今夜は寒いけれど、例年になく冷え込みの少ない信州、紅葉の進み具合も遅く、林下にはまだ緑がたくさん残っています。そんな日曜日の遅い午後、妻女山と千曲川を巡ってみました。晩秋の山の日暮れは早く、3時を過ぎると山は暮れ始めます。
一枚目のカット。長坂峠(東風越)の先から逆光の夕日に染まる斎場山(旧妻女山513m)を見たところ。第四次川中島合戦で上杉謙信が最初に本陣としたのはこの山頂にある円墳の上です。展望台と招魂社のある現在の妻女山(旧赤坂山)を、本陣と勘違いしている人が多いのですが、それは間違いです。
逆光に写っているのはコナラの森ですが、西面の低木はヤマコウバシで、冬になっても落葉せず、葉が残ります。このコナラの森は夏になると国蝶のオオムラサキが乱舞します。この辺りの里山ではどこでもそうです。珍しい事ではありません。よく燕を追い立てている追尾飛行も見られます。
斎場山と妻女山に関しては、私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」が、ある程度認知されてきたためか、現在の妻女山だけでなく斎場山まで脚を延ばす人が増えました。相変わらず現在の妻女山(赤坂山)を本陣と勘違いしている情弱な方もいますが・・。斎場山へは、駐車場の奥の林道入り口に新しい案内看板も立てたので迷う事はないと思いますが、雨後や積雪時は車は無理です。枯葉がカラカラに乾いている時も危険です。雪より滑ります。冬期は高速のトンネル手前に駐車して徒歩でどうぞ。毎年すぐ上の謙信槍尻の泉のカーブで自損事故を起こす車が絶えません。冬の轍は、猪狩りのハンターの4WDのものです。一般の人はスタッドレスでも厳しい。信州の冬をなめてはいけません。
二枚目は、長坂峠から5分ほど登った陣場平の落葉松の黄葉。晩秋の軽井沢などを歩いたことがある人は経験あると思いますが、北風が吹くと落葉松の枯葉の雨がチリチリと音をたてて一斉に降り注ぎます。落葉松の雨が降り注いだ林道は、黄土色から橙色に染まります。陣場平は、武田信玄が海津城に全軍を入れた後で、上杉謙信が七棟の陣城を築いたとされる高原の平地です。春は茶花にも人気の編み笠百合が咲き乱れます。昔、薬草畑だったのです。
武田の『甲陽軍鑑』の編者といわれる 小幡景憲の『河中島合戰圖 』には、陣場平に造られた陣城の絵が描かれています。当時はもちろん落葉松などなく、木は切り払われていたことでしょう。尚、この陣場平の北西の角にはひとつだけ積石塚古墳が残っています。当時はもっとたくさんあったと思われますが、陣城を造る為に壊されたのでしょう。明治以降は畑として利用されました。
三枚目は、そこから分岐を堂平大塚古墳方面へ下って西面のコナラの斜面を撮ったもの。低木はヤマコウバシ。ヤマザクラ、ダンコウバイも。斜面には等高線に沿ってニホンカモシカが作った獣道が何本かあります。獣道を辿って歩いていて鉢合わせしたこともあります。例年の11月下旬なら、落葉はもっと進んでいて、麓の風景が見えているはずです。妻女山山系には、いわゆるモミジと称されるイロハモミジやヤマモミジがほとんどありません。ほとんどがカラコギカエデで、稀にハウチワカエデがある程度。カエデの種類が豊富な西山の茶臼山とは対照的です。
四枚目は、戻って長坂峠(東風越)から川中島、戸隠方面を見たところ。樹木のシルエットと背景のグラデーションが、そのまま着物の柄に使えそうなほど美しい。英のウィリアム・モリス(モダンデザインの父)か、リバティ・プリントの模様にも見えます。自然は偉大な芸術家です。高い木はコナラ、ヤマザクラ、ハリギリなど。猪の獣害対策で除伐したため、見通しがよくなっています。確かに麓に下りて来なくなりましたが、この峠辺りでは歩いているのを見かけました。狐や狸とも遭遇します。
