モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

妻女山 里山デザインプロジェクト & BBQ(妻女山里山通信)

2012-07-30 | アウトドア・ネイチャーフォト
 妻女山は、ここのところ午後から夕方にかけて猛烈な雷雨に襲われています。今日は近くに落雷があり、火の玉が落ちて、コンセントから火花が散ったとみなが言っていました。34、35度の猛暑とばれば雷雨も仕方ないのですが、夏山の落雷は本当に怖いので、早出早帰が鉄則です。場合によっては昼頃から始まるので、少なくともなにもない尾根筋にはいないようにしないといけません。

 日曜日は、仲間が集まって午前中は妻女山 里山デザインプロジェクトの作業をしました。いつもの3人に、先日知り合ったフランス人のお宝ハンターのテディさんも手伝いにきてくれて、カブトムシのベビーベッドを作りました。1m四方の板枠を作り、防腐剤を塗って、キノコ栽培の大鋸屑と広葉樹のチップを混ぜて入れました。キノコの大鋸屑ならなんでもいいというわけではなく、エノキダケのものはだめで、針葉樹のものもだめ。ということで友人が、知り合いからわざわざ広葉樹の大鋸屑を大量にもらってきてくれました。チップは前に除伐したカラコギカエデです。カブトムシが気に入ってくれるといいのですが。

 その前に丸太切りしておいた1m、直径20センチのコナラ十数本を滑車で20m引き上げる作業が一番きつかったわけで、汗だくになりました。これは椎茸栽培に使います。桜はチップにして薫製に使います。みな機械や道具の扱いには精通しているので、一応安心して任せられます。ひとり蜂に刺されましたが。山の作業には、ポイズンリムーバーは必須です。場合によっては命にかかわるので。

 作業は順調に進み、手伝いもあって予定より早く昼までには終わりました。昼は蝶の研究家のTさんと、色々差し入れてくれたKさんも加わってバーベキュー大会。ラム、ソーセージ、地鶏、信州丸ナス、ズッキーニ、ピーマン、タマネギ。タレはBBQソースと自家製ニンニク醤油。自家製の唐辛子ソース等々。キュウリは丸ごと信州味噌をつけて丸かじり。冷やしトマト。野菜はもちろん採れたて。

 話題は、当然山の保全の話から蝶や昆虫の話、放射能の話や、海外の旅の話、歴史の話から下ねたまでバラエティに富んでいました。自然の話では、今年はツバメが異常に多いということ。放射能のせいで関東に虫が居なくて、みんなこっちに飛んで来たのではとか。山でニイニイゼミやヒグラシは鳴いているのに、里でアブラゼミやミンミンゼミが全く鳴かない。蜂、特にハナバチやハナアブが非常に少なくなっている。モンサントの除草剤ラウンドアップやグリホサート系除草剤や殺虫剤のせいではとか。自然現象の異常について色々。下ねたについては割愛しておきます。

 妻女山山系の自然情報も、蝶の研究家のTさんから色々得る事ができました。ニホンカモシカのシロには、どうやら子どもが二頭できたらしいです。双子なのか年子なのか分かりませんが、双子かもしれません。そうするとシロの母親もクロ、シロと双子を生んだのかな。そういう家系なのか。ちょっと興味があります。シロは、頭の毛色の文様が鞍骨城跡を塒としていた彼女の父親とそっくりです。黒は母親とよく似ています。

 〆は激辛ラーメンに野良坊菜、ターサイ、ケールを入れて。途中、個人で古墳を持っているKさんが通りかかり、かき氷を差し入れてくれました。というような訳で、男達だけの色気のないバーベキュー大会は、コナラの日陰でだらだらと続いたのでした。ニイニイゼミの鳴き声をBGMに話している上を、時折オオムラサキやカラスアゲハなどが舞って行くのでした。今年は、コナラやクヌギのあちこちで樹液が出ているので、散っているため一見数が少ない様に見えますが、例年通り発生しています。

