モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

若葉の頃。コシアブラとウドの季節へ。たわわに咲いた八重桜を摘んで塩漬けに(妻女山里山通信)

2014-04-29 | アウトドア・ネイチャーフォト
 花粉が飛ばない朝を選んで椎茸のホダ木に灌水に行きました。曇り空ですが、低気圧の移動がゆっくりで日中の雨はありませんでした。種蒔きしたばかりなので、まとまった雨が欲しいところ。しかし、この埴科は瀬戸内海と並んで、日本で最も降水量の少ないところなのです。子供時代を振り返っても、雨で遠足や運動会が中止になった記憶がありません。最低気温が上がったせいか、自律神経失調症はだいぶ良くなってきましたが、指先の痺れがなかなか消えず、キーボードのミスタッチが多くて閉口しています。まあ、ただ単にブラインドタッチが下手なだけかもしれませんが(笑)。
 今回、リンクをたくさんしてありますが、右クリックで別タブか、別ウィンドウで開いて見ると元記事が消えないので便利です。

 長坂峠へ登って行くとカスミザクラが満開。林道は花吹雪の絨毯でした。樹下にはムラサキケマンが咲き乱れていました。毒草なのですが、氷河期の生き残りといわれるウスバシロチョウ(ウスバアゲハ)の幼虫の食草なのです。彼らが舞い始めるのも、まもなくです。

 陣場平の貝母の脇にはオオヤマザクラ(ベニヤマザクラ)が満開です。周囲の木々の若葉もずいぶんと大きくなってきました。若葉の頃といえば、映画『小さな恋のメロディ』で、ビージーズが歌った「若葉の頃(First of May)」を思い出す方も多いのではないでしょうか。ロンドンに降り立ったのは、この映画が封切られた5年後でした。ちょうどイースターの休暇中で、ロンドンの郊外では桜が満開でした。日本と違ってこっちの桜はいつまでも咲いているのよ、と言った当時付き合っていたピアニストの彼女の言葉を思い出しました。「若葉の頃」は、もちろんビージーズがヴァーチュオーゾでしょうが、個人的にはサラ・ブライトマンのものが好きです。本当に切なく、過ぎ去った思春期が愛しくなります。でもこれって第二次反抗期の話でもあるのですよね。そこが面白い。
 サラ・ブライトマンといえば、やはりアンドレア・ボチェッリとの「Time to say Goodbye(君と飛び立とう)」ですね。5000万回を超えるアクセスが、その素晴らしさを静かに物語っています。
 初恋を覚えていますか? ラストシーンに流れた名曲「CSNY - Teach Your Children (with lyrics), Melody 1971 」クロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤング。やはり最高です。二人がトロッコで逃げていくラストシーンで咲いているピンクの花は、ヤナギランですね。英国では原っぱの花ですが、日本では高原の花です。真夏の菅平などのスキー場などに咲き乱れています。山火事の跡に最初に群生するため英名はFireweed(火の草)。

 ズミ(酢実)の花も満開です。昔は林檎の台木として使われた樹です。妻女山山系には密集はしていませんが、あちこちに見られます。別名は、コリンゴ(小林檎)・コナシ(小梨)・ミツバカイドウ(三葉海棠)。実は小さな林檎のような桜ん坊の様な形をしていますが、美味しくはありません。

 貝母(編笠百合)も、蕾が全て開きました。今年も人知れず咲き、人知れず消えていきます。自然というのは誰に媚びることもなく、潔いものです。貝母の間に育つ蕗の葉が大きくなってきました。あと一週間ほどでキャラブキに丁度いい大きさになるでしょう。この蕗は皮をむく必要がありません。一度茹でこぼして出汁と一緒に薄味で煮込みます。これも大切な山の恵みなのですが、放射能汚染されていたら食べられません。原発は日本の食文化を根底から破壊しました。金のために再稼働を叫ぶ狂人達に、この国は支配されているという狂気。いくらお金があってもあの世には一円も持っていけないというのに。人はお金では幸せにはなれません。

 随分前に打ち捨てられてもう出なくなっていたホダ木の脇を通ったら、なんと椎茸がニョキニョキ。20個近く採れました。こんなこともあるのです。現在、原木シイタケは信州でもほとんど流通していません。原木のほとんどが福島産だったこともあるのでしょう。そんなわけで、我々妻女山里山デザイン・プロジェクトの面々は、汚染されていない地元のコナラを伐採し、2000個の種駒を打ち込みました。
 山菜は、タラの芽、ハリギリが終わりを迎え、ウドやコシアブラに移ってきました。ワラビは少しずつ標高を上げながら7月まで長い期間採れます。山菜は、木の芽時の弱った体を強くする抗酸化作用があるのですが、反面放射性物質を非常に溜めやすいのです。汚染地のものは絶対に食べてはいけません。産地偽装して売られているという情報も掴みました。自分で採ったもの以外はとても食べる気にはなりません。

 帰りに八重桜の花を摘みました。塩漬けにします。少し梅酢も入れます。桜茶、桜餅、桜飯。アンパンのヘソの塩桜は懐かしいですね。「これが日本だ、私の国だ( 五つの赤い風船 / 遠い世界に )」なのですが、そういう文化を根こそぎ破壊したのが原発です。いずれ分かります。2016年のパンデミック。2017年の大崩壊。チェルノブイリで、既にそれは証明されています。チェルノブイリ3年後のノルウェーで人々に聞いた衝撃の話を、私は忘れることは決してありません。情報弱者と安全バイアスにかかった人々が、間違いなく犠牲になるのです。「若葉の頃(First of May)」に戻りますが、[time has passed us by](時は私達を通り過ぎていった)という歌詞があります。「時間が過ぎていくのではない、我々が過ぎ去っていくのだ」という西洋の古い言葉を思い出さずにはいられません。ただ、過ぎ去る前にやるべきことはあるはずです。命をかけてでも…。

★妻女山SDPは、私がうちの山から始めた里山再生と活用の「里山デザイン・プロジェクト」の一環です。除伐から初めて、里山の保全だけでなく、植生や動物、菌類の調査と保護から、山菜やキノコ栽培、アウトドアスポーツから歴史探索までと、里山に関するありとあらゆることを総合的にデザインしていこうという試みです。
★妻女山SDPの活動については、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】のトップページの、インデックスの一番下に1から12までをリンクしてあります。番号を順にクリックしてご覧ください。


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カタクリ、イカリソウ、クサボケ、モミジイチゴ、オオヤマザクラ、ズミが満開(妻女山里山通信)

2014-04-27 | アウトドア・ネイチャーフォト
 ソメイヨシノが終わりヤマザクラが咲き、里では桃と林檎の花が満開となれば、信州はもう初夏。気ぜわしく夏への階段を駆け上がっていくのです。昼ごろから東風や北風が吹き出すと花粉が舞うので、朝一で撮影に出かけました。

