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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

あんずの里・森のあんずが咲き始めました。今週末から見頃。陣馬平の貝母もスクスク成長(妻女山里山通信)

2016-03-31 | アウトドア・ネイチャーフォト

 色々雑用に追われ、そうだ節分草を忘れていると気がつき千曲市の杉山の群生地へ。この冬は降雪も少なく春が早かったので、咲き終わっていました。それでも丹念に探すとちらほらと咲いています(左)。週末の妻女山里山デザイン・プロジェクトで飲食に使うため、縄文の名水を汲みに林道芝平樽滝線を登ります。全面舗装ですが、今年は落石がもの凄い。残雪もありました(中)。
 樽滝で鳥を撮影の男性に邂逅。縄文の名水で再び出会い色々話しましたが、なんと猿の群れが上の森に出現。右に行ったり左に行ったり。声はすれども姿は見えず。なんで立ち去らないのだろうと思いましたが、彼と別れて車を走らせていて、そうか!と思いつきました。縄文の名水を飲みに来ていたのです。我々がいたので、下りて来られず、水が飲めずに悲しそうな声を出していたのです。我々が去った後、やっと甘露にありつけたことでしょう。
 あんずの里へ下る林道で綺麗なヤマドリの雄に遭遇。その後でニホンカモシカに遭遇(右)。春ですねえ。

 森のあんずは三分咲き(左)。わずかに満開のもありました(中)。スケッチパークの近くに御柱(右)。

 週末まで暖かい日が続く予報なので、見頃になるかもしれません。開花情報は、千曲市観光課のサイトで確認を。いい撮影ポイントを見つけるには、とにかく歩くことです。拙書『信州の里山トレッキング 東北信編』でもあんずの里を紹介しています。

 翌日は妻女山奥の陣馬平へ。貝母(編笠百合)もかなり大きくなってきました。これは例年より開花が早そうです。

 あちこちで日向ぼっこするヒオドシチョウがたくさん見られます(左)。サンシュユ(山茱萸)の花(中・右)。中国や朝鮮半島の原産で江戸時代に薬用として輸入。補腎、強壮薬、めまい、耳鳴り、インポテンツ、遺精、頻尿、老人の夜尿症などに用いる漢方薬。秋になる赤い実は、果実酒に。滋養強壮や疲労回復、冷え性、低血圧、不眠症に。

 こちらはダンコウバイ(左)。遠目から見るとアブラチャンかサンシュユか見分けがつきません。ミヤマウグイスカグラ(中)。ニワトコ(接骨木)の若葉にはニワトコフクレアブラムシがつきます。春から秋までは雌だけの単為生殖で、秋に雄が誕生し、交尾により卵の状態で越冬します。新芽が開くと出てきて10日前後で成虫化し、毎日10匹ぐらいの雌の子供を胎生します(卵胎生)。

 妻女山松代招魂社(左)。妻女山展望台から北の展望(中)。飯縄山や戸隠連峰が見えます。東の展望(右)松代城址方面が見えます(右)。ここを謙信本陣と思って帰られる方が多いのですが、ここは本来は赤坂山で、妻女山ではありません。国土地理院が勝手に名前を変えたのです。本当の妻女山は、本名を斎場山といい、ここより20分ほど林道を登った円墳が山頂です。拙書『信州の里山トレッキング 東北信編』では、行き方など詳しく紹介しています。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。

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■『国分寺・国立70Sグラフィティ』村上春樹さんの国分寺「ピーター・キャット」の想い出。はてなブログに移動しました。
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山布施の布施神社と石川流山嵜儀作の木彫。布施氏の須立之城探訪。陣馬平のカモシカの親子(妻女山里山通信)

2016-03-19 | 歴史・地理・雑学
 大彦命を祭神とし、望月氏の後裔(こうえい:子孫)である布施氏を祀る布施(布制)神社は、茶臼山を中心として東西南北に大きなものが四社あります。まだ訪れていなかった東と南の二社への探訪記を、以前記事にしました。今回は山布施の西の社と、村山の北の社を再び訪れてみました。特に山布施の社は、以前参拝した時に木彫が諏訪立川流のものではないかと思ったのですが、特に詳細な写真を撮らなかったので、その撮影が目的です。

