モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

里山保全(妻女山里山通信)

2009-11-30 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 半年以上を掛けて妻女山にあるわが家の里山の除伐を進めてきました。実は一部を除いて20年以上放置されたままの状態だったのです。山林は自然のままが一番で、人が手出しをしない方がよいと思っている人も、まだ少なくないようですが、一番下の写真を見ていただくと放置されたままの山林がどうなってしまうか分かっていただけるのではないでしょうか。

 まず、つる性の植物と繁殖力の強い帰化植物が繁茂します。当地では、前者はミツバアケビ、ヤマフジ、クズなどで、後者はアレチウリ、ブタクサ、カモガヤ、ヨウシュヤマゴボウ等です。つる性の植物は、植林された樹木にからみつき繁殖して日光を遮り立ち枯れさせてしまいます。主に戦後植えられた落葉松がその被害に遭っています。立ち枯れの後は、台風などで倒れ重なって非常に危険な状態になります。
 また、帰化植物は生存競争に勝ち残った非常に繁殖力の強いものなので、在来種を駆逐してしまいます。山林の生態系を破壊してしまうのです。

 昭和三十年代にプロパンガスが普及するまでは、里山というのはむしろずっと過剰利用されてきたという歴史があります。明治の村誌などを見ると、山の説明の項目に、現在は植林地や自然林の場所が「樹木なし」と記されているのが多く見られます。たいていは茅が生えていて、屋根を葺(ふ)くのに利用されました。私の子供の頃も妻女山の樹木はもっと小さかった記憶があります。

 写真上は、落葉松と自然林の混合林。下は赤松と自然林の混合林です。落葉松林の方が密なのは、急斜面なので土壌流出を防ぐために除伐の度合いがやや少なくしてあります。赤松林の方は、20数年前に松枯れ病対策で伐採された赤松がビニールを被せてそのままになっています。長野市の委託業者が伐採と薬剤散布をしたのですが、薬剤のプラスチックのビンをそのまま捨てていったため、山中にこの空きビンが散乱しています。折を見て拾っては市の巡回してくる人に回収してもらっています。

 年末辺りからまた山仕事に精を出そうと思っていますが、猪が対象の害獣駆除も始まるので気を付けないといけないのです。冬になると葉が落ちるので、掛かり木や倒木、つるなど、山のどこがどう荒れているかがひと目で分かるようになります。里山保全といっても、その地域の特性があり全国一律ではありません。また、その森が向いている方向や尾根か斜面か谷かでも違ってきます。その特性に合わせた保全が必要なのです。

 この冬にまずしなければいけないのが、観光客も通る林道の上で山桜の木に掛かり木になっている落葉松の大木を落とすことです。それこそ大嵐でもなければ落ちることはないでしょうが、いつ途中から折れるとも分からないので落とす必要があるのです。といっても非常に危険な作業です。他にも掛かり木がたくさんあるので、それもあってわが家の山を留山にしたという経緯があります。

 その他には、きのこのシロをあちこちから移植したということがあります。特に時候坊(花猪口)と紫占地に関しては大成功でした。他には山鳥茸擬、赤時候、赤山鳥、平茸、剥茸、栗茸なども移植しましたが、結果は来年のお楽しみということです。将来的には松茸と本占地をやってみたいと思っているのですが、これはハードルがえらく高いので、どうでしょう。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。トレッキング・フォトルポにない写真もたくさんアップしました。
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暖冬の恩恵? 紫の貴婦人ムラサキシメジ(妻女山里山通信)

2009-11-28 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 寒気がやっと下りてきましたが、やはり暖冬なのでしょう。例年なら山はカラカラに乾いていて降り積もった落ち葉で滑ってとても林道は車で走れないのですが、現状は幾度かの雨でグチャグチャです。これならきのこもまだ出ているのではと、黄昏のきのこ狩りに出かけました。

 ポイントに着いた頃には、北アルプスを茜色に染めて夕日が落ちるところでした。何度見ても見飽きることのない美しい瞬間です。日没になっても空は未だ群青なのでなんとか森は見通せますが、知らないととても不気味で入ってはいけないでしょう。夕暮れ以降は夜行性の動物たちも出歩き始めます。きのこを探しつつも周りには注意を払います。

 ポイントといっても落ち葉が深く降り積もっていて肝心のきのこは全く見えません。シロの場所を知らないと一本も採れないでしょう。不用意にきのこを踏まないように枯れ枝でそっと落ち葉を取り除いていきます。予想した場所に10本以上出ていました。霜がおりた後に出たので虫も全く入っていません。大きくなりすぎたものもありましたが、多くは傘が開きすぎないいいサイズ。

 その他、二、三ケ所ありそうなポイントを探して採取。結局25本採れました。当地では、紫占地は11月の上旬まで。それ以後は山が乾燥してしまい採れないのが普通です。暖冬のお陰とはいえ、この異常気象は地球温暖化(実際は氷河期が人的影響で急速に終息に向かっている?)とも関連があるかもしれず、ちょっと複雑な気持ちになります。

 帰ろうと藪を抜けていくと、薄暗い森に黒い陰が…。その相手と私が気付いたのがほぼ同時でした。距離は10mほど。相手はピシュッ!と威嚇音を発し、いきなり反転すると猛ダッシュで消えていきました。ニホンカモシカでした。おそらくいつもの獣道を通ってねぐらに帰るところだったのでしょう。ちょっと可哀想なことをしました。

 遠く川中島の灯りが見えます。眼下には高速道路のナトリウム灯がオレンジ色に瞬いています。川中島は霧がまくので高速道路のランプもナトリウム灯なのです。麓に下りたころには、星も瞬き始めました。希少な紫占地は、信州麹味噌と油を混ぜて具にして信州名物「おやき」になりました。これはお金では買えない絶品の郷土料理です。

 夕日といえば次男が作った「~高幡不動尊~四国八十八カ所巡り」というムービーがあります。ムービー自体は夕日ではないのですが、BGMが夕日を歌った福山雅治の「東京にもあったんだ」と「ナウシカレクイエム」です。中学生のムービーにしては渋すぎですが、なかなかいい雰囲気で癒されます。歌詞もいいです。ぜひご覧ください。

★妻女山展望台から見た北アルプスのパノラマ写真は、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】の北アルプスをご覧ください。
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霧に浮かぶ鹿島槍ヶ岳:茶臼山から(妻女山里山通信)

2009-11-25 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 勤労感謝の日の朝、川中島は霧に包まれていました。通常なら霧は日の出と共に消え始め、午前八時過ぎには完全になくなるのですが、その朝は東に雲があったためなかなか霧が晴れませんでした。そこで、出かけたついでに茶臼山へ寄ってみました。有旅茶臼山登山口に着くと、空は青く晴れてきましたが、眼下の川中島は一面霧の下。茶臼山も霧に包まれ幻想的です。武田信玄布陣の石碑も霧の中でした。

