モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

信州の鎌倉塩田平へ。真田昌幸・信之も信仰した塩野神社。戦没画学生慰霊美術館「無言館」(妻女山里山通信)

2017-01-30 | 歴史・地理・雑学
 1月最後の日曜は久しぶりによく晴れて気温も緩みました。以前から行きたいと思っていて叶わなかった信州の鎌倉と呼ばれる塩田平の拙書でも紹介している独鈷山の麓にある由緒ある寺社や美術館巡りに出かけました。

 国道403号を西へ。土口水門から千曲川越しに見る仁科三山。左から爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、右に山頂だけ見える五竜岳。千曲川の濃い青が印象的ですが、今年は鴨がほとんど見られないのが気がかりです。

(左)(中)まず最初に訪れたのは、中禅寺。仁王堂の金剛力士像。平安時代後期、平清盛の発願で作られたとか。(右)中禅寺薬師堂。中尊寺金色堂と同じ阿弥陀堂様式で、鎌倉時代初期の建造で関東中部で最古の木造建築です。本尊の薬師如来坐像、木造神将立像とともに国の重要文化財に指定されています。ということは、金剛力士像の方が古いのですね。

(左)次に向かったのは、真田昌幸・信之も信仰した塩野神社。杉並木の奥に佇む本殿。(中)神社の配置図。(右)特に名称はなかったのですが、中には昔に御神木だったと思われる欅の大木の根元部分と、花火を打ち上げるのに使われた大筒が。

(左)上諏訪社。(中)下諏訪社。(右)独鈷山から流れる清流に神橋の太鼓橋。近所から春の例祭の練習でしょうか、軽やかな太鼓の音が聞こえてきました。

 珍しい二階建ての楼閣造の拝殿と奥に流造の本殿。祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト)・少名彦命(スクナヒコナ)・大己貴命(オオナムチノミコト:大国主命)。拝殿は棟札により寛保3年(1743)。本殿は寛延3年(1750)棟札。大工は上田房山の大工棟梁、末野忠兵衛。
 創立年月は不明。当初鎮座の地は独鈷山(1266m)の鷲ケ峰に祀る。現在も奥社が鎮座。白鳳元年4月出雲大社より分霊を勘請。永禄11年(1568)4月武田信玄社領十貫文。天正15年(1587)真田昌幸七貫文を寄附。元文年間(1736-41)塩野の本号に復帰。明治6年44月村社。明治28年9月郷社。明治40年神饌幣帛料供進社。

(左)(中)本殿の両妻面には天女の木彫が施され、妻の虹梁には雲の文様彫刻が見られます。風雪でかなり傷んではいますが、所々に丹塗の赤が見られます。本来は朱色の社だったのでしょう。(右)右の脇障子には竹に虎、左には牡丹に唐獅子。その上の尾垂木には竜の彫刻が施されていますが、この竜が脇障子の上の鉢木を飲み込むという珍しい意匠になっています。

(左)(中)本殿手前の右には白山社、山の神、天満宮社、竜王社などの石祠が。これは南方熊楠が猛反対した明治政府の悪政、合祀令の結果でしょうか。(右)本殿右の建物の内部。

(左)溜池の塩野池から見る拙書でも紹介の子檀嶺岳。山頂は真田の山城です。(中)その先の龍光院へ。弘安五年(1282)塩田城主北条陸奥守入道道祐(北条国時)によって父義政公の菩提を弔うために建立された古刹です。黒門の大欅は幹周り702センチで上田市の指定保存樹木となっています。(右)山門をさらに30mほど登ると、北条義政の慰霊の石塔があります。

(左)龍光院の山門右手に建つ羅漢堂。1282年塩田城主であった北条国時が父・義政の菩提を弔うために龍光院の前身・仙乗寺を開創したのに始まり、1601年龍光院と改め曹洞宗の寺院として再興されたということです。(中)本堂内部。(右)狩野永琳作の屏風。紙本花鳥人物屏風。四季の花鳥と七賢人が六曲一双の十二枚に描かれた大作で永琳の代表作です。永琳は明和4年(1767)前山の保科弥惣右ヱ門の二男として生まれ、江戸の狩野法眼永徳の門に入り類まれな才能を発揮し、師の信頼が厚かったそうです。師に代り京都御所の龍を描き、その完成間際に同門にねたまれ、文化5年(1806)に毒殺されたと伝えられています。

(左)次は独鈷山の一支脈である弘法山の北山麓にある塩田平に鎌倉文化を築いた北条義政(1242-1282)の居城といわれる塩田城跡へ。戦国期は、村上義清が福沢氏をおいて東信濃を統治させていたといいます。中世城郭としては長野県で最大級だとか。(中)発掘調査が行われた居城跡。発掘品は「塩田の館」で見ることができます。(右)三島社。