 次回は、9月に大キノコ狩りパーティーを企画しています。11月は、椎茸栽培用にコナラの伐採と、暴風雨で地上5mに宙づりになっている赤松の大木の上半分の除去。これは大変危険な作業になりそうですが。そして闇鍋パーティーとだらだら企画は続きます。

■オオムラサキは、チョウ目(鱗翅目)・タテハチョウ科に分類されるチョウの一種。日本の国蝶。学名はSasakia charonda(Hewitson, 1863)、中国名は「大紫蛺蝶」。スミナガシもタテハチョウ科。墨流しで作ったような模様の中に、青緑や群青、紺色など和風の色合いが美しい蝶。

★Youtubeスライドショー(BGMは、GarageBandで作曲したオリジナルです)
Omurasaki butterflies in Japan 2011 Part 1of3【オオムラサキ】
Omurasaki butterflies in Japan 2011 Part 2of3【オオムラサキ】
Omurasaki butterflies in Japan 2011 Part 3of3【オオムラサキ】
Suminagashi butterflies in Japan 2011 Part 1of2【スミナガシ】
Suminagashi butterflies in Japan 2011 Part 2of2【スミナガシ】

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。オオムラサキの写真は「蝶・蜻蛉 4 5」にたくさんあります。

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上杉謙信が妻女山(斎場山)に布陣したのは、千曲川旧流が天然の要害を作っていたから(妻女山里山通信)

2012-07-19 | 歴史・地理・雑学
 1561年(永禄4年)に、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄による「第四次川中島の戦い」が起きました。信玄の茶臼山布陣については、江戸後期の『甲越信戦録』が初出で、『甲陽軍鑑』など、それ以前の史料には全く出て来ないことから、後の創作だろうといわれていますが、謙信の妻女山(斎場山)に関しては、「西條山」と漢字こそ誤記されていますが、あちこちに登場するので、史実と思われます。

 但し、多くの研究家が誤解している様に、謙信が本陣とした妻女山というのは、現在の妻女山(411m)のことではありません。その南西にある斎場山(513m)のことで、「さいじょうざん」といいます。読みが同じため口述筆記の際に「西條山」と誤記され、それが広まったのです。現在の妻女山(さいじょざん)は、「赤坂山」あるいは単に「赤坂」といいました。尚、妻女山という名称は、戦国時代にはなく、江戸時代に入って創作されたものです。

 多くの歴史マニアが、妻女山展望台を訪れ、謙信と信玄の布陣の様を想像すると思います。その際に、多くの人が疑問に思うのではないでしょうか。南北は山と川に守られているものの、東西はゆるゆるで防御は難しいのではと。それは、戦国時代当時の千曲川の河道を理解していないからなのです。山の形はそう変わっていないと思われますが、河道は全く異なっていました。現在の河道は、江戸時代の戌の満水後の大規模な瀬直しによるものです。

 添付の地図の青い帯は、戦国時代の千曲川の想像図です。千曲川は上流から、「雨宮の渡」まで深く南流し、ほぼ真北に向かって流れた跡急転して南流。現在の妻女山にぶつかるように流れていました。その後は、廃線になった長野電鉄屋代線に沿う様に流れ、海津城の横を流れて金井山にぶつかっていました。旧長野電鉄が清野で南に大きくカーブしているのは、自然堤防の上に線路を敷設したからです。そして、その北側に千曲川の旧流があったということです。岩野や清野の畑は、中沖とか起目沖とか沖がつきます。昔の人は、畑に行くことを沖に出るとか沖仕事とか言ったそうです。また、盆地につきだした尾根の先端は、笹崎、韮崎、唐崎のように崎という字がつきます。松代城の旧名の海津城の津は、港という意味です。河川交通の要所だった名残です。