山を下って千曲川の畔へ。5枚目は土口水門の辺りから撮影した北アルプスの夕影。爺ヶ岳(左)と鹿島槍ヶ岳(右)。鹿島槍は、今時の子供達なら「ととろ山」と呼びそうな猫耳の双耳峰が特徴。ススキの白い穂が、川風に揺れています。草むらには雉や狐が隠れていて鳴き声が響く事もあります。野鼠もたくさんいて、街の飼い猫達も狩りによくやってきます。沈む夕日を猫がボーッと見ているなんてこともあります。夜になると塒(ねぐら)や飼い主の家へと帰るのです。
最後は残り日の映り込む千曲川。外来魚のバスを釣るのか、大きな鯉狙いか、釣り人が何人も来て竿を投げていました。千曲川は、この辺りで最も流速が遅くなるため川港に最適で、古代科野国もこの辺りに造られました。昔は帆船が浮かび、「川中島八景」のひとつ「千曲川帰帆」といわれました。あと七つは、妻女山秋月、茶臼山暮雪、猫ヶ瀬落雁、八幡原夕照、勘助塚夜雨、典厩寺晩鐘、海津城晴嵐です。
「川中島八景」について説明しましょう。
妻女山秋月。現在は夕焼けのビューポイントとして有名で、カップルがよく訪れますが、江戸時代は観月の名所だったようです。
茶臼山暮雪。茶臼山は北東の北風が吹き付けるので、妻女山になくても茶臼山が真っ白ということはよくあります。西日に映えて逆光に光る茶臼山は美しいものです。江戸時代はまだ南峰が崩壊していなかったので、おっぱい型の美しい双耳峰が見られたはずです。
猫ヶ瀬落雁。猫ヶ瀬は、現在の松代SA辺りにあった猫でも渡れるほどの浅い瀬。浅いので雁もたくさん集まったのでしょう。
八幡原夕照。有名な川中島合戦の古戦場です。八幡社があり、史跡公園になっていて市立博物館があります。松林越しに見る北アルプスに沈む夕日は一見の価値があります。敷地の東の千曲川の堤防上を歩くのがおすすめです。
勘助塚夜雨。その対岸の堤防を下りたところに山本勘助の墓があります。勘助塚夜雨といいますが、雨の夜に訪れるのは、ちょっとおすすめできません。勘助の亡霊が出るかも・・。
典厩寺晩鐘。八幡原から35号線を少し南下し、釜飯のおぎのやの交差点を右折すると典厩寺入り口。武田信玄の弟、信繁が八幡原で討死したことに因み、合戦から60年後、元和八年(1622)、松代藩主真田信之が信繁の官職「左馬助」の唐名「典厩(てんきゅう)」から寺号を典厩寺と改めて菩提を弔ったものです。閻魔堂には東洋一大きいといわれる閻魔大王像があります。小学校低学年の頃に遠足で訪れて閻魔像を見たために、夜幾晩も夢に見てうなされました。
海津城晴嵐。現在の松代城のこと。昔から桜の名所だったので、晴嵐とは満開の桜が春風で舞い散る様をいうのでしょう。元々村上の筋である土豪、清野氏の館を山本勘助が築城したということです。現在は松代城と言いますが、近年改修されるまでは、海津城と言ってました。幕末から明治維新にかけての真田への反感があったのかもしれません。海津というのは松代の古名で、妻女山の会津比売命(あいづひめのみこと)のあいづが語源という説もあります。
会津比売命は、神武天皇の後裔、信濃国造、武五百建命(たけいおたつのみこと)の妻で、諏訪大社祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の孫です。この地の産土神(うぶすながみ)です。
●古代科野の国の建国を巡る王家の系図
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
∥
大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命
明朝は-2度の予報。少し冷え込みそうです。まもなく本格的な冬が始まります。
■妻女山から斎場山への行き方
■妻女山から陣場平への行き方
■ガイドに載っていない川中島合戦の史跡!
