モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

『古事記』にまつわる尼巌山中腹にある「天の岩戸」(妻女山里山通信)

2010-07-29 | 歴史・地理・雑学
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 松代町の旧跡で、鍵掛観世音旧址(かぎかけかんぜおんきゅうし)と聞いて、あああそこかと分かる人がどれほどいるでしょうか。しかも、ここは明治時代は信濃三十三番札所第十六番でした。尚かつ、江戸時代のある天災に見舞われるまでは、堂宇があったとか。さらに戦国時代に戦火にかかるまでは、大伽藍があったといいます。

 それこそが、松代町東条の尼巌山中腹にある「天の岩戸」(天の岩屋)です。ここまで書いても聞いたことはあるとか、本で見たとかということはあっても、実際に行った事のある人は、松代町民でも少ないのではないでしょうか。実際、そう思わずにはいられないぐらい、地味な場所にあります。
 先頃作成された「尼巌山・奇妙山トレッキングマップ」にも掲載はされているのですが、尼巌山・奇妙山縦走の登山道から外れていることも、訪れる人が少ない原因かもしれません。

「天の岩戸」がなぜ松代にあるのかという話ですが、須佐之男命の乱暴狼藉に怒って引き蘢ってしまった天照大神を連れ出そうと、手力男命が天の岩戸をあけた際、二度と閉じられないよう岩戸を隠してしまおうと、隠し場所を探していてひと休みした場所が尼巌山であり、岩戸を隠したところが戸隠であるという神話があります。

『古事記』中巻に「神八井耳命(かむやいみみのみこと)者科濃国造等之祖也」とあり、その子の一人が阿蘇を治めたという古史と関係があり、高千穂の伝説がこの地に飛来したのでしょうか。なんでも天の岩戸は両開きで、その一枚が北信濃に飛来したという笑い話のような逸話もあるそうです。城跡ばかりが有名ですが、尼巌山・奇妙山周辺には古墳や塚がたくさんあります。また、至る所でお地蔵さんが迎えてくれる信仰の山でもあります。

 さて、前述の鍵掛観世音旧址ですが、明治の『埴科郡誌』の東条村の記述を引用します。(注:PC環境によっては旧字が文字化けします)

【鑰掛観世音舊址】(鍵掛観世音旧址・カギカケカンゼオンキュウシ)
本村寅の方尼巖山の東半腹にあり。往昔天平年中、僧行基、東国下向の日、草創する所と云うと雖(いえど)も、口碑のみ。開基詳かならず。奥院本地は一ヶの岩窟にして、方二間、奥行五間なり。即ち聖徳太子御作、十一面観世音を安置し、塔仲永福寺外六坊舎、伽藍を備へたる梵刹(ぼんさつ)なりと云ふ。当国三十三番札所の一にして、第十六番鑰掛岩戸観世音と称す。然るに数度の兵燹(ひょうせん:兵乱による火事)、野火に罹(かか)り(年代不詳)堂塔頽廃(たいはい)、僅に本地を存せしのみ。元禄九丙子年九月東光寺住務某之を憂ひ、力を衆生に借り、本堂一宇を再建す。爾來(じらい:以来)東光寺をして別当たらしむ。後弘化四年(1847)三月地震の災*、山面の磐石崩転し、堂宇破壊に属す。因て佛躰を該寺に移し。今其址地を存するのみ。

*「善光寺地震」のこと。弘化4年(1847年)5月8日(旧暦3月24日)午後10時頃に起きたマグニチュード7.4の典型的な内陸直下型地震。調度善光寺の御開帳の最中でした。家屋の倒壊や火災に加えて山の崩壊と地すべりによる土砂が河川をせき止め、やがて決壊して震災を拡大させました。当時の狂歌に「死にたくば信濃へござれ善光寺 土葬水葬火葬までする」と詠われたほど酷いものでした。天の岩屋の堂宇もこの大地震によって崩壊したようです。震災の慰霊碑が妻女山展望台の脇にあります。

 岩戸は、戸隠に隠したのですから岩屋の方が適切な呼称でしょうか。幅は4m、奥行きは10mぐらいあるでしょう。入口左に掘り抜いたような不思議な大きな窪みがあります。古代の墳墓の跡でしょうか。石器時代は住居として使われたかもしれません。

 聖徳太子御作、十一面観世音を安置。六坊舎、大伽藍を備えた山岳信仰の一大霊場であったという言い伝えがあるそうです。しかし、川中島合戦の際に兵火にまみれ焼け落ち、その後再建されたようですが、善光寺大地震で倒壊してしまったと書かれています。また、この岩窟は、明治時代には信濃三十三番札所の第十六番札所・鍵掛観世音旧址だったということです。ちなみに現在の第十六番札所は、やはり行基にまつわる古刹として信仰を集めている第七番札所桑台院(虫歌観音)とともに札所となっている阿弥陀山清水寺(保科観音)です。

 私は息子達と尼巌山から下る途中に道を間違えて、この 「天の岩戸」の崖の上に出てしまいました。そして何かに導かれる様に崖上をへつって岩戸の前に出ました。倒木や崩落箇所もあり、かなり厳しいルートですが、古いトラロープが残っていて、昔は登山道として使われていたのかもしれません。現在は、踏み跡も怪しく、危険なのでおすすめできません。その時のフォトルポはこちらをご覧ください

 修験と信仰の山といえば、奇妙山も同様です。全山崖に取り囲まれたまさに修験の山。近年登山道が整備され、だれでも登れる山になりましたが、ちょっと登山道をはずれると、切り立った崖に行く手を阻まれる厳しい山です。やはり清滝にある阿弥陀堂と1キロほど下りた所にある信濃札所第十一番仏智山明真寺清滝観音堂が、その中心でしょう。天平年中、聖武天皇の時代、行基が千手観世音菩薩を掘り安置し、後に坂上田村麻呂が堂塔を創建したと伝わる古刹です。現在の千手観音菩薩は前立本尊で、行基作といわれる千手観世音菩薩は秘仏となっています。

 そして、阿弥陀堂。往古は清滝の上にあったといわれています。その滝の上とはどんなところだろうと登ってみたのがこちらのルポです。清滝の左から登りましたが、崖上の急斜面をへつる非常に厳しいルートです。そこからさらに奇妙山山頂を目指しましたが、断崖絶壁の下の急斜面を、落石に怯えながら長い距離をトラバース、膝上まで埋まる積雪を乗り越えて、最後は崖をよじ登ってようやく山頂へたどりついたという、まさに修行のような登山でした。

「天の岩戸」へは、東条の岩沢地区の奇妙山登山口(三台ほど駐車可)から林道を100m登って奇妙山への分岐を分けて左へ。100mほど行くと右手に山道の入り口と尼巌山の標識があります。登って行くと、正面に崖の見える谷に出ます。さらに登ると分岐が。左は尼巌山、上が 「天の岩戸」です。登って行くと、右手の崖に六つほど修験に使われたと思われる岩窟が見えてきます。その最も上に鎮座するのが大きな 「天の岩戸」です。崖の中腹にあり足場が悪いので注意が必要です。この崖に囲まれた谷にいると、不思議な感覚に包まれます。厳粛な気持ちにさせる荘厳な谷です。昔は、修験と擬死体験の場であったのだろうということが実感できる空間です。



★「岩沢登山口から奇妙山へのルポ」も合わせてご覧ください。奇妙山への最も一般的なコースです。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。
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梅雨明けの青い天使(妻女山里山通信)

2010-07-27 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 ニュースのタイトルに「陽子の本当の大きさがわかった!」というのがありました。ようこさんの本当の大きさって?  どこの陽子さん?  そんなものがニュースになるのかなと思っていたら、その後に「物理学者はパニック」と書いてありました。なあんだようしかとすぐに分かりましたが、陽子(ようこ)と陽子(ようし)って全く同じ漢字ですね。今まで考えられていたものよりも、100兆分の3ミリ小さいということが分かったそうです。それっぱか?と思いますが、全ての量子電磁力学がひっくりかえるほどの数値なんだそうです。自然界の不思議、宇宙の不思議は計り知れないものがあります。

 梅雨明けの頃になると水田や沼地では、メタリックブルーのか細いトンボが舞い始めます。トンボのメカニックな体や動きにも自然の計り知れない神秘を感じます。とくに私はこのメタリックブルーに輝くアオイトトンボが好きなのです。このトンボが棚田を舞い始めると、ワクワクします。他のイトトンボが翅を閉じて留まるのに対して、このアオイトトンボは開いて留まるのも絵になります。

 ところが、このアオイトトンボは人の気配に敏感で、近づくとすぐに逃げてしまいます。けれども見えないほど遠くへ行くわけではなく、少し離れた草の茎に留まるいけず。しかも、細いのでなかなか撮影するのに容易ではありません。かなりの根気が必要です。