 まずは朝日を浴びる貝母、編笠百合の群生地へ。朝日を浴びて貝母の花が光っています。なぜでしょうね、撮影をしていると脳内をユーミンの「朝陽の中で微笑んで」が流れてきました(笑)。でも流れていたのはユーミンではなく、ハイ・ファイ・セットの山本潤子さんの透明な声でしたが。「宇宙の片隅で、巡り会えた喜びは、うたかたでも身をやつすの」メンバーで、夫の山本俊彦氏は、この春、虚血性心不全で亡くなっています。セシウムは心筋に溜まります。大切な人を失ってからでは遅いのです。 必読です。★セシウムで心臓・血管が傷つけられ、高血圧・虚血性心疾患・動脈硬化・脳卒中-ヤブロコフ「心臓および血管に関する病気」から

 朝日を浴びて咲くオオシマザクラ(たぶん)。ヤマザクラ、オオヤマザクラ(ベニヤマザクラ)も満開です。桜の品種は、野生種、園芸種を合わせると約600種あるそうです。オオシマザクラの繊毛のない葉は、塩漬けして桜餅に使われます。あの独特の香りの成分はクマリンという、なにか可愛らしい名前の配糖体だそうです。そう思って写真を拡大して見ると、葉柄に繊毛が見られるので、これはカスミザクラのようです。

 足早にカタクリの群生地へ。写真の左から右へ、カタクリの短い花期も終わろうとしています。今回改めて確認しましたが、この群生地は数年前と比べて拡大傾向にあるようです。以前より西にかなり広がりました。カタクリは、種のつくエライオソームを求めてアリが運ぶアリ散布植物ですが、全ての種をアリが運ぶわけではなく、貝母の様に風によって種が飛ばされることもあるのではないでしょうか。

 夜に閉じた花びらは、朝陽と共に開き始めます。花びらの体温が25度で完全に反り返るそうですが、同じ花でも花びらにより反応が異なるようです。一枚だけ鈍感な花びらがありますね。一番右は、カタクリの残花です。最後はこのように花びらが縮れ褐色になり散ります。

 前回、大伴家持の「もののふの 八十(やそ)乙女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花」という歌を紹介しましたが、乙女たちもやがて年老いていくのが自然の摂理なのです。右の二つはさしずめ熟女。

 カタクリはユリ科で、別名を初百合ともいいます。片栗粉で名前だけ残っていますが、江戸時代の、『茅窓漫録』に「病人飲食進みがたく,至りて危篤の症になると,かたくりといふ葛粉のごとくなるものを湯にたてて飲ましむ。」とあるように、薬草として用いられました。ちなみに花言葉は「初恋、嫉妬、寂しさに耐える」だそうです。

 帰路にたどる天城山(てしろやま)ヤセ尾根から見る斎場山(旧妻女山)と善光寺平。奥に陣場平山の稜線が見えます。アオバズクの恋歌が聞こえます。ウグイスが盛んに鳴いています。

 妻女山山系では極めて珍しいイカリソウを見つけました。しかもかなり小さめで、花の色が濃い。クサボケも咲き始めました。
「草木瓜の 朱儚くて 刺の道」林風
 俯いて咲くのはモミジイチゴ。キイチゴの仲間では最も美味しいイチゴです。透き通るオレンジ色の実を集めてジャムを作るといいでしょう。子供達が小さい頃、山梨の山で雨上がりに濡れた冷たいモミジイチゴをむさぼるように食べた思い出があります。

 オオヤマザクラ(ベニヤマザクラ)でいいのでしょうか。真ん中はバラ科リンゴ属の1種のズミ(酸実、桷)です。染料となることから染み(そみ)、あるいは、実が酸っぱいことから酢実、とも言われます。ここの花は全て白ですが、菅平の大松山山頂のズミは、桃色の花も混じっていました。妻女山山系のスミレは種類が少なく、今は立壷菫が咲き誇っています。

 妻女山駐車場に戻りました。妻女山里山デザイン・プロジェクトの面々で栽培中の椎茸のホダ木の地伏せのブルーシートです。白いビニールは、長野森林組合の人が伐採しくん蒸してくれた松枯れ病にかかった赤松。昼近くなり風も出てきたので帰ろうとすると、鞍骨山へ向かうハイカーが来ました。初めてということなので。コースの説明と見どころなどを教えてさしあげました。妻女山の気温はグングン上がり、25度の夏日になりました。最低気温も上がったので、自律神経失調症はだいぶ良くなりましたが、花粉症が治りません。花粉が悪いのではなく、松枯れ病と同じく排気ガスが真犯人です。といっても田舎では車がなければ生活できないし。悩ましい問題です。

★妻女山SDPは、私がうちの山から始めた里山再生と活用の「里山デザイン・プロジェクト」の一環です。除伐から初めて、里山の保全だけでなく、植生や動物、菌類の調査と保護から、山菜やキノコ栽培、アウトドアスポーツから歴史探索までと、里山に関するありとあらゆることを総合的にデザインしていこうという試みです。
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日焼け止めは発がん物質の二酸化チタンが入っていないものを。喘息、癌、腎臓病、アルツハイマー病、そして不妊の原因と考えられている。美白化粧品も要注意。食品にも含有あり。米癌学会も警鐘。特に女性は化粧品による経皮毒を甘く見ないように。
基礎化粧品による経皮毒回避には、オーガニックのものを。但し基準が曖昧なので吟味を。保湿日焼け止めには、純正椿油が効果あります。純正ヘチマ水、純正アロエ水、純正ハマメリ水がお勧め。誤った化粧品を使うと肌がどんどん老化し病気の原因にもなります。これからは、熱中症にも注意が必要です。
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カタクリとバイモの群生地へ。共に万葉の花。そして瑠璃立羽に邂逅!(妻女山里山通信)

2014-04-23 | アウトドア・ネイチャーフォト
 長野マラソンの日に、一応友人達が走るので撮影に行きましたが、たとえ赤坂橋を通過するにしても制限時間ギリギリだろうと、陣場平まで車で登り、更にそこから2キロ以上山奥のカタクリの群生地へと登りました。午前中は東風も吹かず、花粉が舞わないので。撮影タイムです。

 カタクリの開花は、昨年に比べると1周間から10日は遅れています。まだ蕾のものがたくさんありました。これらが全て咲くのは、ゴールデンウィークの初め頃かもしれません。撮影をしているとご婦人がひとり鈴を鳴らして来ました。こんな山の中をよくご存知ですねと言うと、密かに毎年一人で観に来るのだとか。素敵ですね。信州ではカタクリの群生地は珍しくなく、人知れず咲く場所があちこちにあります。私もいくつも知っていますが、信頼できる人にしか教えません。片葉のものや葉の小さなものは花を咲かせずに消えます。花が咲くまでに7年もかかるのです。つまり、実生のカタクリは、咲くまで無性個体で、咲いてやっと有性個体となるのです。その後もずっと咲くとは限らず、有性と無性を繰り返すこともあるようです。栄養状態とかそういうことなのでしょうか。