■『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証
■時に笑える『地名辞典』における妻女山の記述 その1 ■その2 ■その3
一枚目のカット。長坂峠(東風越)の先から逆光の夕日に染まる斎場山(旧妻女山513m)を見たところ。第四次川中島合戦で上杉謙信が最初に本陣としたのはこの山頂にある円墳の上です。展望台と招魂社のある現在の妻女山(旧赤坂山)を、本陣と勘違いしている人が多いのですが、それは間違いです。
逆光に写っているのはコナラの森ですが、西面の低木はヤマコウバシで、冬になっても落葉せず、葉が残ります。このコナラの森は夏になると国蝶のオオムラサキが乱舞します。この辺りの里山ではどこでもそうです。珍しい事ではありません。よく燕を追い立てている追尾飛行も見られます。
斎場山と妻女山に関しては、私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」が、ある程度認知されてきたためか、現在の妻女山だけでなく斎場山まで脚を延ばす人が増えました。相変わらず現在の妻女山(赤坂山)を本陣と勘違いしている情弱な方もいますが・・。斎場山へは、駐車場の奥の林道入り口に新しい案内看板も立てたので迷う事はないと思いますが、雨後や積雪時は車は無理です。枯葉がカラカラに乾いている時も危険です。雪より滑ります。冬期は高速のトンネル手前に駐車して徒歩でどうぞ。毎年すぐ上の謙信槍尻の泉のカーブで自損事故を起こす車が絶えません。冬の轍は、猪狩りのハンターの4WDのものです。一般の人はスタッドレスでも厳しい。信州の冬をなめてはいけません。
二枚目は、長坂峠から5分ほど登った陣場平の落葉松の黄葉。晩秋の軽井沢などを歩いたことがある人は経験あると思いますが、北風が吹くと落葉松の枯葉の雨がチリチリと音をたてて一斉に降り注ぎます。落葉松の雨が降り注いだ林道は、黄土色から橙色に染まります。陣場平は、武田信玄が海津城に全軍を入れた後で、上杉謙信が七棟の陣城を築いたとされる高原の平地です。春は茶花にも人気の編み笠百合が咲き乱れます。昔、薬草畑だったのです。
武田の『甲陽軍鑑』の編者といわれる 小幡景憲の『河中島合戰圖 』には、陣場平に造られた陣城の絵が描かれています。当時はもちろん落葉松などなく、木は切り払われていたことでしょう。尚、この陣場平の北西の角にはひとつだけ積石塚古墳が残っています。当時はもっとたくさんあったと思われますが、陣城を造る為に壊されたのでしょう。明治以降は畑として利用されました。
三枚目は、そこから分岐を堂平大塚古墳方面へ下って西面のコナラの斜面を撮ったもの。低木はヤマコウバシ。ヤマザクラ、ダンコウバイも。斜面には等高線に沿ってニホンカモシカが作った獣道が何本かあります。獣道を辿って歩いていて鉢合わせしたこともあります。例年の11月下旬なら、落葉はもっと進んでいて、麓の風景が見えているはずです。妻女山山系には、いわゆるモミジと称されるイロハモミジやヤマモミジがほとんどありません。ほとんどがカラコギカエデで、稀にハウチワカエデがある程度。カエデの種類が豊富な西山の茶臼山とは対照的です。
四枚目は、戻って長坂峠(東風越)から川中島、戸隠方面を見たところ。樹木のシルエットと背景のグラデーションが、そのまま着物の柄に使えそうなほど美しい。英のウィリアム・モリス(モダンデザインの父)か、リバティ・プリントの模様にも見えます。自然は偉大な芸術家です。高い木はコナラ、ヤマザクラ、ハリギリなど。猪の獣害対策で除伐したため、見通しがよくなっています。確かに麓に下りて来なくなりましたが、この峠辺りでは歩いているのを見かけました。狐や狸とも遭遇します。