(左)未完の三重塔で有名な真言宗智山派 独鈷山(獨股山)前山寺(ぜんさんじ)。創建は、弘仁年中(810~823年)弘法大師によるといわれています。未完の三重塔は、前山寺のサイトには、「塔の建立年代は、資料がないのではっきりしないが様式上は室町時代の初期と推定されている」とあります。(中)趣のある本堂。(右)本堂内部。予約すれば名物のくるみおはぎが頂けます。

 三重塔は、国の重要文化財。和様・禅宗様の折衷様式。逆光になりますが、背景に独鈷山を借景に観るのが趣があって好きです。

(左)ちょうど正午になり、住職が鐘をつきに来ました。荘厳な鐘の音が幾度も塩田平に響いていました。(中)三重塔の双輪。(右)未完の塔といわれる理由ですが、写真の赤い矢印の箇所に何かを敷設するための切込みが見られることから。さらにその下に突き出ているのは、回廊を作るためのものだったと思われます。建造が中止になったのは、鎌倉幕府の滅亡と関係があるのではと私は考えています。

(左)そして、以前から訪れたいと思っていた戦没画学生慰霊美術館「無言館」。(中)戦没画学生の名が刻まれた記憶のパレット。左奥の山は独鈷山。(右)2008年に開館した第二展示館「傷ついた画布のドーム」。ドームの天井に貼られた習作のデッサンが印象的でした。ゆっくりと1時間ほどかけて鑑賞しました。湧いてきたのは哀しみよりも静かで強い怒りでした。己の利益しか考えない戦争屋により、夢や命を理不尽に奪われた若者たち。小4の漢字も書けないでんでん馬鹿首相が、ジャパンハンドラーズの手先となって日本を戦争に巻き込もうとしている現在は本当に危機的な状況です。どんな理由があろうが戦争で幸せになる人などいるはずもないのです。「無言館」ぜひ訪れてください。
一度だけでも見てほしい 信州上田「戦没画学生慰霊美術館 無言館」

 無言館から見る拙書でも紹介している山々。左から烏帽子岳、東篭ノ登山、西篭ノ登山、水ノ塔山、高峰山、黒斑山、浅間山。

(左)無言館第二展示館「傷ついた画布のドーム」庭の絵筆がはめ込まれたモニュメント。赤いペンキのわけ。右下にあるのは「開かないポスト」。(中)モニュメントの裏。(右)無言館から塩田平を望む。

 最後は、生島足島神社へ。月末ですが、初詣の善男善女が大勢参拝に訪れていました。
初詣は、信州の鎌倉・上田市塩田平の生島足島神社へ(妻女山里山通信)境内の詳しい説明も。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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味噌作りのために、大雪の日に大豆の選別作業に勤しむ。昼餉はおしぼりうどん(妻女山里山通信)

2017-01-15 | 男の料理・グルメ

(左)12月11日の記事「一反の畑で栽培した大豆を脱粒。雪も舞う寒い日でしたが鯛飯と天然キノコ入けんちん汁で温まる(妻女山里山通信)」で、脱粒した152キロの大豆を選別する作業のために、降りしきる雪の中をK氏の農業倉庫へ向かいます。(中)各自ザルや箕(み)を使って不良大豆やゴミを取り除いていきます。(右)良品の多いものはザルでゴミを取り除き、不良品の多いものは箕で逆にいいものを取り出していきます。

(左)なかなか根気のいる作業で、思う様に捗りません。(中)そんなこんなで昼餉の時間。私が持ってきた長芋で、 S氏が作った酒粕と私が持ってきた岩塩でまず和物。もうひとつはキムチのタレを和えて。メインは埴科更科の名物郷土料理の「おしぼりうどん」。うどんはK氏自家製の幻の小麦、イガチクオレゴン。大根はこれも手作りのねずみ大根。あまりにも美味しくて夢中で食べたため写真を撮るのを忘れてしまいました。写真やレシピはリンクを別タブで開いてご覧ください。(右)午後に入り皆コツも掴めてきて進捗状況も芳しくなりました。

(左)黙々と作業が進みます。というわけでもなく適当に世間話などをしながら。(中)外は大雪ですが、薪ストーブのある屋内は温かい。(右)用事やらで次第に帰っていき、最後の5時まで作業を続けたのは私と息子とK氏。(右)さて帰ろうと外に出ると車は雪に埋まっていました。気温はマイナス6度! ガチガチに凍ったウィンドウの雪を溶かし、まず温泉へ温まりに。ちなみに長野県では車のルーフに雪を積んだまま走るのは完全に違法行為です。スキー帰りの首都圏の車がよくやっていますが、事故ったら事故を誘発したら確実に罰せられます。ブレーキングで自分の車のフロントガラスに落ちて視界ゼロになることもあります。ルーフの雪は必ず落としましょう。

