三日目の続きです。お昼ごはんを食べに信濃町へ戻ります。午後は、能生からの帰りに見つけた、国道沿いの看板が草に半分埋もれた縄文資料館が気になったので行ってみます。その前に、関川関所道の歴史館へも。
斑尾高原から野尻湖に戻る道すがら。古海(ふるみ)の水田と集落越しに見る斑尾山。その名前から、古代は湖だったのかもしれません。現在は、関川へ古海川が流れています。左には村社の信隈最上古海神社があります。珍しい名前ですね。立ち寄ればよかった。空腹に勝てませんでした。信州の隅っこの最上の神社という意味でしょうか。祭神は?
(左)信濃町の国道18号沿いにあるレストラン樹香へ。天ざるを。古式製法の腰のある細い蕎麦は、東京の大盛りか二人前はあります。天ぷらは、ぶりぶりの海老天二本に、大きなカボチャとナス、ピーマンとレンコンとキノコとボリュームたっぷり。(右)実は2日前にくるみ味噌ラーメンを食べてずっと使える100円割引券をいただきました。このラーメン美味しいのですが、洗面器の様な大きな丼で、少食な私は食べきれませんでした。野菜の量ももの凄くて、麺までたどり着くのが大変でした。信州では、大盛りにするのが昔からのおもてなしなんです。東京の感覚で不用意に大盛りを頼むと大変なことになります。
(左)そこから10キロ足らずで、新潟県の関川御関所。関川にかかる太鼓橋を渡ります。(右)太鼓橋から見る関川集落への橋と国道18号の橋。
(左)関川関所道の歴史館のジオラマ。地形を見ると、なぜ幕府がここに関所を置いたのかが分かります。(右)田切がどれほどの難所であったかも。館内には詳しい説明があります。
(左)旅をする夫婦でしょうか。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にある様に、お伊勢参りなど、庶民の旅も盛んになりました。60年に一度のおかげ参り、特に文政のそれは8人に一人が参拝の旅に出たという事実があります。庶民不満のガス抜きや文化の交流もあり、幕府にも止められなかったのでしょう。(右)携帯の品々。真ん中が銭入れ。その右上は矢立( 筆と墨壺)。右の大きな筒は、龕灯(がんどう)。中のろうそくが常に上を向くような構造になっています。
(左)関所の様子。奥には出女を調べる部屋があります。(右)入鉄炮出女(いりてっぽう・でおんな)は日本史で習ったと思います。出女とは、通常は私娼の一種。各地の宿場の旅籠にいて、客引きの女性で売春もした。ただ、幕府が江戸に留めおかせた諸侯の婦女(人質)が国元に逃げるのを防ぐのが、関所の最大の役目でもあったのです。その取り調べは相当に厳しいものであった様です。
(左)次に片貝縄文資料館へ。廃校になった小学校の三つの教室が展示室です。係の女性が案内してくれました。最近、宝島社の『最新調査でわかった日本の古代史』というムックを買ったのですが、古代史で新たな発見が相次いでいるのです。写真は縄文時代の女性想像図と土製の耳飾り。(右)石鏃(せきぞく)。黒曜石,ケイ岩,安山岩,粘板岩などの石で作られた鏃(やじり)です。これで猪や鹿を狩ったのでしょう。
(左)魚をとるための丸木舟。ここで偶然紹介された縄文学校の先生をされている博田さんと色々話したのですが、先般台湾からの渡来実験で、丸木舟で成功したニュースがありましたが、丸木舟が出土しているのに、その前に竹舟や葦の舟で失敗しているのがそもそも可笑しいと。まあ私もそう思いましたが。(右)素晴らしい土偶。肩や胸部の文様は、衣服ではなく入れ墨なのではないでしょうか。縄文人は、昔のアイヌの人達の様に入れ墨をしていたといいます。
(左)男根の様な石。底面には溝か穴があり女陰といわれています。豊穣多産のお守りでしょうか。(右)シャーマニズムの前、アニミズムの頃の埋葬。呪術や精霊の世界です。アメリカの先住民に弟子入りし、呪術師になるまでを記したカルロス・カスタネダの『呪氏に成るーイクストランへの旅』や、アイヌ民族のイヨマンテの儀礼を思い起こさせます。この世界のすべてのものに精霊が宿り、パラレルな存在であるという概念というか生き方。