 アオイトトンボは、成熟すると胸部の横に白い粉がふいたようになります。この個体は尾端の形状から雌だとおもわれますが、胸部の下側から粉をふいたようになりはじめています。成熟する過程なのでしょう。この白い物質がなにか知りたいと思ったのですが、図鑑やネットで調べても分かりませんでした。成熟して出るので性ホルモンとなにか関係があるのでしょうか。ちなみにシオカラトンボの交尾の体位はハート形ですが、アオイトトンボは、3という文字の形です。

 トンボの飛び方は、他の昆虫と違って翅を胸の筋肉で直接動かすしくみになっています。これを直接飛翔筋型昆虫といいます。これだと1秒間に20-30回の羽ばたきしかできません。ハチなどは筋肉は翅ではなく外骨格につながっていて、翅ではなく外骨格全体を変形させることにより翅を動かします。この方式だと1秒間に1000回以上羽ばたくことができます。それぞれ一長一短があり、それぞれの環境に適応しているわけです。

 トンボは、そのメカニズムと四枚の翅を自在に操る(前翅と後翅が交互に動く)ことにより、ホバリングしたり、急に方向を変えたり、時速60キロ以上で飛んだりできるわけです。蝶は、それができないからヒラヒラ飛ぶわけですが。私はトンボのむき出しになった背中のメカニカルな部分が好きで、思わず見入ってしまいます。撮影して拡大してみると、翅を動かす仕組みが見えてきます。

 「トンボの目玉は水色眼鏡」という歌詞がありますが、実は真ん中にもう一つ御釈迦様の第三の目、正中眼のような目があります。一万個の目を持っているのになぜもう一つ必要なのか分かりませんが、トンボはこの大きな目が命なのです。イトトンボは特に体が細いので、視野が広く獲物や敵を発見しやすくなっているのです。近づいてマクロ撮影をするのが難しいわけです。しかし、トンボが見るこの世界ってどんな風に見えるんでしょう。

 トンボは、弥生時代に稲作が入ってきてからずっと日本人の友達でした。「銃後でねえやは嫁にゆき」という歌詞があります。姐や(ねえや)は、女中さん(乳母)のことだそうです。その後、十五と歌詞が変えられてしまったようですが。子供の頃は15で嫁に行ったのか、早いな、と思っていました・・・。「おわれて見たのはいつの日か」も追われてではなく、ねえやに背負われてなんです。それを知ったのは、確か叔母が使っていた古い小学唱歌の本を見つけた時だったと記憶にあります。「赤とんぼ」は、作詞家・三木露風の乳母への郷愁と母喪失の哀しみとが織り混ざった子守唄です。

 また、空にたくさん飛ぶトンボは平和の象徴でもあるんですね。秋になると山からたくさんのアカトンボが下りてきて空を真っ赤に埋め尽くして飛ぶ様は、日本人の心に残る平和な郷愁の風景なのでしょう。指をくるくる回してトンボ捕りをした経験は誰でも一度はあるでしょう。それとも今時の子供達は経験できない子もいるのでしょうか。だとしたらそれは大人の責任です。今、メカトンボというラジコンで飛ぶおもちゃがありますが、これも本当のトンボを知っていればこそ楽しめるものだと思います。

★【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】夏の信州のトレッキングに、鏡台山をごアップしました。蝶の写真とパノラマ写真、鏡台山から見えた富士山のカットがご覧いただけます。
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鏡台山は蝶のパラダイス!(妻女山里山通信)

2010-07-25 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 三連休の最終日、突然思いついて登った鏡台山は蝶のパラダイスでした。今年は梅雨に雨が多く豪雨もあったせいか、ゼフィルスの発生がほとんど見られません。帰りに立ち寄ったポイントでもわずかに数頭見られたのみです。多雨が影響したのでしょうか。オオムラサキの羽化にも影響しそうで心配です。

 この季節の低山は薮になり、スズメバチ、ヤブ蚊、蛇、熊の心配があるせいかハイカーも減少します。それでも盆地にいるよりはずっと涼しく、北アルプスの大パノラマが爽快な気分にさせてくれます。鏡台山は、昔は埴科郡の中心に位置する山として親しまれ、松代町、屋代町、坂城町などから皆頻繁に登ったそうです。一時は登山道も廃れ、10年ほど前に来た時は、笹平登山口は完全に薮になり閉ざされていました。それが数年前に千曲市や坂城町で登山道整備が行われ、標識も立ちました。

 しかし、松代から登る道は全く未整備の状態で残念です。妻女山や象山から戸神山脈を登るルートは、非常に長いこともあって歩く人もまばらなようですが、最近はトレランの人たちが走っているようです。西条の入から稲葉を経由して三滝山へのルートは、武田別働隊の辿ったといわれる古道ですが、今は林道が通じています。松代からの登山道も整備されるといいのですが・・・。

 さて、鏡台山の蝶ですが、ちょうどノアザミとヨツバヒヨドリが満開だったため、群舞が見られました。まず目についたのはヒョウモンチョウの仲間。特にツマグロヒョウモンが目立ちました。ツマグロヒョウモンは南方系の蝶ですが、近年温暖化とともに生息地が北上し、妻女山でも見られる様になりました。体内に毒を持つマダラチョウの仲間のカバマダラに擬態しているといわれ、雌の方が前翅に特徴的な黒と濃紺の模様があることで知られています。写真は地味な雄です。

 次に撮影したのはウラギンスジヒョウモンの雄。近年個体数が減少している蝶だとか。観察しているとノアザミよりもヨツバヒヨドリに多く吸蜜していました。盛夏には休眠する蝶なので、もうすぐ見られなくなると思います。そのほかにもヒョウモンチョウの仲間が舞っていたのですが、はっきりと同定できる写真が撮れずに難儀しました。そして、帰路には、このウラギンスジヒョウモンが、サキグロムシヒキに襲われて運ばれて行くのを目撃。撮影しました。いずれフォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS】にアップします。

 三番目は、蛾とよく間違えられるセセリチョウの仲間からイチモンジセセリです。吸蜜中の雌を、必死に雄が追いかけていました。これから秋にかけて山から町中まで至る所で目にする蝶です。丸顔に大きな目が特徴的で、なかなか愛嬌のある顔です。

 四晩目は、キアゲハ。普通のアゲハとは前翅のつけねに黒い面があることで区別ができます。こちらは、ヨツバヒヨドリよりノアザミの方が好みのようでした。種類によって好みの花(蜜)があるようです。幼虫は菜園の害虫ですが、山で見る成虫は派手で華やかです。北方系の蝶なので、温暖化とともに生息域が北上している蝶です。

 最後に、なぜか日向には出ず、日陰のヨツバヒヨドリばかりを選んで吸蜜していた一頭のアサギマダラ。茶褐色の翅の中に浅葱色を帯びた白い部分があるのが特徴的。黒のボディは白い水玉がおしゃれです。タテハチョウ科マダラチョウ亜科の蝶で、ゆったりとひらひらとした舞い方が優雅。長い距離を移動することでも知られています。いわば「ひとり旅するロマンの蝶」。成虫は台湾や南西諸島とから日本本土へ飛翔し、その子孫が今度は南方へ旅立ちます。季節風や台風にのって一日200キロ以上移動することもあるそうです。

 どこからともなく現れ、ひらひらと優雅に舞うこの蝶を見ていると、どこに大海原を渡るエネルギーが隠れているのだろうと思わずにはいられません。舞い方はシジミチョウやモンシロチョウなどのようにせわしなくはなく、ひらひらと舞ったかと思うと、すーっと滑空、それを繰り返します。そのひらひらとした省エネタイプの飛び方が秘密かもしれません。台風や季節風もうまく利用するようです。五月には2000m級の山頂付近でも見かけました。旧盆を過ぎる頃になると里山でも見られる様になります。

 そして帰路にはゼフィルスを探したのですが、なかなか群舞にはお目にかかれませんでした。梅雨の多雨のためか発生が遅れている様です。

★蝶の写真は、ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】の蝶1.2.3.4をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真などもあります。
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鏡台山から富士山が見えた! (妻女山里山通信)

2010-07-23 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 連休最終日の朝、息子とskypeでテレビ電話をしましたが、甲斐駒ケ岳と仙丈ヶ岳に二日続けて登った写真を見せてくれました。初めての三千メートル級の山で、尾根直登の岩登りはスリル満点で楽しかったようです。わき上がるガスと雲海、高山植物は里山では味わえないものです。そんな話を聞いたら山に行きたくなってしまいました。

 高山というわけにもいかないので、久しぶりに鏡台山へ。鏡台山は、埴科郡の中心にある山として、松代町、屋代町、坂城町などの人たちに親しまれ、盛んに登られた山でした。北峯では、小中学生のキャンプや合同の運動会が行われたものです。いくつかルートがあるのですが、今回は一番手軽な笹平からのルートを登る事にしました。心配なのは、ここのところの豪雨で千曲市森から坂城町へ抜ける沢山林道(林道更埴坂城線)が土砂崩れで通行止めになっていないかでした。あんずの里で賑わった森の集落を沢山川沿いに登っていくと、やはり相当の水量ですが、通行止めの標識はありませんでした。しかし、所々道路上には濁流が流れた跡があり、ました。