 県道86号を登り、茶臼山動物園の入口を過ぎて、信里小の峠を越えて山布施へ。途中のカーブから山布施の集落が見えました。左に見えるのが布施神社。白馬三山が見事です。例年ならばこの時期は最も積雪量が多く、山全体が真っ白なのですが、この冬は降雪が少なかったのでしょう。岩場が見えています。

 山布施の布施神社(左)。鳥居の左手前に「延喜式内郷社布制神社」という石柱が立っています。大きな拝殿(中)。背後に小さな本殿が。布制となったのは、明治政府の蛮行である廃仏毀釈の悪しき名残で、仏教のお布施に繋がるということで変えさせられた様です。今回はこの拝殿の木彫の見学と撮影が主な目的です。左手に御神木の大欅(右)。金毘羅宮ともいわれる境内社と五つほどの小石祠が並んでいますが不詳。これらは南方熊楠も猛反対した合祀令の名残でしょうか。
 創建年代は不詳と看板にもあります。社伝によると、神護景二年(768)高橋朝臣国是之が、更級郡の大領に任じられ、下総国結城布施郷の人民を従えて当地に移住し、この地を開拓。後の宝亀八年(777)に布施氏の祖・大彦命(おおひこのみこと)を勧請したということです。大彦命は、崇神天皇の命を受けて北陸道を東征し、息子の武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)は東海道を東征し、二人が出会ったところが「相津(会津)」と名付けられたと『古事記』にはあります。その後、大彦命は篠ノ井の瀬原田上の長者窪に住んだといわれています。石川の川柳将軍塚古墳、またはその上の姫塚古墳が大彦命の墳墓と地元では伝わっているようです。
 また『信濃宝鑑』には、光仁天皇の御宇(708-782)、宝祚長久国家安全を祈願して、伊勢神宮の分霊を勧請とあります。更に、安和二年(969)佐久の望月氏が移り住み、氏を布施と改めて布施郷を領治し以後、当社は神明宮と称するようになったが、文化七年(1810)吉田家に請うて社号の許可を得て、布施神社と改称したといいます。できれば境内に説明の看板が欲しいですね。

 拝殿の木彫。獅子と象が両側に配置されています。この布施神社の宮司は、代々社の下に住む宮下氏だそうですが、どこかに墨書や古文書が残ってはいないでしょうか。信州人は、神社仏閣にこういう立派な彫り物があるのを当たり前に思っている傾向がありますが、とんでもないことなんです。比類ない宝です。大事にしてください。

 左側の木彫(左)。獅子はそれぞれ少し内側を向いています。風雨に晒されているので、多少風化や傷もありますが、よく残っていると思います(中)。迫力満点の象(右)。友人に宮彫りの研究家がいるので聞いてみようと思います。
 後日、彼からの見解では、社殿は棟札から明治3年の建造。木彫は石川流の山嵜儀作(やまざきぎさく)の木鼻ということです。彼が送ってくれた山嵜儀作の作品を見ても、その傾向ははっきりと分かります。いずれにせよ大事にして欲しい木彫です。

 山布施の平成23年に山村山総代会が立てた神社の説明看板(左)。こちらは元の布施神社と記しています。善光寺地震で社殿が流出とあるのは、山布施の社ではなく、犀川沿いにあった社のことでしょう。その犀川沿いに再建された村山の布施(布制)神社(中)。小振りな拝殿の奥に本殿があります(右)。

 山布施に戻って、今度は布施氏の「須立之城」へ(左)。しかし、この看板ではどの道を行けばいいのか全く分かりません。ちょうど畑仕事をしていたお婆ちゃんと話をしていたご婦人がいたので尋ねると、行き方を詳しく教えてくれました。神社の右横の道を登ると、右手に中尾山の尾根と夜交の集落(中)。よまぜとルビがないと読めない地名ですが、高社山の麓にある夜間瀬の土豪、夜間瀬氏と深い関係にあるようです。私の妄想ですが、秀吉の国替えで景勝と会津へ行くことを嫌った一族が、名を変えてここに隠れ住んだのではないでしょうか。
 右には茶臼山(右)。いつもは妻女山から見ているので、南峰と北峰の位置が逆です。

