わが家に白い牡丹を描いた一幅の掛け軸があります。気に入っていたので高校の頃応接間に掛けていたこともありました。この掛け軸の画題は『庚辰春日』で、雅号は「源 乗全」とあります。庚辰(かのえたつ)というのは、年でいうと1820年ということになりますが、乗全はまだ26歳。年ではなく月とすると3月。3月の春の日ということなんでしょうか。『庚辰春日』は、けっこう春の画題にされているので、春を題材にした絵の定型題なのでしょうか。清々しく好きな絵でしたが、特に誰が描いたかなどと思うこともなくいました。
それが、去年の初夏でしたか、家にある掛け軸の虫干しをしようと色々広げていく中で、この掛け軸が目にとまりました。絵としてはかなり秀逸ですが、ディテールを見ると茎の線が甘い部分もあって、大家の作品ではないことは一目瞭然でした。しかし、なにかひっかかるものがありました。源 乗全という名もどこかで目にした事があるような記憶がありました。
そんな時に便利なのがインターネットです。ググッてみるとすぐに分かりました。源 乗全は、松平乗全(まつだいら のりやす)の雅号のひとつでした。『龍馬伝』では、ペリーの黒船来航の場面で出てきました。乗全は、大給松平家宗家9代三河西尾藩第4代藩主で、幕府の老中(年寄衆・定員は4~5人)を務めた人物です。病弱な家定の将軍継嗣問題では紀州藩の徳川慶福を推し(紀州派)、海防参与の水戸藩主徳川斉昭を擁する一橋派閥と対立したため、一度失脚しますが、安政5年(1858)には大老・井伊直弼の推挙により老中に再任されます。桜田門外の変で井伊直弼の暗殺後、万延元年(1860)に辞任しました。ちなみに直弼は 孝明天皇の勅許無しでアメリカと日米修好通商条約を調印した開国派です。個人的に書簡をかわすほど親交が厚かった乗全は、同じく老中の上田藩主松平忠優(まつだいら ただます)と共に開国派でした。寛政6年(1794)生誕--明治3年(1870) 没。
その松平乗全が、どう松代藩とつながるのかというと、乗全が最初に老中に任命された弘化2年(1845) まで老中を務めていたのが、松代藩の第8代藩主 真田幸貫(さなだ ゆきつら)なのです。その幸貫は、寛政の改革を主導した定綱系久松松平家第9代陸奥国白河藩第3代藩主 松平定信の次男で、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の曾孫に当たります。つまり、幸貫が天保の改革の失敗で罷免された後に老中になったのが、乗全だったというわけです。同じ松平氏ということでもあり、当然親交があったと考えられます。幸貫は、天保13年(1842)に幕府の老中兼任で海防係に任命され、西洋事情の研究から開国派になります。乗全が開国派というのも幸貫や象山の影響もあったかもしれません。ちなみに老中の勤務時間は午前10時から午後2時までだったそうです。
また、乗全の父定信は、象山の父一学と親交があり、幸貫は定信の改革手法を手本とし、後の象山の登用などを行ったそうですから、幸貫は当然定信の子である乗全とも深い親交があったことでしょう。幸貫は文武に長けており、佐久間象山・村上英俊・片井京介・山寺常山・長谷川昭道・三村晴山など多くの優れた人材を輩出しました。その中の三村晴山(みむら せいざん)は、松代藩の御用絵師であり学者でもありました。象山・勝海舟の命を受けて島津斉彬への密使の役目を果たしたこともある人物です。後に東京美術学校(現東京芸術大学)設立にも加わった狩野芳崖なども育てました。
狩野芳崖は象山に心酔し、彼の書風も真似たとか。その象山ですが、自信家として有名で、俺は優秀だから俺の子供は間違いなく優秀だ。優秀な子供を生める尻のでかい女を紹介しろと坂本龍馬に言ったとか・・。実際に妻になった勝海舟の妹のお尻が大きかったかどうかは知りませんが、お順との間には子供ができませんでした。お順の前に、お蝶とお菊という二人の妾がいました。お蝶は彼女が13歳の時に手をつけた娘です。残念ながら二人との間にできた子はほとんどが早くに死別しています。
そのお蝶との間にできた息子・三浦啓之助(佐久間格二郎)は、勝海舟の紹介状を持って父の敵を討つべく新撰組に入隊します(14、15歳頃)が、全く役立たずである事件で投獄されてしまい、戊辰戦争の後で慶応義塾に入るも中退、司法省に勤めますが暴力事件を起こして首。最後は明治10年にうなぎによる食中毒で亡くなっています。偉大すぎる父を持った子供の不幸でしょうか。典型的な機能不全家庭という感じもします。