 カタクリは春に咲いて消えてしまうスプリング・エフェメラル(春の妖精・春の儚い命)のひとつで、古名を堅香子(かたかご)といいますが、その由来については、籠を傾けたようにして咲くところから傾籠(かたかご)、片葉鹿子(かたはかのこ)の意味からという説などがあります。カタクリは気温15~20度で咲き始め、花びらの体温が25度で完全に反っくり返るのです。咲いた花は、日が暮れると閉じます。早朝に訪れると朝露をまとったカタクリは、皆下を向いて蕾の様に閉じています。そして日が当たるとまた開くのです。
 花びらは、虫の目標となるように花の中に花の模様があるのも特徴です。クマバチやマルハナバチ、ギフチョウやヒメギフチョウが吸蜜に訪れ、受粉をします。カタクリの花は、花びらが透けるので、逆光で撮ると美しさが一層映えます。

「もののふの 八十(やそ)乙女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花」大伴家持(万葉集)
 当維持29歳の大伴家持が、赴任先の越中国府の伏木(現在の富山県高岡市伏木に5年間赴任)で、寺井の井戸(井泉の跡と歌碑がある)の周りにたくさん咲くカタクリを宮中の乙女になぞらえ、都を懐かしんで詠んだ歌だといいます。そう思うと写真のカタクリが、三人の美しい乙女に見えてくるから不思議です。
 たくさんの乙女たちがカタクリの咲く泉の周りで賑やかに水を汲んでいると解釈するのが一般的なようですが、それだと単なる情景描写であまり面白くないような気がします。29歳で都から遠く離れて単身赴任ですから、宮中の若い女官達が懐かしかったと考える方が、カタクリを女官になぞらえる比喩として想像力が膨らむような気がするのです。現在に比べると遥かに人口の少なかった寒村の寺井に、若い娘がたくさん集まるというのも何か不自然ですしね。真実は家持さんに聞いてみないと分かりませんが。
 もののふとは、宮廷に仕える文武の官のことで、物部と書きます。八十(たくさんという意味)にかかる枕詞ですが、数が多い氏と発音の同じ宇治川の宇治から、宇治川を導く枕詞となったということの様です。昔もやたらと役人が多かったのでしょうか。もののふとは、後に武士そのものを指す言葉に変化します。

 カタクリは、小さな種にアリの好物のエライオソーム(脂肪酸や高級炭水化物などが大量に含まれる)という物質をつけており、アリが種を巣に持ち帰ることで増える日本に200種以上あるというアリ散布植物のひとつです。この山にもたくさんいるトゲアリは、エライオソームを食べた後、種を巣の外にばら撒きます。それが種蒔きになるのです。
 近所のご婦人が、昔カタクリを掘って持ち帰ろうとしたけれど、球根が深くて諦めたと言っていましたが、庭ならともかく山に自生のカタクリは、簡単には掘り出せません。園芸店で買った方が早いです。彼女が照れながらご自分を花泥棒と言っていたのが可笑しく可愛らしかったです(笑)。根はその昔、片栗粉を採りましたが、今は漢方薬としてのみ用いられています。花も葉も食用になり売られています。おひたしや天ぷらがお勧めですが、食べ過ぎると下します。

 帰りに貝母(編笠百合)を見に寄りました。たった3日でずいぶんと咲きそろいました。写っているだけで全体の3分の1ぐらいでしょうか。四畳半もなかったところからここまで増えたわけで、農学部卒の息子も驚く繁殖力です。どこまで増えるのでしょう。ただここは昔畑だった場所なので、他とは土質が違います。おそらくガラッパチの方まで増えることはないだろうとは思うのですが。午後になって強い東風(こち)が吹くと、音の出ない鈴の様に一斉に波打って揺れ始めます。そのさまは、例えようもなく優雅で見飽きません。
「時々の 花は咲けども 何すれぞ 母とふ花の 咲き出来ずけむ」丈部(はせつかべ・はせべ)真麻呂(万葉集)
 これが貝母のことであるという説があります。薬用に持ち込まれたのが江戸時代なのでしょうか。丈部真麻呂は、遠江国山名郡(現在の静岡県袋井市)で徴兵され九州に派遣され国境警備にあたった兵士・防人(さきもり)でした。
 意味は、季節ごとに花は咲くのに、どうして母という花は咲かないのだろうか(咲くのだったら摘み取って共に行くのに)。防人というのは、21歳から60歳までの健康な男子が徴兵されました。任期は三年で、延長もされたそうです。食料・武器は自弁で帰郷は一人で帰るため、途中で野垂れ死ぬ者も少なくなかったとか。人民には重い負担になったようです。

 貝母の花は、花びらが6枚。中央の先端が三裂する雌しべを囲んで6本の雄しべがあります。種は六角形の水車の羽のようなユニークな形の(さく)果で、割れて種が飛び散るのですが、その時に強風が吹いていると、5メートルぐらいは飛ぶだろうということが、現在の分布の仕方を見ても分かります。主に季節柄、東風に乗って西へ、稀に南風で北へも増えています。花にはニホンカモシカが食いちぎった痕が見られることがあります。と書いて写真をよく見ると、なんと花びらが7枚、雄しべも7本ではないですか。奇形か!? 放射能ではあるまいね。ここは地表でも0.04μSv/hなんだが。
「俯いて 知らぬ間に消ゆ 貝母哉」林風

 貝母を撮影していたら、足元から何かが飛び立ちました。やがて留まると翅を広げて日向ぼっこを始めました。ルリタテハ(瑠璃立羽)です。4月の初めぐらいから見かけてはいるのですが、何度撮影しようとしても逃げられていました。一日の気温差が20度と寒暖の差があまりに激しく、自律神経失調症になってしまい、辛抱して撮影することができなかったからです。気温差が少なくなりやっと回復してきたので、ラストチャンスと構えました。とにかく早い動きをすると必ず逃げます。スローモーション動画の様に、ゆっくりと気配を殺して近づくのです。

 今回は春にはなかなか撮れない生態写真が撮れました。信濃柿(豆柿)の樹液を吸う場面です。夏は至るところで樹液が出ますが、春はなかなかその場所を見つけられません。この穴はカミキリムシか蛾の幼虫の仕業でしょう。左から、一生懸命樹液を吸っています。真ん中は樹液を吸い終わって口吻を丸めているところです。これは途中で、やがてきっちりと丸まります。最後は、少し移動してまったりしているところ。樹液のアルコール分に酔ったのでしょうか。真夏に、コナラのたっぷりと発酵した樹液をたらふく飲んで、酔ってふらふらしているオオスズメバチを見ることがあります。体の大きな人間にとっては全く感じられないアルコール分ですが、彼らには充分すぎる量なのでしょう。樹液の出る場所を樹液酒場とか樹液バーという所以です。

 しばらくこの状態で休んでいました。右下が樹液の穴で小さなハエの仲間でしょうか、吸汁に集まっていました。この写真で、レンズフードの先端からルリタテハまで15センチぐらいです。シャッター音で逃げないか心配でしたが、突然、花粉症の大きなくしゃみが出て逃してしまいました。まあ、その前に撮影出来たのでよしとしましょう。しかし、猛烈に目が痒くなりました。最後は、キブシ(木五倍子)の黄色い花穂(かすい)が作る玉すだれのカーテン。花言葉は「待ち合わせ・出会い」。花言葉はオスマントルコが起源らしいのですが、最近は日本花普及協会や業者が決めているそうです(笑)。