 これは、いい展望が得られるのではと、霧で湿った落ち葉を踏みしめながら茶臼山展望台へ急ぎます。展望台へついて目に飛び込んできたのが写真の風景です。霧に包まれた山里の遙か向こうに朝日をあびた鹿島槍ヶ岳が浮かんでいました。ここ茶臼山からは三十数キロ離れています。

 鹿島槍ヶ岳(南峰2889.1m、北峰2842m)は、後立山連峰の盟主とされる日本百名山の一つですが、妻女山展望台からもその特徴的な双耳峰の雄姿がよく見える名山です。
----鹿島槍ヶ岳ほどさまざまな名前が付けられていた山も珍しいかも知れません。江戸時代、加賀藩の奥山廻りの絵図には、富山県側の立山の真後ろに当る山で「後立山(ごりゅうさん)」と記入されています。同時代長野県側では「ケンノフガ岳」「ケンノフ岳」などと呼ばれていました。明治の初めには「隠里(かくねざと)岳」「乗鞍岳」「布引岳」などとされ、雪形から「しし岳」「鶴ヶ岳」さらに面白いのは双耳峰が高さを競っているように見えたのか「背比べ岳」とも呼ばれています。----(信濃毎日新聞社編集局編『北アルプス』より)

 鹿島槍ヶ岳の呼称は一説に、室町時代の大地震で大崩落がおこり、その怒りを静めるために常陸国一之宮の鹿島神宮の祭神、建御雷之男神(武甕槌大神・タケミカヅチノオカミ)を祀ったことに由来するとされます。麓の大町市には、平家の落人伝説が残る鹿島という集落があり鹿島神社があります。その脇を流れる鹿島川の支流、大川沢の源流部には、カクネ里(隠里)という地名がありますが、ここが本来は平家の落人の里だったのではないでしょうか。

 建御雷之男神は、葦原中国平定の際、出雲側の健御名方神(タケミナカタノカミ)と力比べをして勝って、これを従わせたとされています(相撲のルーツとか)。健御名方神は諏訪大社の祭神です。

 隠れ里とは、平家の落人伝説や古代の山岳信仰、桃源郷などの理想郷を表す言葉で、洪水の後にお椀や箸が流れてきて、その存在が初めて知れたとか、山中で迷って辿り着いたら手厚くもてなされたとかいう言い伝えがあります。興味のある方は、「隠れ里」で調べてみることをお勧めします。

 妻女山展望台からは、西に鹿島槍ヶ岳、東に根子岳と四阿山が望めます。根子岳は、元は禰固岳と書かれました。「禰」は弥の旧字で、天理によく沿い従うもの。親孝行の意味があります。「禰」に固まると書いて「禰固岳」でした。天意に適うようにお参りすれば願い事がかなう山という意味でしょう。この字は根子岳山頂の祠の隣にある石碑に書いてあります。また、猫嶽、あるいは猫岳とも書きますが、まるで眠る猫の背中のような山容から、そう呼んだのでしょう。

 しかし、子供の頃の私には、どうみても鹿島槍ヶ岳の方が猫岳という名前に相応しく思えてなりませんでした。双耳峰の剣が峰が猫の耳に見えたのです。今ならさしずめトトロでしょうか。

★茶臼山展望台と妻女山展望台から見た北アルプスの大パノラマ写真は、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】の「北アルプス」のページをご覧ください。
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遠花火 長野えびす講煙火大会(妻女山里山通信)

2009-11-23 | 展覧会・イベント・コンサート
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 花火というのは、俳句では夏の季語なんですが、遠花火は秋の季語でもいいのではと思わせる煙火大会が長野えびす講煙火大会です。その歴史は古く、江戸時代に遊女屋が、遊客を誘うために一計を案じ煙火大会を催したところ大当たり、大賑わいとなったそうです。大正時代には日本で最初に二尺玉を打ち上げたという由緒ある大会で、煙火師を厳選したことから、非常にレベルの高い大会として続いているようです。花火マニアや評論家は、一度は見なければならない大会とか。30万人以上が訪れます。

 11月下旬の花火大会は珍しいのですが、晩秋というより初冬の信州は雪も舞い始める頃です。空気の澄み切った冬の花火は凛と鮮やかでいっそう心に染み込みます。今日は朝、買い物ついでに茶臼山へ立ち寄って霧に浮かぶ鹿島槍ヶ岳の撮影をしたのですが、下ってみると駐車場が満杯。しかも県外ナンバーばかり。そのうち川中島から打ち上げ花火の音がしてきました。山上から花火見物をするのでしょうか…。

 夕食中から家を震わせるような煙火の音が始まりました。二階に上がると隣家の屋根の間から千曲川の堤防越しに遠花火が見えました。今夜は冷え込みも薄く、屋根に出ても寒さは感じませんでした。窓の縁に腰を掛けて花火見物。右手を見ると妻女山展望台に灯りが、だれかがあそこで花火見物をしているようです。

 さすがにレベルの高い大会で、見たことのない花火もあがります。わが家からは5キロほど離れているので、音は10秒以上送れて届きますが、それもまたなんとも風情があります。左手を見ると茶臼山の灯り。南の空には三日月が。オリオンの瞬く天空を、星をかすめるようにオレンジ色の定期便が流れ星のように通り過ぎていきます。

 県外から移住してくると驚かれることがいくつかありますが、そのひとつに長野ではしょっちゅう花火が上がるということがあります。伝達手段として花火がこの平成の今も使われているのです。運動会の朝、祭の朝、大会の朝などにポンポ~ンと花火があがります。運動会シーズンなどは、朝からあちこちで賑やかなことといったらありません。そんなにあがってどこの花火か分かるのかと思うでしょうが、長野の人にはどこの何の花火かが分かるのです。山で囲まれた信州ならではですかね。こんなこと東京でやったら大問題になりそうです。

 遠花火は、俳句にもよく詠まれます。以前書いた私の文章から…。
----正岡子規の句に「音もなし 松の梢の 遠花火」というのがあるが、まだ開けぬ厚い雲の梅雨空に花火の音はよく響く。光と音のずれがなんだかもどかしい。
寺山修司の句に「遠花火 人妻の手が わが肩に」なんてのがあるが、そんなことはなく、虫除けスプレーをしていったのに蚊に七箇所も刺されてしまった。
遠花火というのは、歓声を上げて近くで見る花火と違って、しみじみと色々なことを考えるものだ。「死にし人 別れし人や 遠花火」(鈴木真砂女)なんて句もある。----
で、私が詠んだ句が…。梅雨の時期に行われるため雨にたたられることの多い調布花火大会を詠んだものです。
「遠花火 隠して匂う 夏木立」(季語ダブり。木立かなではつまらないし…)
「幼子の 瞳に写る 遠花火」
 夏の遠花火は、雲に覆われたりして空爆にしか見えなかったり、なにかの爆発にしか見えなかったりします。遠花火は冬にかぎるかもしれません。

