モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

Alice's Adventures in Wonderland -1907's 1st Edition 【不思議の国のアリス】

2012-01-28 | 歴史・地理・雑学
 この本は、昔ロンドンの書店街、Charing Cross Road と St. Martins Lane をつなぐ Cecil Courtの小さな古本屋で見つけたものです。記憶が間違っていなければ確かそうです。当時つきあっていたピアニストの彼女がロンドンに留学していて(美人で才能豊かな女性でした)、私もR.C.A.にプチ遊学ついでにイースターの休みにフラットを借りて滞在していました。書店街では、たくさん画集などを買いました。



大きな画面で見るには、画面上のタイトルをクリックして、Youtubeのページを開き、フルスクリーン&ハイビジョンでご覧ください。BGMは、例によってGarageBandによる自作です。現在はパーツのアセンブリーにエフェクトをかけるぐらいですが、いずれはきちんと作曲してみたいと思っています。

 『不思議の国のアリス』は、絵本やディズニーでは実写やアニメでなんども映画化されていてお馴染みです。少女が主人公なので男子の読むものではないと思っている人もいるようですが、原作の題名が「Alice's Adventures in Wonderland」とあるように、本来は『不思議の国でのアリスの冒険』と訳すべきもので、冒険小説です。

 作者のルイス・キャロルが、偏頭痛持ちで、モノが小さく見えたり大きく見えたりする体験(不思議の国のアリス症候群)から、この本を書いたともいわれていますが、駄洒落やナンセンス、夢や幻覚、パロディや皮肉、ゲームやなぞなぞなどの要素がぎっしり詰まった、実は奥の深い物語なのです。故に世界で聖書の次に多く読まれる本といわれるほど人気があるのでしょう。

 この本は、1907年に出版されたもので初版本です。挿絵はアーサー・ラッカム(Arthur Rackham 1867年9月19日 - 1939年9月6日)。『不思議の国のアリス』,『ニーベルンゲンの指輪』,『ケンジントン・ガーデンのピーター・パン』など妖精や動物たちを描いた可憐で繊細な絵を書いた画家です。本は1908年のクリスマスにプレゼントとして贈られたもののようです。ペンで書かれたLANCE HOUSEというメモが気になります。傷み方からすると、相当愛読されたようです。いったいどれほどの少年少女達の胸を躍らせたことでしょう。

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OLD ANDES-1950s 【1950年頃のアンデス】色濃く残るインカの面影

2012-01-26 | 歴史・地理・雑学
 スライドショー、1950年頃のアンデス。私がアンデスへ旅したのは80年代ですが、50年代とその頃でもそんなに変わらないのがとても素敵です。ラパスやリマなどの大都市の中心部は近代的なビルがありますが、郊外や小さな町や村では、現在でも同じ様な風景が見られます。

 標高が4000mを超える様な地帯での生活は、とても厳しいものですが、我々の食べているもののかなりのもののルーツがアンデスにあるのです。私のアンデス放浪記からの抜粋です。
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 実は、私たちが食べている野菜や穀物には、アンデス原産のものが多い。ジャガイモ、トウモロコシ、カボチャ、唐辛子、ピーナッツ。市場に行くと、日本では目にすることのできないたくさんの種類のジャガイモやトウモロコシを見ることができる。中には原種に近い物もある。品種改良された野菜に慣れた舌には、あまりに素朴な味だが、それが滋味というものだろう。
 他には、近年注目されているキヌアやアマランサスなどの雑穀類がある。キヌアはペルー、ボリビア、エクアドル、チリ北部の標高2500~4000mのアンデス山系で栽培されている穀物で、アワやキビに外見は似ているが、同類の穀物の中でも特に栄養価が高く、21世紀の主食ともいわれている。わが家では、ご飯を炊くときに、必ずこれらの雑穀を入れている。

 さらにヤーコン。ヤーコンは南アンデス原産のキク科の植物で、味は梨とレンコンの中間、香りは少しウドに似ている。ミネラル豊富なアルカリ性食品で、ポリフェノ―ルはワインに匹敵するそうだ。アンデスは侮れない。


●続きは、「天空のラパス、神秘のチチカカ、湿原のトリニダッド 」を。ラパスの裏町で見た庶民の暮らし。チチカカ湖への旅で出会ったリャマ使いの少女。トリニダッドのピラニア釣り、麻薬の運び屋に間違われた?など。
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■フォト・エッセイ「―ここからすべてが始まった―<アマゾンひとり旅>AMAZON.JP」1983-1984年の200日余りのブラジル・ボリビア・アマゾン放浪記。ボリビアの天空の都市ラパスやチチカカ湖畔のコパカバーナ、湿原の地平線が見える町トリニダッドの滞在記も。

