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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信)

2015-12-28 | 歴史・地理・雑学
 週末から寒気が入って日曜の朝は粉雪が舞っていました。しかし、盆地は積もることもなく日中はよく晴れました。12月はまだ一度も積雪がありません。所用のついでに妻女山へ。斎場山から久しぶりに北へ延びる尾根の天狗山へ行ってきました。最初は、陣馬平からログハウスへ寄るつもりでしたが、その奥の谷から狩猟の銃声が聞こえたため引き返しました。ヤマドリを狙っているようです。正月の鍋や雑煮の材料にするのでしょう。ヤマドリは絶品ですからね。

 斎場山へ。第四次川中島合戦で、上杉謙信が最初に本陣としたと伝わるのがこの斎場山古墳の上なのです。下の妻女山展望台のある場所ではありません。古名は赤坂山。斎場山が地元で言う本来の妻女山なのです。夏は樹木の葉が生い茂るのでほとんど展望はありませんが、今の落葉期で積雪がない時が一番の見晴らしが得られます。妻女山から20分。ぜひ訪れてください。拙書でも詳しく紹介しています。

 一旦長坂峠へ戻って、天狗山へ向かう北東面の巻道をトラバースします。5分ぐらいで天狗山の先端に着きます。ここから前阪といって西側に下りる道があり、つづら折れで下って行くと旧岩野駅に出ます。この道は江戸時代の絵図にも登場する古道です。写真は、その天狗山から妻女山(旧赤坂山)方面の眺め。松代PAの向こうに松代城跡(海津城跡)が見えます。意外と近いのです。松代PAからは高速には乗れませんが、403号からPAを利用することができます。松代PA辺りは猫島といい、その北には猫ケ瀬といって猫でも渡れるほどの浅い瀬があったといわれています。展望台と招魂社の手前の斜面は、酷い藪になっていますが、2枚下の写真で分かるように昔は梅林でした。現在も少し残っていて春には花を咲かせますが、ほとんどが老木となり枯れました。手入れをしないと里山はこんな風に荒れてしまうのです。

 これは江戸時代後期に榎田良長という人が描いた『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』という斎場山に布陣した上杉軍の布陣を描いた絵図です。「出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)」
 それに分かる限り地名を入れてみました。これだけ記入できるというのは、この絵が極めて事実にそって写実的に描かれているということなのです。千曲川は戌の満水以後の瀬直し後の流路なので、推定で戦国時代の流路を入れてみました。堤防もないわけですから好き勝手に流れていたわけです。赤い線は山道なのですが、驚くべきことに現在もほとんど辿ることができます。笹崎の中腹を通る谷街道は、江戸時代にできたので戦国時代にはなかったはずです。笹崎の先端は、瀬直しの際に大きく削られ崖地になっており、上信越自動車道の薬師山トンネルがぶち抜いています。
 赤坂山(現妻女山)下の蛇池は、千曲川の河道の名残で、高速道路ができるまでは残っていました。赤い丸は上杉軍を現します。上杉謙信槍尻ノ泉が現在と異なる場所にありますが、これは明治時代になり外国から伝染病が入った時に避病院を作るため泉を利用し、泉はその後別の場所に移されたからです。現在の泉も、私が子供の頃はもう10mほど上の桑畑の中にありました。大河ドラマ『天と地と』の時に、うちの父たちが道路沿いに下ろして石碑を立てたのです。かように物語は作られていくのです。
 江戸時代後期は、お伊勢講や善光寺参りなど庶民の旅も盛んになり、川中島合戦の絵図などが土産物として非常に売れたのだそうです。文政のおかげ参りなどは、日本人の8人にひとりが行ったという狂乱ぶり。これも調べると非常に面白くて病みつきになります。

 上の写真は、かなり前、今はない出版社から買い求めた掛け軸になった航空写真で、戦後GHQが撮影したもので、日本の隅から隅までを調べ尽くしたのです。天皇陵までも暴いたことは知られていませんね。そこで田布施システムが浮上するわけなんですが。写真のアングルはほとんど上の絵図と同じなので比較すると面白いと思います。この頃は養蚕や果樹が盛んで、麓から尾根上まで畑がたくさん見られます。それが現在と一番違うところです。黄色い線は、現在の林道や山道です。この頃は、403号から妻女山、斎場山へ行く広い林道はありませんでした。よく見ると今とは違う細い山道が見えます。それらは残っているものもあれば、林道によって切断され消滅してしまった箇所もあります。

 妻女山松代招魂社。六文銭の紋があるように戊辰戦争以降の戦没者を祀った神社で、上杉謙信とは無関係です。本殿の後ろには、亡くなった戦士たちの墓標が並んでいます。そこから北へ歩くと四阿と赤坂山古墳ともいわれる小さな丘。大正天皇と真田氏のお手植えの松跡と、善光寺地震の慰霊碑があり、その先に展望台があります。戊辰戦争で会津若松城をメリケン砲で破壊したのは松代藩でした我が一族の先祖の一人は高遠藩の保科正之に仕え、後に豪商となって会津藩を支えました。その末裔は今も会津で商人をしています。皮肉にも戊辰戦争はある意味信州人同士の戦だったのです。それ以前、秀吉の国替えにより上杉景勝が会津に転封されましたが、善光寺平の土豪は全て家来であったため、家族家来が全員会津に移りました。その後の保科正之の転封と、会津は信州人が作った街なのです。更に私のブログをずっと読んでいる方は分かると思いますが、横浜は松代藩が作った街です。