「遠花火 歓声もなく 温もなく」 林風
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妻女山は霧深し(妻女山里山通信)

2009-11-23 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 秋も深まり、川中島も霧に包まれる朝が多くなりました。暖冬のためか一寸先も見えないような濃霧はあまりありませんが、それでも早朝は深い霧の中に沈みます。「西条山(さいじょうざん)は霧ふかし」で有名な川中島の霧ですが、正しくは「斎場山は霧ふかし」です。ましてや「妻女山は霧ふかし」は間違いです。「妻女山」は「さいじょざん」であって、「さいじょうざん」とは読みませんから。戦国時代に妻女山という名の山は、まだありませんでした。この小学唱歌、またはお手玉歌を、おじいちゃんやおばあちゃんから、聞いた人、習った人もいるのではないでしょうか。

『川中島』小学唱歌(明治29・5)

西条山(さいじょうざん)は 霧ふかし
筑摩(ちくま)の河は 浪あらし
遥にきこゆる 物音は
逆捲く水か つわものか
昇る朝日に 旗の手の
きらめくひまに くるくるくる

車がかりの 陣ぞなえ
めぐるあいずの 閧(とき)の声
あわせるかいも あらし吹く 
敵を木の葉と かきみだす
川中島の戦いは
かたるも聞くも 勇ましや。

『お手玉歌・霧の川中島』
西条(斎場)山は 霧深し
筑摩(千曲)の川は 波荒し
遥かに聞こえる ものおとは
さかまく水か つわものか
昇るあさひに 旗の手は
めぐるはめぐる 三万つよし

 川中島の本当の濃霧の写真は撮れません。なぜなら真っ白で他になんにも写っていないからです。有名な第四次川中島合戦の早朝に出たといわれる川中島の霧は、川霧と盆地霧が合わさったもので、5m先も見えないような濃霧です。濃霧が出る前夜は快晴で冷え込みます。まず千曲川と犀川の上を真綿のような霧が覆い、それが溢れて地上を覆い、ついには山も覆ってしまいます。ホワイトアウトしたらフォグランプさえほとんど役に立たないほどです。

 そんな濃霧も日の出と共に消え始め、8時過ぎには消えてしまいます。史実とすれば、突然現れた上杉の大軍に武田の軍勢は驚天動地、口から心臓が飛び出るような驚きであったに違い有りません。先日は、晴れた空の下を寒風にのってたくさんのケサランパサランが飛んできました。まるで粉雪のようでした。

 写真上下は、晴れ始めた川中島の霧。真ん中は、江戸時代後期の軍記物語『甲越信戦録』に伝わる上杉謙信斎場山陣取を配置してみたものです。

★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。武田別働隊の経路図、きつつき戦法の検証、上杉謙信斎場山布陣図などもご覧いただけます。
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上杉謙信が陣城を築いたと伝わる「陣場平」(妻女山里山通信)

2009-11-21 | 歴史・地理・雑学
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 妻女山(戦国時代は赤坂山)の南へ30~40分ほど登ったところに、地元で「陣場平」と呼ばれる場所があります(写真最下部の地図参照)。明治時代の麓の岩野村誌には、【上杉謙信陣営跡】として「本村南、斎場山に属す。永禄四年九月此処に陣すること数日、海津陣営の炊煙を観、敵軍の機を察し、夜中千曲川を渡り、翌日大に川中島に戦うこと、世の知る所なり。山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。此の西北の隅を本陣となし(斎場山古墳の上)、謙信床几場と云うあり」とあります。

 陣場平は、斎場山と天城山の分岐の東風越(長坂峠)から大きく二段に分かれている広い平地ですが、地元では普通南の高い方を陣場平と呼んでいます。

 小幡景憲彩色の『河中島合戰圖』(狩野文庫所蔵)には、斎場山の南の高原に「謙信公御陣所」と書かれ、陣小屋が七棟描かれています。この絵は、東北大学附属図書館 狩野文庫画像データベースで見ることができます。なぜ、この絵の場所が、陣場平と分かるかといいますと、上に斎場山から薬師山の尾根が左横に描かれ、東風越(長坂峠)から土口へ下りる谷があり、右の麓の地形が清野へ延びる尾根の形をそのまま描いていることから、陣城の場所が陣場平以外にはあり得ないのです。『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲が、このような絵も描いていたというのが驚きですが、上杉軍と武田軍の対陣の様が描かれた非常に興味深いものです。どの程度の信憑性があるのかは分かりませんが、川中島の合戦から54年後のことですから、まだ生き証人はいたはずです。

 写真一番上が陣場平ですが、養蚕が盛んなころは、一帯が主に桑畑でした。現在は、落葉松の植林地や荒れ果てた自然林で、夏場は藪になりバラが繁茂してとても入れませんが、晩秋から早春の落葉期には、ここが広い平地であり陣所を築くのに最適な場所であることが一目で分かります。

 陣場平の北部は、切岸状の崖や急斜面ですが、その縁には石垣が残っています。桑畑の土留めに使われたものですが、陣所建造の際に作られたものを流用したのかもしれません。また、石垣の石は近くの堂平古墳群と同じく、陣場平にも積み石塚古墳群があり、その古墳の石を使ったのではないかと私は推測しています。

 現在は全く手入れもされていないので、倒木が覆い重なり、葛や山藤のつるが木々を覆い見晴らしも悪く、非常に不気味な場所になってしまいました。ニホンカモシカや猪がたむろする場所で、希に熊も出没します。行き方は、妻女山駐車場の奥から右手の林道を登り15分、長坂峠の分岐を左へ進むと10分足らずで天城山・堂平大塚古墳の大きな標識がありますが、その左手に広がる平坦な森が陣場平です。中に入るのはかなり危険なのでおすすめしませんが、林道からでもその全貌はだいたいつかめます。冬の積雪が少ない時に訪れるのが、熊もオオスズメバチもいないので一番いいと思います。

 謙信槍尻の泉が、江戸時代に霊水騒動を起こして有名になりましたが、陣場平から南西に少し下ると、蟹沢という豊富に水が湧き出る場所があります。陣場平からは、木さえなければ海津城は手に取るような位置に見えます。いずれにしても里俗伝の域を出ないものではありますが、実際に現地に佇んでみると、陣城を構えるのはここしかないだろうなと思えてくるから不思議です。
【陣場平全景】