(左)次に夕食は、篠ノ井の消防署の向かいにある中華料理の「紅日香(ベニコウ)」さんへ。息子は看板メニューの排骨湯麺(中)を。私は生唐辛子ピッキーヌ仕立ての地獄辛味噌ラーメン(右)を。辛さは店主おすすめの3で。プラス餃子をいただきました。雪の夜なのにお店は賑わっていました。排骨湯麺は五香粉の香りが香ばしい排骨とよく合います。地獄辛味噌ラーメンは、地元の宮入醸造の農林水産大臣賞を受賞したマルミヤみそ。このスープが大変美味でした。ベースはグラグラ煮立てる白湯(ぱいたん)ではなく、透明な清湯(ちんたん)だとか。味噌は中島新聞店で買えます。餃子もおすすめ。担々麺や酸辣湯麺や珍しい野沢菜ラーメンも食べてみたい。

 翌日も雪。買い物や色々用事があり、午後には外出しなければなりませんでした。まず妻女山松代招魂社へ。前日の轍がありました。林道入口へ行ってみると、誰かの足跡が続いていました。斎場山へ登ったのでしょうか。晴れれば動物たちも動くのでアニマル・トラッキングも楽しいのですが。気温はマイナス4度。

 旧赤坂山の妻女山展望台へ。除雪はしてありませんがスタッドレスなら登れます。まず西の展望。茶臼山も北アルプスも見えません。眼下の国道403号は雪がない様に見えますが、シャーベット状の雪があって危険な状態です。皆さん2車線の道では40キロ、狭い道では30キロか20キロで運転しています。明朝はマイナス8度の予報なので、凍結路面必至です。安全運転を!

 北の展望。千曲川の向こうに南長野運動公園。左に長野オリンピックスタジアム、右にAC 長野パルセイロのホームスタジアム。オリンピックスタジアムの左は、第四次川中島合戦の戦場ということで合戦場という地名が残っています。

 東の展望。松代城方面です。真田幸隆に攻略された東條氏の尼厳山もその右の奇妙山も雪雲に霞んでいます。眼下の上信越自動車道と長野自動車道は、チェーン規制がかかっています。

 買い物や用事の後に温泉へ温まりに。見上げる古代科野国の初代の大王の墓といわれる森将軍塚古墳。東日本随一の巨大な石室をもつ大きな前方後円墳です。麓には石室が再現された古墳館と長野県立歴史館があります。
 雪模様は火曜日の昼まで続きそうですが、その後晴れて18日(水)の朝の最低気温がなんとマイナス19度という信じられない予報です。外れることを祈ります。

 ところで忘れていたのですが、8日に真田幸隆、昌幸の眠る真田郷の長谷寺(ちょうこくじ)に参拝した折に御屠蘇をいただいてきたのです。御屠蘇というのは、元旦に飲む日本酒のことではなく、大晦日にいただいた屠蘇散を日本酒や味醂、赤酒に浸し、元旦に飲むものです。いただいた屠蘇散の成分は、白朮(びゃくじゅつ)、肉桂、桔梗、山椒、防風、陳皮、丁子です。中国三国時代の魏の名医華陀(かだ)の処方といわれています。古代中国の薬酒ですね。日本には嵯峨天皇の時代に唐の蘇明が唐蘇白散と称する霊薬として伝え、健康を祈念する行事として広まっていったということです。後日いただきましょう。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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真田幸隆と昌幸が眠る長谷寺、信綱の信綱寺、国楽館戸倉ホテル、姨捨駅、長楽寺(妻女山里山通信)

2017-01-09 | 歴史・地理・雑学

(左)昨秋、仲間と砥石城跡に登ったのですが、その時に行けなかった寺院巡りをしました。まず腹ごしらえにと、十割手打そば処福田へ。(中)天ぷら付もり蕎麦。をいただきました。青木村産のタチアカネの玄蕎麦を石臼で自家製粉した十割蕎麦です。蕎麦湯も飲んで満足して長谷寺へ。(右)真田山種月院長谷寺(ちょうこくじ)。連休なので参拝者が次々に訪れていました。『真田丸』のブームはまだ続いています。

(左)大きな藁馬(わらうま)。絵馬が奉納されています。(中)本堂内部。可愛い招き猫のおみくじがあったので求めました。大吉でした。(右)中央が真田幸隆、右に真田昌幸、左に幸隆の正室の恭雲院の墓。