 帰りに妻女山展望台に寄ると、堤防の上はこちら側も向こう側もマラソンランナーでいっぱいでした。友人達の結果は予想通りでした。参加することに意義があるのでしょう。散り始めた桜の遥か向こうに白馬三山が白く光っていました。息子から送ってもらった白馬村や小谷村の民話や実話が載った貴重な資料も非常に面白く、はまりこんだのですが。ここのところの体調不良でお休みしていました。また読み始めたいと思います。更に何かいいアイデアが浮かびそうです。

★妻女山SDPは、私がうちの山から始めた里山再生と活用の「里山デザイン・プロジェクト」の一環です。除伐から初めて、里山の保全だけでなく、植生や動物、菌類の調査と保護から、山菜やキノコ栽培、アウトドアスポーツから歴史探索までと、里山に関するありとあらゆることを総合的にデザインしていこうという試みです。
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桜満開の妻女山へ。桜吹雪の中でタラの芽とハリギリの初物を(妻女山里山通信)

2014-04-19 | アウトドア・ネイチャーフォト
 金曜の雨が思ったよりも少なかったので、妻女山里山デザイン・プロジェクトの面々で地伏せした椎茸のホダ木の乾燥具合が気になり、水を16リットル持って行ってきました。今年は花粉症の症状が酷いので、ゴーグルとマスクをし、作業時間も短くと出かけたのですが、満開の桜を見たら撮影をしたくなってしまいました。花見客もちらほら来ていました。この辺りでは象山、松代(海津)城跡や八幡原古戦場などと共に桜の名所なんです。妻女山に登る舗装路沿いにうちの山があるのですが、桜保存会の人が植えた桜が10本近く咲いています。

 まずは展望台へ。今年は、梅・杏・桜がほぼ同時に咲いてしまいましたが、千曲川堤防の菜の花と河川敷の桃はまだの様です。ホダ木を積み替え、潅水してからシートをかけ直して作業は終了。少しうちの山を歩いてみることにしました。自律神経失調症のせいか、花粉症のせいか、なんだか体がフワフワします。急斜面で滑落しないように慎重に歩きました。以前、ここからの私の写真を見て、妻女山へ行きたくなると言ってくれた人がいました。そうなんです、善光寺平広しと言えども、北アルプス、戸隠連峰、北信五岳の飯綱・斑尾、志賀高原、四阿山が一度に見られるのは、この妻女山展望台だけなのです。低いけれど最高の眺めが得られます。今回は残念ながら、全て雲海の中でしたが。
 この妻女山展望台のある赤坂山は、江戸時代の「川中島八景」のひとつ、妻女山秋月に挙げられています。ちなみにあとの七つは、茶臼山暮雪、猫ケ瀬落雁、千曲川帰帆、八幡原夕照、勘助塚夜雨、典厩寺晩鐘、海津城晴嵐です。またここは、「信州サンセットポイント百選」に選ばれています。妻女山秋月の名のごとく、秋の鹿島槍ヶ岳に沈む夕日の美しさは想像を超えるものがあります。春のおぼろ月夜もおすすめです。

 咲いていたのはアオイスミレ。柱頭(メシベ)の先がカギ状に曲っているので間違いないと思うのですが。それに妻女山ではタチツボスミレは、日当たりの良い低いところで咲いていますが、ゴールデンウィーク頃が最盛期。葉の先は丸いものと、少し尖ったものがあります。交雑しているのでしょうか。再度写真を拡大してみると自信がなくなりました。どう見ても見てくれは立壷菫だからです…。スミレもアリ散布植物です。真ん中は梅の花なんですが、植えた覚えがないので、鳥が種を運んできたのでしょうか。小梅が成ります。右は妻女山SDPで育てている椎茸。きれいなどんこになっています。

 作業後に桜を撮影したのですが、桜の種類の同定は難しい。エドヒガンとかオオシマザクラとかヤマザクラ。オオヤマザクラぐらいは分かるのですが。もうひとつ、一見すると桜にはとても見えないウワミズザクラは確実に分かります。枝垂れ桜だって色々ありますからね。これはソメイヨシノでしょうね。ミヤマザクラは、菅平など標高の高いところに行かないと見られません。花期は6月上旬です。

 透ける花びらがなんとも美しい八重桜。品種までは分かりません。八重桜も色々種類がありますから。この花は花びらが薄いので、逆光で撮影すると映えます。Kさんのログハウスの枝垂れ桜は咲いたでしょうか。できれば来週中にカタクリの撮影と合わせて行きたいのですが。昨年は突然の大雪で満開の貝母(編笠百合)が、みな倒れてしまいましたが、たぶん今年は大丈夫でしょう。うちの庭やお隣さんの貝母も咲きました。

 白っぽい花。なんとなくオオシマザクラの系統かなぐらいは思うのですが、確かではありません。花は大きめですが、オオシマザクラよりは小さい感じです。ヤマザクラは、現在赤茶色の蕾が膨らみ始め、若葉が出始めたところです。咲くのはゴールデンウィークの頃です。ウワミズザクラとほぼ同時に咲きます。

 最初のソメイヨシノに似ていますが、若葉が出ているのでソメイヨシノではないようですね。そういえば、山梨の山でよく見たマメザクラ(富士桜)もこの地には見られないですね。オオヤマザクラ(ベニヤマザクラ)は、数は少ないのですが少し標高の高い尾根筋で5月に散見されます。サクラは、日本神話にある木花開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)が語源と言われ、その美しさから、この姫に例えられ、後に佐久良(サクラ)と変化したといわれています。

 森の杏の時にも撮影しましたが、戸隠富士・高妻山と桜。高山はまだまだ残雪が多く、ゴールデンウィークの登山は、冬山の装備が必要です。毎年のように爆弾低気圧の襲来で遭難者が出ます。くれぐれも甘く見ないように。低山でも、強風で突然倒木が発生したり、怪我をするような太い枝が落ちてきたりします。今日も強風で、いきなり高木が途中で折れました。恐らく大雪で既に割れ目が入っていたものと思われます。もの凄い音がしました。

 花粉症にめげながら、大急ぎでうちの山のタラの芽やハリギリを採りました。ついでにヨモギも少し。天ぷらにします。山菜は特に放射性物質を溜めやすいので、汚染地のものは絶対に食べるべきではありません。信州では犀川以北、高社山以北、軽井沢など群馬県境近くのものは避けたほうがいいでしょう。市販のものは産地偽装も行われているそうです。この山のものは、地表面の放射線量を測って採取しています。今のところ食後に下したり口内炎ができたりということもありませんが、過食は避けるようにしています。昼近くになって寒風が強くなったので、逃げるように帰って来ましたが、車を降りたらくしゃみが止まらず、ゴーグルをしていたにも関わらず、目も猛烈に痒くなりました。本当にやれやれです。

 明日は長野マラソンです。友人が出るのですが、昨年は雪で気温が低かったため完走率がもの凄く、今まで岩野橋さえ渡ったことのない友人達が、なんと皆完走しました。しかし、あれは奇跡です。いくら信州でも、4月にめったに雪なんぞ降りません。昨年は21日に雪が降って、半月ちょっとで最高気温が29度になりました。明日は全く期待せずに、体調が良ければワンカットだけ撮りに行きます。昨年は堤防で川口選手の勇姿を撮影したのですが、今年は体がだるくてそんな気も起きません。一日の気温差が、20度もあったら、普通人間は対応できません。自律神経も壊れます。ま、ゆっくり行きましょう。