 つまり、斎場山は、千曲川に囲まれた天然の要害の体を成していたのです。千曲川の北側は広大な氾濫原で、「戌ヶ瀬」、「十二ヶ瀬」、「猫ヶ瀬」というように、いくつにも別れた瀬と河原でした。渡は、西の「雨宮の渡」と東の「広瀬の渡」のみで、その間にはなかったのです。特に重要な交通路だった「雨宮の渡」には、橋があったという説もあります。十二河原という場所が十二ヶ瀬ですが、川が分流したくさんの中洲があったということで、現在も十二の畑という地名で残っています。実際現地で見たり地形図を見ると、土地が褶曲し旧河道が見えてきます。戌ヶ瀬は犬でも渡れる浅い瀬、猫ヶ瀬は猫でも渡れる浅い瀬ということです。当時は堤防もなく、好き勝手に流れていたのです。また、千曲川は一級河川としては類を見ないほど水量の増減が激しく、常に流量の豊富な犀川に押されて南の山際に押し付けられていました。今でも妻女山の下の畑を深く掘ると、犀川の白い土が出てきます。第四次川中島合戦の頃は、渇水期にあたります。寒冷期だったので台風もなかったと思われます。
 この千曲川の旧流図を見ると、謙信が斎場山に布陣した理由も頷けるのではないでしょうか。

 この妻女山にぶつかっていた千曲川が、瀬直しにより埋められ、谷街道(北国街道東脇往還)が開通するのは、江戸時代の天明年間になってからです。それまでは、大名行列も全て妻女山を超えていたのです。その街道は、清野小学校から妻女山までは、比較的にきれいに残っていますが、妻女山から斎場山、土口への経路はほとんど消滅しています。街道は、清野小学校から赤坂山を超えて一旦岩野に下り、切り崩した笹崎の中腹を巻いていた時期もありますが(江戸後期の絵図に記載がある)、その年代等詳細は不明です。

■千曲川が妻女山(赤坂山)にぶつかって流れてたのは、江戸時代の天明年間まで-----

●1608年(慶長13年)に斎場越の古道は街道としては廃止される(土口村誌)。千曲川旧流は、妻女山(赤坂山)下の蛇池まで流れていたので、街道は赤坂山に登り、一旦会津比売神社に下り、岩野を通って笹崎を巻いていたと思われる。笹崎中腹の巻き道が完成したのだろう。
●1742年(寛保2年)8月1日、2日:「戌の満水」流域全体で2800人以上の死者を出した。妻女山(赤坂山)下の蛇池は千曲川の旧流の一部だった。
●1747年(延享4年)洪水のあと、松代藩は幕府に城普請の許可を得るとともに、一万両の拝借金を許された。また、大規模な瀬直しにより何本かに分かれて流れていたうちの一つを掘り下げて流れを変えようとした。瀬直しで笹崎の先を切り崩して河川工事に使ったらしい。
●1762年(宝暦12年)新しく掘り下げた川筋に川は流れたが、それまでの流れ(古川)にも同時に流れていた。
●1763年(宝暦13年)になっても、松代道は勘太郎橋を渡って南に大きく湾曲しており、地蔵の木から妻女山(赤坂山)を越えて土口に下っていた。(前記のように、赤坂山を超えて一旦岩野に下り、笹崎中腹を巻いていた可能性が高いが、戌の満水で再び笹崎が通れなくなった可能性もある)
●1781年(天明元年)に行われた「国役御普請」により里の谷街道開通。つまり蛇池旧流の消滅。
その際、東福寺小森の石土手も築かれた(小森村国役御普請後仕様帖)。対岸の岩野にも築かれたが、それまで50mほど西に本流があったが、明治43、44年の洪水で東側(右岸)が削られ、石土手は流されたという。
清野の大峯山神社には、天明の普請の際に笹崎から出たという巨岩を祀った「飛石天満宮」があるが、笹崎で大工事があったことが推察される。
●1804年(享和4年)の千曲川災害満水。
●1807年(文化4年)に「国役御普請」「水刎」というものを石を使って30間築いた。
●1847年(弘化4年)7月8日 善光寺地震。地震とその後の山崩れで犀川にできたダムの崩壊で8600人が死亡。善光寺御開帳のため犠牲者が多かった。松代藩が立てた慰霊碑が妻女山展望台の後ろにある。
●1848年(嘉永元年)から嘉永5年 松代藩のお手普請。嘉永年間の小森の史料にも対岸へ集めた石を船で小森の方へ運んだという史料がある。笹崎の石と考えられる。
 こうして笹崎の先端は、時代をおって徐々に削られて現在の姿になった。