 展望台から見た八幡原(はちまんぱら)方面。赤坂橋の上に見える森がそれです。初めて訪れた人は、川中島が思っていたよりもずっと広いといって驚かれます。この展望台へは車で行けますが、上杉謙信槍尻ノ泉のカーブが急で、泉の水が溶けて凍っているとスタッドレスでも登れない時があります。冬の晴天後一旦溶けた後の凍結と春先が特に危険です。登れない場合は、高速のトンネル前に駐車して徒歩で約15分です。

 久しぶりにいい天気なので、古書の虫干しをしました。『歴代草書選 5巻』白芝山編 大観堂です。5巻を厚紙を布で覆ったもので巻くのですが、留め金がさり気なく象牙です。意外と状態がいいので明治時代のものと思っていましたが、調べると文化13序、嘉永2(1849年)と分かりました。いわゆる草書辞典です。

 肖像画は、幕末に生きたわが家の祖先で、岩野村の名主を長きに渡って務めた林逸作です。作画は、松代藩の御用絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)。家が近所でひとつ違いのためか、近しい関係にあったようで、友の為にと書かれています。逸作爺は、善光寺御開帳の時にたまたま隣り合わせで意気投合した夫婦から、縁ができ小さな頃に養子に来た人物で、享和4年(~2月10日)文化元年(2月11日~)(1804)の生まれ。天保2年(1831)の古文書(妻女山の霊水騒動が起きた頃)、弘化4年(1847)の名寄帖、安政2年(1855)の古文書があり、描画は元治元年(1864)61歳とあることから、少なくとも27歳から51歳、あるいは60歳まで名主を務めたということになります。実は両養子だったので、私の祖母が林一族から婿を迎えるまでわが家には林家の血が一滴もなかったのです。面白いですね。そんなんで私も祖父でなく、祖母の父に似ていると小さい頃から言われました。古い写真を見るとそうだなと思います。
 林逸作の時代は、天保の大飢饉、天保の改革失敗、善光寺大地震、黒船来襲と一気に幕末から明治へと移る激動期です。松代は尊皇攘夷に固まり、官軍として戊辰戦争に参加。その功績から明治新政府には松代から多くの人が入ったそうです。明治政府の事実は、維新などでは全くなく、薩長の田舎侍を使って英米仏の金融資本がクーデターを起こさせて作り上げた傀儡政権ですが。田布施システムで検索を。
 ところで上の草書辞典は、逸作爺が使っていたものかもしれません。と思って肖像画を見ると、彼の後ろの座卓に乗っている本が正にこれではないですか。いや驚いた。間違いないでしょう。167年前の本でした。
 右は、『新字鑑』で、古い漢字を調べる時に重宝しています。これはずっと新しい戦後の本ですが、これについては以前「愛と魑魅魍魎の『新字鑑』」という記事を書いています。編者は、漢学者の名門の家系に生まれた中国文学者、塩谷温ですが、劇的なエピソードがあります。興味のある方は、リンクの記事を読んでみてください。切ない話です。
 今年の更新はこれが最後になります。ご愛読ありがとうございました。自然や歴史記事はもちろんですが、ネオニコチノイド系農薬の記事へのアクセスが非常に目立ちました。来年は2016年、2017年代問題の嬉しくない幕開けです。世の中も非常に不安定です。一人一人が人任せにせず、情報を精査し、疑い、自分で考え行動しないと日本は本当に終わるでしょう。では、皆様が健康で過ごせますように。良いお年を。

◆関連リンク記事
上杉謙信斎場山布陣想像図
『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)
岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信)
愛と魑魅魍魎の『新字鑑』

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
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貴重な晴天。妻女山、斎場山から陣馬平へ。午後は唐崎城跡へも。アルプスの絶景を堪能(妻女山里山通信)

2015-12-23 | アウトドア・ネイチャーフォト
 いまだかつてない最大級のエルニーニョのために考えられない暖冬が続いています。そのため善光寺平でも冬型にならないため晴天の日がほとんどありません。冬型になると善光寺平北部の山間部は雪ですが、盆地は晴れることが多いのです。そんな週末は久しぶりの晴天に恵まれました。撮影に行かない理由はありません。まずは妻女山展望台へ。

 展望台から北アルプスの絶景パノラマ。2枚の望遠カットをフォトショップで繋げました。左から爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、ちょこんと見える不帰ノ嶮、天狗ノ頭を経て白馬鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳。北には戸隠連峰と飯縄山。東へ目を向けていくと高社山から志賀高原、笠ヶ岳、横手山、東には根子岳と四阿山。善光寺平でもこれだけの山並みを一同に見られる場所は、この妻女山展望台しかないのです。ここは川中島八景のひとつ。妻女山秋月に挙げられています。あと七つは、茶臼山暮雪、猫ケ瀬落雁、千曲川帰帆、八幡原夕照、勘助塚夜雨、典厩寺晩鐘、海津城晴嵐。またここは、信州サンセットポイント百選に選ばれており、美しい夕焼けが見られます。