★川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いたトレッキング・フォトルポをご覧ください。
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、斎場山、妻女山、天城山、鞍骨城、尼厳城、鷲尾城、葛尾城、唐崎城などのトレッキングルポがあります。
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白インゲンとひき肉・ソーセージのトマトシチュー:新信州郷土料理(妻女山里山通信)

2009-11-19 | 男の料理・グルメ
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 自家製の白インゲン豆(ぎんてぼう)がたくさん採れました。甘く煮ておやつもいいのですが、欧米では普通の料理にもよく使います。フランスのカスレやポルトガルのフェイジョアーダには、この豆を使います。ブラジルのフェイジョアーダは、フェジョン・プレットという黒い豆を使いますが、ポルトガルでは白インゲンです。白インゲン豆は、結構使い勝手が良く美味しいので便利。マリネやサラダ、炒めものにも使えます。

 このレシピは、私のMORI MORI RECIPE「塩漬け牛肉と豆の煮込み」のレシピをより簡単にアレンジしたものです。コクのある白インゲン豆の旨味が、合い挽き肉とソーセージによく合います。ソーセージは、ハーブ入りや辛いチョリソーでも美味です。カルニセッカ(塩漬けの干し牛肉)は、なくてもかまいませんが、ブラジル食材店にあります。エルブ・ド・プロヴァンスは、ミックスハーブです。なければオレガノやローズマリーで。

■材料(4人分)
豚ひき肉・・・・・・・・・・・・・・・100g
鶏ひき肉・・・・・・・・・・・・・・・100g
ソーセージ・・・・・・・・・・・・・・3本(100g)
カルニセッカ(塩漬けの干し牛肉)・・・30g
ベーコン・・・・・・・・・・・・・・・50g
白インゲン豆・・・・・・・・・・・・・200g
タマネギ・・・・・・・・・・・・・・・大1個
ホールトマト・・・・・・・・・・・・・1缶(400g)
ニンニク・・・・・・・・・・・・・・・4片
白ワイン・・・・・・・・・・・・・・・大さじ1
ブイヨンキューブ・・・・・・・・・・・2個
水・・・・・・・・・・・・・・・・・・800cc
オリーブ油・・・・・・・・・・・・・・少々
エルブ・ド・プロヴァンス・・・・・・・少々
塩・コショウ・・・・・・・・・・・・・少々
ローリエ・・・・・・・・・・・・・・・2枚

■作り方
●下準備
1. 白インゲン豆を洗って一昼夜水につける。
2. 別に塩漬けの干し肉を一昼夜水につける。
●煮込み
1. 鍋にもどした豆と800cc分のもどし汁を入れる。強火にして、あくを取ったらローリエを入れて弱火で煮る。
2. ソーセージは一口大に切る。もどした干し肉とベーコンを粗みじん切りにし、タマネギとニンニクを粗みじん切りにする。
3. フライパンにオリーブ油、ニンニクを入れて火をつけ、香りが出たらひき肉と2の残りを入れて炒める。白ワインを加え、コショウをふって炒める。
4. 1の鍋に炒めた3と刻んだトマト、エルブ・ド・プロヴァンスを加え、ブイヨンキューブを加え、弱火で約30分くらい煮こむ。
5. 味見をし、必要なら塩を入れて、さらに煮こんでできあがり。

 一度冷まして食べる直前に再び温めた方が味がよくなじみます。ファリーニャ・デ・マンジョーカとピメンタをかけて、ご飯と食べればブラジル料理です。
 白インゲン豆に多く含まれるファセオラミンは、炭水化物を吸収させにくくする働きがあるそうですから、ダイエットにもよさそうです。 
 尚、白インゲン豆は、加熱が不十分だと、嘔吐や下痢の中毒症状がでます。もちろん、充分に加熱すれば全く問題ありません。

★新信州郷土料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。
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きのこ採ったど~!(妻女山里山通信)

2009-11-18 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 寒風の曇り空のきのこ狩り。北東の寒風が樹間を抜けて吹き付けます。尾根に乗って南面の森に入ると、やっと風は止みましたが、上空ではビョービョーと音を立てて梢を揺らしています。例年ならば、今頃の森はカラカラに乾いてきのこなど見あたらないのですが、今年はエルニーニョのために暖冬傾向で晩秋になっても雨が多い異常気象です。

 今年発見したシロに残してきた紫占地は消えていました。その代わり新しく発生したものを採取。前回見つけた昔の山道を辿ってみることにしました。思ったよりもずっと広い道でした。山桜の倒木に20センチ近くある大きな平茸を発見。秋冬に出る平茸は大きくなるそうですが、こんなに大きなものは初めてでした。

 気をよくして、そういえばもっと藪の奥に折れた大きな山桜があったことを思い出しました。思い出したのはいいのですが、そこまで行くのが大変です。幾重にも重なった倒木や山藤のからみついた掛かり木、灌木の藪を越えないと辿り着きません。地形が茫洋としていて方向も分からなくなるような場所です。地元の人さえ近づかない所です。空はいよいよ暗くなり氷雨も降ってきました。

 やっと辿り着くと、幹に大きなきのこがたくさん付いています。平茸だろうと近づくと、やはりそうでした。しかも幹いっぱいに数え切れないほど付いています。老菌になってしまったものもあれば、出たばかりの幼菌もあります。袋を出して、折り重なった枯れ枝を折ってどかしながら、次々に採っていきます。アッという間に袋がいっぱいになりました。剥茸もありましたが、ほとんどが老菌なので諦めました。熊鈴も笛も持ってこなかったのですが、こんな天気の日には、熊も余程の急用がない限り出歩くことはないはずです。

 さて、帰ろうと獣道を使って脱出を試みます。こっちでいいはずとトラバースしながら森を抜けていくと、全く見覚えのない場所に出てしまいました。そんなはずはないと戻ってみましたが、方向感覚がつかめません。来た方向を頭の中でトレースしてみました。考えていたよりも上の方で曲がったために、方向がそれたようです。戻って尾根をひとつ越えて急斜面を下っていくと眼下に林道が見えて、初めて場所が分かりました。転げ落ちるように林道に出て下りましたが、二つの袋いっぱいになったきのこは、雨を含んで大変重く、度々持ち代えるほどでした。平茸も、天然のものは栽培ものとは味も香りもまったく違います。躰は冷え切ってしまいましたが、大収穫に満足のきのこ狩りでした。

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★きのこ料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。色々あります。
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『甲陽軍鑑』はなぜ斎場山を西条山と誤記したのか!?(妻女山里山通信)