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★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」など。このブログでも右下で「妻女山」でブログ内検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。

★「上杉謙信斎場山布陣想像図」未だかつて誰も描いたことのなかった江戸時代の人が伝える上杉軍斎場山布陣図。江戸時代後期に描かれた榎田良長による『川中島謙信陳捕ノ圖』(天明年間に開通した谷街道と、妻女山越え、笹崎経由の旧谷街道や、斎場山越えの道も分かる)
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今年初見のオオムラサキのメスは三途の川の畔にいた(妻女山里山通信)

2012-07-14 | アウトドア・ネイチャーフォト
 信州が今年最高気温の34度近くになった午後に妻女山に寄ってみました。林道を歩き始めると思いのほか西風が強くて気持ちがいい。三光鳥の「ホイホイホイ」という鳴き声に聞き惚れていると、足下でバサバサと音が。なにかなと見下ろすが何も眼に入らないのです。

 不思議に思ってしばらく静止していると、またバサバサと。山藤の幼木の葉の裏側からオオムラサキの大きな眼が見えました。激しく羽撃きながら葉に乗りました。その姿は明らかに異常でした。

 前翅も後翅も半分以上ないのです。オオムラサキのメスが羽化し始めたのは、ここ2、3日ですから、羽化したてでニホントカゲかニホンカナヘビに襲われたのでしょう。それでもこれだけ翅を食いちぎられてよく無事だったものです。オオムラサキの成虫の天敵は、他に鳥やクモなどがいますが、オオムラサキは縄張り意識が強く、自分より大きなヒヨドリやツバメを追い回す追尾行動もよく見られます。

 このオオムラサキは、下の斜面から上がって来たようなので、地面で獣の糞を吸っている時かなにかに襲われたのかもしれません。コナラなどの樹液は、まだ出初めで少ないため、地面の獣の糞や落ちた果実の発酵したものを吸うのです。水分を補給するために下りることもあります。樹上で樹液を吸うのに比べると、地上での行動は遥かに危険が伴うはずです。

 最初の写真は、葉の上から下りて林道を歩き始めたところ。3枚目は、飛び立とうと激しく羽撃いたところ。当然、1センチも飛べません。それでも、諦めずに何度も何度も羽撃くのでした。羽撃いているうちに、右の前翅が付け根から取れてしまいました。

 羽撃いた瞬間にひっくり返ってしまいましたが、すぐに戻りました。野生生物は、命尽きる瞬間まで諦めずその時の100パーセントの力を出すものなのです。

 4枚目。翅を広げたところで、初めてメスだとはっきり分かりました。5枚目。どこへ行こうとしているのか。林道をとぼとぼと歩いていきます。そのまま、草むらに消えました。樹上からは鳴き始めたヒグラシの鳴き声が、木漏れ日と共に降り注いでいました。

 あのメスの命はそう長くはないでしょう。オオムラサキは、羽化してから約ひと月の命ですが、それさえ全う出来ずに命が絶えて行く個体も実は少なくありません。その日も、ちぎれたオスの翅1枚を見ました。それが自然の営みなのです。

 長坂峠に出ると、いつも一番真っ先に樹液が出るコナラにハナムグリが。そこへキアシアシナガバチがやってきて、最初は横に並んで片を組む様な形で樹液を吸おうとしました。しかし、樹液が出ている場所が小さく上手く吸えないため、あちこちに移動したりホバリングしたり。そして、ついにはハナムグリの上に乗って頭の上から樹液を吸いだしました。ハナムグリは、全く動じることもなく吸い続けています。そんな様子を小さなムモンホソアシナガバチが遠巻きに見ていました。