 展望台から南へ辿り、駐車場を抜けて右の林道を登ること10分。斎場山(旧妻女山)へ(左)。ご覧のように円墳(斎場山古墳)で、二段の墳丘裾があります、山頂は円形で平ら(中)。冬枯れで落葉したため、北方の川中島の景色がよく見えます。樹間から望遠で飯綱山を撮影(右)。

 長坂峠へ戻って堂平大塚古墳へ。爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳の仁科三山。中央の鹿島槍右側の影は、日本で5番目、長野県で初の氷河かという、平家の落人が隠れ住んだというかくね里の大きな谷。青く蛇行する千曲川には、お馴染みの鴨の姿がまだ見られません。暖冬のせいでしょうか。

 堂平大塚古墳(左)。斎場山とここには、毎年のことですが、この辺りの標識を作った倉科のMさんが注連縄を飾ってくれています。狂い咲きしたヤマツツジの残花(中)。同様に咲いた2013年の冬。明けて14年2月にはあの記録的な上雪の豪雪。戻って陣馬平へ。信濃柿がそのまま干し柿になっています(右)。本来は渋柿ですが、こうなると甘くて美味。鳥やタヌキなどの冬の貴重な餌になります。

 陣馬平の北東の角にある菱形基線測点(左)。後方は松代城跡のある東方向。NO.16 基本 菱形基線測点のプレート(中)。長坂峠に戻って斎場山(右)。陣馬平でオフロードバイクで来た二人組と遭遇。ひとりは堂平大塚古墳の持ち主の故Kさんと旧知でした。本の紹介をすると、歴史好きだそうで早速買い求めてくださるそうです。

 妻女山松代招魂社に戻りました(左)。左後方に茶臼山と白馬三山が。再び展望台へ。北東には中野の高社山(中)。拙書でも紹介していますが、登りがいのある面白い山です。右へ首をふると堀切山の向こうに根子岳と四阿山(右)。年末というのに驚くほど雪が少ない。菅平でスキーコーチをしている友人も、年内は仕事がないとぼやいています。この両山も詳しく紹介しています。

 妻女山展望台へ(左)。ここの案内看板の英語が間違っています。訪れたら探してください。ヒントは鞭声粛粛。麓の薬師山トンネルの脇にある会津比売神社へ(中)。古代科野国の産土神。古くは山上にあったが上杉謙信が庇護していたため武田の兵火に遭い、その後現在の山陰にひっそりと再建されたとあります。境内から見下ろす参道(右)。左に謙信鞍掛の松と槍先の泉。これは後世の作り話。昭和30年代の祭りでは、この参道の両側に出店が並び、子供達の歓声が聞こえたものです。

 所用で千曲市に行った帰りに、雨宮の唐崎城跡に登ってみました。雨宮のご神事が行われる斎場橋たもとの招魂社から登ります(左)。お宮の左手の小径を登ると登山道。約15分ほどで唐崎城跡(中)。そこから尾根を辿って高圧線鉄塔の見晴らし台まで行ってみました(右)。
 唐崎城は、現地の看板によると、「この城は朝日城、唐崎城、藤崎城とも呼ばれる。唐崎山頂にあり、雨宮、土口、生萱にまたがる。この城は生仁館の本城で、雨宮摂津守、または生身大和守の居城であったとも云われ、一説には宇藤摂津守安時がここに居たとも云うことで麓を宇藤坂(現在は謡坂)ともいう。(中略)この地の土豪、雨宮氏の築いしところと伝えられている。時代は南北朝末応永時代約600年前と推定される。」ということです。だいたい埴科郡誌の記述と同じですね。ここから天城山(てしろやま)を経て鞍骨城跡へ至るコースは、拙書でも詳しく紹介しています。

 高圧線の向こうに北アルプス。午後になってコントラストが弱くなりました。長野自動車道が龍の様に曲線を描いています。中央が更埴ジャンクション。この辺りは千曲川の自然堤防上で龍王といい、その昔、土豪の居館、または城跡があった場所ということです。古代科野国があった場所でもあります。手前の川は、コンクリートで固められてしまった味気ない沢山川(生仁川)。私が高校生の頃は、タンポポや野草が咲き乱れ鮒が泳ぐ綺麗な小川で、毎日自転車でこの土手を通いました。右下の橋は宇佐美橋といって、川中島合戦の際に宇佐美氏が作ったという伝説があります。転化してうさぎ橋(笑)。できればビオトープの手法で、単なる用水路から、子供たちも遊べる自然豊かな小川に戻して欲しいものです。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

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茶臼山有旅と妻女山陣場平の菱形基線測点。地理史の重要な文化財(妻女山里山通信)