 山道を500mほど登ります。中央の赤松のあるところが城跡の様です。昔は畑だったのでしょう。今は耕作放棄地ばかりです。廃屋も何軒かありました。城跡へ登る入口から振り返ったところ(中)。左の場所は、犀川へ下る峠ですが、昔は堀切があったのかも知れません。南へ巻くように登って本郭へ(右)。笹薮で二の郭、三の郭は分かりません。笹薮から動物がこちらへ登ってくる音が。猪でしょう。激しく足踏みをして追い払いました。

 看板にもある様に、本郭の上はそう広くはありません(左)。北面の笹平ダムのある犀川へは、急斜面で一気に落ちている様ですが、藪で見えません。須立之城沿革の看板なんですが、消えかかっていて読めません(中)。なんとか新しい物を作っていただけないでしょうか。その際にはぜひ城跡の全体図もお願いします。
 築城は1400年代中頃の文明年間で、築城者は布施忠頼(直頼とも)と伝えられています。後に忠頼の後継をめぐって長男・正直が成人後に家督を譲ることで忠頼の弟・直長に継がせますが、これが内紛になり、長男は上尾に入り、弟は有旅へと出奔。結局、布施氏は忠頼より6代にわたってこの地を支配しました。やがて須立之城は上尾城の支城となり、平林氏の支配となります。平林氏は武田方でしたが、武田氏滅亡後は秀吉による国替えの命により上杉景勝の家臣として会津へ随行し、白河小峯城主となりました。平林氏が去ったことで須立之城は廃城となり、以後ひっそりと山中に埋もれ続けたというわけです。
 戻る途中に、お彼岸の墓参に来られた今は他で暮らしているご夫婦と出合い、色々話をしました。社の木彫についてはご存じなかった様です。そんな凄いものですかと驚かれていました。旧家の畑でニホンミツバチを養蜂しているということです。それは非常に貴重なことですねと。妻女山山系でも普通に見られたのですが、松枯れ病の空中散布で、全く見られなくなりました。拙書も紹介させていただきました。
 その後戻って、茶臼山へ(右)。茶臼山の山頂は、茶臼ケ城跡、または茶臼山城跡と呼ばれる布施氏の山城です。有旅へと出奔した弟の直長の山城と推察されますが、詳細は不明です。

 茶臼山の北アルプス展望台から山布施の集落と仁科三山。左に山布施の集落と神社が見えます。右の小高い小山が須立之城。先のご夫婦によると山布施の奥に見える杉林の山の頂上に山城の跡ではないかと思われる石積みがあると言っていました。キノコ狩りで見つけたそうです。長野市の遺跡データにも載っていないので、未確認のものかも知れません。
大彦命と布施氏の布制(布施)神社詣でと茶臼山ラッセル(妻女山里山通信)
茶臼山の茶臼ケ城、修那羅城、篠ノ城探索。布施氏の山城は想像以上に大規模でした(妻女山里山通信)

 その後、時間があったので妻女山奥の陣馬平へ。ダンコウバイが満開になってきました(左)。貝母(編笠百合)の成長具合を見ようと陣馬平に上がると、ニホンカモシカの親子に遭遇(中)。妊娠中のシロです。まだ冬毛が抜け落ちていない様子。その奥には子供が(右)。これは5年前に生まれた子供ではなく、2年前に生まれたものらしい。なんだか母親にそっくりです。分からなくなってきました。もう二回出産しているのでしょうか。そう思って2014年3月のシロの写真を見返してみると、確かに妊娠しています。この年の初夏に出産したのでしょう。

 おそらくこの5,6月にはまた出産するでしょう。オスメス共に角があるため、ニホンカモシカの個体識別は本当に難しいのです。メスは排尿の時にお尻を低く下げるので分かりますが。楽しみな半面、子供が増えて、またわけが分からなくなりそうです。シロはニホンカモシカの中でも特に多産系なのでしょうね。収穫は、今回の遭遇でやっと彼らの採食歩行の行動パターンが読めたということです。