 この樹液バーは、私が手鋸で傷をつけた人工的なものです。カミキリムシの幼虫が穴をあける以外に、昔は木山といって薪をとったり、枝打ちや除伐を盛んにしたので、樹液が出る木はたくさんありました。近年、山の手入れをしなくなったことに加えて、当地では千曲市による松枯れ病対策での農薬の空中散布のために、カミキリムシが減少していることが考えられ、樹液を出す樹木が激減しています。そこで、人工的に樹液バーを作っているのです。

 手鋸で横に傷をつけると、穴をあけるより樹液が沢山出るので、より多くの昆虫達が樹液を吸える様になります。樹液は秋口まで出続けますが、やがて樹木の自然治癒によって導管が塞がれ、樹液は出なくなります。導管のルートが他にできるのです。枝落としをした箇所も節になって塞がれます。

 コナラの7、8m上の方では、自然に出始めた樹液をスズメバチが吸っていました。オスのオオムラサキが飛んで来て留まろうとしましたが、スズメバチに追い払われてしまいました。今年もオオムラサキとスズメバチのバトルが始まります。

 榎のあるオオムラサキの谷では、たくさんのオオムラサキが舞ってました。オスだけだった先週とは違い、遅れて発生したメスもたくさん加わって森はとても賑やかになりました。アオカナブンやカブトムシ、ミヤマカミキリなどはまだ発生していません。彼らが出てくると、樹液バーは大混雑します。

■生物と核
 地球の年齢は46億年です。約39億年前に海ができて原始生物が誕生しても、地球は太陽や雨中からの放射線や宇宙線が降り注ぎ、陸上で生物が棲める環境ではありませんでした。誤解を恐れずに言えば、太陽は最も巨大な原発であり原爆なのです。
 5.5億年前に海藻が酸素を大量に作り始め、オゾン層ができて、やっと陸上で生物が生きられる環境が整いました。
 そして、人類が誕生したのがわずか450万年前。地球の歴史を1年とすると、人類の歴史はたった8時間余り。その人類が、膨大な時間をかけてやっと生物が棲める様になった地球を、自ら放射能で汚しています。原発=原爆=核は、生物学的には、最も反動的なものなのです。


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ノアザミでハナアブが鳴らす人類への警鐘(妻女山里山通信)

2012-07-11 | アウトドア・ネイチャーフォト
 鮮やかに咲いたノアザミで、ホソヒラタアブが盛んに吸蜜していました。幼虫はアブラムシを食べるので人間にとっては益虫ですが、ここ2、3年は非常に少なくなっていました。以前は畑のバジルが咲くと、無数のホソヒラタアブが群がったものでした。写真の個体は、複眼の間があいているのでメスです。

 ノアザミは、春から夏にかけて咲き、花の下の総苞がネバネバします。ここに小さな昆虫や時には座頭虫の長い脚がくっついていることがあります。食虫植物でもないのに、なぜ粘るのでしょう。夏から秋にかけて咲くのはノハラアザミ。総苞は粘りません。

 ホソヒラタアブ(細平田虻)は、ハエ目ハナアブ科ヒラタアブ亜科ホソヒラタアブ属の小型のハナアブの一種です。日本中で最も普通に見られるハナアブといってもいいかも知れません。マクロで撮影しているので大きく見えますが、体長は9から11ミリと小さく、注意して見ないと眼に留まらない昆虫です。人家の庭にもよく現れます。ホバリングが上手で、空中でよく静止をして留まる花を見ています。