(左)墓所全体の様子。後から来た地元のご婦人が、綺麗になったと、昔はもっと荒れていたと言っていました。(中)新しく立てられた真田信繁(幸村)の慰霊碑。賽銭は皆、六文銭の形に並べて置いてありました。私も囲いの上に並べてきました。(右)右脇にある石仏。

(左)次に、真田幸隆の長男の真田信綱が眠る大柏山信綱寺(しんこうじ)へ。そこから見上げる真田本城。(中)桝形から少し登って黒門。(右)その脇にある線刻の馬頭観音。ヒンドゥー教の最高神であるビシュヌが馬の頭に変化して敵を倒したとされる神話が起源。

(左)黒門からは、村上義清の砥石城跡が見えます。(中)楼門。(右)本堂。信綱の墓所は、右へ回ってコンクリートで舗装された急な細い道を登ります。

(左)真田信綱の墓。天正2年(1574)5月に幸隆が亡くなり家督を継ぎましたが、天正3年(1575)5月21日の長篠の戦いにおいて銃撃に遭い弟の真田昌輝と共に戦死しました。そして昌幸が家督を継ぎました。(中)楼門の四隅には獅子の木彫が。(右)上田に戻り柳町の旧北国街道沿いにある天然酵母のパン屋さんのルヴァンへ。以前、調布市のつつじヶ丘に工場があった頃は、小さな息子を連れてよく買いに行きました。息子を連れていったのは、必ずおまけをたくさんくれるからです。今回は大きなカンパーニュを買いました。前日のものなので割り引いて540円でした。ここのパンは本当に美味しい。有毒の柔軟剤を使っていないので、しばらく置くとカチカチになりますが、霧を吹いて蒸すと柔らかくなります。

(左)もう少し回りたかったのですが、雨が降ってきたので早めに新年会が行われる戸倉上山田温泉の国楽館戸倉ホテルへ。(中)レトロな昭和の雰囲気が漂う和室。和みます。(右)源泉かけ流しのお風呂。露天風呂のある風呂もあり、日替わりで男湯と女湯が入れ替わります。飲用もできます。次々に仲間が訪れ、N氏は手作りの野沢菜のおやきを持ってきてくれましたが、超絶美味でした。

(左)皆揃って宴会の始まり。今回は日本酒は初めだけにして焼酎をメインに。黒霧島、二階堂、いいちこを飲みました。それとK氏とS氏が作ってきたどぶろくを2本。こういうわがままができるのも、ここの主人が高校の同級生だからなんです。(中)食事はお膳で郷土会席料理。これにさらに大きなブリのカマ焼きがつきました。ボリューム満点です。左にある信州の郷土料理の鯉こくも美味。まず右下のとろろ蕎麦でお腹を満たします。よく食べて飲みました。会話のレベルは非常に高く専門的で、いつもいい情報が得られます。(右)朝食。これで酒代も入れて15000円弱とリーズナブルです。お土産に六文銭まんぢうと干支の絵が描かれた湯飲み茶碗を頂くのも恒例です。

(左)翌朝の千曲川畔にある駐車場から見る温泉街。(中)そのまま直帰もつまらないのでスイッチバックで有名な姨捨駅へ。松本行きの普通列車が、長野行きの快速列車の通過待ちをしていました。快速列車の運転手は若い女性でした。近所に勤めている女性がいるのですが、もしかしたら彼女かな。(右)ホームのベンチは善光寺平方面を向いています。日本三大車窓の絶景が有名ですが、ガスがかかって何も見えません。ここからの夜景は、それは見事です。ぜひ映画やアニメで使ってください。駅前には駐車場はないのですが、長野方面に200mほど行った三叉路の先に姨捨駅専用駐車場があります。またホームへは無料で入れます。

 普通列車は年配の男性が運転手で、若い男性が車掌でした。列車勤務はトイレにも行けないし、変速シフトだし、必ずしも土日や祭日が休みではないので、大変だろうなと思います。人の命も預かっていますしね。2015年の時と異なり、今回は撮り鉄はいませんでした。不景気が原因ですかね。
姨捨駅の上の姨捨SAのさらに上にある403号の千曲川展望公園からの善光寺平暮色

 次に訪れたのは、駅の下にある姨岩のある長楽寺。2015年の初詣は息子達とここに参拝に来ました

 最後に妻女山展望台へ。茶臼山も北アルプスも見えません。完全に上雪(かみゆき)でこちらは雨降りだった様です。松本や飯田の方が積雪がありました。しかし、冬の本番はこれからです。酉年は、過去に天変地異が多く発生しているというデータもあるそうです。平穏な年であるといいのですが。政治的には国民の生活や命を粗末にする現政権が完全崩壊するといいなと思います。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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佐久間象山大砲試射地から諏訪立川流山門の興正寺。象山の定宿だった伴月楼へ。象山神社と松代城(妻女山里山通信)