 妊娠中のカットを三枚載せましたが、これでは妊娠していない時がどうなのか分かりませんね。ということで上のカットは、2011年7月の出産を終えたシロの姿です。冬毛が抜け落ちて夏毛になると痩せて見えますが、やはり出産は大変なんですね。しかも双子でしたし。顔もかなり痩せています。この後、なかなか遭遇するチャンスがなかったのですが、冬に出会った時には、冬毛になったせいもありますが、ずっとふっくらしていました。
妻女山でニホンカモシカのシロと邂逅。オメデタか!?(妻女山里山通信)

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。

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ヒヨドリの好日とアズマモグラの厄日。妻女山から謙信陣城の陣馬平へ(妻女山里山通信)

2016-03-13 | アウトドア・ネイチャーフォト
 暖かくなったのもつかの間、寒の戻りで白雪も舞う北信濃です。今回は上雪で、長野市よりも上田市の方が積もった様です。里山も南へ行くほど白い。「真田丸」効果か妻女山展望台へ訪れた人達も寒そうでした。ここのところ時間が許すかぎり登山道整備や山の手入れをしているのですが、寒いと腰痛が辛いです。今年から国民の祝日「山の日」も始まります。里山ブームが来るでしょう。妻女山山系も最近は県外からのハイカーが本当に増えました。

 蝶の研究をしている友人から、ボケた(信州の方言で瑞々しくなくなった)リンゴを樹の枝に刺しておくと野鳥がいっぱい寄ってくるという話を聞いたので、早速軒下にS字フックに刺してみました。早速訪れたのはヒヨドリでした。「ヒーヨ、ヒーヨ」と鳴くのが名前の由来だとか。主に日本中心に生息する鳥なので、海外で人気。人に慣れやすいのか、平安時代は貴族がよく飼っていたそうです。
 万葉集には呼子鳥(よぶこどり)として詠われていますが、カッコウという説もあり、はっきりしない様です。
「神なびの 石瀬(いはせ)の社(もり)の 呼子鳥 いたくな鳴きそ 我が恋まさる」
 切ない恋心を更に切なくさせる様な鳴き声ということでしょう。

 林道の真ん中にモグラが死んでいました(左)。まだ子供です。アズマモグラですかね。頭の皮が食いちぎられていました。縄張り争いに負けたのでしょうか。モグラは大食漢で、12時間胃の中に何もないと餓死するそうです。太陽に当たると死ぬというのは迷信です。
 その林道から山林にオフロードバイクの轍が(中)。里山というのは全て私有地です。勝手にバイクで乗り入れるのは、他人の家の敷地や畑に乗り入れるのと同じ違法行為。犯罪です。
 貝母(編笠百合)が芽生え始めた陣馬平(右)。林道から外れているので知らない人がほとんど。拙書「信州の里山トレッキング 東北信編」では地形図と共に満開の貝母も紹介しています。なんと不届き者はここにもバイクで乗り入れていました。その後分かったのですが、斎場山古墳にまで。これは警察に通報するしかありません。希少な植物の群生地や遺跡が荒らされてしまいます。ひとりの大馬鹿者のせいで、バイクは林道の通行も禁止されるかもしれません。

 薄雪の中の貝母(左)。満開になるのは4月下旬頃(中)。すでに蕾が形成されています(右)。スプリング・エフェメラル。春の妖精、春の儚い命。
万葉集に「時々の 花は咲けども 何すれぞ 母とふ花の 咲き出来ずけむ」(丈部真麻呂)という句があるのですが、この「母とふ花」が貝母であるという説があります。

 その後、今は亡き友人のログハウスへ(左)。紅梅に続き堂平大塚古墳脇の白梅も咲きました(中)。西向きの日当たりの良い斜面では、ダンコウバイ(檀香梅)もほころび始めました。

 堂平大塚古墳から見下ろす千曲川。手前から上信越自動車道、国道18号、しなの鉄道、北陸新幹線。今年は鴨や雁などの冬鳥の飛来が非常に少ないと感じました。何が原因なのでしょう。気がかりです。