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信州上田の太郎山トレッキング・フォト・ルポ アップ! 北アルプス大パノラマ(妻女山里山通信)

2012-01-23 | アウトドア・ネイチャーフォト
 信州の上田市民に最も親しまれている山と聞いたら、おそらく全員が太郎山とこたえるでしょう。東京の高尾山、神奈川の大山、長野市なら飯縄山というように、住民なら誰もが一度は登ったことのある山というのがありますが(たいていは遠足)、太郎山もそんな山のひとつです。今回は裏参道駐車場から下って表参道を登り、裏参道を下るループコースをとりました。時間があれば、太郎山から虚空蔵山、和合城跡への縦走ルートがおすすめです。

 当日は、大晦日だったので遅めに着いたのですが、表参道登山口は登り納めの車が20台ぐらいいました。冬枯れの季節なので植物等見るものは、ほとんどありませんでしたが、山頂からのパノラマビューは素晴しいものでした。ほんとうに微かですが、富士山のシルエットも見えました。いいディスプレイで目のいい人は見えるかもしれません。末尾に、太郎山に登ると眼下に見える真田の上田城趾も載せました。下記をクリックしてご笑覧ください。

信州上田の太郎山トレッキング・フォト・ルポ

太郎山コースマップ
 今回は、I から登り、J に下りました。マップで分かる様に、太郎山山脈の南面は、中世の城跡だらけです。また、一番右の伊勢山は、アニメ「サマーウォーズ」の舞台となったところです。

★山登りに行かれる方は、「測ってガイガー!」や「奥多摩、中央アルプス、北アルプスの放射線量」などを参考にしてください。山によっては、かなり汚染されているところもあります。「測ってガイガー!」を見ると、山の計測箇所が少ない。ガイガーカウンタ持っているハイカーは、ぜひ計測を。これから花粉の季節。今までに降下した放射性物質が風で再浮遊した場合の内部被曝は、10倍といいます。充分注意を!

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OLD RIO DE JANEIRO-1955s 【1955年頃のリオデジャネイロ】美しい街の光と影

2012-01-21 | 歴史・地理・雑学
 コパカバーナ、イパネマなどの世界的に有名な白亜の高層ビルが並ぶ美しい海岸は、もうこの時代にはあったのです。日本が戦争から復興してやっと形になってきたばかりの頃のこと。リオ・デ・ジャネイロは、1月の河という意味です。ブラジルでは、ヒウ・ジ・ジャネイロとかヒウと発音します。 リオ・デ・ジャネイロは、世界三大美港のひとつ。その夜景は海に宝石をちりばめた様に美しい。

 ポン・ヂ・アスーカル(砂糖パン)と呼ばれる岩山があるキリスト像から見ると、リオの街は神様が作った庭という表現がぴったりの美しい景観を見せてくれます。しかし、不法に立てられた貧民街「ファヴェーラ」は犯罪の巣窟でもあり、観光客は決して足を踏み入れてはならない所です。犯罪は飛び抜けて多く、美しい街の光と影がそこにはあります。

 リオは、2016年夏季オリンピックの開催地に決定しました。それに先立って2014年には、ブラジルで64年ぶりにFIFAワールドカップも開かれます。巨大なマラカナンスタジアムヘ、フラメンゴvsサントスを見に行きましたが、今度は決勝戦の舞台となります。ここで大活躍する日本代表を見たいものです。

 57年前の美しいリオの街と人々をご覧ください。年配の方は、「黒いオルフェ」や「イパネマの娘」を思い起こすかもしれません。




■フォト・エッセイ「―ここからすべてが始まった―<アマゾンひとり旅>AMAZON.JP」1983-1984年の200日余りのブラジル・ボリビア・アマゾン放浪記。リオ・デ・ジャネイロの滞在記。マラカナンスタジアム観戦記も。

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古代科野国の面影をとどめる堂平大塚古墳(妻女山里山通信)