山を下って千曲川の畔へ。5枚目は土口水門の辺りから撮影した北アルプスの夕影。爺ヶ岳(左)と鹿島槍ヶ岳(右)。鹿島槍は、今時の子供達なら「ととろ山」と呼びそうな猫耳の双耳峰が特徴。ススキの白い穂が、川風に揺れています。草むらには雉や狐が隠れていて鳴き声が響く事もあります。野鼠もたくさんいて、街の飼い猫達も狩りによくやってきます。沈む夕日を猫がボーッと見ているなんてこともあります。夜になると塒(ねぐら)や飼い主の家へと帰るのです。
最後は残り日の映り込む千曲川。外来魚のバスを釣るのか、大きな鯉狙いか、釣り人が何人も来て竿を投げていました。千曲川は、この辺りで最も流速が遅くなるため川港に最適で、古代科野国もこの辺りに造られました。昔は帆船が浮かび、「川中島八景」のひとつ「千曲川帰帆」といわれました。あと七つは、妻女山秋月、茶臼山暮雪、猫ヶ瀬落雁、八幡原夕照、勘助塚夜雨、典厩寺晩鐘、海津城晴嵐です。
「川中島八景」について説明しましょう。
妻女山秋月。現在は夕焼けのビューポイントとして有名で、カップルがよく訪れますが、江戸時代は観月の名所だったようです。
茶臼山暮雪。茶臼山は北東の北風が吹き付けるので、妻女山になくても茶臼山が真っ白ということはよくあります。西日に映えて逆光に光る茶臼山は美しいものです。江戸時代はまだ南峰が崩壊していなかったので、おっぱい型の美しい双耳峰が見られたはずです。
猫ヶ瀬落雁。猫ヶ瀬は、現在の松代SA辺りにあった猫でも渡れるほどの浅い瀬。浅いので雁もたくさん集まったのでしょう。
八幡原夕照。有名な川中島合戦の古戦場です。八幡社があり、史跡公園になっていて市立博物館があります。松林越しに見る北アルプスに沈む夕日は一見の価値があります。敷地の東の千曲川の堤防上を歩くのがおすすめです。
勘助塚夜雨。その対岸の堤防を下りたところに山本勘助の墓があります。勘助塚夜雨といいますが、雨の夜に訪れるのは、ちょっとおすすめできません。勘助の亡霊が出るかも・・。
典厩寺晩鐘。八幡原から35号線を少し南下し、釜飯のおぎのやの交差点を右折すると典厩寺入り口。武田信玄の弟、信繁が八幡原で討死したことに因み、合戦から60年後、元和八年(1622)、松代藩主真田信之が信繁の官職「左馬助」の唐名「典厩(てんきゅう)」から寺号を典厩寺と改めて菩提を弔ったものです。閻魔堂には東洋一大きいといわれる閻魔大王像があります。小学校低学年の頃に遠足で訪れて閻魔像を見たために、夜幾晩も夢に見てうなされました。
海津城晴嵐。現在の松代城のこと。昔から桜の名所だったので、晴嵐とは満開の桜が春風で舞い散る様をいうのでしょう。元々村上の筋である土豪、清野氏の館を山本勘助が築城したということです。現在は松代城と言いますが、近年改修されるまでは、海津城と言ってました。幕末から明治維新にかけての真田への反感があったのかもしれません。海津というのは松代の古名で、妻女山の会津比売命(あいづひめのみこと)のあいづが語源という説もあります。
会津比売命は、神武天皇の後裔、信濃国造、武五百建命(たけいおたつのみこと)の妻で、諏訪大社祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の孫です。この地の産土神(うぶすながみ)です。
●古代科野の国の建国を巡る王家の系図
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
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大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命
明朝は-2度の予報。少し冷え込みそうです。まもなく本格的な冬が始まります。
■妻女山から斎場山への行き方
■妻女山から陣場平への行き方
■ガイドに載っていない川中島合戦の史跡!
■『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証
■時に笑える『地名辞典』における妻女山の記述 その1 ■その2 ■その3