 妻女山(旧赤坂山)へ戻り、松代方面を撮影。春の兆しが見えたとはいえ、まだまだ寒い信州です。帰りに蕗の群生地に寄り採取。信州名物?スギヨのビタミン竹輪とのかき揚げと蕗味噌を作りました。SOEKS 01Mで地上の放射能を測ってみましたが、0.01μSv/hだったので、まあ大丈夫ですかね。0.3以上でアラームが鳴りますが、今まで信州では鳴ったことはありません。福島はもちろん関東や東京でもアラームが鳴るところはあるそうです。
 このところ、ハイキングの季節到来もあってか、『真田丸』効果か、妻女山山系で拙書を持っていますという方に既に10人以上遭遇しています。著者ということを言わずに拙書の地図を説明していて、これいい本ですね欲しいと言われると非常に嬉しいです。付箋紙をたくさん付けている方もいました。標高差順に低い方から登っているそうです。男性も多いですが、女性も同じくらい多いですね。山好きに加えて歴女や花好き、野鳥目当て、サイクリストと目的が様々なのも面白いですね。色々興味深い話が聞けます。里山での出合いは、非常に刺激的で面白い。妻女山で首から一眼レフを下げている私を見かけたら遠慮無く話しかけて下さい。ブログへのコメントも大歓迎。非公開希望の方は、その旨記していただくか、お問い合わせから直接メールをください。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。講座や講演、フォトエッセイなど記事の執筆、写真の使用のご依頼もお待ちしております。村上春樹さんのノーベル賞騒ぎの件で、東京キー局のインタビューも何回も受けたのでテレビ出演もOKです。できれば若い人対象に里山講座をやってみたいですね。お気軽にお問い合わせ下さい。

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上杉景勝も布陣した清野氏の鞍骨城跡から御姫山まで登山道整備(妻女山里山通信)

2016-03-09 | 歴史・地理・雑学
 前回は妻女山から鞍骨山(鞍骨城跡)までの登山道整備をしたのですが、今回はその先の御姫山までをしました。なんていうか寒の戻りのせいか腰の具合がもう一つでギクシャクしながらゆっくりと登りました。途中、早々と鞍骨から下りてきた千曲市の男性と邂逅。色々話をしましたが拙書を見せると、これは凄くいいですねと。やはり地形図が載っているのがいいということです。国土地理院の地形図をダウンロードして、斜体でジャギっている山名を消して等高線を引き直して新たに山名を記入したことには大変驚かれていました。滅茶苦茶手間のかかる作業でした。地形図を図と文字のレイヤーに分割して欲しいです。

 二本松峠から笹の道を抜けると鞍骨山が姿を現します(左)。最近は歴女も全国から訪れますが、途中の天城山(てしろやま)周辺が非常に迷い易いので、ぜひ拙書を携帯してください。鞍骨城跡の本郭の石積み(中)。上杉景勝時代のものといわれています。北条氏直を牽制するために、ここに駆け上がり御旗を立てたという逸話が残ります。鞍骨城跡(鞍骨山山頂)の本郭(右)。今回もバラを100本以上切りました。普通に登れる現状を当然と思っているかもしれませんが、以前はヤマガシュウやエビガライチゴの藪が塞いで、とても歩ける状況ではありませんでした。除去に何度も通って現在の状態にするのに2年かかりました。

 今回は鞍骨城跡から東へ痩せ尾根を進みます。まず最初の西展望岩(左)。次に小さな堀切を越えてすぐに東の展望岩(中)。松代(海津)城跡が眼下によく見えます。いつもはここで引き返していたのですが更に先へ。かなり深いコル(右)。地元の古老の話では、昔は石段があったとか。これも自然地形を更に削って作ったものの様です。

 明るい尾根を進んでほんの少しの急登(左)。鞍骨山と北の象山からの尾根と、南の鏡台山からの尾根との稜線出合(中)。標高は約825mです今回はここから南へ尾根を進みます(右)。すぐにアンテナの鉄塔。前方に御姫山のシルエット。以前はこの尾根は酷い灌木林の藪でしたが、森林組合の人が伐採してくれたお陰で清々しました。環境破壊の元になるテーピングを回収しながら進みます。若い登山者はしません。環境問題に疎い自分勝手な老人がするのです。老害です。自分のためにした場合は回収すべきです。余計なお節介は不要。公のコンセンサスもありません。山は自己責任で登るべきです。

 明るい尾根を進むとすぐに石を積んだ山の神(左)。御姫山までの間には二つの小ピークがあります(中)。最初の小ピークに「お姫山」の標識がありますがこれは間違い。御姫山はここではありません。拙書で確認してください。二つの小ピークを越えると御姫山への急登(右)急登ですが距離は短いので頑張りましょう。 