 林道芝平樽滝線の分岐を過ぎて女陰の滝へ。いつもはか細い滝が、轟音を立てて落ちていました。9時半過ぎに笹平の登山口に到着。登山道入り口を見ると、最近人が登った痕跡がなくタケニグサなどの草で塞がれていました。まずは、それらを除草しなければ登れませんでした。森に入ると、鬱蒼として湿っています。月の輪熊の生息地なので熊鈴をつけます。この尾根では、昨年熊に遭遇しているので、時折ホイッスルも吹きながら。この尾根には熊が横断する獣道が何カ所かあるのです。

 びっしりと生えたリョウブの灌木林を抜け、防火帯に出て、あと50メートルで頂上というところで、エビガライチゴのバラに行く手を阻まれました。おまけに笹が繁茂して道がなくなっています。剪定ばさみで枝を切り、笹をはらって道をあけました。やっと頂上へ着くと、広がる北アルプスの大パノラマ。北へ行くほど稜線部が雲に覆われていましたが、槍ヶ岳ははっきりと見えました。

 これならば、富士山も見えるのではと、坂城側に少し下って笹を仮払った展望地へ。蓼科山から続く八ヶ岳連峰の山裾を左へ目で辿ると、富士山の中腹と思われる淡紺色の陰が見えました。時間が経てば雲も取れるかもしれないと、何度か来てみることにして山頂へ戻りました。黒柏木からくる登山道は、千曲市側と違いきれいに除草されていました。

 山頂は、ヨツバヒヨドリ、ノアザミが咲き乱れ、色々な蝶が乱舞していました。最初は北峯に向かい、その向こう側にある希少な植物を撮影に行くつもりでしたが、どうにも朝から続いていた腰痛がとれないので断念して、山頂で蝶の撮影に専念することにしました。とはいえ、長雨から梅雨明けで活性が異常に高く、なかなか落ち着いて留まってくれません。難儀しました。その数々の蝶のカットは次の記事で書こうと思います。

 そして、富士山はと何度か通ううちに、少しずつ雲がとれて撮影したのが掲載のカットです。八ヶ岳連峰の長い裾から黒富士がはっきりと見えています。実は昨年の5月にも同様の記事を載せました。しかし、現地では本当に薄らと白く見えただけで、それが本当に富士山かどうかは帰って画像加工するまで分かりませんでした。しかし、今回は肉眼でもはっきりと確認できました。

 確かに山頂には、林間から富士山が見えますと書いてあるのですが、どこにどのように見えるかが書いてないので、どこを見ていいのか分からないのです。以前出会った人もどこに見えるんですかと言っていました。鏡台山を紹介した色々なサイトでも、富士山が見えるとは書いてあるのですが、はっきりと富士山が写ったカットをアップしているサイトはありませんでした。今回の写真が始めてではないかと思います。富士山が八ヶ岳よりずっと小さいのは、もちろん地球が丸いからなのですが、そうと分かっていても富士山があまりに低く見えるので不思議な感じがします。なんだか富士山と八ヶ岳にまつわる民話(神話)を思い出しました。

 「その昔、富士山の女神・浅間(せんげん)様と、八ヶ岳の男神・権現(ごんげん)様が、自分の方が背が高いと主張して譲りませんでした。そこで阿弥陀如来に頼んで樋を渡して水を流して確かめました。すると八ヶ岳の方が高く、水は富士山に向かって流れました。しかし、怒った富士山に樋で殴られて、八ヶ岳は富士山より低い八つの峰になりました。蓼科山は八ヶ岳の妹で、それをたいそう嘆き悲しみました。その涙で諏訪湖ができたそうです。」

 一見、荒唐無稽なお伽噺に思えますが、地質学的には結構当たっているようです。数十万年前には八ヶ岳の方がずっと高かった時代があるとか。その後の火山活動で山塊が崩壊していったようです。他にも四阿山などは、北東に巨大なカルデラが広がりますが、この山塊が火山活動に寄って吹っ飛ぶ前は四千メートル級の山があったといいます。また、この物語は、天皇を中心とする国家神道が明治政府により創作され強制される以前の、各地に残る自然信仰をもとにした独自の神話の形態を残している話なのではないかと思われます。諏訪大社の洩矢神(もりやしん、もれやしん)などが、その良い例かもしれません。興味の有る方は、ミシャグジ、アラハバキなどで検索してみるといいと思います。

 ところで昨夜、松代の南東、保基谷岳の向こうの空が無音で異常に発光していました。松代群発地震の時の大地震の前兆現象に似ていたので驚きましたが、調べると浅間山東側での激しい雷雨だと分かりました。この光は上田や松本でも見えたそうです。おそらく東京の高層ビルからも見えたと思います。ここからだと100キロ以上離れているので音が聞こえなかったわけです。自然界の演じた光のショーは、1時間以上続きました。

★鏡台山ほか、夏の信州のトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にたくさんアップしてあります。ご覧下さい。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。夏のキノコも含めて新しい写真を大量にアップしました!
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松代は古代ロマンの里 (妻女山里山通信)

2010-07-21 | 歴史・地理・雑学
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 近年は歴女から山ガールまで訪れる妻女山展望台(赤坂山)から、松代方面(東方)のパノラマ写真です。山座同定を入れてみました。現在の山名だけでなく、古名(本名や俗名)も入れてみました。画像のみを表示にすると、大きな画像が見られます。松代周辺の山々は、川中島合戦があった関係で、山城を中心に語られることが多いのですが、実は千曲市と共に古代科野国の発祥の地としても注目されるべき地なのです。
 今回はその特異な形からプリン山とか日本のピラミッドとか呼ばれる皆神山に注目してみました。皆神山は、その麓に多くの良泉をもつことから水上山とすべきという説、多くの神々が合社されていることから群神山であるという説などがあります。『松代町史』

 この写真の中で最も古いと思われる遺跡は、皆神山の小丸山古墳です。この古墳は、松代町岩野の妻女山の東上の斎場山にある斎場山古墳と並び、善光寺平南部で最大級の円墳です。築造年代は明確ではありませんが、斎場山古墳とほぼ同年代の四世紀後半から五世紀中頃ではないかと思われます。その他の古墳はそれ以降に造られた積石塚古墳で、大室古墳群や妻女山南の天城山中腹にある堂平古墳群、倉科の杉山古墳群と同様に馬の放牧の技術を伝えた渡来人のものと考えられています。写真の竹原笹塚古墳も六世紀中頃のものといわれています。

 崇神天皇の三世紀後半ごろ、神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫・建五百建命(たけいおたけのみこと)が科野国造(しなのくにのみやつこ・しなのこくぞう)に定め賜わりました。そこで森将軍塚古墳が、建五百建命の埋葬者ではないかといわれているのですが、史実と証明されてはいません。一連の関係ある古墳として年代順に、森将軍塚古墳→川柳将軍塚古墳(93m)→倉科将軍塚古墳(73m)・有明山将軍塚古墳(32m)→土口将軍塚古墳67(m)があります。

 これらの古墳は、三世紀後半、あるいは四世紀から五世紀の築造といわれています。この地を治めた代々の科野国造の墓ともいわれています。斎場山古墳は、その位置から下部にある土口将軍塚古墳より古いのではないかといわれています。皆神山の小丸山古墳もほぼ同年代と考えていいのかもしれません。ただ、五世紀後半に科野国造が長野県南部の飯田に遷った後、その権威が失墜した森将軍塚古墳の後裔の権力者たちの墓ではないかともいわれています。

 皆神山山頂にある皆神神社は、大国主命の子で諏訪大社の祭神・健御名方命(たけみなかたのみこと)の子・出速雄命(いずはやおのみこと)が祭神で、出速雄神社ともいいます。(本殿は室町時代のもので長野県指定県宝)
 出速雄神は、貞観二年(860)二月に信濃国従五位下の位を授かっており、斎場山(旧妻女山)の麓にある會津比賣神社の祭神・會津比賣命(あいづひめのみこと)が御子ともいわれています。會津比賣神は、貞観八年六月に従四位下を授かっています。
 その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)四月に従五位上に、元慶二年(878年)二月に正五位下を授くとなっています。『日本三代實錄』

 『松代町史』によると、当時の埴科郡の大領は、諏訪系統の流れを汲む金刺舎人正長であったため、産土神としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。親子とすると娘の方が官位が高いのはなぜなのでしょう。これは會津比賣が初代科野国造の武五百建命(たけいおたつのみこと)の妻となったからかもしれません。その金刺舎人正長は、貞観四年(862)に、埴科郡大領外従七位を授かっています。

