。(10時には寝ていた)
しかし散歩に出たのは4時20分。素振りは一週間ぶり。
2時過ぎ。カブで出る。シートを上げ、燃料タンクを見るとガソリンは半分以下。ちょっと悩んだけど、給油に行き、それから野菜を買いに行くことにした。
何とも無駄の多い計画。何故って、ガソリンスタンドと業務スーパーは見事なくらい正反対のところにある。そんなに慌てて給油しなくたって、今日の買い物くらいで「ガソリンがない~~!」と騒ぐことになる心配は全くない。
ただ、この無駄だらけ(ガソリンの無駄遣い)の計画こそが「秋の一日」を満喫するのには大事なことなのだ。あ、春も無駄の多い計画は大事だ。夏も、か。
・・・・とにかくバイクで「無駄に走り回ること」は心身共にとても意義深い、全く無駄ではない行動なのだ。
それに、冬は計画自体、立てないから。(・・・でもないか。)
明日は父の命日だから、出歩くことはしない。
仏壇がないから、ここ数年、命日に何もしないでいる。
でも、何もしないでいると、一、二年ならともかく、ここ数年のコロナ禍で三年は田舎に帰ってないものだから、気になる。
それでこんな方法を思いついた。
簀の子板の小さいのを鴨居に架けて、そこに靖国神社の神札と神宮の大麻を祀るようにして数年が経っている。
父は戦争に行った。靖國神社に祀られることはなかったけれど(だから自分はこの世に生を受け、今ここで日記を書いている)、今、常世の国に在る。国のために戦ったのだ。祀られることはなくとも靖國の英霊たちと並んでいる。少なくとも自分にとっては、そうだ。
では、これから父の命日には神札を奉ずる神棚に酒の一杯を供えることにしよう。
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