 掲載の写真の上から三番目に、ホソヒラタアブの左にホバリングする小さなアブが写っていますが、複眼に縞模様が見える事から、シママメヒラタアブかノヒラマメヒラタアブと思ったのですが、よく見ると複眼と触覚が違います。むしろ蜂の形状をしています。体長は6ミリほどで、ホソヒラタアブよりさらに小さな昆虫です。ヒメハナバチかコハナバチの一種かと思うのですが・・。現在調査中ですが、なかなか同定まで辿り着きません。

 ここ2、3年、蜂が異常に少なくなりました。特にハナアブやハナバチ類。世界的(特に北半球)で問題になっているCCD(蜂群崩壊症候群)に加えて、一昨年の春の低温による激減の影響で昨年も少なく非常に心配していました。これでは、また作物が不作です。花が咲いても受粉できないので結実しないのです。特に豆類が影響を強く受けています。
 アインシュタインが、「地球からミツバチがいなくなったら、人類は4年で滅びる。」と言ったのは、そういうことなんです。

 CCD(蜂群崩壊症候群)については、色々取りざたされましたが、原因はベトナム戦争ので使われた悪魔の兵器「枯れ葉剤」を開発・製造したモンサントの殺虫剤「ネオニコチノイド(除草剤ラウンドアップ)」によるものといわれています。一時、「ハチの免疫不全(エイズ)」だと言っていた学者もいたようですが、なんのことはない、花に降りかかった劇薬・ネオニコチノイドを吸い込んだハチが、中枢神経と方向感覚が麻痺してしまって自分の巣に戻れなくなったことから大量失踪したということのようです。ホームセンターでは、グリホサート系除草剤として売られています。殺虫剤も同様のものがあります。絶対に使ってはいけないものです。

 すでに、フランス、ドイツ、イタリアを始めとするヨーロッパ各国では、あまりに危険なために使用が禁止されているのですが、アメリカ、日本では未だに禁止されていません。モンサント社は日本の種苗会社の株を買収し、伝統野菜を根絶して種の採れないF1種を普及させ、さらには遺伝子組換作物を除草剤とセットで売り込もうとしている非常に危険極まりない企業です。これでTPPに入ったら日本の農業は間違いなく壊滅します。ホームセンターに行くとグリホサート系の除草剤がたくさん売られていますが、使ってはいけません。殺虫剤も同様です。癌との因果関係も証明されています。

 農家だけでなく、家庭菜園をしている人もたくさんいますが、固定種とF1種(自殺種)の区別、そして遺伝子組み換え作物の区別ができるひとがどれほどいるでしょう。今年植えた野菜が固定種かF1種か分かるでしょうか。いや、ホームセンターやJA、園芸店で売られている種のほとんどが、F1種(自殺種)だという事実をどれほどの人が知っているでしょうか。今年は特に固定種の種や伝統野菜の種を集めましたが、結構大変でした。それほど日本の野菜は、知らないうちに、既に侵されているのです。

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里山の妖精ゼフィルス。縞々の可愛い靴下をはいたり、メタリックブルーを纏ったり(妻女山里山通信)

2012-07-07 | アウトドア・ネイチャーフォト
 ここ2年ほどは、全くといっていいほどゼフィルスを見ませんでした。ゼフィルスといっても、馴染みのない人には分からないでしょうが、樹上性のシジミチョウの一群の総称で、日本には25種います。ゼフィルスは、西風という意味で、語源はギリシャ神話のゼピュロス神。スペイン語でセフィーロ。地中海に春をもたらす西風(そよ風)のことです。ゼフィルスはゼフともいい、森林性が強く、多くの種がブナ科を食樹とし、卵で越冬します。

 ちなみにゼピュロスは笛の名手で、その神がシルクロードを伝って日本にたどりつき、奈良薬師寺五重塔の飛天になったともいわれています。シルクロードの歴史ロマンを感じさせる話です。ゼピュロスは、英語ではゼファー。ゼファーガンダムも、それにちなむ命名とか。翅をめいっぱい広げても25ミリから50ミリの小さな蝶で、せわしなく舞うのが特徴。種によってはメタリックに輝く翅が非常に魅力的です。