 しかし、その後平安時代の延長5年(927年)に編纂された延喜式には、皆神神社、會津比賣神社共に載らない式外社となっています。金刺氏の権力の失墜や委譲に伴って神社の格式が落とされたのかもしれません。その後、戦国時代に皆神神社、會津比賣神社は上杉謙信の庇護の下にありましたが、本陣となった斎場山(御陵願平)にあったともいわれる會津比賣神社は、敵将武田信玄の兵火にあい、その後麓に小さく再建されたと伝わっています。

 そこで、話はもとに戻りますが、皆神山の小丸山古墳が出速雄命の、斎場山古墳が會津比賣命の墳墓ではないかという説があるのです。しかし、それを証明する術は今のところ全くありません。また、松代の古名は「海津」といいますが、その名称は出速雄命の「いづ」、あるいは會津比賣命の「あいづ」からきているという説があります。『松代町史』出速雄命の「いづ」は、当然出雲の「いづ」と関連があるのでしょうね。

 松代という名称は、聖徳元年(1711)真田三代藩主幸道の時に松城が松代城と改名されてからですから、わずか300年ほど。それ以前に海津と呼ばれていた時代の方が、おそらくずっと長いのです。明治の廃藩置県の折には、町名を古名の海津に戻すべきだという意見もあったといいます。

 ここまで読まれて、疑問が湧いた方もおられるかもしれません。産土神・出速雄命と初代科野国の国造・建五百建命の関係は?と。
 実はこれもまったく分かりません。神武天皇と第十代崇神天皇の間の天皇は、欠史八代といわれ、神武天皇と崇神天皇は同一人物という説もあります。
 『古事記』や『日本書紀』によると、出雲の大国主命の孫が出速雄命。神武天皇の孫、あるいは子孫が建五百建命。神武天皇の妻は大国主命の子の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)。普通に考えると出速雄命は、建五百建命の一世代上ということになりますが・・・。科野国造の建五百建命より先にこの地の開拓を始めた出速雄命。建御名方富命の命を受けて諏訪から来た出速雄命と、おそらく大和王権によって初代科野国造に任命された建五百建命。『國造本紀』
 前者は限りなく神話に近く、後者は少し具体的で史実に近いといえるでしょうか。

 そして、建五百建命の妻は、會津比賣命といわれ、なおかつ會津比賣命は、諏訪大社の祭神・健御名方命の後裔(こうえい・子孫)ともいわれているのです。會津比賣命は、また大物主の子・会地比古命の娘ともいわれています。とすると大物主の孫ですね。大物主は大国主命と同一人物という説もあります。

 また、會津比賣命は出速姫命ともいい、伊自波夜比賣(いじはやひめ)神であるという説もあります。會津比賣命の建五百建命の妻説は、會津比賣神社御由緒にあるのですが、いったい出典元はなんなのでしょう。しかも土口将軍塚古墳が會津比賣の墳墓であると記していますが、さすがにそれはないでしょう。上の話では出速雄命と會津比賣命は従兄弟ということになりますが・・・。では、健磐龍(たけいわたつ)と同一人物ともいわれる建五百建命は?
 物語と史実が玉石混合の迷宮世界ですが、この古代科野国にとって重要な二人の人物の関係を、気持ちよく詳らかにしたものはどこかにないものでしょうか。

 ところで、小丸山古墳は、ずっと下って飛鳥時代の第三十四代舒明天皇(在位:629-641)の皇子・古人大兄命(ふるひとおおえのみこと)の墳墓ともいわれており、大化の改新に至る皇位継承争いの末に吉野を逃れてこの地に落ち延び、皆神山を開いたという里俗伝もあります。そうなると、積石塚古墳群と同様に古墳時代後期のものということになります。実際は吉野で殺害されたといわれていますが。小丸山古墳の側には、古人大兄命の子の墓といわれる大輪王墳墓があります。古人大兄命は、大化の改新の首謀者?である中大兄皇子(後の天智天皇)の異母兄です。
 ちなみに皆神神社の祭神は、伊邪那岐尊(いざなきのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)、出速雄命、熊野速玉男命(くまのはやたまおのみこと)、予母都事解之男命(よもつことさかのおみこと)、(配祀神)舒明天皇(じょめいてんのう)、古人大兄命で、まさに皆神様です。

 いやはやこうなるともうなにがなんだかまったくわからなくなりますね・・・。タイムマシンが欲しくなります。

★「皆神山探訪記」も合わせてご覧ください。

★斎場山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
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イタリアンの高級キノコ和製ポルチーニ!(妻女山里山通信)

2010-07-19 | アウトドア・ネイチャーフォト
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  一日中PCの前から離れられない日が続くと本当にストレスがたまります。出かけたついでに急いで妻女山へ立ち寄り、森に入ってたった10分間のキノコ狩りをしました。いつどこになんのキノコが出ているか熟知しているのでできる技ではあるのですが。しかし、どこを探してもありません。長雨のためかいつもなら出ていてもおかしくないヤマドリタケモドキが皆無です。あるのはドクベニタケ、ウコンハツなど毒キノコや不味くて食べられないキノコばかり。

 これはだめかなと戻ろうとすると、クヌギの木の根元に二本出ているではありませんか。やったー!と見ると、一本はまだ8センチぐらいで饅頭型の傘が開く前の幼菌です。しかし、すっかり虫が入ってぼろぼろ。もう一本はと見ると、多雨のせいですでに朽ちて腐り始めています。あきらめて帰ろうと林道を歩いていると、森の切れ目の奥に大きな傘が見えました。ニガイグチか、いやもしやと近づいてみると大きなヤマドリタケモドキです。そばにもう一本あります。撮影をしてから採取しました。

 このヤマドリタケモドキは、時候坊(花猪口)と同じくイグチ科のキノコで、イタリアのポルチーニやフランスのセップとの近縁種です。ポルチーニは西洋松茸とも言われるイタリアの高級きのこで、その甘い香りと旨さでリゾットやパスタ料理などに使われます。フランスでもセップは、高級キノコ。クリームや卵、チーズとの相性がよく、これのクリームパスタは絶品です。

 ところが、このキノコ。信州では、というか日本ではあまり知られていませんでした。夏に出るキノコということもあります。松代では夏にキノコ狩りをしているのは私ぐらいなものではないでしょうか。そして、この季節にはヤマドリタケモドキに似ている毒キノコがたくさんはえるので、確かな同定ができないと本当に酷い目に遭うということもあります。ドクヤマドリこそ標高の高いところへいかないとありませんが、そっくりなニガイグチの仲間はいくらでもあります。

 もうひとつ。このキノコは旨いためか虫たちも大好きで、放っておかないのです。虫の入っていないヤマドリタケモドキを探すのは、松茸を採るより難しいといわれます。そして、梅雨明けの多雨の時期にでるのですぐに傷んで腐ってしまうということもあり、いいものを見つけるのはタイミングがすべてなのです。もっとも死の天使と呼ばれる猛毒のドクツルタケにも虫はつきますが・・・。妻女山にもありますが絶対に採らないでください。

 そしてヤマドリタケモドキは、個体変異が大きく、なかなか同定が難しいのです。これは去年採ったものですが、今年のものと比べると色味が全く違い、同じキノコには見えません。実は違う近縁種かもしれません。ヤマドリタケというのもあるのですが、軸の編み目模様が上まではっきりあるので違うかとおもうのですが。いずれにせよ両方とも食べられます。また、これは非常によく似ていますが、ニガイグチモドキで苦みが強烈でとても食用にはなりません。以前、キノコ鍋をしたときに間違って一本入ってしまい全てがだいなしになったことがあります。

 ヤマドリタケモドキの料理は、洋風にはポルチーニやセップと同じレシピでいいのですが、私のオリジナルレシピの「エビとポルチーニのクリームパスタ」はおすすめです。ジンを使うのがポイント。生があればベストですが、乾燥品でも美味しくできます。最近は空輸の生も売られているようですが、なんと500グラム6000~9000円ぐらいです!