2009-11-17 | 歴史・地理・雑学
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 まず『甲陽軍鑑』成立から松代藩によって西条山が誤記であるとされ、斎場山が妻女山と改名されるるまでを大雑把に追います。
●1561(永禄4)年、第四次川中島合戦。上杉謙信と武田信玄が戦う。

●1575(天正3・5-14)年、『甲陽軍鑑』原本編纂。香坂弾正忠虎綱(高坂昌信)が(勝頼在世中)書いた実録を香坂の甥・春日惣次郎らが書き継いだといわれています。

●1615(元和元)年、大阪夏の陣の年です。この頃、小幡景憲(おばたかげのり)が、『甲陽軍鑑』の原本を入手し、写本を作成した*といわれています。(*国語学者酒井憲二編『甲陽軍鑑大成』全七巻 汲古書院)原本は傷みが激しく抜けている箇所もあったということです。景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めました。そういう経緯から景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということです。小幡景憲は、大坂の陣での諜報活動から幕府に召し出され、後に御使番になり、武蔵国内の1500石に加増されました。その後、岡本宣就・赤沢左衛門に学び、幕府の要請で「甲州流兵学」を完成させます。その門弟は2000名を超えました。

●1620年前後、三代将軍家光の命により、越後長岡城主牧野備前守忠精の家臣山本主計が『甲越信戦録』五巻を編集して出版献上。家光は実録として認めました。

●1647(正保4)年、幕府の命により『正保国絵図』完成。妻女山と記載があり、現在判明している限り「妻女山」の初出です。松代藩が斎場山を妻女山と改名した。あるいは、改名を認めたということです。この場合の妻女山とは、現在の妻女山(旧赤坂山:411m)ではなく、斎場山(513m)のことです。

●1731(享保16)年頃江戸時代の松代藩による真田氏史書『真武内伝』には、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」とはっきりと記されています。『真武内伝』は、松代藩士竹内軌定によるもので、附録は柘植宗良編纂。成立は第四代藩主真田信弘の時代です。合戦の記述には物語性が強いのですが、地元だけに地名の記述は正確と思われます。

「斎場山」は、『甲陽軍鑑』に「西條山」と誤記されたために、江戸時代に「妻女山」と改称されることとなりました。『甲陽軍鑑』には、「年号万次第不同みだり候へども」とか「人の雑談にて書記候へば、定て相違なる事ばかり多きは必定なれども」とかいうことわりが記してあります。口伝や口述筆記による間違いがあると自ら記しているのです。戦国時代においては、読みが合っていれば漢字の表記の違いは問題とされなかったといいます。しかし、松代藩には「西條山」という名の別の山があったために、一層混乱してしまったのです。

 では、「西條山」はどこかというと、千曲市生萱の明治時代の村誌によると、「高飛、火峯の山脈を俗に西条山という」とあります。高飛とは高遠山、火峯とはノロシ山のことです。また、江戸後期の榎田良長『河中島古戰場圖 』には、高遠山中腹に西条山と記されています。西条山とは、主に西条村以外の人達が使う呼び名です。例えば清野小学校百年誌には、西条山へ兎狩りに行ったという記述があります。西条山は山頂名ではなく、西条の谷の一番奥にある高遠山辺りを指す言葉なのです。そして、読みは「さいじょうざん」ではなく「にしじょうやま」です。

 では、実際に地元にいたはずの高坂昌信(武田信玄の麾下の武将で愛人、東大資料編纂所に浮気の弁明の書状が現存)と甥の春日惣次郎が、西条山と斎場山を間違えることがあるのでしょうか。結論から言いますと充分にあり得ると思います。戦国当時は、現在のように詳細で正確な地図があったわけではありません。山の形や位置も含めて松代藩の正確な地図ができるのは、1855(安政2)年の東福寺泰作による「松代府内測量図」まで待たなければなりません。それ以前の江戸時代の国絵図でさえ、村名や街道、河川はかなり正確に描かれていますが、山の描写は実に大雑把で、細かな山名記載もありません。

 ですから、高坂弾正や春日惣次郎らが「さいじょうざん」という呼び名と位置は知っていても、その正しい漢字表記を知らずに同音異字を使ったとしてもなんら不思議ではないのです。斎場山麓の土口村村誌には、【齋場山】[又作祭場山、古志作西條山誤、近俗作妻女山尤も非なり]と書かれています。つまり斎場山は、祭場山ともいうが、西条山は誤り。俗作の妻女山は最もだめな名前である。」というわけです。「さいじょうざん」を「さいじょざん」とすると同音異字ではなく、改名になってしまうからでしょう。

【齋場山】という漢字が妻女山に変えられたのは、西條山という誤った漢字で全国に流布してしまったのを修正したいという松代藩の意向もあったのかもしれませんが、古代の斎場という名称そのものが、仏教の伝来と浸透により忌避される名称となってしまっていたこともあるかもしれません。土口村誌に記されている「祭場山」は、それを読みを変えずに元の意味をも継承する苦肉の作なのかもしれません。

 写真の『甲陽軍鑑』は、公立国会図書館の近代デジタルライブラリーで、甲陽軍鑑を検索すると、明治25・26年に甲府の温故堂が発刊したものを見ることができます。これは、江戸時代に何回も出版された木版本が元になっているもので、仮名遣いにしたり、内容は編集改変されている可能性があります。

★川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いたトレッキング・フォトルポをご覧ください。
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、斎場山、妻女山、天城山、鞍骨城、尼厳城、鷲尾城、葛尾城、唐崎城などのトレッキングルポがあります。
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見飽きた光景 日本代表0-0南アフリカ

2009-11-15 | サッカー
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 岡田監督は学習能力があるのかなと思ってしまいました。ワンボランチはベターではないならなぜ4-1-3-1、あるいは4-3-3なんてシステムにしたのでしょう。後半は良くなったと言っている選手もいますが、中村俊輔が入ったからではなくシステムを従来の4-4-2に戻したからで、得点の匂いは前半の方がありました。稲本のワンボランチはよかったですよ。むしろ問題は3トップ。あるいはワントップ。

 ワントップは、日本のどのFWがやっても機能しないというのははっきりしていると思うのですが。裏へ飛び出す岡崎の良さも出せないし、ワントップが孤立するか、3トップが詰まって後ろとの間があいてしまうか。森本と岡崎の2トップが現時点ではベストチョイスとすると、岡崎と前田の2トップでも良かったのでは。思いつきで練習したこともないシステムを試す意味がどこにあるのか全く理解できない試合でした。こんな試合をするためにわざわざ南アフリカまで行ったのでしょうか。