2017-01-04 | 歴史・地理・雑学
 夜に食べるタラバガニ入り「小田巻き蒸し」の用意をささっと済ませてお出かけ。うどんは千曲市のユメセイキの手打ちです。「苧環蒸し」は、「小田巻き蒸し」とも書きますが、うどん入りの茶碗蒸しのことで、大阪の船場あたりでよく食べられていたちょっと豪華な料理です。昔、卵は高級食材だったのですから、その卵をたくさん使う苧環蒸しが高級料理だったのもうなずけます。丼の底で渦を巻くうどんの様子が、紡いだ麻糸を玉のように巻いた苧環(おだまき)に似ていることから「おだまき蒸し」の名がついたといわれています。

(左)最初に向かったのは、千曲市生萱の沢山川辺りにある佐久間象山の大砲試射地。石碑がありますが拓本は禁止されています。(中)拓本。近所の家で買えます。そういうことかい(笑)。(右)これが石碑の文章です。砲弾は屋代の一重山を越えて幕府領の満照寺に着弾とよくいわれていますが、これはでっち上げ。佐久間象山を快く思わない人達が地元の子供に駄賃をあげて実際は一重山手前に着弾したものを運び上げて満照寺に落としたものだそうです。こちらの記事を御覧ください
 全国的には、「さくましょうざん」で通っていると思いますが、地元では「さくまぞうざん」というのが普通です。

(左)中央ちょっと右にある小山が今は一重山(山頂は屋代氏の屋代城跡)なんですが、本来は小島山で本当の一重山はその右にの低いところ。妻女山と同じく国土地理院が勝手に名前を移動したのです。いずれにしても当時の松代藩が試射した大砲の射程距離は2キロぐらいで、一重山を越えることは不可能です。(中)試射地脇の本誓寺橋。本誓寺という寺院は、現在の生萱や倉科にはないのですが、往古にはあったようです。詳しくはリンクの信濃・本誓寺をお読みください。リンクでは、「童子が述べた「西の寺」との言葉と親鸞らが川を渡った位置との関係が問題になるが」と書かれていますが、当時の千曲川の流路は現在と全く異なるものだったので整合性はあると思われます。ちなみに現在の一重山の南側(写真左)はえぐれていますが、これは砕石業者が山を取り崩したのです。空堀など城跡の遺構が失われたといいます。森将軍塚古墳もそうですが、昭和の乱開発の犠牲になったのです。斎場山も旧更埴市時代に地権者に無断で林道を造っています。
(中)本誓寺橋。(右)ジャコウアゲハを守る会の看板。アゲハモドキ(擬鳳蝶蛾)というジャコウアゲハにそっくりな蛾がいます。

(左)次はあんずの里森の母方の祖母が眠る大城山興正寺へ。(中)本堂の内部。(右)ここの山門には、天才と呼ばれた諏訪立川流の和四郎富昌の子持ち龍の木彫があります。当時彼は八幡の武水別神社の再建中でした。そこで、森出身の弟子・宮尾八百重を案内役に住職、世話人、名主らが建築現場に赴き建築を依頼。引き受けた富昌は三月頃から、父富棟が寛政二年(1789)に建築した善光寺大勧進の表御門形式を参考に絵図面を制作。四月には八百重の家に投宿し近くの薬師山に登って酒宴を催し、満開の杏花を愛でたといわれています。夜は篝火の下で鼓を鳴らし謡曲の「鞍馬天狗」を吟じ、見事な龍を描き上げ、村人や近郷近在の話題をさらい、村では日本一の宮大工が来たと喜んだそうです。興正寺は、浄土宗西京大谷知恩院の末派で、創立年は不詳。
 実は友人に宮彫りの研究家がいるのですが、彼をこの世界に引きずり込んだのが私で、その原点がこの木彫なのです。彼の『北信濃寺社彫刻と宮彫師』のブログの2016年12月23日の記事に、この山門が詳しく紹介されています。ぜひ御覧ください。

 子持ち龍。和四郎富昌の作品は、京都御所の建春門の「蟇股(かえるまた)の龍」、遠州の「秋葉神社」、諏訪の「諏訪大社下社拝殿」、善光寺大勧進御用門「江梁の龍」、松代町西条の白鳥神社の「神馬」などがあります。また、同市屋代の須々岐水神社、土口の古大穴神社にも富昌の作があります。左右にある波の彫刻は、葛飾北斎の影響を受けたものともいわれていますが見事です。