 松代の山には、この他にもフランスでジロールと呼ばれる高級キノコのこれも近縁種、アンズタケも出ます。不思議な事に杏の香りがするキノコです。これも地元のキノコに詳しいお年寄りに聞いても知らない人が多いキノコです。ヤマドリタケモドキと一緒にオムレツにしたりクリームパスタにしてパルミジャーノレッジャーノをかけて食べるともう絶品です。

 ところで今回のヤマドリタケモドキですが、軸は天ぷらに、傘はホタテ、エビとともに和風に大蒜醤油炒めにしました。甘み旨味がたっぷりでコクのある深い味が後引きです。また、この季節はアカジコウやアカヤマドリも出ます。秘密のシロがあるので近いうちにフィールドワークがてら行こうと思っています。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。キノコも含めて新しい写真を大量にアップしました!
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イノシシの凄まじい土木工事の跡(妻女山里山通信)

2010-07-17 | アウトドア・ネイチャーフォト
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  妻女山展望台から20~30分ほど登って長坂峠を右へ、斎場山を通り過ぎ、御陵願平から鬱蒼とした森の中へ入るとそのプールはあります。最も長いところで5メートルほど。深さは1メートルぐらい。水深は30~50センチぐらい。これは、イノシシのぬた場(沼田場)なのです。ぬた場とは、イノシシが泥浴びをして体についたダニなどの外部寄生虫を落としたり、夏の暑さから体を冷やすために水浴びをするところです。猟師に追われて命からがら逃げおせた後も、急上昇した体温を下げるために真冬でも氷を割って入る事があります。

 イノシシのぬた場は、東京、神奈川、山梨の山でもいくつも見たことがありますが、こんな巨大なものは見た事がありません。左に土の壁が見えますが、これは倒木の根っこの裏側です。初めはこの倒木が作った直径1.5メートル程度の穴があっただけだと思います。あとは、何年もかかってイノシシが掘ったのです。イノシシの鼻は犬並みに敏感ですが、70kgの石を持ち上げるほど力持ちでもあるのです。泥浴びや水浴びをした後は、木の幹に体をこすりつけるのですが、三枚目の写真を見ると樹皮が大きくえぐれて中の材が見えています。当然、形成層も削られています。体をこすりつけてこれだけ削るのに何頭のイノシシが何年かかったのか見当もつきません。

 この泥がついた樹木は周り中にあり、それを辿って行くとイノシシの獣道がわかります。イノシシは本来は昼行性ですが、人間により夜行性にさせられている場合もあります。この辺りのイノシシは、毎年害獣駆除で狩猟されているため、人を見ると猛ダッシュで逃げますが、人を恐れて完全に夜行性になっているわけではなく、日中に遭遇する事もあります。先にこちらの存在がわかれば、向こうから逃げて襲ってくることはありませんが、冬の発情期の雄などと出会い頭に遭遇すると、襲われる危険性があります。クマ除けの鈴をつけるなどの対策が必要です。

 以前、長男が小学生の時に二人で神奈川県の山を登っていて5、6メートルの距離で5頭のイノシシ(母、妹の成獣2頭と子供3頭)に遭遇したことがあります。長男が「あっ、イノシシだ!」と叫んだ瞬間に、群れは針葉樹林の急斜面を猛ダッシュで5メートル駆け上がり、左に直角に折れて私たちの真上を左へ駆け抜け、右上にターンして尾根の向こう側へ消えて行きました。わずか数秒のことでした。猪突猛進といいますが、イノシシはもの凄い急ターンができるのです。以前テレビで、突進されたらイノシシの前で傘を広げるといいとか言っていましたが、そんな余裕はありません。イノシシは常に牙をカミソリの様に研いでいるので、牙で太腿の動脈を破られて失血死ということもあるのです。

 妻女山山系では、年末の害獣駆除を行ったところ二日で40頭のイノシシが獲れたことがあります。それでも相変わらず農業被害が出ていることから、まだ相当数が生息しているものと思われます。招魂者近くにある我が家の山も除伐して見通しをよくしたところ、たくさんあったぬた場が消滅しましたが、夏になり葉が生い茂るとイノシシが出没し、再び掘り返すようになりました。晴れたらすぐに除伐する必要があります。畑を掘り返されると、まるで耕耘したようです。主に地中のミミズや芋虫を食べるためのようですが、春はタケノコ、夏は葛の根や山芋、秋は色々な果実やドングリや栗などを食べます。動物では、ヘビやカエル、ミミズや昆虫類などを。雑食性なので人間が食べるものはみな餌になると考えていいようです。イノシシの糞はピンポン球大のものが連続してくっついているような形状をしています。

 以前、信濃毎日新聞のカメラマンの方と話したときに、山にセンサー付きのカメラをセットしたことがあるけど写らなかったと言っていました。イノシシは非常に警戒心が強く、人の手が入ったと思われる場所にはしばらく近づきません。いつかこのプールに赤外線センサー付きのビデオカメラをセットして、イノシシ達が気持ち良さそうに水につかっているところを撮影したいものです。ぬた場でイノシシが「ぬたうちまわる」から「のたうちまわる」という言葉ができたといいますが、そんなシーンも撮れるでしょうか。また、イノシシには何度か遭遇しているのですが、一度もまともな写真が撮れたことがないのでそれも宿題です。

 松代町や千曲市の山を冬に登る事も多いのですが、イノシシ狩りが行われていることもあります。登る前に猟師達と出会った時は、必ず登るコースを説明して、登山者がいることを無線で皆に伝えてもらいます。基本的には谷の下から追い上げて上で待ち構えて撃つので、尾根筋を歩いているぶんには心配ありません。狩猟をする谷はたいてい決まっています。尾根道を歩いていて下から銃声が聞こえたら、ホイッスルを吹くか大声を出して人がいることを知らせることです。狩猟期は、イノシシ狩り以外に散弾銃を使ったヤマドリやキジの狩猟も行われます。これも谷での狩猟がメインですが、千曲川の河原でも行われるので釣り人は要注意です。人と野生動物の共生は、簡単なことではありません。

2006年の暮れにイノシシ狩りが行われている最中を妻女山から鞍骨城跡へ登ったフォトルポです。

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朱留の翡翠色に輝く陣場平(妻女山里山通信)

2010-07-15 | アウトドア・ネイチャーフォト
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  妻女山展望台から15~20分、奥にある駐車場右手の林道を登ると、遥か右手に冠着山(姥捨山)が見える長坂峠(東風超)に着きます。ここで道は分かれ、右へ行くと斎場山。左へ行くと陣場平を経て天城山、鞍骨城と続きます。梅雨の晴れ間の山仕事のついでに陣場平へ。林道ではなく旧山道と獣道を利用して私が去年作った近道で直行しました。冬には地面も見えていた陣場平は、訪れる人もいないため草で覆われ鬱蒼としています。

 鉈鎌で獣道を広げながら落葉松の森へ入り、再びギャップ(空き地)に出ると、山椒の木の幹に2センチくらいの実がなっていました。山椒の実は3ミリぐらいですし、幹にはなりません。近づいてよく見ると蔓(つる)がからみついていて、その幹に実はついています。見覚えのある実は奇麗な緑で、白い斑点が星の様に飛んでいます。なんだろうと必死に思い出そうとしましたが、浮かんできません。よく見ると蔓は2m近くあります。こんな蔓性植物はあったかなと思いました。とりあえず実をひとつ採ってかじってみました。かなり酸味のある味ですが、思い出しません。さらに絡み付いているものを数カット撮影して帰ってから同定することにしました。

 ネットで蔓性植物やつる植物などで検索をしてみました。手持ちの植物図鑑も調べました。分かりません。どこにもこんな蔓性植物は載っていないのです。しかし、実は見覚えがあります。帰化植物でもないようです。完全に行き詰まってしまいました。こんな時に利用するのがネットの「この木なんの木」の掲示板です。早速アップロードしました。半日ほど経ってから見てみましたが回答はありません。これは難しいのかなと思いました。実には見覚えがあるのに・・・。不思議なつる植物だなあ・・・。

 そして、翌日の夜、開いてみると回答が寄せられていました。ボケ、クサボケで調べてみてくださいというものでした。驚きました。ボケ(木瓜)は中国大陸原産で、この山にはありません。しかし、クサボケ(草木瓜・朱留・樝子・地梨)なら林道脇や日当りのいい尾根筋にいくらでもあります。花も実も知っています。なのに気がつかなかったのは、蔓性だったからでした。蔓性植物で調べても出てこないわけです。どの図鑑にも落葉小低木とあり、蔓性とは書いてありません。しかし、このクサボケは、確かに山椒の木にまきついていました。

 ブログの写真はでは分からないと思いますが、MORI MORI KIDS Nature Photograph Galleryの樹木のページに載せたこちらの写真では、山椒の木に巻き付いている様子がよく分かると思います。実の色は日本の伝統色でいう薄萌黄ですが、青味を帯びた翡翠色のものもあり、雨露に濡れた朱留は、さながら鬱陶しい梅雨の森に輝く宝石の様です。朱留とは春に咲く朱色の花の事でしょう。なお、写真に写っている葉はクサボケ以外にミツバアケビも絡み付いていたので、山椒、三葉通草、草木瓜の三種類です。

 クサボケ(草木瓜)はバラ科で、別名を朱留(シドミ)、野木瓜(ノボケ)、小木瓜(コボケ)、地梨(ジナシ)、和木瓜(ワモッカ)、樝子(サシ)などといいます。このクサボケの実で作るクサボケ酒は、山の実で作る果実酒の中でも格別の味といいます。熟れすぎると酒が黒ずむというので、晴れ間を狙って採りに行きたいのですが雨が止みません。恨めしい梅雨空が続きます。