※妻女山里山デザイン・プロジェクト(妻女山SDP)は、帰郷した私が一人でうちの山を整備し、その後オオムラサキの保護のために里山の整備を始めたところ、友人たちが一緒にやりたいということでできたプロジェクトです。里山は所有者が曖昧で許可を得るのが至難の業なのですが、今は亡き父やKさんに聞きながら進めました。特にKさんは法務局で所有者を割り出してくれたり、除伐の際に重機を出してくれて非常に助かりました。昨年秋に、突然に彼を失ったことは、我々の最大の衝撃でした。喪失感が癒えることはなかなか難しいものです。林道の整備もボランティアでやってくれていました。彼の穴を埋めることはとうていできないでしょう。けれども、我々は微力ながら粛々と山の整備を続けていくつもりです。里山は整備をしないとすぐに荒廃するのです。放射能汚染されたら、整備する意味さえなくなりますが。
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妻女山奥の貝母(編笠百合)が咲き出しました。東風に揺れる慎ましい茶花(妻女山里山通信)

2014-04-17 | アウトドア・ネイチャーフォト
 友人のK医師に頼まれた長芋を届けることになり、先日妻女山里山デザイン・プロジェクトで作業した椎茸のホダ木に灌水したいので、妻女山で会うことにしました。約40リットルの水を持って山上へ。ソメイヨシノが七分咲きか、場所によってはほぼ満開になっていました。午後になって花粉混じりの東風(こち)が吹き始めたので、ゴーグルをして行きました。頼まれた伯父の本を渡し、自律神経失調症と花粉症で参っていますと言うと、最近は銀行員とか大企業の社員で不調を訴える人が来院すると。現在の様な激変期においては、小回りの効かない大企業ほど対応が遅れ、社員のストレスも増すのでしょう。人を物のようにしか扱わない日本企業の体質は、実は大企業ほど酷いことを私は仕事上よく知っています。在京の某TV局の取材を受けた時も、ディレクターがぼやいていました。

 あんずの里へ行くと言う彼と別れて、私は妻女山奥の貝母(バイモ・編笠百合)の群生地へと車を走らせました。いつもなら歩いて登るのですが、色々やることがあり仕方なく。駐車した林道から貝母の群生地は、見えないところにあり、普通にイノシシや稀に熊も出るので、積極的には場所を教えないようにしています。大きなイノシシが二頭、目の前を走り抜けたこともありました。いつぞやは、クリスマスに熊の足跡がありました。写真の貝母は、もっとも日当たりのいい場所のもので、まだ蕾のものも多くあります。花芯が立っていないものさえあります。見頃はゴールデンウィークの初め頃でしょう。全国各地に野生化した群生地があるようです。カタクリの群生地も見に行きたいのですが、少々遠いのでなかなか時間が取れません。午後になると花粉混じりの北東の寒風が吹くので、外出もままなりません。やれやれ。

 酷い藪だったこの場所を切り開いてニッチ(生態的地位)の鬩ぎ合いが始まって数年経つのですが、他の植物に対して貝母がここまで優位に立つとは、実は全く想像していませんでした。蕗などは地下茎を張りますし。ヤマフジは、大きい物は皆伐採したのですが、小さなものはそのままです。いやあ、貝母の旺盛な繁殖力には本当に驚かされました。貝母強し。日当たりのいい場所はともかく、灌木のある落葉松林の中にまでどんどん増えていくのは意外でした。

 しかし、その旺盛な繁殖力とは別に、俯いて咲く貝母の花は、慎ましやかで可憐です。貝母も育て、山野草を愛でるご近所のご婦人が言われてましたが、その慎ましやかさ故に茶花としても愛用されるのでしょう。花言葉は「謙虚な心」ですから。下から煽って撮影すると、和名の編笠百合の命名の理由が分かります。なぜ外側がこんなに地味なのに内側に模様がという理由は、受粉をする昆虫たちのメルクマールとなるためでしょう。カタクリの花の中に、また花の模様があるように。

 今の季節、妻女山では午後になると必ず強い東風が吹き始めます。貝母の細い葉先は、クルンと丸まっています。これで互いに絡み合い、東風の強風から身を守っているのです。貝母の茎はしなやかですが、非常に柔らかく、庭にある貝母に水をかけたら倒れてしまいました。まあ、翌日には元に戻っていましたが。堅木は強風で容易く折れますが、しなやかな竹は折れません。生真面目で頑固な人間ほど、実は弱いのです。ケセラセラ。ラテン系で行きましょう。私も若いころ南米・アマゾンを放浪し、カルチャーショックを受けて人生観が変わりました。フォト・エッセイ『アマゾンひとり旅

 逆光に透ける花はひときわ美しいと感じます。基本的に帰化植物であり、日本の植物図鑑には載っていません。絶滅しても生態系にはどうということはないのですが。ここは昔川中島のSさんという薬草問屋の方が、畑を借りて貝母を薬草として育てていた場所なのです。今回の妻女山里山デザイン・プロジェクトの作業後に川中島のN氏に聞いたら、ああ知ってるということで、父の話が本当だったと分かりました。貝母は、主に咳の薬として漢方薬メーカーに卸していたようです。その後中国から安価な素材が入ってきて商売として成り立たなくなったのだと思います。ところで漢方薬というと自然なような気がしますが、現在のものは化学薬品を使って抽出されているので、必ずしも安全とは言えないかもしれません。昔ながらの煎じて飲むタイプが安心でしょう。元の素材が汚染されていたらどうにもなりませんが。

 貝母は、花後に六角形のさく果をつけ、下に向かって種を飛ばしますが、その時強風が吹くと飛びます。東風に乗って飛ぶので、どんどん西へ増えていくわけです。そして、梅雨のさなかに溶けるように消えてしまう、節分草やカタクリと同じ、スプリング・エフェメラル(春の儚い命・春の妖精)の一種なのです。
 薬草としての貝母について少し固く書きますと、「乾燥させた鱗茎は貝母と呼ばれる生薬として日本薬局方に収載されており、粉末が去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに用いられる。貝母は、清肺湯、滋陰至宝湯などの漢方処方に用いられる。鱗茎をはじめ全草にフリチリン・フリチラリン・ベルチシンなどのアルカロイドを含む。心筋を侵す作用があるので副作用として血圧低下、呼吸麻痺、中枢神経麻痺を引き起こす事もある。また、呼吸数や心拍数が低下する事もあるため、使用時は量に注意すべきである。」(Wiki) とあります。

 一日の気温差が20度といつになく異常な春を迎えた北信濃は、梅と杏と桜が同時に咲くという異常事態になっています。右が桜、真ん中が梅、左が八重の梅。森や近所の杏も満開です。私は自律神経失調症で偏頭痛や指先のしびれなどに悩まされていますが、花粉症がそれに止めを刺しているような悲惨な状況です。午後になると花粉混じりの強風が吹き荒れるため眼球を取り出して洗いたい気分です。やれやれ。止まない雨はないといいますが、ここのところの異常乾燥。金曜日からの傘マークが本当に待ち遠しい。