 ボールポゼッションで勝れば勝ち点が増えるならいざ知らず。そんな数字を表示して日本が優位に試合を進めたと思っていたら、いつまでたってもこれぐらいの相手にさえ勝てないでしょう。中村俊輔も長谷部が前へ前へ行きすぎたなんて言ってる場合じゃないはず。彼もいつも通りの見飽きたプレーで、ゴールへの匂いは全くしませんでした。リーガで使ってもらえない理由は、そのまま代表にも通じると思うのですが。彼のプレーは、やはり右サイドの徳永や内田がオーバーラップしてこないと生きない。高い位置でボールを失ってカウンターをされるリスクを伴うものでリスキー。プレスがきついときの下がり癖も問題。ゴールへの意識も欲しい。

 あの場合、長谷部は3トップの下の位置にいたので前へ行きすぎではなくて、彼がボールを持ったときの周りの動きの問題だと思えたのですが。大久保はよく動くけれど、何がしたいのか分からないところは玉田と一緒。裏へ抜けたワンチャンスにすぐシュートを打たなかったのもFWとしては失格かな。松井や本田はオフザボールの時の動きや人を使うことに難ありと見ました。プレーは面白いんですけどね。両サイドは、守備はできていましたが、攻撃はやはり長友と徳永の方がベターかなという印象です。

 ある程度試合を支配できたように見えて、実はパレイラ監督の術中に完全にはめられていた、というのが見終わってからの感想でした。システムが機能しない場合は、ゲームの中での選手個々の応用力も必要なんじゃないですか? 岡田監督は、自分の試合も評論家のように分析したりして、非常に理論的に見えますが、突然選手からも異論がでるようなこんな思いつきをします。これが、実は選手の応用力を試す、なら分からないでもないのですが。どうもそうではないらしい。指導力に疑問符がつくのも仕方がないでしょう。どうする岡田ジャパン!?
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森の貴婦人 紫占地の絶品おやき!:新信州郷土料理(妻女山里山通信)

2009-11-14 | 男の料理・グルメ
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 雨上がりの山へちょっときのこ狩り。出発が午後2時過ぎと遅かったので走って山越え。林道は落葉松の落ち葉で一面芥子色。それは見事です。落葉もかなり進んで森も見通しがよくなってきました。きのこの季節もそろそろ終盤ですが、積もった落ち葉のために探すのは容易ではありません。シロを知らないとまずみつかりません。

 雨後のため森は湿っていて、落ち葉を踏みしめても無音です。途中落葉松林できのこ狩りをしている男性がいました。あの森は時候坊のシロがあるところ。しかし、度重なる豪雨で林道の土砂が流れ込み、めっきりきのこが出なくなった場所です。私はさらに山奥を目指します。深山ではどんぐりもなくなって、そろそろ冬眠前の熊も里近くまで下りてくる頃です。しかし、見通しがよくなったので熊鈴はつけません。

 山奥のシロを駆け足で見ていくと、枯葉の下にポツポツと紫占地を発見。虫もついていないきれいなきのこです。黄色や茜色、焦げ茶の枯葉の絨毯に、紫色の鮮やかなきのこが隠れています。きのこを採ったら、石突きははさみで切るか、石突きの菌をとって埋め戻します。たくさん発生している菌糸を見つけたら、半分ぐらい採取して、わが家の山に移植します。こうしてわが家の山にも大きなシロができました。

 前記したように紫占地は日本では栽培種が量販店で市販されていないので馴染みがありませんが、フランスではピエ・ブルーといって栽培種が高級食材として売られています。バターやクリームなど乳製品との相性がいいので洋食にも合いますが、今回は信州名物の「おやき」にしてもらいました。

 紫占地は、水気をしぼるか半日ほど干して刻み、油で炒めます。和風出汁と味醂を少し加えて信州味噌を加えてさらに炒めます。水気が多すぎるようでしたら片栗粉でとろみをつけます。これをみみたぶくらの柔らかさにねかせた小麦粉に包み、油で焼いて焦げ目をつけてから蒸ししてできあがりです。少し冷めたぐらいが紫占地の旨さがにじみ出てなんとも美味です。山の秋をまるごといただく。そんな感じです。

 今年のきのこ狩りもそろそろ終わりです。今年最大の収穫は、なんといっても今や松茸以上に高価で幻の、本占地のシロを発見したことです。鬼が笑ってしまいますが、来年の秋が楽しみです。

★新信州郷土料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。時候坊料理のレシピやブナハリタケ、マスタケ、幻のイワタケなどのレシピもあります!
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都会の猫と田舎の猫:夕影の千曲川河川敷にて(妻女山里山通信)

2009-11-12 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 「都会のネズミと田舎のネズミ」というのは、イソップ物語の代表的な話のひとつ。田舎のネズミが友達の都会のネズミを招待します。都会のネズミは、田舎のネズミのあまりに質素な食べ物と粗末な家を可哀想に思い、都会に招待します。都会のネズミの家は豪華で賑やかな街中にありました。食べ物も豪華で美味しいと喜んでいると、飼い猫に襲われます。やっとの思いで逃げると、今度は人間に追い立てられます。田舎のネズミは、こんな都会はこりごりと田舎に帰って行きました。

 質素にのんびりと不安なく生きていくほうが、刺激と快楽とひきかえに、恐怖の中に苦しんで、贅沢に暮らすよりもずっと幸福だという寓話ですが、都会で生きていくには、他人に無関心で心を麻痺させていないとやってられない瞬間があるのです。愛の反対は憎しみではなく無関心と言ったのは、マザー・テレサですが、このところの凄惨な事件を思うたびに、田舎の都会化もかなり進行していると感じます。殺伐とした風景の中の自分に嫌悪感を感じなくなったら立派な都会人です。

 ある夕方のことでした、夕日が沈んだ茜色の空の下、千曲川河川敷の小径に近所で見かける猫が歩いていました。声を掛けても振り向きもしません。田舎の猫は愛想が悪いです。しかし、家からは1キロ以上離れていて間には高い堤防もあります。散歩にくるわけもないので、恐らくネズミ取りか、葦の林にいるヨシキリやキジの卵や雛を狙ってのハンティングが目的でしょう。声を掛けても振り向きもしなかったのは、半日中追い回してもなにも捕れなかったからに相違有りません。なんだか不機嫌そうな後ろ姿がそう言っていました。

 田舎の猫というのは、その辺にいるイタチやタヌキと同様に、ほとんどが半野生です。人間に媚びないしなつきません。正月に炬燵で寝そべって雪景色を見ていたら、庭を何食わぬ顔でタヌキが横切っていきました。これが、鬼無里だと熊だったりするわけですが。増えすぎると害獣扱いされて彼らも大変は大変なのですが、けっこうしぶとく逞しく生きています。

 ペットショップでグルーミングされ、人間も食べられるような缶詰を常食とし(実際ニューヨークではペットフードの何割かは人間が食べているそうですが…)、ヒラヒラの服まで着させられている都会の猫をこの河川敷に放したら、恐らく一歩も動けないでしょう。