 非常に迫力があります。また透かし彫りも見事です。この近くの岡地地区の天満宮には、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」がありますが、結局、善光寺五重塔は、江戸幕府の許可が降りずに建てられることはありませんでした。その前の唐獅子は富昌の作です。(出典:生前伯父が執筆した『岡地探訪乙路の県天満大自在天神とその周辺』岡地天満宮刊より)

(左・中)精緻な木彫は必見です。(右)「旧阿吽(あうん)獅子」嘉永四年 尾張なんとかと書いてある瓦。これも見事なものです。

 冬景色だけではなんなので、昨年の4月に杏が満開だった時の興正寺裏から見たあんずの里の風景です。桃源郷ならぬ杏源郷です。春が待ち遠しい信州ですが、本格的な冬はこれからです。

 最後は、佐野川温泉竹林の湯へ向かいましたが、その隣りにある佐久間象山が定宿としたという伴月楼記念館へ。実は一般住宅なので現在は閉館中。外観だけを撮影させていただきました。「(伴月楼)記念館百話」 ~関家が伝える逸話~
 撮影後温泉に入り温まって帰宅しました。

(左)佐久間象山といえばやはり象山神社。仕事始めの方も多く、社員総出でお参りの会社も。下乗とは馬や車を降りてということです。学問の神様として受験生に人気があります。象山の正室は門弟勝海舟の妹順子ですが子がなく、嫡子は側室お菊の生んだ恪二郎です。象山の敵を討つべく新撰組に入りましたが、生来のわがままで役立たず、後に司法省に入りましたが、食中毒で29歳で亡くなっています。象山はケツがでかい女がいいと言っていたそうですが、勝海舟の娘はたぶんそうだったのでしょうね。でも子ができませんでした。多産とお尻の大きさは無関係です。(中)佐久間象山が安政元年(1854年)から約10年間の蟄居中に住んでいた松代藩家老望月主水の下屋敷聚遠楼の敷地内にあった建物。来客があるとこの2階に招き、応対したそうです。中岡慎太郎や高杉晋作も訪れています。(右)心の池。この向こう側の小径を行くと象山の生家跡。

(左)生家跡の片隅にある煙雨亭は、象山が元治元年、凶刃に倒れるまでの2ヶ月間を過ごした煙雨楼の遺構で、 煙雨楼の茶室を移築したもの。煙雨楼は2階家で京都木屋町の鴨川畔にあったそうです。(中)神社右手の泉水路。各家々の庭をつないでいるものもあります。黒澤明監督の『椿三十郎』を思い出します。
城下町松代(殿 町地区)に おいて江戸時代に造られた 泉水路の形成過程とその用途
庭園都市松代の推進 - NPO法人夢空間松代のまちと心を育てる会
(右)近くの象山記念館にある写真。小学校の家庭科室に大きな肖像画がありましたが、どこか日本人離れした風貌ですね。電気治療器は妻で試したとか。最初の携帯電話も展示されています。ペリー来襲の時に松代藩は横浜の警護を命じられ、象山は横浜に赴きます。彼の活躍には時の松代城主・真田幸貫の力もあります。
 象山は儒学者・科学者・医者・砲術家で、日本最初の電信実験をし、地震計、医療器、写真機など数多くの科学実験をしました。その多彩な才能には驚かされますが、それ以上に、世界的な視野から日本の行く末を見つめる視点を持っていたことに驚かされます。後に勝海舟にまでほら吹きなどといわれましたが、結局鎖国が続いた後の日本では、彼の才能と見識を真に理解できる人は誰もいなかったのでしょう。ただ、そんな象山も、明治維新が英仏金融勢力による日本隷属を企て、明治維新は結局彼らが薩長の田舎侍を利用したクーデターになるとは、想像もできなかったのではないでしょうか。
 今回初詣に訪れた神社には、憲法改正のビラやアンケートは一切なかった。しかしお賽銭の一部が悪名高き神社本庁に上納されることはあるのだろうか。賽銭は松代藩の六文銭にちなんで五円玉6個で30円と決めているのですが…。

(左)続いて『真田丸』で訪問者が激増した真田信之の松代城。太鼓門。(中)櫓台。(右)櫓台から東北東を見るとモーニング娘。17の羽賀朱音ちゃんが通った松代中学。私の母校でもあります。サッカー小僧で、編集委員長でした。校章は真田の結び雁金です。
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信)
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)

 櫓台の北西にある絵図。二の丸北西の土塁上にあった「知身貴亭」という茶室から松代の北部を望んだ風景です。19世紀中頃に描かれたものだそうです。左から北アルプス、虫倉山、陣場平山、富士ノ塔山と続き、右へ戸隠連峰、戸隠富士と呼ばれる高妻山。一番右に長野市民の山、飯縄権現が祀られる飯縄山。そして手前には千曲川が描かれています。