2012-01-20 | 歴史・地理・雑学
 信濃の千曲市一帯は、国指定史跡の埴科古墳群(森将軍塚古墳・倉科将軍塚古墳・有明山将軍塚古墳・土口将軍塚古墳)があります。森将軍塚古墳を始まりとして4~8世紀初頭頃に古代科野国があったとされる地です。その中にこの堂平大塚古墳があります。戦国時代には川中島合戦で上杉謙信が斎場山に布陣した時に、陣用水として用いたという蟹澤の泉が近くにあります。

 堂平大塚古墳は、写真で分かる様に横穴式です。横穴式石室をもつ古墳は追葬が可能で古墳時代後期のものです。つまり何人も何世代も埋葬できるということです。前方後円墳の土口将軍塚古墳が4世紀中頃から5世紀前半に造られたもので、斎場山古墳と天城山の坂山古墳が5世紀前半から後半以降、堂平古墳は5世紀後半から6世紀ということでしょうか。位置関係でいうと上下など少し疑問な点もあるのですが。

 堂平には、この南の蟹沢(がんざわ)を挟んで南西の中腹にも平地があり、そこには数基の積石塚古墳が残っています。しかし、多くは戦乱や、その後の桑畑などでの開墾で壊されてしまいました。もし、全てが現存していれば、大室古墳群に匹敵する史跡となっていたかもしれません。大室古墳群と同様に、ここも渡来人と深い関係があるものと思われます。尚、積石塚古墳へは全く道がありません。昔の山道も途中で消えてしまいます。私は何度も訪れていますが、地元の人でも知る人はわずかです。

 写真にある古墳の周りの石垣がいつの時代のものかは不明です。堂平古墳群ということで、これ以外にも積石塚古墳がいくつかありますが、畑の土止めや、それ以前には戦国時代の城塞などに使われたかもしれません。現在は雑木林や植林帯に覆われてしまい、その全貌を見ることはできません。深い森の中にひっそりとたたずんでいます。

■堂平古墳の住人
 戦前、この古墳の横には篠ノ井の会村出身で日露戦争のときに乃木将軍の部隊で軍曹だった山岸儀十郎(漢字不確)という人が小屋を建てて住んでいました。古墳の手前に家があり、畑を作り古墳を貯蔵庫として使っていたそうです。隣には青木金時という人の畑があり、ある時境界線でもめたそうです。帰って来ないので家人が山に行ってみると、なんと彼は桑の株に縛り付けられていたということです。また、父が青年学校の時(昭和15頃)、山岸先生(将校)と数人の学生と一緒に、彼を訪ねたことがあるとか。先生は軍服にサーベルを下げて行ったそうです。日露戦争当時の話を聞いたのでしょう。その時に彼から乃木将軍からもらったという筆を見せてもらったそうです。この土地はその後別の人の手に渡り現在に至ります。

■堂平古墳への訪問者
 1936 昭和11年11月21日・海軍大学生の高松宮殿下、川中島古戦場御祝祭のため来校。妻女山へ登山、堂平古墳から雨宮の渡を見学。馬に乗って巡ったようです。現在堂平古墳から土口に下りる道は、土砂崩れと麓が藪になり不明瞭です。

■堂平古墳への行き方
 妻女山松代招魂社駐車場の奥から右の林道を登ります。10分ほどで峠(東風越・長坂峠)。三叉路を左へ進み、10分足らずで堂平古墳の標識。標識に沿って下りていくと古墳があります。私有地ですので声をかけてください。不在の場合はマナーを守って見学してください。見学は蜂や熊の心配のない初冬から早春の積雪のない日がベストです。たまにニホンカモシカが現れます。

斎場山古墳巡りフォトルポ

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OLD JAPAN-19301930(昭和5)年、関東大震災から復興したばかりの日本を襲った世界大恐慌の時代。 ここから日本は軍国主義の色を深めて行った。また同じ過ちを犯すのか! 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
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制癌効果が高いという幻のコフキサルノコシカケと自然の工芸品透かし俵(妻女山里山通信)

2012-01-19 | アウトドア・ネイチャーフォト
 コフキサルノコシカケは、サルノコシカケ科ではなくマンネンタケ科です。そのマンネンタケも幻のキノコといわれていますが、私が知っているシロでは毎年たくさん出ます。 このコフキサルノコシカケは、国立がんセンターの研究でも、がん細胞の増殖阻止率が非常に高いことが証明されています。非常に固いキノコで、樹木にしっかりと付いているため、30センチぐらいだと猿どころか人も腰掛けられるほどです。採取にはノミとカナヅチが必要です。