2015-12-16 | 歴史・地理・雑学
 前の記事で茶臼山の篠ノ城を取り上げましたが、その際に茶臼山から篠ノ城跡までのパノラマ写真を載せました(上から10枚目)。それを撮影した農道の裏手には3,4mの崖があるのですが、そこに旧建設省が設置した菱形基線測点(りょうけいきせんそくてん)があるはずなのです。ところがそこへ行く坂道の上は酷い藪で行けませんでした。反対側に回って上の畑方面から到達を試みたのですが、あと5、6mというところで、やはり藪に行く手を阻まれました。鋭い棘をもったヤマガシュウもあり、とても進めません。ということで次週に先送りしました。
 菱形基線測点は、地表面の水平方向の変動を調べるために設置され測点4点で菱形が形成されています。菱形基線というのは4つの観測点を結んだ形がひし形であることからの呼び名で、全国に16箇所あります。いすれも現在は使われていませんが、大切な文化遺産のひとつです。長野県は茶臼山と妻女山以外に、平柴(夏目ケ原浄水場内)と大室山中腹の大室温泉まきばの湯上の古城山にあり、菱形を形成しています。
 位置はグーグルマップで距離を計測し、ほぼ半径50m以内に絞りこみました。グーグルアースで航空写真を見ると周囲は畑でその中の林内ということで、さらに絞込ができたのですが、あまりにひどい藪で断念。今回は剪定ばさみを持ち、南西から攻めることにしました。
36°35'08.8"N 138°06'44.8”E(位置は厳密なものではありません。数mの誤差があり得ます)

 場所は、長野市篠ノ井有旅(うたび)で、茶臼山動物園の南口の上、茶臼山自然植物園の南になります。まず篠ノ井から県道86号を登り、JAグリーン長野有旅集荷場の前にあるバス停の空き地に駐車します。前回来た時に地元の方に事情を説明して停めていいですかと聞いたら、いいよということで今回もそこに駐車。住宅に沿って200mほど下ります。
 地図Aの位置から北を見ると森が見えます。ちょうど中央辺りの森の中にあるはずです(左)。面白い形の植え込みの右の舗装路を下ります(中)。60mほど下ると右手に水道施設(右)。日当たりの良い南向きの斜面になんとタンポポが咲いていました。

 その手前に左に入っていく農道。先に物置(左)。物置の裏へ回ります。ここからは私有地かもしれません。もし所有者がいたら事情を話して許可を得てください。裏手から見た森(中)。藪が酷くてここは無理です。左手に回り込みます(右)。地図のCの位置ですが、なんとかなりそうです。

 左手に獣道のトンネルがありました(左)。絡まったヤマフジやアオツヅラフジなどの蔓を切りながら進みます。通り抜けて振り返ったところ(中)。大変でした。進むと岩の上に小さな石祠(右)。ここまでは前回来ました。前回は後ろの林檎畑から杉林を抜けてここまで来て退却しました。Dの位置。前回の方が楽に来られますね。でも林檎畑の中の道を通ってくるので、ちょっと気が引けます。

 北を見ると、足元はすぐ崖地で下を前回撮影に使った農道が通っています。すぐ下の畑ではおばさんが農作業をしていました。その農道から上がってくる坂道があって、それが設置工事に使った道だと思うのですが、笹薮で通れません。向こうの明るい所は茶臼山自然植物園(左)。東を見ると、笠ヶ岳や横手山など志賀高原方面が見えます(中)。前回敗退した藪です(右)。鋭い棘のヤマガシュウは、剪定バサミでないと切れません。格闘すること10分余り。

 やっと念願の菱形基線測点に出合えました(左)。しかし、近づけません。左手(北側)に回って藪を切り開くこと10分。やっと全貌が見えました(中)。銘板には「NO.14 基本 菱形基線測点 建設省国土地理院」と書かれています。上面には十字の刻印の指標鋲が。少し飛び出ています。

 コンクリートは、多少風化していますが特に壊れてはいません。背面の下には下向きのフックが付いています。八角形の柱で、妻女山奥の陣馬平のものと同じです。

 バス停の駐車場から藪の入口までは、5分ぐらい。そこから藪を切りながら入って格闘すること20分ほどで出合えました。地理マニアが度々訪れるようになると、藪も綺麗になるかもしれません。すぐ北側の農道から斜めに測点へ短い坂道があるのですが、上の藪を切ればこのルートが最も簡単に行けるのですが。ヤマフジと笹薮とヤマガシュウが行く手を阻んでいます。

 撮影して戻って動物園の入口から撮影した妻女山・斎場山方面。斎場山の向こうの陣馬平という所に、NO.16の菱形基線測点があります。実は、ここを発見し藪を切り開き誰もが見られるように整備する方が、遥かに大変でした。4年かかりました。

 茶臼山から下りて妻女山の陣馬平へ向かいました。陣馬平は、第四次川中島合戦の際に、上杉謙信が七棟の陣小屋を建てたと地元で伝わる山上の平地です。林道から50mほど入ると菱形基線測点が見えてきます(左)。現在は整備されて清々としています(中)。NO.16の銘板(右)。