 最後は、妻女山駐車場の奥に見える不思議なオブジェですが、私が発案し、妻女山里山デザイン・プロジェクトの面々で作った『森のゆりかご』という現代芸術の作品です。吊り下げられた緑色のパッケージの中には、キノコのおがくずが入っています。これはカブトムシの産卵場としては失敗したのですが、今回探してみると、なんとコガネムシかアオカナブンかハナムグリかの幼虫が見つかりました。『森のゆりかご』という名も名目だけではなく、ちゃんと森の虫達の役に立っていたわけです。いい年した男達が、少年のように喜んだ瞬間でもありました。でも、山だからいいですけど、畑なら害虫だったりするんですけどね…。畑では今、江戸時代初期に入ったと思われるオランダ原産のナバナ・野良坊菜が食べどきです。数年前に私が息子に頼んで種を送ってもらいました。現在、近所に無料で種を配布していますが、非常に評判がよく喜ばれています。野良坊菜のレシピは、『MORI MORI RECIPE』にたくさんあります。菜の花やかき菜にも応用できます。

祈り ~熊木杏里~
[
「この距離を縮める言葉が出てこない」「君へと続く想いの糸を、ただつかまえて繋がってる祈り」
千曲市出身の彼女の歌のルーツは、信州の里山の自然だそうです。透明感のある歌声と感性豊かな詞は必聴に値します。

さて、たまには文化人類学・社会学を。
◆共同体社会と人類婚姻史
◉【家族って何?】~プロローグ~
元々日本では、農村を中心に「村落共同体」という集団単位で長い間生活していました。明治時代になるまで、「家族」という集団単位は存在していなかったのです。
現在の「家族」につながる婚姻制度(一対婚制度)が生まれたのは明治時代に入ってからで、私権圧力を背景にして「家制度」が制定され、家父長とその家族を一つの家に属させたことが家族制度の始まりでした。その「家制度」は昭和初期には民法改正によって廃止され、現在の家族制度に繋がっています。
気付きましたか?つまり日本においては、「家族」はたった100年程度の歴史でしかないのです!
現在の家族(一対婚制度)が、私権の衰弱によって簡単に機能不全に陥ってしまったということを考えてみると、この制度が私たち日本人には定着していないと捉えるべきなのかもしれません。
私権時代が終わり共認原理へと転換した今、家族のありようとその元となっている婚姻制度の実態に着目する良い機会と捉え、家族制度の歴史を溯って改めて「家族」とは何なのか?を追求し、これからのみんなの意識に合った新しい集団形態とは一体どのようなものが相応しいのか?を考えてみたいと思います。
【家族ってなに?】 シリーズ6大正時代~村落共同体が国家圧力、市場圧力で浸食された時代。核家族が登場し、生産の場と消費の場に分断され、家庭は教育機能を喪失したカタワの集団となり現代に至っている。
恋愛至上主義ゆえに結婚制度が壊れ、家族が消失する
 ---3組に1組が離婚し、7組に1組が不妊に悩み。家庭内離婚は数知れず。それ以前にお金があっても忙しく、お金がなければ貧乏で結婚できない現状。結婚できなければ子供も作れない社会です。昔は一人扶持(ぶち)は食えなくても二人扶持は食えると言いました。共働きと家事分担が当たり前の時代に変わっても、「お金は男が稼ぐもの」という価値観に男女とも縛られ続けているのも問題ですが、働く既婚者をケアする政策が事実上、全くされていないのが最大の問題でしょう。少子化対策など全くないのが現状です。加えてこれから2016,17年には放射能パンデミックが起きます。ウクライナの例を見ると、人口の大規模減少は避けられないでしょう。しかし、政府が推し進めようとしている移民政策には反対です。いずれにせよ、古代から家族という制度があったわけでもなく、不変なものでもなかったということです。興味のある方は、『日本婚姻史』を読まれるといいかも。---

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放射能情報については、左のツイッターをご覧ください。命に関わる重要なツイートをしています。呼吸による吸引内部被曝は、ほぼ100%吸収されます。食品による内部被曝も非常に危険。内部被曝は足し算です。微量だからといって安心はできません。食べて応援は、死への誘い。チェルノブイリの例を見ると、日本では2016年に晩発性障害が増加。17年には爆発的に増えることが分かっています。
製造所固有記号データベース :放射能検査結果を見ると相当に厳しい。汚染地の森も河川も太平洋も死につつあるのです。糖尿病は、代表的な被曝症状。ストロンチウムがベータ崩壊してイットリウムになり、すい臓に集中して糖尿病を誘発します。また、ストロンチウムは骨に溜まり排出不可。造血機能を破壊して白血病になります。
OKFOOD 既に多くの人が見ていると思いますが、思わぬ食品が汚染地の工場だったり、工場は西でも材料がとか、心配は尽きません。毎日がロシアンルーレット。
◉今年は野菜の苗の培養土を買うのを止めました。どこのホームセンターも信用出来ないからです。自前で作ることにしました。市販は鹿沼土がほとんど。国の基準が400Bq/kgではね。カインズの350未満という自社基準もお笑いです。
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あんずの里・千曲市の森のあんずの花2014。その2(妻女山里山通信)

2014-04-15 | アウトドア・ネイチャーフォト
 まずは近所の杏の古木。杏の産地は、千曲市の森が有名ですが、元禄時代に、伊予宇和島藩主・伊達宗利公の息女、豊姫が、第三代松代藩主・真田幸道公に輿入れの際に、故郷を懐かしんで持ち込んだ苗が元と言われているので、松代藩の領地には至る所に杏の木があるのです。万葉の里・倉科、松代の東・奇妙山の山麓の東条、長野市北部の山際・安茂里の杏なども有名です。昔はどこの家にも最低一本は杏の木があり、干し杏や紫蘇巻き杏や杏のシロップ漬けを作ったものです。その杏の木が減った理由は、家の増改築や木の老化に加えて、昭和に流行ったアメリカシロヒトリの害虫の蔓延もあるかもしれません。また、在来種の杏の木は、大木となり危険なため、仕方なく切り倒したという事情もあるのです。

 在京時代ほどではないのですが、花粉症が酷いのです。恐らく一日の気温差が例年より大きいため(最大はなんと20度!適応不可)、自律神経失調症が拍車をかけているのだと思います。指先がしびれたり、頭がボーっとしたり偏頭痛が起きたり、夜は三時間おきに目覚めたりと散々です。友人の医者も三時に目が覚めてしまったとこぼしていました。そんな訳で、プチ断食をしています。こうすると症状が軽減されることを経験上知っているからです。でも辛い!
 さて、ほとんど何も食べずに昼食も抜くつもりで出かけたあんずの里。米の絵本作家であるバージニア・リー・バートンの絵本『小さいおうち』を彷彿させるような風景ですね。小学校低学年の頃に、大好きで図書館で何度も読んだ記憶があります。もっとも、ここが大都市になって引っ越しを余儀なくされることは恐らく永遠にないでしょうけれど。花見に来たご婦人が、桃源郷ですねと言っていたのも頷ける心象に残る風景です。