1955年から1964年頃にかけて、アメリカ合衆国の文学界で異彩を放ったグループにビート・ジェネレーション(Beat Generation)がありました。ジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズなど多くの作家が傾倒しました。私も70年代の学生時代にたくさんの詩集や本を読みました。カウンター・カルチャーの源流で、日本で生まれたヒッピーやロックシーンに多大な影響を与えたのです。マイルス・デイヴィスやスタン・ゲッツなどのモダンジャズも、そういう時代背景を源に生まれたものです。若い人にこそ知ってほしい歴史です。
縄文学校の先生と色々話したのですが、私が話したのは縄文時代から古墳時代にかけての人口の変動と、大陸からの移住者の増大と、それに伴う文化人類学的な変化です。
歴史人口学の研究者、鬼頭宏氏の推計によると、
-----縄文時代の人口は約10万人~約26万人であり、弥生時代は約60万人だった。奈良時代は約450万人、平安時代(900年)には約550万人となり、慶長時代(1600年=関ケ原の合戦のころ)には約1220万人となった。-----
-----縄文時代前半に人口が増えたのは、このころ気温が上昇、日本列島に食料資源がふんだんに用意されたからだ。縄文人はクリなどの木の実やサケ、マスなどの 魚類を食べた。ところが、縄文時代中期から気温が下がり始め、落葉樹林の生産力が落ちる一方、西日本では照葉樹林が広がった。これが食料を減らし、人口を 減少させる原因になった。縄文時代の人口はピーク時26万人だったが、末期には8万人にまで減少したとみられている。
弥生時代に入ると再び増加に転じ、約60万人になる。大陸からの渡来人が持ち込んだ稲作の普及が主な原因だ。渡来人自体が人口増に貢献するとともに、稲作により食料が確保され、大量の労働力が必要になったことが増加の圧力になった。-----
大陸から新たな文化がもたらされたのは事実ですが、それは稲作や鉄生産の技術を携えて大量の渡来人が流入したことを意味すると考えられます。生物学的な自然の人口増の範囲を遥かに超えています。そこで必要なのは、どこの誰が入ってきたのかということです。
私は春秋戦国時代に登場する呉と越がその鍵を握っていると考えます(紀元後の三国志の呉とは異なります)。呉も越も海岸沿いでベトナムとの交易もしていたほど水運が発達していました。相当の航海術を持っていたと思われます。越により滅びた呉のエリート達が大量に日本に来たことが考えられるのです。広島県に呉市がありますが、まさにそれかと。また、和服を売る店を現在でも呉服店といいます。呉布、呉織という名で残っています。高度な文明が日本にもたらされたのではないでしょうか。紀元前480年頃のことです。それが出雲一族かもしれません。
その後、紀元前320年頃に越のエリート達が来訪した思われます。越中、越後にその地名が残っています。高志(越)の国ともいいました。魏志倭人伝にある奴国大乱は、その両者が戦ったことをいうのかもしれません。奴国大乱は、大和にあった邪馬台国が、北九州の奴国を滅ぼした戦ともいわれています。この日本にたかだか60万人の人口の時代に、あの様なジェノサイドと思われる壮絶な戦いをしたのにはそれなりの理由があると思われます。越後の鮫ヶ尾城麓にある斐太遺跡は、弥生時代後期の奴国大乱の時代に短期間に住まわれた避難的な集落で東日本最大級といわれています。越の人たちではないでしょうか。そして彼らはその後どこへ。おそらく科野国へも逃れたでしょう。
『中国正史 倭人・倭国伝全釈』鳥越憲三郎著。春秋戦国時代に国の滅亡ゆえに渡来した弥生人を中国正史から紐解いています。『魏志倭人伝』にあるように、倭人とは当時の日本人のことですが、『晋書』には、日本からの朝貢の者が、「我々は大伯の後(すえ)なり」と言っていることです。大伯とは古代中国春秋戦国時代の呉の開祖といわれる人物です。日本に渡来した弥生人が彼らです。