 復元された太鼓橋と太鼓門越しに見る斎場山(旧妻女山)。上杉謙信が本陣としたと伝わる山頂で、円墳です。展望台のある現在の妻女山は、本来は赤坂山で、柳の木の向こう辺りです。お堀の水は少なめで、鴨が悠々と泳いでいました。

(左)最後は2012年に廃線になった長野電鉄屋代線の松代駅。中学生の時はこれで通いました。サッカー部の練習が終わって帰る際に空腹に絶えきれず、駅前の母の同級生がやっていたラーメン屋に先生の目を盗んで飛び込んだものです。(中)駅の内部。昔は壁の上部に松代映画館で上映のポスターが貼られていました。石原裕次郎とか清水の次郎長とか。ちょっとエッチなポスターの時には、出会った先生に見るなとか言われました。(右)切符は硬券でした。廃線になる直前は、全国から鉄道マニアが訪れました。線路跡はサイクリングロードとして復活します。このサイクリングロードを起点として里山トレッキングや山城、古墳巡りもできそうです。そんな本を作りたいですね。正月には、このコースを走っている女性もいました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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謹賀新年。初詣は古代科野国の祖、産土神の会津比売神社へ。元旦初登山で鞍骨城跡への人達も(妻女山里山通信)

2017-01-01 | 歴史・地理・雑学

 明けましておめでとうございます。初詣は会津比売神社へ。会津比売命は、諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の子、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の子といわれています。つまり大国主命の曾孫。しかも、古事記によると神武天皇の子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫といわれる、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)の室(妻)といわれています。
■科野国造 武五百建命と妻 会津比売命の家系図(諸説あり)
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
          大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)

 会津比売神社はいわゆる式外社(『延喜式』神名帳に記載の無い神社)ですが、「国史現在社」です。「国史現在社」とは、式外社ですが、『六国史』にその名前が見られる神社のことを、特に国史現在社(国史見在社とも)と呼びます(広義には式内社であるものも含む)。『六国史』とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』。

(左)戊辰戦争以降の戦没者を祀る妻女山松代招魂社。(中)その南にある大正天皇が皇太子の特に訪れた石碑。大阪から来た男性を堂平大塚古墳へ亡き友人の慰霊碑に参るので、斎場山と陣馬平案内しますが行きませんかと。お連れしました。帰ると中国人の歴史好きカップルが来訪。謙信の本陣と伝わる斎場山の話をし、拙書も紹介しました。(右)慌ただしく帰宅して昼は信州の埴科と更科の郷土料理、おしぼりうどんの用意。うどんは地元のユメセイキや地粉をブレンドした私の手打ちです。汁と絡みやすい様にやや柔らかめ。おしぼりは、友人のS氏が作った激辛の辛味大根。これに信州味噌を溶いて花鰹をまぶした汁でいただきます。長く太く生きるという願いを込めた正月料理です。うどんの原点の食べ方ともいわれる古い郷土料理です。私のおしぼりうどんのレシピはこちら。長野市南部の篠ノ井や松代、千曲市の戸倉上山田温泉、坂城町では食べられるお店があります。ぜひ一度食べてみてください。うどんに対する概念が変わります。おしぼり蕎麦もおすすめ。

 妻女山(旧赤坂山)展望台からの西北西の展望。北アルプスは晴れているようですが、その手前に雲がかかっています。一番右の里山は茶臼山。その右奥は虫倉山。あそこまでが松代藩の領地でした。

 真北を見ると川中島(善光寺平)。おだやかな元旦です。午前中はほぼ無風でした。戸隠連峰と飯縄山は雲に隠れています。手前の広大な農地は名産の長芋畑。長芋100%のお好み焼きは絶品です。手作りさつま揚げに入れたり、海老しんじょうにしたり、色々応用が効きます。また、とろろはインフルエンザに対する予防効果もあるそうです。

 東方は松代城方面。昨年は『真田丸』ので大賑わいでしたが、その余韻は、まだ続いていて、大勢の人が訪れています。ゴールデンウィークぐらいまでは続きそうです。鞍骨城からご夫婦が下りてきました。5,6人のハイカーが登った様です。拙書を愛読してくださっているそうです。面白くて毎日読んでいると言ってくださいました。本当に嬉しいことです。

 その後、松代PAへ。ここは外からも利用できます。中央の丸い山が斎場山(旧妻女山)。山頂は謙信の本陣と伝わる山で、古代科野国の古墳です。松代PAには松代の説明看板もあります。