 このコフキサルノコシカケは、2年前に30センチぐらいのを採った後にすぐに生えて来たもので、2年で10センチぐらいになりました。しかし、ここからがなかなか大変なのです。容積が次第に大きくなるので、見かけ上成長は遅くなるのです。30センチになるのには、あと6~8年ぐらいかかるのではないでしょうか。前回採種したものは、細かく粉砕して煮出してキノコ茶として飲用したり、薬膳鍋として出汁に加えたり、焼酎漬けにしたりして利用しています。もっとも、制癌効果があるといっても、放射能汚染されていたら使えませんが・・。

 二番目は、昆虫が作る不思議な工芸品です。透かし俵(すかしだわら)といって、クスサン(楠蚕、Caligula japonica)という大きな蛾の繭です。蛾というと嫌われますが、基本的には蝶とかわりません。幼虫は、シラガタロウといって8センチ以上もある大きな毛虫ですが、奇麗です。クリの葉を食害するため、クリケムシともいいますが、コナラ、クヌギ、ブナの葉も食べます。いわゆる野蚕の一種で、昔はその絹糸が釣り糸として使われました。

 なんで、透かし模様になっているのでしょう。まあ通気性はいいですね。10月頃に羽化するので、これはもう空っぽです。この時期は、ほかにウスタビガの繭も見られます。こちらも空っぽですが、茶色ばかりの冬の山で、鮮やかな黄緑は冴えてよく目立ちます。

★その他の蝶や蛾は、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】の蝶・蜻蛉12345をご覧ください。国蝶のオオムラサキや、裏の国蝶といわれるスミナガシもご覧頂けます。

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『遠山奇談』ニホンカモシカの強すぎる好奇心が徒になった件(妻女山里山通信)

2012-01-17 | アウトドア・ネイチャーフォト
 江戸時代後期に書かれた『遠山奇談』には、カモシカ狩りの様子が具体的に書かれています。民俗学者柳田国男が「まことに心掛けのよろしくないいやな本」と書いていますが、確かに大袈裟で外連見たっぷりの紀行文です。しかし、このカモシカ狩りの様子については、一見嘘のように見える記述が、実はニホンカモシカの生態を知り尽くした上でのものであるということが分かります。柳田国男がカモシカの生態に詳しかったとも思えないので、大袈裟な嘘に思えてもしょうがないかもしれません。

 「始終山林森々たる所のみ通ひなれしに、こゝははれやかにてめをたのしみ、はからず時をうつすうち、羚羊多あつまり岩をくゞりて遊ぶていいとおもしろく見ゆる。あの羚羊をとらへて見んとはかりしに、平七持子(もちこ)ども申合し、手拭扇子を取出しくるくるまはしけるに、獣おのづから近づき、頻にまはせば余念なく見とれたるさまなれば、かねて綱を輪になし、岩の上に幾所もしき置ければ、おのれを忘れ輪の中へ入ところを引とり倒しければ、一同に走行おさへとる。皆々此日の興とせり。」
(補注)「此獣稀有なるものにて、しばらくにても岩の上にたてば、四足ともに石に吸い付はなれがたきゆへ、鴨の水かくごとくに、互いに四足をうごかしゐる。此ゆへに横になりたる岩のはらへ取つくことあり、足のうら岩にすい付ゆへ也。角は一本あり。則羚羊角是なり。」
(『遠山奇談』巻之三第十五章 きじんの家にやどり ころび木を見いだす事)

 要するに、ニホンカモシカの集まる岩の上に綱を輪にして罠を仕掛け、手拭や扇子をくるくる回して誘うと、好奇心の強いカモシカが、なんだなんだと寄ってくる。ちょうど輪に脚が入った時に引き倒して狩る。それを皆で楽しみとした。ということです。狩ったカモシカは、毛皮は尻あてに、肉は食用としたのでしょう。

 『遠山奇談』は、1788(天明8年)、京都の大火で炎上した東本願寺の再建のため、浜松の齢松寺の僧侶華誘居士(かゆうこじ)が七人の同行者と信州遠山郷に材木を探し求め伐り出した時の奇談を絵図と共にまとめた全四巻の書です。優良材を求めて信州中を歩いた様子が描かれています。「遠山郷」とは、長野県最南端の山と渓谷に囲まれた秘境で、日本の秘境100選に選ばれています。