 山懐を歩いて樹齢290年と言われる最も有名な巨樹へ。今回は一番ベタな定番アングルで撮ってみました(笑)。観光客を案内してきたバスの運転手が、これが豊姫が持ってきた杏の木ですと説明していましたが、思わず笑ってしまいました。講釈師見てきたような嘘を言いを思い出しましたが。まあ、でも、あながち間違いではないでしょう。以前はそんなことを書いた看板もあったような記憶があるのですが、さすがに撤去されました。森林学科の息子に言わせると、伐採して年輪を数えたならいざ知らず、推定樹齢というのも実はかなり怪しいのです。しかし、だからといってこの木の価値が下がるわけでもありません。やはり圧倒的な存在感があります。手前の新品種との花の色の違いもよく分かります。

 豊姫伝説のせいでしょうか、杏の木には童女や美しい娘が似合うと思うのです。今回も童女や少女とのカットを撮影したかったのですが、来るのは熟女、老女ばかり。いやいや、基本私は大人の女性が好きなので熟女大歓迎なのですが、絵的にね。幼子や少女が欲しかったというだけで。でも美しい乙女たちが通ってくれました。まあスマホで撮影は今どきで仕方がないですが。スマホをスキニーパンツの後ろポケットに入れている女性がいましたが、これは止めた方がいいです。スマホは強力な電磁波を出すので、体からはなるべく離すべきです。大事な内蔵・生殖器がやられます。また、伸縮性のないパンツも体には非常によくないのです。私も登山の時は、体を締め付けるスパッツの上下を着ることがありますが、これはあくまで一時的なものにするべきです。

 手前に見える一際濃いピンクの杏は、果実を収穫しない観賞用のものです。遠くに天才・立川和四郎富昌の山門「子持龍」のある大城山興正寺が見えます。千曲市にお願いですが、なんの効果もないばかりか、住民や生態系に致命的な被害をもたらす松枯れ病のネオニコチノイド系神経毒の空中散布を止めていただきたいのと、助成金を出して、杏畑に散見されるブルーシートをなんとかしていただきたい。せめてグレーとか。これを入れないで撮影しようとカメラマンは四苦八苦しているのです。あまりにも無粋で目立ちすぎるのです。

 これは某所にある指定木の花です。かなり古い木で、樹勢も衰えているのですが、濃い桃色の色合いが好きで、毎年撮影に行くのです。でも、他にこの木を撮影しているカメラマンを見たことが一度もないので、知らないのでしょうね。種名は書いてないので分かりませんが、かなり古い木です。花びらに走る血管のような濃い桃色が好きです。

 ずっとスバル車に乗ってきた私が思わず撮影したワンカットです。スバルサンバーの廃車ですね。田舎では、本当はいけないのですが、こんな風に廃車を畑や耕作放棄地に置いておくことがままあるのです。昔は、これで杏の実を運んだのでしょう。農道のポルシェと言われたスバル・サンバーも今は生産中止。本当にもったいない。友人が乗っていますが、積雪30センチの林道をものともせずに走り抜けたそうです。中古車での価格が高いのも分かります。雪国では能力の高い軽トラは必需品です。

毎年杏の古木の下に店を出すよろず屋さん。新潟三条の刃物が中心なんですが、手打ちのナタや鎌など欲しいものがたくさんありました。しかもすべて半額。欲しいものがあったのですが、財布を置いてきてしまいました。ネットでも買えますが、相場を知っていると、ものによってはかなりお買い得でした。この上には麻績村のおやきのテントがあるのですが、冷凍ではなく朝の手作りなので、あっという間に売り切れていました。

 天才・立川和四郎富昌の山門「子持龍」のある大城山興正寺山門の枝垂れ桜。ソメイヨシノや山桜より先に、いつも杏と同じ時期に咲きます。私の母方の祖母が眠る古刹です。彼女は豪放磊落な女性で、大好きでしたが、よく私の名前を妹の名前と間違えていました。彼女が切る沢庵は全部つながっていました。彼女が作る丸茄子のおやきと茶碗蒸しは、戦中の砂糖不足の人なので甘すぎて閉口しました。でも大好きでした。

 左に白馬連峰、右に戸隠連峰。真ん中に大ケヤキ。このケヤキが青々と茂る頃、杏の実がたわわに実るのです。左手前の里山の向こうの尾根には、古代科野国の大王の墓、森将軍塚古墳があります。今回は集落の中にある白塚古墳も訪れました。集落の中を歩くと、昔ほどではありませんが、在来種の古木に出会えます。

 スケッチパークから周遊道路を巡って下りると、左手に小さな集落が見えてきます。西側に五里ヶ峯山脈があるために日没が早く、半日村と呼ばれた岡地集落です。しかし、ここの杏が実はもっとも静かで鄙びて趣に溢れていると、通は言います。上に高速道路ができてしまったのが、なんとも残念ですが。杏の見頃は短いのです。明日15日が最後でしょうか。それからは散り始め、花も黒ずんできます。花の命は短くて…。金曜日には花散らしの雨になりそうです。


千曲市の杏と里山が産んだ歌姫。

彼女の歌は本当に好きです。心の琴線に触れまくるのです。哀しくも圧倒的に優しい、その詞と澄んだ歌声。
彼女は恋人でもあったエディット・ピアフに才能を見いだされた吟遊詩人の日本のジョルジュ・ムスタキかもしれない。彼女は類まれなき詩人だ。彼女が大ブレイクしないのは、既存の大手広告代理店やテレビ局がいかに腐っているかを表している。彼らが日本を滅ぼす。これも愚民政策の賜物。愚民にはなんのことか全く分からないうちに売国奴による破滅政策が進行している。

もうひとつ。会いに会いに行けたら、こんなにも苦しくないのに。会えない時間や距離に僕らは試されている。
人生は一度しかない。想いを伝えなければ最後に後悔する。死んでも死にきれないとは、生ききれていない証。生ききるべし。




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あんずの里・千曲市の森のあんずの花2014。満開です!(妻女山里山通信)

2014-04-13 | アウトドア・ネイチャーフォト
 朝食もそこそこにあんずの里へ。ここは母の育った村でもあるので小さい頃から馴染みがあり、また高校の頃は三階建の校舎の窓から遠くに満開の杏の花を観ながら授業中にうたた寝をしたものです。大きなキャンバスを持って油絵を描きに行ったこともありました。しかし、その記憶の底にある色と、今の杏の色は少々、いやだいぶ違うのです。今はやや青みの入ったピンクが主ですが、昔は在来種が多くやや黄みがかったコーラルピンクだったのです。今回、集落の中も回ってみましたが、在来種の杏はずいぶん少なくなりました。屋根も昔は藁葺きでした。そういう我が家も昔は何本も杏の木があったのですが、今は一本もありません。お隣さん達の花を愛でている状態です。昔は、梅雨時になると採りそこねた杏の実が道々に落ちて潰れ、集落中が杏の果実の甘酸っぱい匂いに包まれたものです。