 希少種を除いては特別な蝶ではなく、日本の里山から亜高山で普通に見られます。信州では希少種もいて、つい最近も不届き者が違法に捕獲して逮捕されました。違法でなくても大量の卵を食草毎持って行く様な輩は、非難されるべきでしょう。当地では、ありふれた種しかいませんが、それでも小さな蝶がメタリックな翅を翻して樹間を飛び交う様は、美しく見飽きないものです。ヤマトシジミやベニシジミは、都内の公園や川原でも見られます。調布の野川でもよく見かけました。

 撮影地は伏せますが、山道を一時間ほど登った熊や猪が出没する森のギャップです。熊には出合いませんでしたが、ニホンカモシカやしたばかりの大きな猪の糞を目撃、徘徊する5センチもある巨大なオオスズメバチの女王と遭遇しました。秋の攻撃的な蜂と違って凶暴ではありませんが、ウィンナーソーセージほどもある大きな蜂が横を通り過ぎると、やはり緊張します。道すがら三光鳥が「月、日、星、ホイホイホイ」と鳴いていたのが慰めでした。

 今回撮影したのは5種類。ゼフィルスは、それぞれに食草、食樹があるのですが、梅雨前の時期の林道などの除草で何も知らない行政と委託された業者が、それらを蛹毎刈り払ってしまうのをよく見かけます。絶滅に手を貸しているという認識がないだけに問題の根は深いといえます。野生獣被害防止の除伐をする林業関係者も、有用材はよく知っていますが、食樹となる樹はいわゆる雑木や雑草なので、これも名前も知らず伐採してしまうのが現状です。一方で行政は、自然保護もやっているのですが、縦割り行政の弊害の典型といえるでしょう。

 蝶の観察や保護をしているあるゼフィルスの研究家が、市の教育委員会などに働きかけたことがあるそうですが、何も動いてくれなかったようです。教育委員会の有識者といっても単に元校長等。生物の専門家や研究家でもないので、危機感は持っていないのでしょう。意識レベルが低いといわざるを得ません。利権がからめばすぐに動くのでしょうが。それではね・・。

 今回も翅が縮れた羽化不全の奇形の個体や羽化後ニホンカナヘビかなにかに翅を喰われた個体を見かけました。通常でも奇形は一定量現れるのですが、東北、関東などでは、放射性物質の出す放射線の影響で、一定量以上の奇形が出現する蓋然性が高まると思われます。特に細胞分裂の盛んな蛹の時期に影響を最も受け易いと思われるので、汚染地の研究者は注意深く見る必要があると思います。

 萩やマルバフジバカマの花が咲きだすと、ゼフィルスのシーズンも佳境です。

ゼフィルスの饗宴:シジミチョウとの出合いを求めて信州の里山を徘徊

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今年初見のオオムラサキは、猪のうんちを吸っていた(妻女山里山通信)

2012-07-03 | アウトドア・ネイチャーフォト
 全国で、オオムラサキ羽化のニュースが流れていますが、当地でも先週末から羽化が始まったようです。羽化したのはオスばかり。あと一週間もするとメスも羽化を始めます。国蝶といっても。ことさら希少な蝶というわけではありませんが、オオムラサキが棲める森というのは、日本の里山の豊かさ、健全さを示すバロメーターとなるのです。オオムラサキがたくさん発生する森というのは、他の昆虫や動物にとっても棲み易い環境といえます。

 蛹について------、「幼虫が脱皮して蛹になるにはホルモンが作用。幼虫の体の中に、脱皮をうながす前胸線ホルモンと脳の後ろの アラタ体から分泌され、脱皮を押さえる幼若ホルモンの二種類があり、積算温度や日照時間によってホルモンのバランスがくずれて、脱皮したり蛹になったりする。蛹の殻の中では、消化器、神経節、生殖器は少し変化するが、他の部分はドロドロになった芽胞という細胞が分裂を繰り返して、形を作っていく。形が整ったところで鱗毛、鱗粉がつくられ、最後に色素が形成され、模様が完成する。オスはメスより早く蛹になる」(北杜市オオムラサキセンターのサイトより抜粋引用)