 それでも、そんな猟ですから、たいした数は獲れません。それが明治になって安価で高性能の銃が普及すると、一気に数を減らし絶滅寸前までいってしまった訳です。好奇心が強く、人間を見てもすぐには逃げない習性が徒になったのでしょう。現在は天然記念物に指定されており、天敵のニホンオオカミは絶滅してしまったため、基本的には襲われることはありません。弱っていれば月の輪熊に教われる事もあるでしょうが、そういう状況で出会う事は稀であると思います。死んだ個体を熊が食べる事はあるでしょう。谷筋でニホンカモシカの骨を見た事が二度ほどあります。

 好奇心が強いといっても、普通に人が近づけばすぐに逃げてしまいます。撮影の際には、そんな彼らを飽きさせない為に、色々しなければならないのです。話しかけるのも必要です。その様を周りでお茶を飲みながら見ていたら、きっと口だけでなく、鼻や目からもお茶を吹き出すに違いありません。まあ、そうでもしないとカモシカくんは、なんだつまんない!といってすぐにどこかに行ってしまうのですから。

 長玉で撮る手もありますが、それではカモシカとのなんともいえない緊張関係や、カモシカの好奇心に満ちた表情(微妙ですが)が撮れないのです。以前、二匹の子供がいたので近寄ると、突然横から母親が飛び出して来て急停止して「シュッ!」っと鼻息で激しく威嚇されたことがあります。しかし、敵意の無い事をやさしく説明すると、その雰囲気で分かったのか、それ以上威嚇することはありませんでした。

 基本的に母子以外は、単独で行動するので、「森の哲人」などといわれますが、寒立ちといって、真冬に雪の中で立ったまま遠くを見ている様は、本当にその通りだなと思います。実際は、雪で座れないので立ったまま反芻しているだけなのですが。ご飯食べてすぐに運動をしてはいけないなんて言われなくてもカモシカは自然にそれをやっているのです。

 冬は多くの野生動物にとって食料の確保が困難になる季節ですが、ニホンカモシカは非常に多種多様なものを食べる習性から、厳しい環境をも生き抜いてきたのだろうと思います。パンダの様に食べ物が単一化すると、環境の変化等でその食料がなくなると絶滅の危機に瀕するわけです。進化(Evolution)は必ずしも進歩ではないわけです。進化したが故に絶滅してしまうこともあるのです。さて、人類はどうでしょう。







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ペットフードやハンバーガーのためにアマゾンの熱帯雨林が消える。[CAPINO] SAVE THE RAINFOREST

2012-01-14 | アマゾン
 カピーノのモデル「カピバラ」は、南米の三大大河(オリノコ・アマゾン・ラプラタ)流域に生息する、世界最大の齧歯類です。つまり、ネズミの仲間です。体長は1.3メートル、体重は70キロにもなります。ジャングルというよりは、湿地帯や沼地の水辺に、群を作って生息しています。ブラジルの大湿原、パンタナルでは、牧場にもすんでいます。雨期には湿原全体に散らばり、乾期になると減少した水辺に集まってきます。

 足には水かきがついていて、ぬかるんだ所も平気。泳ぐのも得意で、ジャガーなどに襲われたときは、10分以上も潜っていることもできます。彼らの食物は、イネ科の植物や水草です。雌は120日前後の妊娠期間の後、2~8匹の子供を産みます。食物連鎖では下位に位置する彼らは、用心深く常に群で行動し、草を食べるときも必ず周囲を監視しています。
 
 アマゾンでは、その存在はありふれたもので、ジャガーのように生態系のほぼ頂点に座るものでもなければ、ピラニアのように誇張された生態によって有名になってしまったものでもありません。カピバラは、その辺の水たまりにいくらでもいたありふれた動物だったのです。

 基本的には用心深く慎重ですが、餌を食べた後子供を忘れて帰っていってしまうような、おちゃめな面もあります。そのありふれたカピバラが現在激減しています。 ライオンタマリンやマナティーのようにレッドデータブッ クには載ってはいませんが、だからこそ熱帯雨林の保護のシンボルになるといいなあと考えています。

[CAPINO] SAVE THE RAINFOREST 【カピーノ:ジャングルを守れ!】

大きな画面で見るには、画面上のタイトルをクリックして、Youtubeのページを開き、フルスクリーン&ハイビジョンでご覧ください。BGMは、GarageBandによる自作です。

■フォト・エッセイ「―ここからすべてが始まった―<アマゾンひとり旅>AMAZON.JP」1983-1984年の200日余りの、時に抱腹絶倒、ブラジル・ボリビア・アマゾン放浪記