象山が結婚した時、彼は42歳、お順は17歳でした。海舟は大反対だったようですが、お順は学者の妻になるのが夢だったと譲りませんでした。海舟は象山の門下生のひとりでしたが、象山を傲岸不遜(ごうがんふそん)な人間と見ていたようです。「佐久間象山は物知りで、学問も博し、見識も多少持っていたよ。しかし、どうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当たらしたら、どうだろうか。なんとも保証はできない。」と言ったとか。「事を成し遂げる者は、愚直であれ、才走ってはならない」とも言っています。『海舟語録』
しかし、象山は、横浜開港の先覚者であり、現在の横浜の繁栄は象山のお陰といっても過言ではないでしょう。また、弘化3年(1846)5月象山、36歳で帰藩を命じられ5年間松代に帰った時は、養豚、植林、葡萄の栽培、温泉や鉱脈の採掘などに天分の才を発揮しました。さらに、嘉永7年(1854)に吉田松陰密航未遂事件に連座した罪で入獄の後、帰郷してから文久2年(1862)までの蟄居生活でも、エレキテル(電気治療器)を作ったり(鑑定団で150万円!)しています。万延元年(1860)には電信実験も。〔嘉永2年(1849)日本初説は誤り〕 象山は、豪放磊落(ごうほうらいらく)なオタクという両義性(Ambiguïté)を持った人物であったという感じもします。ただ、その当時彼の真の先見性を理解できる人は皆無だったということでしょう。他人が見えないものが見えてしまう不幸を彼は背負っていたのかもしれません。
話がえらく脱線しましたが、その松代藩の御用絵師のひとりに青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)という人物がいました。雪卿は、松代藩が壊滅的な被害を受けた弘化4年(1847)に起きた善光寺地震から3年後の嘉永3年(1850)、藩主真田幸貫公(感応公)の藩内巡視に同行し、「伊折(よーり)村太田組震災山崩れ跡の図」(真田宝物館蔵)を描き上げました。伊折村太田組とは、現在の長野市中条太田地区のことです。地震当時、
虫倉山が大崩壊して太田組11戸54人が犠牲になりました。
御用絵師というのは、襖絵や障壁画を描くだけでなく、当時の記録カメラマンでもありました。災害の様子を記録したり、藩の絵図を描いたり、動植物の写生図、藩主や家来の肖像画なども描いていました。雪卿は、主にそういった役目の絵師だったのかもしれません。彼は、妻女山の麓・岩野に住んでいました。彼は生涯独身でした。松代城のお姫様にいたく気に入られ、結婚できなかったとかいう言い伝えがあります(実際はそうではないという話を子孫の方から知らせていただきました。詳細はコメント欄で)。けさへいという養子をもらい、その妻と子と葡萄畑を作ったりして、余生を送りながら明治10年頃没したということです。ちなみにわが家も葡萄畑をやり葡萄酒を販売していました。明治36年没ですから、私の祖母が9歳の時。近所なので知っていたでしょう。
わが家には、その雪卿が描いた掛け軸があります。モデルは祖先のひとり
逸作で、幕末に長きに渡り岩野村の名主を務めました。描画は元治元年(1864)とあり、雪卿は親友であったようで、絵には友の為にと書かれています。逸作61歳とあるので、生まれは享和4年/文化元年(1804)です。時代は、
妻女山の謙信槍尻之泉霊水騒動から天保の大飢饉、天保の改革失敗、善光寺大地震、黒船来襲と一気に幕末から明治へと移る激動期です。
わが家の祖先、逸作は養子で、養父母には子がなく、たまたま善光寺御開帳で隣り合わせた川合の人と意気投合し仲良くなり、縁あってもらった養子ということです。何歳で来たかは不明ですが、まだ赤ん坊か幼児だったのでしょう。ひとつ違いの雪卿とは近所の幼なじみで仲が良かったのだろうと思います。
右の派手な魚籃(ぎょらん)観世音菩薩は、青木雪卿重明による慶応2年(1856年)正月2日61歳の時の作。右の地獄絵図も恐らく彼の作でしょう。詳細は、「
岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈(妻女山里山通信)」を。
というわけで、松平乗全とわが家にある彼の掛け軸がなんとなく、乗全-幸貫-雪卿-逸作という線でつながったのですが、どういう理由でわが家に来たのかは全く不明です。長年に渡り名主を勤めた褒美でしょうか。