 2008年の夏に帰郷し、亡き父から測点のことを聞き、探し始めましたが、とんでもない藪でとても入れませんでした。この写真から50mも奥です(左)。その冬から灌木や立ち枯れの木やノイバラ、巨大化したヤマフジ、絡みあったミツバアケビなどの伐採を一人で始めました。ヤマフジは何十年もかかって巨大化し、直径30~50センチにもなり樹木を覆い尽くしていました。それを切って放置しておくと半年か一年で枯れて落ちます。20m以上ある立ち枯れの落葉松や山桑も伐倒。2009年の秋で中の様になりましたが、まだまだ酷い藪です。明けて2010年の2月(右)。まだまだです。
 そして、そんな様子を見ていた人がいました。堂平大塚古墳の持ち主の故Kさんでした。知り合いになると山の整備に重機を出してくれました。友人たちも手伝いたいということで「妻女山里山デザイン・プロジェクト」が始まりました。除草や除伐作業を度々やってくれたお陰で、妻女山から陣馬平までの里山保全が急速に進みました。その様子は、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】のコンテンツの一番下の「妻女山SDP」をご覧ください。藪を切り開いてギャップを作ったことで、鳥や昆虫も増えました。ニホンカモシカやホンドテン、タヌキ、ノウサギ、ヤマドリなども来るようになりました。ウスバシロチョウやシジミチョウ、オオムラサキも舞うようになりました。里山は人の手が入って生態系が保全されてきたものなのです。

 これは2014年4月下旬の陣場平。左の矢印の木の奥に菱形基線測点が小さく見えています。満開の花は、薬草畑の名残りで、わずかに残っていた貝母(編笠百合)です。最初8畳ほどだった群生地が、整備したお陰でここまで大きくなりました。毎年3月に芽吹き、4月下旬から5月上旬に満開になり、梅雨の間には消えてしまうスプリング・エフェメラル。春の妖精とも春の儚い命とも呼ばれる可憐な花で、茶花でもあり、薬草でもあります。ニホンカモシカが、この花畑の中で座って反芻している姿も時には見られます。毎年ブログで紹介しているので、満開の時期には花好きなご婦人たちが訪れるようにもなりました。綺麗ですが、全草がかなり強い毒草です。誤って食べると(百合根の様で美味しそうなのです)、呼吸困難に陥ったり、最悪死亡する可能性もあります。決して持ち帰らないでください。
 台風27号が発生しフィリピンに多大な被害をもたらしています。信州では80過ぎの老人が、経験したことのない暖冬と言っています。ヤマツツジやタンポポも狂い咲き。最大級のエルニーニョの影響でしょう。地球温暖化ではありませんが年明けが心配です。また上雪の大豪雪になるのでしょうか。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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茶臼山の茶臼ケ城、修那羅城、篠ノ城探索。布施氏の山城は想像以上に大規模でした(妻女山里山通信)

2015-12-10 | 歴史・地理・雑学
 長野市篠ノ井の茶臼山の麓に近い所に、篠ノ城(しののじょう)または、威ノ城(たけのじょう)、御座平ともいわれる城跡があります。かねてより行きたいと思っていたのですが、なかなか行けず今回初登頂となりました。小さな本郭なので小規模な山城だろうとでかけたのですが、さにあらず600mの尾根には十数個の段郭が連続する想像以上に大規模な山城でした。城主は、望月・滋野系の布施氏の様ですが、かなり複雑なので最後に概要を記します。

 行き方ですが、本郭に最も簡単に行けるのは、茶臼山動物園の北口駐車場(無料)から。新田の集落の西側から入り、三軒目と四軒目の舗装路を登ります(下の地図参照)。墓地を抜けるとほどなく分岐のある小さな峠(左)。そこを右へ辿るとすぐに草地に出ます(中)。目の前の高い広葉樹の向こうに見えているシルエットが篠ノ城の本郭。草地を進むと、一段下がって削平地の向こうに本郭。手前に深い空堀があります(右)。

 深く広い空堀は、中央に岩があり二条の堀の様に見えます(左)。堀の両側は深い谷。堀から見上げる本郭の切岸(中)。ここは急過ぎて登れないので右手(南面)の腰郭に回ります。南面は本郭を取り巻くように三段の郭で構成されています(右)。竹が密生していて迷路のようです。枯れた枝で目を突かない様注意が必要。危ない枯れ枝は剪定バサミでカットしていきました。太さからこれは真竹でしょうか。

 竹につかまりながら本郭によじ登りました(左)。快晴の昼間なんですが、薄暗く不気味な雰囲気が漂っています。折れた竹が折り重なっていて進むことも全貌を見ることもできません。本郭の東の端に石祠がありました(中)。しかし、地震で屋根が落ちてしまった様です。重くてとても一人では元へ戻せません。下りて本郭を見上げたところ(右)。別名の威ノ城は、竹ノ城ではないのかと思えるほど竹だらけの本郭です。標高は550mを少し欠けるぐらいでしょう。