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1940年、第二次世界大戦が始まった頃のブラジル。[OLD BRAZIL-1940s]

2012-01-11 | 歴史・地理・雑学
 著作権満了の雑誌からスクラップした1940年頃のブラジルのスライドショーです。1939年に第二次世界大戦が始まり、日独伊三国軍事同盟締結、大政翼賛会発足、東京府東京市で開催される予定であった夏季オリンピックは幻となり、翌年には真珠湾攻撃から太平洋戦争が勃発した時代です。

 第二次世界大戦が、主に北半球で展開されたため、ブラジルは戦場にはなりませんでしたが、連合国側で参戦し、ラテンアメリカで唯一陸軍をヨーロッパ戦線(イタリア戦線)に派遣しました。しかし、軍事独裁体制に対する不満が国民と軍内部で強まり、大戦終結後軍事クーデターによってヴァルガス大統領は失脚しました。

 40年頃の写真を見ると、日清、日露、第二次世界大戦と明治以降富国強兵に勤しみ国費の多くを軍事費に充てて来た日本とは異なり、都市部ではインフラストラクチャーが充実していたことが分かります。サンパウロやリオデジャネイロの高層ビル群は、当時の日本には無かったものです。連合国についたために、日本とは国交断絶。日系移民の人達は、抑留や強制退去の扱いを受けましたが、ペルーなど他の中南米諸国のように日系人が米国の強制収容所に移送されるということはありませんでした。詳細は、国立国会図書館の「ブラジル移民の100年」を。

 戦後、工業化と高度経済成長 により、「ブラジルの奇跡」といわれる繁栄を築きましたが、私が旅をした80年代は「失われた10年」といわれる、年に数百パーセントというハイパーインフレの時代でした。現在は、いわゆる経済成長が著しい「ブリックス(BRICs=Brazil,Russia,India,China)」と呼ばれる4カ国の中にあり、目覚ましい発展を遂げています。ブラジルでは、現在がちょうど団塊の世代が働き盛りを迎えており、老人の比率が低いために、年金にまわす分を若い世代の家族手当にまわすことができます。結果中産階級が増えて教育水準も上がるわけですが、実際は格差が広がり、都市の犯罪は激増しています。

 そんな時代の最中に大変な事件が起きました。1987年9月、ブラジル・ゴイアニア放射線治療研究所からのセシウム137盗難による放射線被ばく事故で249人が被曝し、4人が死亡したのです。(写真表あり)
---汚染事故に関係し、被害者の心理的ストレス、被害者への社会的差別からの失業問題や不買など物心両面からの圧迫のほか、州、国も経済面、経費面から大きな影響を被った。---(記事より)

 恐らく世界大戦や世界恐慌などのアクシデントがないかぎり、ブラジルの成長は数十年は続くでしょう。そして、中産階級が増えると少子化が始まり、数十年後には現在の日本と同じ問題を抱えることになるはずです。人は豊になり教育水準が上がると少子化になります。問題は、それに備えて今から対策を構えておくことでしょう。日本はそれに失敗しました。数十年先を見る政治家や官僚が皆無だったわけです。原発問題、止まぬ円高、バブル崩壊から続く不況、米追従の奴隷政治など、昔日本の官僚は世界一優秀などとのたまっていた評論家がいましたが、実際はその真逆でしたね。政治家はそれ以下ですが。民度というには、あまりにもお粗末な結果です。

 ブラジルは、2014年にW杯、2016年に五輪を迎えます。東京オリンピックと万博を迎えた日本と重なるところがあります。しかし、広がる格差の問題や、止まない熱帯雨林の消滅などがブラジルを窮地に追い込むかもしれません。ブラジルのある先住民族は、「ジャングルは先祖からもらったものではなく、子孫から借りているものだ」として大切にしたそうです。

 人間も大いなる自然の一構成員にすぎないということを、単なるお飾りの概念ではなく、根本的に理解し政治や経済活動のベースとして活かしていかなければ、人類はやがて滅亡の一途を辿ることになるでしょう。ブラジルはブリックスの中では唯一の核を持たない国です(少ないけれど原発はあり)。今後、多民族国家であるブラジルが、世界のリーダー的な模範的平和国家として成長していくことを願って止みません。