★クサボケの花は、草木瓜の 朱儚くて 刺の道(妻女山里山通信)をご覧ください。
妻女山から陣場平への行き方
妻女山から斎場山への行き方

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梅雨の晴れ間に川中島大パノラマ(妻女山里山通信)

2010-07-13 | 歴史・地理・雑学


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 梅雨の貴重な晴れ間の山仕事の帰りに、妻女山展望台から大パノラマ写真を撮影しました。この妻女山展望台のある赤坂山は、江戸時代の「川中島八景」のひとつ、妻女山秋月に挙げられています。ちなみにあとの七つは、茶臼山暮雪、猫ケ瀬落雁、千曲川帰帆、八幡原夕照、勘助塚夜雨、典厩寺晩鐘、海津城晴嵐です。またここは、「信州サンセットポイント百選」に選ばれています。妻女山秋月の名のごとく、秋の鹿島槍ヶ岳に沈む夕日の美しさは想像を超えるものがあります。

 パノラマ写真は、もちろんワンカットではなく十数枚の写真の合成ですが、光の方向と加減がよかったので割と巧くできました。写真を別ウィンドウかタブで開いて下記の文章と照らし合わせてください。左がほぼ真西、右端がほぼ真東になります。正面は北です。
 左端の手前の尾根は、斎場山から北へ延びる韮崎。奥の山は千曲川左岸西山の篠山の尾根。その鞍部右へ青い帯の右に丸い山頂の茶臼山。左の突起が崩壊した有旅茶臼山で、武田信玄にちなんだ石碑があります。右へ白い崖が見えるところが中尾山。右へ犀川まで低い山脈が続きます。

 茶臼山の奥は、神話の山・虫倉山。右へ中世の山城がたくさん残る陣場平山。下って鞍部の向こうに中腹だけ見える戸隠連峰。手前右の山塊は富士ノ塔山。右奥に長野市民に親しまれている飯縄山。標高1917mなので「ひくいな」なんていわれますが、今の季節のお花畑はなかなかのものがあります。手前の山は、旭山、大峰山など、やはり中世の山城跡が残る山々が続きます。土豪が群雄割拠した川中島では、周囲の山々は山城だらけなのです。また、南部は古代科野国の発祥の地でもあったため古墳の数も相当なものがあります。

 その右奥には、飯山への谷。右奥に高社山から志賀高原の山々。手前金井山から右へ謙信が超えたという候可峠を経て尼巌山から奇妙山、手前には松代城跡のある松代の街。奇妙山から右へ立石岳。その手前にこの地の産土神が祀られるプリン型の皆神山。松代城跡の北西の角にある爐台には、松代藩の御用絵師が描いた城から見た川中島の風景画が展示されていて、実際の風景と照らし合わせて見る事ができます。カメラのない時代、御用絵師は藩の記録係でもあったのです。
 写真中央には冬季オリンピック長野大会の開会式が行われた野球場が見えます。この一帯は合戦場という町名もあるように川中島合戦の激戦地といわれ、野球場のある公園の敷地には山本勘助の石碑もあります。さらに右へたどると手前のハリエンジュに隠れて八幡原古戦場。続いてスケート競技が行われたホワイトリングやMウェーブも見えます。

 今度は梅雨明けに、北アルプス(鹿島槍ヶ岳・白馬三山)や戸隠連峰が見える大パノラマを撮影したいと思います。北アルプスのパノラマ写真は、MORI MORI KIDS Nature Photograph Galleryこのページにもあります。このパノラマ写真のさらに大きな画像もあります。山座同定があるカットもあります。ぜひご覧ください。

★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
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祝スペイン初優勝!(FIFA2010南アフリカW杯)

2010-07-12 | サッカー
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 失礼ながら、たこ焼きやの愛想のいいおじさんが似合いそうなイニエスタですが、疲労困憊のはずの延長戦後半であの落ち着いたボレーシュートを打てるとは、本当に凄いです。普通の選手ならDFが寄せてくるので蹴るタイミングが早すぎて打ち上げてしまうところです。交代で入ったフェルナンド・トーレスのクロスがはじかれたところをセスクが拾ってマークをはずして外に開いたイニエスタにラストパス。それを確実に決めました。鳥肌が立つほどのクールなシュートでした。今週いっぱいスペインはお祭り騒ぎでしょう。それともこの夏いっぱい!?

 今回のスペイン優勝は、スペイン国民だけでなく多くのエコノミストも望んだことだとか。ギリシャに次ぐ欧州では経済破綻が危ぶまれるスペインが優勝すれば、その経済効果は計り知れないものだからというわけです。優勝賞金の3,000万ドル(約26億4,000万円)も凄いのですが、放送権料やもろもろの経済効果を考えると数百兆円という試算もあるほどです。試合が非常にナイーブな入り方をしたのは選手がそんなことを考えたからではないでしょうけど。序盤のオランダは確かにスペインを非常に警戒していました。そして意図的にラフプレーを仕掛けました。

 お互い息詰るような前半は、どちらが勝ても初優勝という緊迫したゲームで、ミスをしたら負けるという緊張感が漂っていました。ボールポゼッションは予想された通りスペインでしたが、時折見せる鋭いカウンターが決まっていれば圧倒的にオランダのゲームになったかもしれません。それを防いだのが、プジョルとなんといってもスペインの守護神カシーリャス。スーパーファインセーブを連発して得点をさせませんでした。

 そうなると、最初に焦れた方が負けるだろうなと思って見ていたら、後半終了近くになるとスペインが挑発したわけでもないのにオランダがいらだち始めました。この辺りから流れは完全にスペインへ。得点は時間の問題かなと思ったところでの貴重なゴール。W杯の決勝戦はいままで疲労の蓄積や神経質な心理状態から凡戦になることも少なくはなかったのですが、今回はわりと最後まで緊張感のある試合でした。その分見ている方も疲れましたが・・・。

 スペイン代表の中心はバルサの選手で、もとはクライフのサッカー。オランダのトータルフットボール。それがオランダと対戦するわけですから、どちらが勝ってもオランダの勝利と書いた記者がいましたが、ともかくバルサ、およびスペインの育成システムが優勝に導いたことは間違いないでしょう。Jリーグがその育成システムを手本としようとしているのは、本当に楽しみです。そして願わくば、新生日本代表はスペイン代表と試合をして欲しいと思うのです。パラグアイに勝っていれば実現した幻の試合です。

 世界にとってもスペインのようなパスサッカーのチームが優勝したことは、よかったと思うのです。もちろん日本代表にとっても。今回のW杯で、ひとつの目指すべき方向性が見えたような気がするのです。パスサッカーを基本としつつも、相手によっては柔軟にリアクションサッカーもできるチーム。あの2002年に優勝したブラジルでさえ、イングランド相手の試合では、それまでガンガン上がっていた両サイドバックを上がるらせず、前の三人だけで攻撃し、しかも得点していました。強いチームはスタイルを持っていつつも時には試合によって、または試合中でも柔軟に対応できる応用力を選手や監督が持っているものだと思うのです。スペインでさえ常に高いボールポゼッションを維持していたわけではなく、オランダの時間帯もありました。そのときに焦れることなく冷静にしのいだ事が最後のゴール、勝利につながったのだと思うのです。

 真夏の夜の夢のような熱いシーズンが終わりました。4年後はブブゼラではなくサンバのリズムが響きます。また、冬のシーズンですが、ブラジルにはアマゾンという熱帯があります。マナウスやベレンで試合があれば、相当厳しいものになるでしょう。10万人以上の観客で満員のマラカナンスタジアム(今は喧嘩が絶えず危険で廃止されましたが、ピッチの周りに溝になった立ち見席がありました)でフラメンゴとサントスの試合見た日を昨日の事のように思い出します。ブラジルのピッチに立つ我らが日本代表(まず出場権をとるべし)が、今から本当に楽しみです。

 それにしてもあのタコくんの占いは完璧でしたね。水族館の人の話によると、どうも毎回派手な国旗の方に行っていただけらしいとのことですが・・・。タコはエビやカニに似た赤い色が好き?
試合の詳細は、FIFAのオフシャルサイトで。
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幻のハナビラタケ採取!(妻女山里山通信)

2010-07-11 | アウトドア・ネイチャーフォト
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  雨の間にすっかりたまってしまったデータの分類と整理をしなければならず、椅子から一歩も動けない状態が続きましたが、梅雨の貴重な晴れ間というと山仕事もしないといけません。久しぶりの山はたっぷりと水分を含んで林道は豪雨でえぐれてしまいました。とりあえず路肩が崩れてしまわないように、水抜きの溝を掘り直して応急修理しましたが、昨年のような集中豪雨があると、どこでどんな崩壊が起きるか見当もつきません。