 そこから東へ郭を辿るのですが、竹が行く手を阻みます(左)。まるで迷路を抜けるように竹の隙間を探して進みます。東へ回りこんで本郭の東端の切岸を見上げたところ(中)。北側は急斜面ですが中央に郭が見えます。ただ東側からそこへ通じる郭はありません。崖地です。次に尾根を東へ下りることにしました。東側の尾根を進みます。やはり酷い竹藪で、その先には笹薮も(右)。尾根の両側はかなりの急斜面なので滑落に要注意。積もった枯れ葉は滑ります。実は一回枯葉の下の根っこで滑って2mほど滑落しました。昔、体操部サッカー部で剣道柔道もやったので受け身をとって無傷でしたが、左右の谷に落ちたら30m位は落ちたでしょう。やれやれ。

 笹薮を抜けると尾根は明るい広葉樹の森になります(左)。落葉期なので善光寺平や遠くの山がよく見えます。どこまで段郭が続いているのか下ってみることにしました。それぞれの郭の切岸は、高さ1mぐらいのものから3mぐらいのものまで様々(中)厚く積もった枯葉で滑るので、ルートの選定を慎重にしました。また、各所に鋭い棘をもったヤマガシュウがあるので、これも剪定バサミで切りながら抜けました。尾根の左右はかなりの急斜面ですが、何本か南へ支尾根が出ており、そこにも段郭が見られます。結局、長さ600mほどの尾根を先端まで下りましたが、十数個の段郭が連続する大規模な山城でした。尾根の先端は、これも人工的に削られた高さ10mほどの切岸で終わっており、その下は草薮でリンゴ畑へと続いています。確認しながら元へ戻りました。

 篠ノ城の分岐に戻り、今度は茶臼山方面の中腹にある修那羅山(671m)を目指し、右へ山道を登ります(左)。道は小ピークの北側を巻いていますが、気になったので登ってみました(中)。すると、ピークの西側に人工的な窪地(削平地)がありました(右)。ここも篠ノ城の後背の砦とかがあったのでしょうか。

 小ピークの先で右へ曲がり緩く登って行くと尾根に乗り左へ曲がります。気持ちのいい尾根道が続きます(左)。前方には修那羅山のシルエットが。その右奥には茶臼山の山頂も見えます。進むと高さ20m位の崖地(中)。道は大きく右へ巻いて左に折れこの上に登るようになっています。修那羅山の山頂周りは郭と思われる削平地があります(右)。

 山頂は直径30m位の円形でほぼ平らです。数はそう多くはありませんが、石碑や石祠が並んでいます(左)。中央には塚があり、小さな石像が立っています(中)。天武神とか上田城主松平伊賀守とか書いてある内容はバラバラで、民間信仰のバリエーションの豊富さを物語っています。茶臼山へ続く西側にはかなり深い空堀があります(右)。茶臼山の茶臼ケ城と下の篠ノ城の中間の山城でしょう。しゅならやまと読むのが正式ですが、当地では訛ってしょならやまといいます。

 そこから尾根の一本道を登ると、300m位で道は尾根の左(南)にずれて行きますが、廃道になっているので、かまわず直進すると100mも行かないうちに山頂のわずかに北側の登山道に出ます。山頂の北には東西に深い空堀があります(左)。茶臼山の山頂には、崩れてしまった南峰と合わせて茶臼ケ城があったらしく、よく見ると削平地らしきものも見えます(中)。茶臼山山頂(729.9m)(右)。やや南北に長い山頂は展望がありません。西側にある登山道に下り少し北へ進むと西側に北アルプス展望台、さらに下って少し進むと東側に善光寺平展望台があります。拙書では、今回のコースは載せていませんが、本書の地形図をコピーして登山道を自分で描き入れていただくといいと思います。

 下って茶臼山自然植物園の南側の農道から、今回の尾根を撮影してみました。三枚の望遠カットを繋げてあります。歴史探索もできる非常に魅力的なコースだと思います。倒木が何本かあり、修那羅山手前でトラバースの道が崩れている箇所がありますが、整備すれば面白いコースになるでしょう。完全に落葉すれば、ここからでも段郭が見えるかもしれませんが、その凄さは、やはり実際に歩いてみないと分からないと思います。篠ノ城跡から右下へ、尾根は更に600mほど続いています。しかし、人類は古代より戦ばかりしていますね。それを回避する方法を編み出せなかったのが人類の限界なのでしょうか。戦争が公共事業の側面を持っていたのは戦国時代でも同様です。それを世界で展開しているのが米。自由と正義の国が聞いて呆れます。
 茶臼山自然植物園では、来年の「全国植樹祭」に向けて大規模な改修工事が行われています。手前に見えるのは、新しく造成された大きな駐車場。
 実は撮影しているこの農道の反対側の崖の上に、建設省の茶臼山菱形基線測点があるはずなのですが、そこに登る道の上が酷い藪で登れませんでした。後日行くことにしました。