■フォト・エッセイ「―ここからすべてが始まった―<アマゾンひとり旅>AMAZON.JP」1983-1984年の200日余りのブラジル・ボリビア・アマゾン放浪記

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★ネイチャーフォトのスライドショーやムービーは、【Youtube-saijouzan】をご覧ください。粘菌や森のあんずのスライドショー、トレッキングのスライドショーがご覧頂けます。「キノコの汚染と除染について」 
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信州の鎌倉別所温泉の北向観音と丸窓電車、真田幸村の隠し湯へ

2012-01-06 | 歴史・地理・雑学
 古代科野国は、埴科の地(森・雨宮・土口)にありましたが、古墳時代が終わると経済・文化の中心は上田・塩田平地域に移りました。そして、奈良時代の741(天平13)年、聖武天皇が諸国に国分寺を建立し仏教を広めた一環で、上田には信濃国分寺を建立しました。

 鎌倉時代になると、源頼朝がこの信濃国小県郡塩田庄に、彼の最も信頼する惟宗忠久(後の島津忠久)を地頭として任命しました。塩田庄を重要視していたことが分かります。また、北条氏も信濃国を重要視し、信濃国守護に北条重時を任命しました。塩田平は平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かだったようです。そして、北条氏の庇護を得てたくさんの寺院や塔が建立されました。

 塩田平には、そのあまりの美しさから誰もが振り返るという「見返りの塔」と呼ばれる大法寺三重塔(国宝)や、同じく 国宝の安楽寺八角三重塔、前山寺の未完成の重文三重塔など鎌倉時代の古刹が数多く残っています。そのため信州の鎌倉と呼ばれるのです。

 生島足島神社に初詣した後は、まず北向観音を訪れました。初詣を済ませているので、ここは遠くから参拝。瑠璃殿と愛染桂を訪れました。年配の方は、川口松太郎の小説『愛染かつら』や同名の何度もリメイクされた映画を思い出すのでしょうね。その歌は、昔母が口ずさんでいた記憶があります。桂の木は秋になると甘い香りを辺り一面に振りまきます。

 そして、参拝の後は温泉街の一番上にある真田幸村の隠し湯と伝えられている石湯に行きました。別所温泉には他に大湯、大師湯と計三軒の外湯があり、いずれも150円で入れます。清少納言が、好ましい湯といった「七久里の湯」は、別所温泉の事だそうです。

 お湯で温まった後は、温泉街を散策してから別所温泉駅に立ち寄りました。駅舎は、写真のようにペパーミントグリーンとクリームイエロー、ホワイトの可愛いものです。電車の発着の様子は、ライブカメラで見る事ができます。

 別所温泉駅は、上田電鉄別所線の終点で、懐かしい丸窓電車(モハ5250形)が置いてあります。ご多分に漏れず乗客の減少で存続が危ぶまれていて、上田市では「北条まどか」をキャラクターに「別所線にのろう!」というサイトを立ち上げています。自分で作れるペーパークラフトも無料でダウンロードできます。ロケ地・観光地マップのページもあります。今回は時間がなかったので利用できませんでしたが、パークアンドライド駐車場(無料)に車を置いて電車で温泉へというのもいいですね。

 帰路について塩田平に出ると、南に雪雲をかぶった1266mの独鈷山(とっこさん)が見えました。別所温泉の方を振り返ると夫神岳、女神岳が温泉街を抱きかかえる様にそびえていました。東を見ると白い三角の烏帽子岳。右へ辿ると浅間山の南で山脈は低くなります。群馬県との境で軽井沢から佐久にかけての地域。山が低い為に放射能プルームが超えて来た場所です。

「見返りの塔」国宝大法寺三重塔フォトルポ
白梅薫る見返りの塔ふたたび(国宝大法寺三重塔)ブログ記事


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「近い将来、首都圏は3回大きく揺れます」長尾年恭(東海大地震予知研究センター長)貞観地震と酷似。富士山噴火もあり得る。
■歴史は繰り返す:864年:富士山噴火/868年:播磨国地震(阪神)/869年:貞観地震・貞観津波(東北)/871年:鳥海山噴火/874年:開聞岳噴火/878年:相模・武蔵地震(関東)M 7.4/887年:仁和地震(南海地震)M8.5 23年間でこれだけの事が起きました。
■大地震の予測については、子供の頃の松代群発地震の経験から、家具の固定、防災袋・食料備蓄、通勤通学路の点検、避難所の確認、緊急時の連絡法など、身の回りの対策をすることで不安はだいぶ和らぎます。大地震の予測については、科学的に完璧なものはないので、例えば予測されている1月に起きなくてもガセとかデマという言葉は当てはまらない。地球46億年の歴史の中では、たとえ30年でも一瞬の瞬きにしかすぎない。要は安全バイアスにかからず、ストレスをためず備える事。