 松代PAから南方の眺め。逆光でパノラマ写真は無理かなと思ったのですが、なんとかつないでみました。保基谷岳の手前のプリン型の山は皆神山です。右の陣馬平を右へ下ると長坂峠。奥に斎場山、下って妻女山と続きます。帰って奄美黒糖焼酎のれんとのお湯割りを飲みながらゆるゆると天皇杯の鹿島 vs川崎戦を見ました。本当に穏やかな元旦でしたが、今年は何か重大な事件や天変地異が起きる予感がします。

貞観地震と仁和地震
•貞観元年(859年)河内・和泉両国の陶窯用の薪山争い起こる。饒益神宝を鋳造する。
★貞観2年(860年)出速雄神に従五位下〔延喜元年(901年)の日本三代実録〕
•貞観3年(861年)4月7日、直方隕石が落下。落下の目撃がある世界最古の隕石。
★貞観4年(862)埴科郡大領外従七位金刺舎人正長。廿日戊子 信濃國埴科郡大領-外從七位上-金刺舍人-正長(日本三代実録)
★貞観5年(863)信濃国諏訪郡の人右近衛将監正六位上金刺舎人貞長、姓を大朝臣と賜わる。これ神八井耳命の苗裔(びょうえい)也。
•貞観6年(864年)富士山噴火(貞観大噴火)
•貞観8年(866年)閏3月10日、内裏朝堂院の正門・応天門が放火によって炎上、これを巧みに利用して伴氏・源氏の追い落としに成功した藤原良房は、同年8月19日、天皇の外祖父であることを理由に人臣初の摂政に任命された。応天門の変。
★貞観8年(866年)に會津比売神に従四位下
•貞観10年(868年)7月8日、播磨国で地震。日本三代実録によれば官舎、諸寺堂塔ことごとく頽倒の記述。前年から引き続き、毎月のように地震があったことも見受けられる。
•貞観11年(869年)格12巻が完成。貞観地震とそれに伴う貞観津波が発生。貞観の韓寇。
•貞観12年(870年)貞観永宝が鋳造される。
•貞観13年(871年)式20巻が完成。貞観格式の完成。鳥海山噴火。
★貞観14年(872年)出速雄神に従五位上
•貞観16年(874年)開聞岳噴火。
•元慶2年(878年)相模・武蔵地震(現在の関東地方における地震)伊勢原断層の活動によるM 7.4の大地震
★元慶2年(878年)出速雄神に正五位下
•仁和3年(887年)8月22日(8月26日)に仁和地震(南海地震、M 8.0~8.5。東海・東南海との連動説も有り)。
 八ヶ岳が突然水蒸気爆発をおこし崩壊。千曲川・相木川を堰き止めて“大海(南牧湖)”や“小海湖”を造った。天狗岳と硫黄岳の東側斜面が大きく崩れた跡が今でも見られる。
•仁和4年(888年)決壊し、善光寺平までその被害は及んだ。
•寛弘8年8月3日(1011年9月3日)に再決壊。下流域に再び災厄を撒き散らして完全に消滅した。
 長さ3kmに達した「小海」は、古地図等からその後600年以上、江戸時代初期まで残っていたことが確認できるが、いつどうやって消滅したのか判っていない。
•延喜元年(901年)の日本三代実録。会津比売神社は式外社となる。

•寛保2年(1742年)の大洪水が「戌の満水」。死者は2800人以上。
•弘化4年(1847)善光寺地震による土砂崩れが犀川をせき止め、崩壊し下流に大きな被害をもたらした。死者は8600人以上。松代藩の財政は破綻した。


 翌日の2日は、さらに穏やかな日となりました。家にいては食べて飲んで太るだけなので茶臼山へ。足跡がけっこうあったので元旦ハイクをした方がいるようです。MTBの轍もありました。友人がここの登山道の整備をしていて、MTBのコースとしての整備も考えているということです。拙書でも紹介の小松原コースは、ハイカーも少なくコースもMTB向きなので提案をしました。まず北アルプス展望台へ。白馬三山と右手前に神話の山、虫倉山。2014年の神城断層地震で山頂が4割も崩壊してしまいました。残りの4割にもクラックが入っているので、再び大地震があれば崩壊必至です。

 帰りの道すがら。信里小学校の少し下から善光寺平南部のパノラマ。山座同定をしてみました。亜高山も積雪が少なめの新年です。

妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」など。このブログでも右上で「妻女山」でブログ内検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。
上杉謙信布陣の斎場山と陣場平「今昔物語」 昭和22年にGHQが撮影した斎場山、妻女山、陣場平の空撮と江戸時代後期の榎田良長彩色『川中島謙信陣捕之圖』。
川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。 ホームページとブログから選択して作ったリンク集「妻女山まとめ」

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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