 除草を済ませ山道を上へ向かおうとすると、目の前5mに大きなハチがホバリング。単三電池ぐらいあるオオスズメバチです。去年は4回遭遇し、威嚇され追われましたが無事でした。しかし、無用な危険は回避したいのでしばらく観察。なにか獲物になる巣でもあるのか去らないので、杉林の中を大きく迂回する事にしました。

 一度などは、天城山(てしろやま)への林道で、いきなり頭に小石をぶつけられたような衝撃を受けた事があります。オオスズメバチの体当たりによる威嚇でした。普通は、その前に目の前でホバリングして顎をカチカチと鳴らすのですが、いきなりの体当たりは初めてだったので驚きました。山梨の大マテイ山への山道でも同様のめにあったことがあります。どうも私の登山帽の真ん中がぐるりとネットになっていて、黒髪が見えるのが原因のようです。クマが天敵なので、黒いものには激しく反応するのです。夏山では黒髪や黒い服は絶対に禁物です。

 時間がないので鉈鎌で除草しながら薮を抜け目的地へ。その途中で、去年落葉松の切り株にハナビラタケ(花弁茸)があったことを思い出し、立ち寄ってみました。すると、去年の切り株にはなかったのですが、その近くの地面に出ていました。それが写真のハナビラタケです。長い方が25センチほど。去年のものよりボリュームがなく、一部が老菌化していましたが、ほかはつやつやと珊瑚のように輝いていました。

 ハナビラタケを検索してみると分かるのですが、ベータグルカンの含有量が非常に高く、がん予防効果や抗がん作用があるとかで、人工栽培もされています。しかし、天然物は貴重で幻のきのこといわれているのです。標高1000m以上の亜高山にはえるとあるのですが、私の知っている限りではこの北信濃では500mぐらいの里山でも見られます。とはいえ数は少なくやはり貴重なものであることには違いありません。日本には1科1種しかありません。

 このハナビラタケは、他のきのこがあまり生えないヤニの強い赤松、樅、落葉松などの切り株などにはえます。そのため木の風味が強く感じられるきのこです。今回は定番の天ぷらにしましたが、まさにハナビラタケは木の子。森を食べているという深い味でした。風味は天然物には及ばないでしょうが、栽培物は容易に入手できます。

 がん予防効果や抗がん作用では、コフキサルノコシカケが有名ですが、希少価値ということでは、こちらの方がずっと上でしょう。写真のものは、我が家の山に出たものですが、約30年ものだと思われます。

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草刈りの合間にクスサンの終齢幼虫発見!(妻女山里山通信)

2010-07-09 | アウトドア・ネイチャーフォト
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  梅雨の最盛期を迎える7月は、山も畑も草刈り・除草のシーズンです。今年の様に多雨が続くと、刈っても刈っても旺盛に生えてきて賽の河原の石積み状態。特にこの季節につる植物と帰化植物を繁茂させてしまうと、開花し結実してしまうので、いっそう大変なことになります。時間を見ては山に通う日々が続きます。汗でどろどろになるのは平気ですが、長袖を着ていても草のつゆでかぶれます。猫に草刈りができるなら、猫の手も借りたい毎日です。どこかに草刈正雄ではなく草刈玉とかいないですかね。

 ブタクサ、アレチウリ、セイタカアワダチソウ、ヨウシュヤマゴボウ、カモガヤあたりが主な駆除すべき帰化植物ですが、実はこれ以外にも山ほどあります。さらに日本のものでもクズ、ヤマフジ、ミツバアケビなどは異常繁殖すると樹木を覆い尽くし立ち枯れさせるほか、イノシシやクマなどの野生動物の隠れ場所となり、里への被害を大きくする原因ともなるので適度に駆除しないといけません。近年首都圏でもこのクズが新興住宅地の斜面やフェンスに異常繁殖しているのがよく見られます。

 これらの駆除は危険もともない本当に大変な作業ですが、一番はやはりハチでしょう。草むらの低い位置に営巣するムモンホソアシナガバチの被害が最も多いのですが、スズメバチの仲間が最も恐怖で、オオスズメバチとなると命の危険もあり、最も注意しなければならない相手です。これに比べればヤブ蚊や日向ぼっこしているヤマカガシなどはかわいいものです。マムシは要注意ですが・・・。

 そんな草刈りをしている最中に、木の枝にゆっくりと動く大きな毛虫が目にとまりました。長い白い毛と水色のスポットがきれいなクスサンの幼虫です。ぐっさんではなくクスサンは、ヤママユガ科の大きな蛾です。仲間には天蚕の繭を作るヤママユガや、黄緑色のきれいな繭を作るウスタビガなどがいます。東京の街なかで見つけたオオミズアオも同じ仲間です。女子高生が「なーにこれえ!!」と指差していました。

 このクスサンの幼虫は、楠の木の葉を食べるためクスサンと命名されたようですが、クリ、カキ、リンゴ、クヌギ、コナラ、イチョウ、ヌルデ、カエデなども食するようで、時に大発生して甚大な被害をもたらします。白く長い毛から白髪太郎、栗虫、栗毛虫などとも呼ばれます。この終齢幼虫は毒毛虫ではないので白い毛に触れても大丈夫です。昔はこの幼虫の5mもある長い腸をとりだして、釣りのテグス(天蚕糸)として使ったそうです。成虫ははねを広げると10センチ近くもありますが、口が退化してありません。そのため8-9月に出現するとなにも食べずに交尾出産するとすぐに死んでしまいます。

 繭はよく山に落ちているのですが、編み目模様で透けていることから透かし俵と呼ばれます。さなぎはゆでて食べると美味しいらしいのですが、まだ食したことはありません。たぶん蚕のさなぎと同じような味だと思います。昆虫食は決して下手物料理ではありません。中国や韓国では蚕のさなぎが普通に食べられています。新大久保の韓国料理屋に行けばポンテギ(蚕のさなぎ煮)が食べられます。中華街の食材店でも売られています。日本でも信州は昆虫食のメッカです。観光地や道の駅などで瓶詰めや缶詰が売られています。世界中の人が昆虫食をすれば食料問題はなくなるという専門家もいます。本当に食料危機が来たら、昆虫色ができるかどうかが生死の分かれ目になるかもしれません。機会があったらぜひお試しください。

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上杉謙信の陣場平に眠る積石塚古墳!(妻女山里山通信)

2010-07-07 | 歴史・地理・雑学
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 展望台と戊辰戦争以降の戦没者を慰霊する招魂社のある妻女山は、戦国時代は赤坂山と呼ばれていました。そこから20分ほど林道を登ると古くは東風越と呼ばれた長坂峠に着きます。ここで道は二手に分かれ、右へ行くと2分ほどで斎場山古墳のある斎場山があります。ここは旧妻女山で、謙信が本陣としたと伝わる場所です。左へ行くと5分ほどで崖状の段差に突き当たり道は右へ折れますが、この上には広い台地が広がっており、そこが地元では上杉謙信が陣小屋を築いたとされるところで、陣場平と呼ばれています。

 『甲陽軍鑑』の編者とされる小幡景憲彩色の「河中島合戰圖」が、東北大学附属図書館狩野文庫画像データベース にあります。「河中島合戰圖 」で検索すると一番目に出てきます。パーツに分かれていますが、その中に山の中に「謙信公後陣所」 と書かれた黄色い線で囲まれた絵があります。中には七棟の陣小屋(陣城)が描かれています。ここが陣場平です。

 陣場平は、上杉謙信斎場山布陣想像図を見ていただくと分かるのですが、戦後すぐはまだ畑地でした。桑畑、薬草バイモの畑、梅園などです。現在は手入れのされない植林地や雑木林、荒れ地になっています。そんな陣場平の片隅に、こんもりとした丸い丘があります。去年、茂った草を刈りとってみると、大室古墳群にあるような積石塚古墳と思われるものが出てきました。ここから西へ下った所に、千曲市側に堂平古墳群があり、その奥には積石塚古墳群があります。それと非常によく似たものでした。

 今回、灌木が生い茂ってしまったので除伐に行きました。草刈りをし、灌木を切り払うと積石塚の形がきれいに浮かび上がりました。そしてその北側5mぐらい外側をぐるっと取り囲む様に半円形の石垣で作られた墳丘裾が取り巻いていることが確認できました。戦後すぐの航空写真でも、この部分は畑ではなく森になっています。謙信が陣小屋をここに築いたとすれば、その時もこの場所だけは壊さずにおいたということなのでしょう。神聖な古代の墳墓という言い伝えがあったのでしょうか。それとも、陣場平一帯が積石塚古墳群で、陣小屋を建てた時にこのひとつを除いて、他は全て破壊して小屋建設に使ったのかも知れません。前記の堂平積石塚古墳群は、かなりの古墳が古い時代に壊されて、畑の土留に使われた形跡があります。
 この積石塚は大室古墳群と同時期のものでしょうか。また、大室と同様に馬の放牧の技術をもたらしらといわれる渡来人との関係があるのかもしれません。地元でも知る人はなく、長野市の史跡にも指定されていませんが、この上にある清野古墳との間の塚も含めて、いずれ発掘調査されるよう広めて行きたいと思います。