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■1月6日現在、福島第一原発より3月爆発時と同様レベルの放射性物質が福島や千葉、東京に飛散しています。ツイッター等で情報の確認を!
■4号機の使用済み核燃料プールが壊れたら東京は終わる!その理由。しかも、震度5に絶えられないかもしれない怖れが。
■4号機使用済核燃料プールの水が漏出し冷却不可能の場合「900度に達し燃料を覆う金属管が壊れて放射性物質が漏れ出す 2.3時間後。2800度に達して燃料溶融 7.7時間」
:原子力安全保安院試算
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初詣は、信州の鎌倉・上田市塩田平の生島足島神社へ

2012-01-04 | 歴史・地理・雑学
生島足島(いくしまたるしま)神社は、万物を生育させる生国魂大神と、万物に満足を与える足国魂大神で、日本の国土創成の神を祀る神社です。御神体(御霊代)は、内陣にある土間。つまり、大地そのものです。神社は周囲を池に囲まれており、「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」といい、出雲式園池の面影を残す、日本でも最古の形式の一つとされるものだそうです。写真でも分かるように、水面に浮かんだ様に見える社はとても厳かで神秘的です。

 この神社には、出雲の大国主命の次男で、父の国譲りに反対して、天孫族の建御雷命(たけみかづちのみこと)と戦って破れ、科野国の州羽海(諏訪)に下降する途中の建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)がこの地で二柱の大神に奉仕、米粥を煮て献じたという古事が残っています。境内には下社として建御名方富命も祀られています。建御名方富命の子は、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)であり、その御子は、會津比賣命(あいづひめのみこと・出速姫神)で、ふたりは埴科郡の産土神といわれています。『松代町史』

 そして、斎場山(旧妻女山)の麓にある会津比売神社の祭神・會津比賣命は、神武天皇の子神八井耳命の子孫で信濃(科野)国造を賜ったという建五百建命(たけいおたつのみこと)の室(妻)であるという言い伝えがあるのです。會津比賣命(会知速比売)は、大物主の子供・会地比古命の娘ともいわれています。また、前記のように諏訪大神の後裔ともいわれています。『會津比賣神社御由緒』等。

 生島足島神社は、日本の臍(へそ)といわれる神社ですから、公式サイトにあるように歴代の帝の崇敬も非常に厚く、醍醐天皇の廷喜の代(901年~922年)には名神大社に列せられています。 その後も北条氏、真田昌幸・信之の戦国武将を始め、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を修築するなど、崇敬を表しています。

 また、神社の一角には回り舞台やせりのある歌舞伎舞台(県宝)があり、そこには武田信玄が必勝を祈った「願文」や忠誠を誓わせた「起請文」などの古文書(レプリカ)が常設展示されています。(入場無料) 信玄の願文は、パターンが決まっていて上杉謙信を極悪人と称して徹底的に罵倒し、戦に勝たせてくれたらたくさん寄進しますよというもの。境内には小雪混じりの中を沢山の善男善女が初詣に訪れていましたが、歌舞伎舞台を訪れたのは我々だけでした。『風林火山』のブームも遥か過去のもの。「兵どもが夢の跡」か・・。

『春望』 杜甫
「国破山河在」国破れて山河在り
「城春草木深」城春にして草木深し---

放射能で汚染されてしまっては、その山河もなしと同じ。

 初詣の後、境内の池の周りを歩いてみました。東南の角に、荒御魂社(あらみたましゃ)という生島大神と足国大神の荒御魂を祀った小さな社があり、その前には大きな石の男根が立っていました。参拝後は、別所温泉へ向かいました。それは、次の記事で。

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★ネイチャーフォトのスライドショーやムービーは、【Youtube-saijouzan】をご覧ください。粘菌や森のあんずのスライドショー、トレッキングのスライドショーがご覧頂けます。OLD JAPAN-1930s 【1930年頃の日本】 1930年頃は、古き良き日本がまだあった時代。しかし、同時に軍国主義が台頭し、国際社会からの孤立を深めていった時代でもあります。当時の人口は、6500万人ほど。工業化もまだ一部で、海も川も山も本当に美しかった。もちろん放射性物質による汚染もなく。

★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」など。このブログでも右下で「妻女山」でブログ内検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。
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