 標高約930mの御姫山山頂(左)。山頂は特になにもありません。越冬したヒオドシチョウがたくさん舞っていました(中)。ここで絶品の野沢菜炒飯と大根の酢辛子漬けで昼食。いずれも私の自作。山頂から南には、戸神山脈の続きの大嵐山とその先の鏡台山が見えます(右)。御姫山から鏡台山までは1時間半から2時間。

 御姫山から赤松林越しに見える左に根子岳と右に四阿山。拙書では、真田信繁と四阿山について記しています。山頂には真田家が尊崇した山家神社の奥宮があるのですが、その歴史も記しています。
 手前は保基谷岳への尾根。今年は積雪が少なく、根子岳も木々の緑が見えます。麓から長野市の正午のメロディー、子鹿のバンビが流れます。昔はエリーゼの為にだったような記憶。

 昼食後戻ります。赤松林の混合林の急坂(左)。登山道に出た枝を切ったり、ヤマガシュウを切除します。左手(西側)には、千曲市の倉科の里が見えます(中)。尾根から右に鞍骨山、左に天城山(右)。これから鞍骨、天城経由で妻女山まで下ります。そのヤマガシュウですが、曲がりをちゃんと見ておかないと、切った瞬間にこっちへ跳ねてくるのです。今回も迂闊に切って顔に直撃。悲鳴をあげました。登山道脇は切りますが、その奥は切りません。彼らにも生存権はあります。人間の都合だけで考えてはいけません。

 鞍骨山への尾根には、南面にはヤマナラシ(左2点)、北面にはシラカバ(右2点)の群生地があります。尾根上にはネズミサシやチャボガヤも。中腹にはないアブラチャンも見られます。

 帰りの鞍骨城跡の東にある展望岩からの善光寺平(川中島)の眺め。ここは本当に展望がいいのでお勧めです。左に妻女山(赤坂山)。右に象山。中央の森が八幡原(はちまんぱら)。先日、友人の医師が初めてここを歩いたのですが、川中島の全貌や、旧千曲川の流れを想像したり、非常に面白かったと言っていました。歴女、歴史マニアにはお勧めのコースです。ぜひ拙書をご持参ください。

 帰りは南面から下ります。通常はこの郭から右へ行くのですが、今回はそのまま南へ(左)。ちょっと急ですが、慎重に下ります。郭が続いています(中)。下りると左手(東)に道があります(右)。これは鞍骨城跡の昔の南面の巻道です。コルまで続いていたのですが、現在は崩壊しています。亡父はこの道を歩いて何度も鏡台山までキャンプに出掛けたと言っていました。

 陣馬平に立ち寄ると、貝母が更に成長していました(左)。蕾も見えます。これはタネツケバナの一種でしょうか(中)。あまりに小さくて見落としがちです。ヨモギの若葉も出始めました(右)。草餅は絶品ですが、この天ぷらも美味です。今日は小雨の予報が酷い降雪になってしまいました。信州の本格的な春は、まだまだ先の様です。
 ところで陣馬平に寄ったら、オフロードバイクの轍がありました。とんでもない事です。山林は全て私有地です。他人の畑や敷地を無断で走るのと同じ違法行為です。跡を見ると希少植物が踏み荒らされていたり、知り合いのヒノキ林は枝が折れていたそうで、植林地を走ると根が傷みます。所有者の依頼で看板を立てましたが、続くようなら警察に通報するしかありません。林道以外の走行は違法行為です。登山道ももちろん駄目。そんな当たり前の事も分からない馬鹿な大人がいるのは本当になさけない。
 今回のコースは下記の拙書でも詳しく紹介しています。地味な里山ですが、静かな山行が楽しめます。健脚であれば鏡台山へも行けます。武田別働隊の経路を想像しながら登るのもいいでしょう。川中島合戦については、右上のこのブログ内で「妻女山」「斎場山」「川中島の戦い」「川中島合戦」など。古代史がお好きならば、「科野国」「会津比売命」などで検索をしてみてください。色々出てきます。

川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。(妻女山里山通信)
 既存の歴史書では読めない内容が書かれています。

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