更に、紀元前200年頃に、秦に失われた古代ユダヤの一族ともいわれる、徐福を長とした3000人ほどの集落がありました。彼は秦の始皇帝に、日本へ不老不死の薬を探しに行くと言って毎年村人を渡らせ、最終的には全員が日本へ行きました。そして誰も戻りませんでした。秦の始皇帝を騙したのです。しかし、一箇所にいては秦の始皇帝に滅ぼされる危険があるので全国に散らばりました。徐福伝説が全国にある所以です。彼らは高度な技術者集団と共に来訪しました。物部氏の祖という説もあります。そして彼らが大和一族の祖という説があります。飯縄権現の祭神は白狐に乗った烏天狗ですが、それが古代ユダヤ人ともいわれます。秦氏、羽田氏、本多氏、本田氏、波多氏 波田氏、畑氏などは、その系列ともいわれています。
諏訪氏や諏訪大社、善光寺にある守屋柱など、古代ユダヤとの関連を思わせる名前や建築物、祭祀がたくさんあります。ユダヤ教にのシンボル、ダビデの星(六芒星)を記した神社(例えば伊勢神宮)がなぜ存在するのか。古代科野国の始まりは、崇神天皇に初代信濃國造に任命された大和系の武五百建命(たけいおたつのみこと)で、妻は出雲系の会津姫命(會津比賣命・あいづひめのみこと)です。会津は、福島の会津とも深い関係があります。これらは、日本が縄文時代から弥生時代に移る長い期間の話です。真剣に研究する対象になる事案だと思われます。
『古代史の謎は「鉄」で解ける』竹村公太郎著。日本に多大な影響を与えた高句麗のことが詳しく書かれています。滅びた高句麗の人々が信州や関東にたくさん渡り定着しました。長野市の篠ノ井や東京の狛江は高句麗に由来します。篠ノ井は、高句麗から渡来した豪族の篠井氏が名の由来です。高句麗の王族、前部秋足(ぜんぶのあきたり)が延暦18年(799)に篠井性を下賜(かし)されています。それが現在の篠ノ井の名称の元でしょう。この時、多くの高句麗の豪族が帰化しています。高句麗人はツングース系で馬産と石の文化を持ち、現在の半島の人とは異なります。長野市には高句麗式積石塚古墳として大室古墳群が、多くが破壊されましたが妻女山にもあります。千曲市には堂平積石塚古墳群があります。この本ではなぜ色々なスタイルの古墳があるのかについても言及しています。弥生時代から古墳時代にかけて、大量の移民があったということです。それは、60万人から400万人へと、当時の激烈な人口動態をみれば分かります。
■科野国造 武五百建命と妻 会津比売命の家系図(諸説あり)
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)
黒板に無造作に描かれた人類の歴史が、非常に分かりやすい。一番右にアフリカで人類が誕生とありますが、最新の学説では、人類は複数の場所で同時多発的に発生したといわれています。第四紀学会編、東京大学出版会刊行の『図解・日本の人類遺跡』という1992年出版の本があるのですが、もう一度じっくりと読み直してみようと思います。旧石器時代から奈良時代末までの道具の組み合わせ、生産、住居・集落、墓制、祭祀を基本として図示した貴重な本です。形而下での分析が、新たな相似率の発見から歴史分析につながるかもしれません。
(左)発掘された縄文式土器の数々。(右)別の教室には、縄文学校で地元の人達が作り焼いた縄文式土器が展示されています。これが非常に素晴らしい。地元の方たちの郷土愛、縄文愛を感じます。一階の教室では夏休みの子供達が書道教室を開いていました。
ここまで来たので再び道の駅のきときと寿しへ。信州ではありえない安いガソリンを給油して、苗名の湯に入ってから道の駅しなのに戻りました。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。
Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
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