 そのため、細胞分裂が盛んな蛹の時に、物理的刺激や放射能の影響を受けると奇形が発生することがあります。蛹を見つけても触ってはいけません。激しく暴れ羽化不全を起こし奇形になる可能性があるからです。ましてや放射線にさらされたら、何をか言わんや。容易に想像がつきます。

 今年は空梅雨のためか、樹液がまだ出ていません。そのためコナラやクヌギには集まらずにいます。どこで栄養補給をしているのだろうと、飛んでいる個体を追い掛けると、森の中の草原に下り立ちました。忍び寄って見ると、臭い。オオムラサキは、猪の糞を吸っていました(写真下から二番目)。別の個体は、桑の大木の下にいて、落ちた桑の実がつぶれて発酵したものを吸っているようでした。今回撮影したオオムラサキが樹上ではなくほとんどが地上なのは、そのためです。

 撮影していると、パタパタと私の周りを飛びながらトレッキングパンツに留まります。そして、丸めていた口吻を伸ばして布に押しあて吸い始めます。わずかについた汗の塩分を舐めているのでしょう。真夏などは、汗ばんだ指に留まる事もあり、くすぐったいのを我慢して、それを撮影したこともあります。

 羽化したてのこの時期は、まだ翅もきれいですが、中には翅の一部が欠損したものがいます。恐らく地面で吸汁中に、ニホンカナヘビなどに襲われたのでしょう(写真最下部)。翅の一部が欠損したくらいでは、なんの問題もなく羽撃きます。気が結構強いので、幼虫時代に仲間が食べられた恨みではないでしょうが、ツバメやヒヨドリを猛スピードで追い立てる追尾行動も見られます。

 オオムラサキを撮影すると、黒い小さな瞳がいつもこちらを見ていて可愛いのですが、これは偽瞳孔(ぎどうこう)といって、本当の瞳ではありません。上からに番目の右の写真の様に、正面から撮ると偽瞳孔のひとつが消えて(実際は内側に入っている)しまうこともあります。複眼が筒状になってて底まで見える場合だけ黒く見えるということらしいのですが、やはり、どうしても瞳に見えてしまい親しみを感じずにはいられないところです。

 複眼といっても実際は、ひとつに統合された画像を見ているようで、画素数はそんなに高くないようですが、紫外線が見えたり、動体視力はいいようです。なので蝶に近づくには、なるべくゆっくりと動くことが逃げられないコツです。

 梅雨末期が近づき、雨が降って気温があがり樹液が出始めると、樹液バー(樹液酒場)の開店です。大賑わいの昆虫酒場が見られるでしょう。

■オオムラサキは、チョウ目(鱗翅目)・タテハチョウ科に分類されるチョウの一種。日本の国蝶。学名はSasakia charonda(Hewitson, 1863)、中国名は「大紫蛺蝶」。(wikipedia)

★Youtubeスライドショー(BGMは、GarageBandで作曲したオリジナルです)
■Omurasaki butterflies in Japan 2011 Part 1of3【オオムラサキ】


■Omurasaki butterflies in Japan 2011 Part 2of3【オオムラサキ】


■Omurasaki butterflies in Japan 2011 Part 3of3【オオムラサキ】


ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。オオムラサキの写真は「蝶・蜻蛉 4 5」にたくさんあります。

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■歴史は繰り返す:864年:富士山噴火/868年:播磨国地震(阪神)/869年:貞観地震M9・貞観津波(東北)/871年:鳥海山噴火/874年:開聞岳噴火/878年:相模武蔵地震(関東)M 7.4/887年:仁和地震(東海南海地震)M9(M=推定)

■原発情報は、左のツイッターで。
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