 河原の小径をとぼとぼと歩く不機嫌そうな後ろ姿は、シルエットになった篠山とススキの陰に消えていきました。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。動物には、猫やもぐら、ニホンカモシカの写真もあります。
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森の貴婦人 紫占地!:新信州郷土料理(妻女山里山通信)

2009-11-09 | 男の料理・グルメ
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 2時間ほど時間が空いたので急いで山へきのこ狩り。こんなことができるのも信州ならでは。ザックも背負わず熊鈴もつけず、柄の長い鉈鎌を杖代わりに紫占地のシロを駆け足で三つ回りました。普段なら山道を使うのですが、時間節約のために最短距離をブッシュをかき分けて突進。こんな時は獣道が役に立ちます。

 狙い通りわずか1時間半ほどで30本以上の紫占地をゲット。おまけに免疫力アップのマンネンタケも1本採りました。雨は1週間前に降っただけでしたが、夜霧が発生するため山は湿り気があります。ポイントさえ知っていれば採れるわけです。今回は時間がなかったので、もう二つ三つあるシロはまわれませんでしたが、明後日から雨なので、また出るはずです。

 この紫占地、フランスではピエ・ブルーといって栽培もされている高級食材です。以前も書きましたが、土臭いと嫌う人がいます。当地のものはその臭いがないように思います。東京、神奈川、山梨の紫占地も食べていましたが、やはり当地のものが一番癖がないような気がします。土壌の違いか気候の違いか、樹種か、はたまた他の理由かわかりませんが…。自分の山のものは若いうちに採れるのもあるかもしれませんが。ただ、老菌に枯葉が舞い落ちて、霧や雨でべっとりつくと枯葉臭くなります。幼菌にはその匂いはありません。いずれにしても旨味のあるいい出汁がでます。

 ですから、最も紫占地の旨味を堪能できる料理は、豆腐とのおすましなのです。あとは鍋物や炊き込みご飯に。そして、フレンチで使われるくらいですから、乳製品との相性も抜群です。バターソテー、グラタン、エビやホタテとブロッコリーのクリームパスタ、シチューやスープに。生魚とマリネしても美味です。また、カリウム、リン、マグネシウム、ナトリウム、カルシウムなどが含まれる栄養食品でもあるのです。但し、生食は厳禁です。中毒します。

 落葉分解菌なので原木栽培はできません。わが家の森では紫占地の菌を蒔いて発生させています。かなり厚めの落ち葉の層が必要で、豪雨で流され表土が露出するようだと出ません。白に薄紫色のきれいな菌糸の膜を張り、シロを形成します。大きな菌輪を作るので、大発生すると紫色の大きな輪ができます。その美しさは、まさに森の貴婦人のようです。

 写真の右にあるのは、霊芝(マンネンタケ)です。免疫力をアップして制癌作用があると注目されている希少なきのこです。焼酎漬けにしたり、削ってお茶にして飲んだりしています。

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上杉謙信はなぜ斎場山に陣取りしたか!?(妻女山里山通信)

2009-11-08 | 歴史・地理・雑学
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 江戸時代後期の軍記物語『甲越信戦録』等の記述や地元の伝承による上杉軍の陣取りを図にしてみました。この時、千曲川対岸には、横田、小森、東福寺、杵渕、水沢まで武田軍が対陣し、謙信の善光寺や越後への退路を断っていました。
 「一の手は、直江山城守が赤坂の下。二の手は、甘粕近江守が清野出埼を陣として月夜平(物見場)まで。三の手は、宇佐見駿河守が岩野十二川原に。四の手は、柿崎和泉守が土口笹崎に。五の手は、村上入道義清が務める。(雨宮坐日吉神社に布陣)」とあります。本陣西脇の御陵願平(龍眼平)や斎場山から陣馬平への平地は、上杉謙信の本隊が固めたといわれます。

 本陣というものは、全軍の動静を一望にできる場所に設営するというのが常道です。陣馬平では、前の斎場山が邪魔になって斎場原(岩野)や茶臼山、千曲川対岸が見えず、赤坂山(妻女山)では、やはり斎場山が邪魔になって笹崎(薬師山)や、低すぎて後背の陣馬平が見えません。やはり斎場山古墳上が、最も本陣に相応しい場所といえるのではないでしょうか。

 雨宮の渡には、唯一橋があったという説もあります。土口には宇佐見駿河守が作らせたといわれる宇佐見橋が今もあります。私は毎日この橋を渡って高校へ通いました。昔は風情ある木の橋でしたが、今はコンクリートです。たもとには由緒と、「誤って「うさぎ橋」という」と書かれています。

 また、松代藩士竹内軌定による真田氏史書『眞武内傳附録』(一)川中島合戦謙信妻女山備立覚においては、赤坂(妻女山)の上に甘粕近江守、伊勢宮の上(薬師山)に柿崎和泉守、月夜平(天城山北東)に謙信の従臣、千ケ窪の上の方(陣場平)に柴田道寿軒、笹崎の上、薬師の宮(薬師山から御陵願平)に謙信本陣とあります。

 なぜ謙信は、信玄の懐に飛び込むような位置にある斎場山に布陣したのでしょうか。謀略を重ねて勝ち上がった信玄に比べると、謙信は戦に強く正攻法での勝負に長けていたようです。すると斎場山を選んだのは、アメリカの喉元にナイフを突きつけたような旧ソ連によるキューバ危機のように、海津城の喉元に入り込むことこそ、謙信の信玄討伐の並々ならぬ決意を表すものなのではないでしょうか。
 それと共に、斎場山山塊が布陣するに最適な地形と条件を備えていることを知っていたと思えるのです。

●斎場山脈は、後背は天城山への尾根一本のみ。左右は赤坂(妻女山)から笹崎(薬師山)と長く、月夜平、千ケ窪の上など支尾根も多く谷も多数。また、陣場平、御陵願平など尾根上に平坦部が多く、大軍を置きやすい。槍尻の泉、蟹沢など水場も充分にあります。麓の斎場原は千曲川に囲まれています。つまり斎場山脈自体が天然の要害というわけです。川中島には、ほかにこのような山はありません。
●信玄が甲州から地蔵峠を越えて海津城に入ると予想したから。(斎場山からは海津城が眼下に手に取るように見えます。)
●信玄が千曲川対岸に布陣した場合、斎場山脈に布陣すると相手には相当の威圧感が与えられます。また、退路を断たれたとしても、踵を返して甲州を攻めればいいと思ったのかも。有る意味、神経戦に持ち込んだのかもしれません。