 上のカットの篠ノ城から先の尾根は上の様に先端で高い切岸(崖)になっています。尾根の麓は笹薮と葛の藪で取り付けません。実は左に支尾根がでていて、その右側の笹薮を抜けて尾根に登ると上の尾根に至ります。
 拙書で載せている国土地理院の地形図に今回のコースを青色で描き入れてみました。茶臼山の他のコースは、拙書で詳しく紹介していますので、そちらをお求めください。尾根の先端から登るコースは、草薮を超えて笹薮を抜けて取り付くので、ルートファインディングの能力が必要です。◆国土地理院地形図データ使用
 修那羅山から茶臼山までは、下記の記事の下部をご覧ください。
中尾山・茶臼山ハイキング2015。蒼天のもと紅葉の里山歩き(妻女山里山通信)

 茶臼山山頂からの帰りに立ち寄った有旅大池。人工の溜池ですが、江戸時代の絵図には既に載っているので、かなり古いものの様です。この西山地域には、あちこちに無数の溜池があります。

 戻って信里小学校の前の道から北アルプス。左に五竜岳、右に白馬鑓ヶ岳、杓子岳。信州ではこんな風に日常の風景の中に雄大なアルプスが見える場所が無数にあります。
 さて、篠ノ城の城主といわれる望月・滋野系の布施氏ですが、望月氏は、滋野氏が信濃へ入部する以前の豪族で、後に入った滋野氏と血縁関係を深めていったといわれています。『滋野系図』によると、鎌倉時代において望月氏を代表する人物として活躍した望月重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれ、弓の名手として武名をあげ、『保元物語』『吾妻鏡』『平家物語』『源平盛衰記』『承久記』『相良文書』など、当時の望月氏関係者のうち、もっとも多く記録に残されているそうです。
 その望月重隆には長男望月盛重、次男諸星義広がおり、望月盛重には長男望月宗重、次男布施助重、三男望月助義がいます。 次男の布施助重には長男布施幸重がおり、布施幸重には長男布施長重、次男布施貞綱がいます。 この辺りが篠ノ城の源流となったのでしょう。 布施氏は、西山の山布施はもちろん、善光寺平に布施、富部(とべ:戸部)という地名があるように、その勢力は絶大なものがあった様です。
 望月氏、滋野氏は海野氏、真田氏とも深く繋がり、同系には土豪の小田切氏などもいます。望月氏、滋野氏から書き始めると膨大な文章量になってしまいます。興味のある方は、ご自分で調べてみてください。楽しい底なし沼が待っています。

◉記事を書く際に、下記のサイトや歴史館の書籍などを参考にさせていただきました。感謝申し上げます。
小助の部屋/滋野一党/望月滋野氏
長野電波研究所 共和村の歴史と伝承 岡田城跡
「長野県のホームページ 第1章 奈良・平安時代の川中島平 第2章 川中島平の開発と伊勢神宮領御厨(みくりや)

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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森将軍塚古墳。大和系と出雲系が結ばれ古代科野国の祖となる(妻女山里山通信)

2015-12-04 | 歴史・地理・雑学
 暖冬の影響で曇や雨の日が多く、撮影もままなりません。最大級のエルニーニョのせいでしょうね。2014年の2月の大豪雪があった冬の暮れと似ています。あの年も11月にヤマツツジが狂い咲きしていました。そんな中で、やっと晴れ間が出たので、かねてより再訪したいと思っていた森将軍塚古墳へ出かけました。
 その前に、麓にある長野県立歴史館へ立ち寄って、拙書『信州の里山トレッキング 東北信編』を一冊寄贈してきました。実は執筆にあたり、山の歴史を調べるために何度も通ったのです。そのお礼も込めて。快く受け取って頂きました。

 左は、雨宮の上信越自動車道の脇の道から見上げた森将軍塚古墳。古墳は、後ろの有明山の北側にある大穴山(おおなやま)の山頂にあります。復元される前は、樹木に覆われ遠目からは古墳があるようにはとても見えませんでした。麓が358m、山頂が490mぐらいですから、比高132m。
 中は、麓の屋代清水遺跡に復元された科野のムラ。竪穴住居や高床倉庫などが復元されています。丈夫にするためでしょう。煙で燻していました。
 科野のムラの一番西から遊歩道が始まります。途中バス道路に出ますが、また遊歩道に戻り、約15~20分で右の写真の古墳入り口に着きます。上の遊歩道を行くと、カモシカ広場を過ぎて有明山将軍塚古墳へ行けます。

 森将軍塚古墳全景。科学的に証明はできませんが、埋葬されているのは初代科野国の大王といわれています。崇神天皇の三世紀後半ごろ、神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫・建五百建命(たけいおたけのみこと)が科野国造(しなのくにのみやつこ・しなのこくぞう)に定め賜わりました。そこで森将軍塚古墳の埋葬者が、建五百建命ではないかといわれているのです。古墳の築造は、4世紀代といわれています。
 そして、建五百建命の妻は、會津比賣命といわれ、会津比売神社が斎場山の麓にあります。上の写真で後円部の向こうに見えるのが斎場山(旧妻女山)です。山頂には斎場山古墳(円墳)があり、上杉謙信が第四次川中島合戦の際に、最初に本陣を構えたという伝説があります。
 建五百建命の祖先は神武天皇ですから大和系。會津比賣命の祖先は大国主命ですから出雲系。この二人が結ばれ古代科野国の祖となったということです。これに関しては、信濃の古墳研究の第一人者であった元長野県考古学会長・故藤森栄一氏が、【信濃豪族の系譜】という文章を書いておられるので、以前の記事をお読みください。
古代科野国の初代大王の墓といわれる森将軍塚古墳の歴史検証(妻女山里山通信)