 そんな帰りの山道で、杉の丸太に白いものを見つけました。粘菌かと思い近づくとタマツノホコリの子実体でした。ちょうど単細胞期(移動体期)から多細胞期(集合期)に変わったばかりで、丸太の側面にはまだ単細胞期の半透明なゲル状のものがありました。梅雨の今時は、粘菌が活発になる季節です。以前息子達と国立科学博物館でモジホコリをもらい、粘菌ペット「もじ太郎」と名前をつけて飼っていたことがあります。餌はオートミールです。シャーレからはみだしてしまったり、なかなか面白いペットでした。

 写真には小さな甲虫が写っていますが、ハムシの一種と思われます。粘菌は小さな虫の餌になることもあるらしく、コマメホコリの未熟をテントウムシの幼虫が食べているのを撮影したことがあります。ベニホタルの仲間も粘菌ではよく見かけます。餌として食べている虫の研究はあまり進んでいないようですが、食餌のムービーや、糞の解析などでいずれは判明するでしょう。また、粘菌がどれほど栄養価があるかは知りませんが、場合によっては人類を救う食料になるかもしれません。もっとも、ここに布陣していたかもしれない謙信や武将たちには粘菌など目に入らなかったでしょうが・・・。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。粘菌もこちらで。

★古墳巡りルポ
08/08/10 森将軍塚古墳・大室古墳群ルポ
08/12/13 堂平大塚古墳・斎場山古墳・土口将軍塚古墳ルポ
09/04/09 森の春のあんず祭(古墳遠望)

★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」など。このブログでも右下で「妻女山」での検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。
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山が読めますか? と座頭虫(妻女山里山通信)

2010-07-05 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 今年の梅雨は、信州にしては珍しく多雨でジメジメとした毎日が続いています。そのせいで里山の草木は成長が旺盛です。一番上の写真ですが、この写真からどれだけの情報が読み取れるでしょうか。山に対するリテラシー(読解力)がないと緑がきれいだなぐらいしか思わないかもしれませんね。

 実はこの森の風景は一年前の同じ季節とはまったく異なった風景に変わっているのです。手前にぶら下がっている枯れたつるが見えます。左向こうの森に枯れた色の部分があるのが見えると思います。これはいずれも冬に私が除伐した跡なのです。除伐したのは山藤と三つ葉通草。どちらもつる植物で、ヤマフジは、花、新芽、実と食べられる山菜です。ミツバアケビの実は、ひき肉をつめてソテーすると大変美味です。

 しかし、この二種とも繁殖力が半端なく旺盛で、放っておくと木々にからみついて繁茂し、葉を覆い隠してしまうため、取り付かれた樹木は、光合成ができずにやがて立ち枯れしてしまいます。写真の空き地(ギャップ)にも大きな木があったのですが、立ち枯れてヤマフジとともに倒れてしまいました。去年の今頃は、写っている木々がつる植物で覆われ鬱蒼としていました。

 昔は、ヤマフジやミツバアケビのつるは、木山で毎年刈りはらわれたり、薪の結束に使ったり、工芸細工に使ったりしましたが、人々の暮らしが山から遠ざかるとともに異常に繁茂し始め、山を荒らす原因の大きな要因になりました。ナツヅタやフユヅタは、木を絞め殺すことはないのですが、ヤマフジやミツバアケビは時に木を絞め殺してしまいます。ですから、里山再生の第一歩は、木を植えることではなく、こういったつる植物の除伐から始まるのです。さらに近年は、帰化植物も奥山まで入り込んでおり、それらの駆除も深刻な問題となってきています。

 そんな梅雨の里山を歩いていると、やたらと脚の長い不思議な虫に出会います。節足動物門鋏角亜門クモ綱ザトウムシ目の座頭虫です。V字に折れた細く極端に長い脚の真ん中に豆粒ほどの身体がある不思議な虫です。クモのようですが、どちらかというとダニに近い仲間です。肉食で虫を食べたり体液を吸ったり、死んだ虫を食べたりするので「森の掃除屋さん」と呼ばれたりします。普通に森を歩いていると目に入らないような大きさです。写真のものは、椎茸の傘の上にいました。

 ナショナル・ジオグラフィックのサイトに「ザトウムシの奇抜な生態」という面白いムービーがありました。アブラムシの体液を吸っています。ハンミョウが現れて壮絶なバトルをするのですが、トカゲの尻尾切りのように自らの脚を切断して逃走します。確かに自然界で見るザトウムシは、脚が欠損しているものが多く見られます。今回撮影したザトウムシは、8本そろっていますが珍しいといえるほどです。今まで撮影したものはほとんどが1、2本脚が欠損しているものばかりでした。

 このザトウムシ、アメリカではあしながおじさん(Daddy Longlegs)と呼ばれています。「千と千尋の神隠し」の釜爺(かまじい)のモデルであり、また「新世紀エヴァンゲリオン」のマトリエルのモデルとなっています。どこかSF的なプロポーションの不思議な虫です。日本で80種類以上、世界では4000種類もいるそうです。座頭虫と書きますが、目はあって大方のクモの様に8つではなく、身体前部の上の突起の両側に一対の簡単な目があります。

 スタジオ・ジブリの最新作は、「借りぐらしのアリエッティ」ですが、身長10センチの女の子は、虫の目線ですね。鬱蒼とした森の中で、地面すれすれに低くなってマクロ撮影をしていると、ふと自分が虫になったような気がするときがあります。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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オカトラノオの描く青海波(妻女山里山通信)

2010-07-03 | アウトドア・ネイチャーフォト
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  前述したコガタスズメバチ(小形雀蜂、Vespa analis)の巣を除去しました。巣が巨大化しハイカーが襲われるのを防ぐためですが、除去には少し苦労しました。最初は、カラス除けの細いひもを巻いて遠くから引いて落とそうとしましたが失敗。フックの着いた長い棒で引っ張って落としました。簡単に落ちましたが女王蜂が立ち去らないため別の場所で草刈りをすることに。しばらくして戻ると巣は放棄されていました。巣は長さが15センチ、球形の直径が8センチ位ですが、厚さはまだ1ミリほど。柔らかく非常に華奢なものでした。まだ卵は産みつけておらず空でした。また同じところに営巣しないようにと周囲の草刈りをしました。今度はもっと人目のつかないところに作ってくれよと思いながら帰路につきました。やれやれです。

 草刈りの最中に、林道脇にオカトラノオ(丘虎の尾:Lysimachia clethroides)の群生がありました。この花が咲きだすと梅雨は最盛期を迎え、夏も遠からじと思わせます。オカトラノオは、みな同じ方向を向いて咲きます。大きな群生地では、花穂(かすい)の波うつ様子がまるで丘の青海波(せいがいは)のように見えるほどです。虎の尾というように獣のしっぽに見えない事もありませんが、そんな勇猛な花名より、清純な恋という花言葉が似合う清楚で可憐な野草です。梅雨の里山でこの純白の花穂が一斉に揺れる様は、一時蒸し暑さを忘れさせてくれます。

 このオカトラノオ、従来の分類体系(新エングラー体系)ではサクラソウ科なのですが、APG植物分類体系ではヤブコウジ科なんですね。どうにもあの赤い実を付ける低木のヤブコウジと同じ仲間とは思えず、人間は猿の仲間ではなくイボイノシシの仲間ですといわれたような気分で、なんとなく釈然としないのですが、DNAレベルでみるとそうなんですね。

 青海波は、中国の内陸部の青海地方の民族文様を起源とするものです。海のないところなので、琵琶湖の6倍の広さがある塩水湖、青海湖がその波のモデルなのでしょうか。青海湖で画像検索すると、本当に美しい湖の写真がたくさん出てきます。永遠に続く波の様に平穏な日々が続きます様にという願いが込められた文様だそうです。

 去年より出現が遅れていますが、まもなく信州の里山では、色々な蝶が舞い始めます。アサギマダラも里に下り始めてきました。北信濃の蝶は、MORI MORI KIDSの「ゼフィルスの饗宴」に特集してあります。たくさんの蝶が吸蜜に花々を舞い訪れる様は、まさに響宴というより饗宴です。捕虫網での捕獲と違い、蝶のマクロ撮影は忍耐の連続ですが、気配を殺して3センチまで接近撮影できたときの喜びは格別で、撮影後蝶に向かって思わずありがとうと言ってしまうほどです。保護のために撮影場所は書いてありませんが、みなが蒸し暑いし蜂やブユ、ヤブ蚊に蛇もいるのでと訪れない梅雨の里山では、こんな饗宴が毎日繰り広げられているのです。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。

★夏の信州のトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】をご覧ください。
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