 ところが、和田峠越えから上田原に出た信玄は、腰越で高坂弾正の使者に謙信が斎場山に布陣するのを聞き、千曲川右岸の谷街道を通って海津城へは行けないことを知ります。上田から真田、地蔵峠を越えて海津城へ向かうことを進言された信玄ですが、あえて左岸を進み、小牧山、室賀峠、山田、若宮、猿馬場の東方を経て有旅茶臼山に布陣します。(これらは全て現存する地名です。)

 そして、隊を調えてから川中島に進軍し、雨宮に真田(雨宮坐日吉神社に村上義清とあるので雨宮対岸か)、戌ケ瀬に飯富、横田に甘利、御幣川に内藤、小森に原、東福寺・水沢に望月、海津城に高坂と、斎場山山脈(現在の薬師山から斎場山、妻女山)を囲むように千曲川対岸にずらりと布陣、謙信の退路を断ったといわれています。

 しかし、全く動じない謙信に、信玄は全軍を海津城下に入れてしまいます。目の前の敵がいなくなったのですから、当然謙信は陣形を変えたと思われます。斎場山脈に布陣の形態を、陣場平を本陣として天城山から赤坂山(妻女山)までの長い尾根に布陣しなおしたのではないでしょうか。こうすると、海津城に対し軍を横並びにすることができます。なおこの布陣の形は、後年上杉景勝と直江兼続が、北条氏を威嚇する時に使ったといわれています。

 「斎場山」は、『甲陽軍鑑』に「西條山」と誤記されたために、江戸時代に「妻女山」と改称されることとなりました。『甲陽軍鑑』には、各所に「年号万次第不同みだり候へども」とか「人の雑談にて書記候へば、定て相違なる事ばかり多きは必定なれども」とかいうことわりが記してあります。口伝や口述筆記による間違いがあると自ら記しているのです。戦国時代においては、読みが合っていれば漢字の表記の違いは問題とされなかったといいます。しかし、松代藩には「西條山」という名の別の山があったために、一層混乱してしまったのです。

 写真上は、上杉謙信の軍勢の布陣を図にしたものです。名前は実在の人物ではないというものなど史実とはいえませんが、現在の妻女山ではなく斎場山脈全体に布陣したということが分かるのではないでしょうか。山の麓には宇佐美隊が布陣したといわれています。下の図は、謙信の斎場山布陣経路図(青線)と、信玄別働隊の斎場山襲撃経路図(黄線)です。伝説では、狭い尾根づたいに全軍が行ったわけではなく、谷に下りる者などもいて隊を分けたとされています。倉科の二本松峠へ登る途中には、「兵馬」という場所があり、そこは武田別働隊が集まり隊を調えて襲撃のために潜んだという伝説が残っています。また、清野小学校の南奥の谷は千ケ窪といい、上杉軍の兵千人が隠れたという伝説があります。

 別働隊には地元の清野氏もいたわけですから、軍道はもちろん、何本もある山道の全てを把握していたにちがいありません。戸神山脈を使った大規模なゲリラ戦だったのかもしれません。足に自信のある方は、鏡台山から妻女山まで歩いてみることをお勧めします。江戸時代の人々の川中島合戦への熱き想いが感じられ、史実はどうだったのだろうと、想像が膨らむことと思います。

 謙信の弥彦神社への願文には、信玄の悪行を並べ立て、「神や仏の力で信州、甲州を一軒残らず焼き払い、甲府を占領したい。」とあります。信玄への憎悪は相当なものだったのでしょう。しかし、そのために苦汁をなめたのは、結局農民達でした。口伝に「七度の飢饉よりも一度の戦」とあるように、その凄惨さは目を覆うばかりのものであったに違いありません。

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錦秋の妻女山・斎場山・天城山(妻女山里山通信)

2009-11-06 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 黄昏のきのこ狩り第三弾。ホームセンターへの買い物帰りに急遽きのこ狩りへ。こんなことができるのも信州ならではです。きのこの季節も終盤に近づいてきました。林道は枯葉が積もり、これが乾燥すると滑って非常に危険です。ブレーキもききません。湿った北面はなんとか登れるものの、乾燥した尾根筋はこれからの季節は危険です。というわけで長坂峠に駐車。

 目当てのシロに出かけました。陽が落ち始め、木楢や櫟(くぬぎ)、針桐、山香ばし、山漆の紅葉が夕日に染まっています。ありません。雨が降ったというのに紫占地はまったく出ていません。シロはきれいに菌糸の膜を張っているのにきのこになっていません。

 今日は空振りかなと思いつつ、前回一本だけ出ていた昔父母がよく採ったが、今は藪で全く出ないだろうという場所へ行ってみることにしました。その森の入口はバラのある酷い藪に覆われていて人を寄せ付けません。そこで迂回することにしました。とても人が入っていかないような場所です。ようやく辿り着くと、すぐに紫占地の菌輪を発見。10本以上ありました。

 さらに倒木や山藤のつるで塞がれた森の奥へ。前回に剥茸や平茸を採ったところです。今回は栗茸をゲット。林道からはかなり離れているので人が入った形跡は全く見られません。ニホンカモシカの糞や猪が掘り起こした跡があるだけです。

 鞍骨城へ登ってきたというご夫婦と出会いました。トレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS】の鞍骨城をご覧いただくと分かるのですが、山城の本郭への50mの登りはなかなか厳しいものがあるかもしれません。三つの深い掘切も難儀したとおっしゃっていました。帰りは斎場山へ登っていくとのことでした。

 斎場山への分岐、長坂峠(東風越)には、先日山で偶然に出会った、この辺りの標識を作って立てているMさんが、新たに斎場山の標識を作って立ててくれました。妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧になって、斎場山へ登られたかたから、長坂峠の分岐に標識がないので間違って天城山方面へ行ってしまったという話を聞いたので、Mさんにできたら標識を作ってくださいとお願いしたのを早速設置してくださったのです。これで歴史マニアも歴女も迷うことはないでしょう。

 初霜もおりて川中島の霧も発生するようになりました。けれども、第四次川中島合戦のときのような5m先も見えないような濃霧はなかなか出なくなりました。濃霧が出る前夜は快晴で冷え込みます。まず千曲川の上を真綿のような霧が覆い、それが溢れて地上を覆い、ついには山も覆ってしまいます。5m先さえ見えなくなります。ホワイトアウトしたらフォグランプさえあまり役に立たないほどです。

 北信濃の里山は、きのこの季節も終わり冬に向かって一目散に走り始めました。帰りの斎場山では夕日が三峯山の北に落ちていくところで、最後の輝きを放っているところでした。

★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。武田別働隊の経路図、きつつき戦法の検証、上杉謙信斎場山布陣図などもご覧いただけます。
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