 前方部からの眺め(左)。後円部からの眺め(中)。左後方の鉄塔の右に有明山将軍塚古墳があります。空の筋雲(巻雲)が爽快です。高さはおよそ5000~13000mで、雲の中では最も高いところに発生します。古墳の周囲や上には、説明板が各所にあります(右)。後円部が曲がっていて正円でないのは、土木技術が未熟で曲がってしまったのではなく、山の地形に合わせたからだそうです。

 前方部の周囲の埴輪(左)。後円部の西の縁の埴輪(中)。大型でベンガラで塗られているのが特徴。埴輪棺(右)。埴輪を棺としても使ったようです。

 前方部から後円部の眺め(左)。前方部は、古墳の主が眠る後円部に至る通路あるいは、儀式の場所ではないかと考えられています。(説明板より)後円部から前方部の眺め(中)。前方部にも3つほど石室が見つかっています。大王はもちろん後円部の大きな石室ですが、妻の会津比売命はどこに埋葬されたのでしょう。後円部の上(右)。四角い石は、石室を表しています。

 前方部(左)、後円部(中)の説明板。竪穴式石室は、「墓壙(ぼこう)」と呼ばれる二重の石垣で囲まれた長さ15.0m、幅 9.3m、深さ 2.8mの大きな穴の中に築かれ、石室内には、遺体を入れる木棺が納められていました。墳頂から石室の底までは、約 3.5mもあり、手厚く埋葬された様子がうかがわれます。(森将軍塚古墳館のサイトより)
 科野のクニの想像イラスト(右)。古墳の北側に古代科野国が広がっていました。千曲川の自然堤防と山際に集落があり、後背湿地が水田になっていたのでしょう。

 そんなことを想いながら、眼下を見下ろした風景。古墳時代の人が、この風景を見たらなんて思うでしょうね。右下にあるのが古墳館。石室が再現されていたり、かなり充実した展示です。左下に見えるのが長野県立歴史館。常設展は一度見ればいいと思いますが、企画展は注目です。12月19日から2月28日まで、地図の「明治維新」(残された明治初期の町村地図)という展示があります。これは面白そうです。
 右奥に長野市民の山、飯縄山。その左に戸隠連峰と戸隠富士と呼ばれる高妻山。左手前に茶臼山。左手に北陸新幹線、右手に上信越自動車道。2キロほど先に長野自動車道との更埴JCTがあります。古墳館の右上は、あんずの里物産館。その上が、あんずの里アグリパーク。いずれも土産物と食事処があります。

 将軍塚の周囲には、その子孫の古墳がたくさんあります。一番右上の2号墳の先にも4基あったのですが、砕石で削られて消滅しました。それに危機感を抱いた地元の方々が、全面発掘調査と復元整備を行ったのです。亡くなった私の伯父も色々尽力したそうです。

 後円部から、西-北-東の180度の大パノラマ。左に篠山から茶臼山。間に北アルプスの白馬三山。北に戸隠連峰と高妻山、飯縄山。右に斎場山から鏡台山への戸神山脈。15枚の望遠カットをフォトショップで繋いであります。オリジナル画像はTIFで、左右が3万ピクセルを超えています。

 後円部の先端から北東の斎場山方面の眺め。この辺りを大穴郷(おうなごう)といいました。土口将軍塚古墳と倉科将軍塚古墳も森将軍塚古墳と同じく、国指定史跡の埴科古墳群です。

 後円部からの白馬三山。中央に杓子岳、左に白馬鑓ヶ岳、右に大きな白馬岳。明治時代に帝国陸軍陸地測量部が地図を作るから山名を記せと言ってきたそうですが、西岳とか岳山とかで明確な山名がなかったそうです。「大昔から住んでいて、日本国中でも少ないこの山の名を知らぬとは、なんという馬鹿者揃いだ」「山に名がないなんてことがあるか」村長以下散々叱られたそうです。しかし、ないものはないわけです。そこで村の長老に相談し、代かきの頃に馬の雪形ができるので代馬岳としようといって提出したそうですが、できあがった地図は白馬岳となっていたそうです。(『北アルプス 白馬ものがたり』石沢 清著より)
 右手前の中腹にソーラー発電のパネルが見えます。強力な有害電磁波を出すので、人家から離れた場所に設置されています。実はソーラーパネルは、その生産と廃棄と両方で、カドミウム、カドミウムテルル、鉛などの有害な物質を出すのですが、その処分法や解決策はまだはっきりしていません。決してクリーンなエネルギーではありません。
 今日、長野市北部や山間部は雪模様ですが、妻女山は時折雨でした。こんな日に鳥を撮影に来た母娘さんがいて色々お話をしました。私は乱視なので鳥の撮影は苦手なんです。なんとかノスリだけは、いつかいいカットをものにしたいんですが。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。
本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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