 早朝の杏畑は、まだ人も少なく空気も冷たく手袋をしないとカメラも持てないほどなのですが、この時間は果樹農家の方々が農薬散布をする時間でもあるのです。風下に行かないようにしないといけません。日中、花の香りを嗅ごうとしている女性を数人見かけましたが、あまりおすすめしません。桃ほどではないにせよ、杏も農薬散布が必要なのです。在来種は、病害虫に強く木も大きくどっしりしていました。反対に実は小さめで酸味が強く杏干しに向いていました。新品種は、生食に向いている大型の実が多いのです。「あんずを知る・学ぶ

 杏の里は、とにかく歩くことに尽きます。山麓や、集落の中、畑道など、車では入れないところも歩いてなら行けます。写真は禅透院の杏の花とサンシュユ。1495年(明応四)清野伊勢守長続(伊勢守国基か)の頃、英多庄(松代、東条、西条、豊栄)を支配していたことが記されています。16世紀のはじめ(国俊の頃か)節香徳忠和尚を請し森村に禅透院を建てたということです。詳細は、私の「清野氏と戦国時代」をお読みください。

 禅透院から杏畑の中を歩いてスケッチパークへ。ここには色々な種類の杏の木が植えられています。夜はライトアップもされます。「あんずを知る・学ぶ」に種類の説明があります。

 端午の節句を前に、のぼり旗が(左は鯉のぼり)。戦前はむしろ鯉のぼりよりものぼり旗の方が多かったといいます。そういえば我が家にも、父が生まれた時ののぼり旗が昔ありました。杏の花とのぼり旗と飯綱、戸隠連峰。のぼり旗に真田の六文銭が見えますね。

 楊貴妃という杏の品種があります。楊貴妃は若さと美貌を保つために、全身に杏仁油を塗っていましたが、杏仁にはシアン化合物が含まれています。現在はそれを取り除く技術があるそうですが、楊貴妃の頃はどうしていたのでしょう。シアン化合物は青酸に変化しますから身体に毒です。保湿抗菌清浄作用があるそうなので果実を食べるだけでなく杏仁油も利用したのでしょうが、楊貴妃からはいつも杏仁の香りがしたのでしょうね。楊貴妃の体臭は杏仁豆腐の香りだったのでしょうか…。

 雨宮からこの森に来る途中に富士見橋という橋があるのですが、ずっと不思議に思っていました。なぜならこの橋から富士山の方角には鏡台山があり、とても富士山など見えないからです。ちなみに鏡台山からは、運が良ければ富士山が見えます。私も二度だけ見たことがあります。ある時、森からの帰りにこの橋を渡った時に、正面に富士山が見えました。そうです。戸隠富士と呼ばれる高妻山です。納得しました。満開の杏の花と戸隠富士。

 森の杏でおそらく一番有名な在来種杏の巨木。樹齢290年ぐらいらしいです。元禄時代、伊予宇和島藩主・伊達宗利公の息女、豊姫が、第三代松代藩主・真田幸道公に輿入れの際に、故郷を懐かしんで持ち込んだ苗が森の杏の元と言われていますが、この木がそれだとも言われているようです。プロからアマチュアまで色々なカメラマンが撮影に来る樹なんですが、撮影者を見ていると、どうにも撮っている絵の構図が分かってしまい、もうひとつ意欲がわかない木でもあるのです。それだけ狙える場所が限られているというのもあります。今回はといいますか今回もなんですが、誰も入らない杉林の中に登って撮影してみました。杉の幹で三分割される構図が好きです。遥か遠くに連なる白馬三山の白も好きです。こんなところで撮影していると、すぐ裏山で雉がケーン!と鳴いたりします。

 そして、集落の中の小路を通って、祖母の眠る大城山興正寺へ。ここを訪れたら、やはり山門の天才・立川和四郎富昌の「子持龍」を見ないわけにはいきません。「子持龍」については、以前の記事「満開の節分草を求めて万葉の里・倉科へ。ほころび始めたあんずの里へも」に詳しく書いてありますので、そちらをお読みください。何度見てもその造形には心を打たれます。友人の医師が、立川流の作品めぐりをしていますが、いずれブログでアップするそうです。私も楽しみにしています。

 最後に、先ほどの在来種の古木ですが、帰りしなに新品種と合わせて撮影してみました。これだけ色味が違うのです。天気予報によると、来週の金曜日までは、花散らしの雨はなさそうです。但し、今の季節は午後になると寒風が吹き荒れるので、午前中の花見をおすすめします。この春の一日の気温差が20度もあることには、皆閉口しています。心身が適応できません。自律神経が崩壊します。開き直るしかありませんね。どうかご自愛を。

 千曲市出身のシンガーといえば熊木杏里さんですね。彼女の透明な歌声が大好きです。心の琴線に触れる歌を歌う素敵なシンガーです。歌はあんずではなくて桜ですが。妻女山の桜の見頃は、次の日曜日、20日頃でしょう。小学生の時に遠足で来た人が多いのでしょうか、訪れる人が激増します。20日は長野マラソンです。
熊木杏里 - 恋のあとがき 』これも本当にいい歌です。

以前は彼女の歌をよく聴いていたのですが、今はあまり聴かなくなっていました。彼女の歌を聴くと、いい年して涙が出そうになるのですよ。本当にやばいんです。『熊木杏里/誕生日 歌詞入り』『長野電鉄屋代線90年 24.4kmの思い出 ありがとう屋代線 熊木杏里 』私はこの沿線に住んでいます。鉄オタだけでなく、涙無くしては観られないムービーです。これはいい番組。中学のサッカー部の練習後で、空腹に耐え切れず先生の目を盗んで、駅前の母の同級生がやっていたラーメン屋に駆け込んだあの日。終わったのは長野電鉄屋代線だけではないのです。今、日本が終わるかもしれない程の試練の中に我々はいるのです。原価がたった30円の紙幣を一万円と信じ続けてきた共同幻想の砂上の楼閣に我々はいたのです。なんの疑問もなく生きてきた資本主義経済の時代が終わるかもしれない。私の賢明な友人たちは、自給自足の道を既に探し始めています。愛する人をどう守るか、自分がどう生き延びるか。そういう時代に我々は生きているのです。



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★妻女山山系の自然については、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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スギ花粉にめげず椎茸種駒2000個を打ち込んだ妻女山里山デザイン・プロジェクト(妻女山里山通信)

2014-04-12 | アウトドア・ネイチャーフォト
 信州の春は寒暖の差が激しく自律神経がやられるのですが、今年は特に酷いのです。一日の寒暖差が20度もある日が何日もあると、体がついて行きません。もちろん心も体の一部、ついて行かないのです。加えてスギ花粉。東京よりはましとはいえ辛いです。そんな中、今回の妻女山里山デザイン・プロジェクトは、椎茸栽培の伐採木の玉切りと種駒打ち2000個。相当な仕事量です。作業日が二転三転して急遽決まり、前日に作業手順を決めるために下見をしましたが、大変そうなのは目に見えていました。とにかく腰を傷めないようにしようねと確認。ソメイヨシノがやっと開花したばかりです。山桜はまだ固い蕾。山上から見る千曲川河川敷は、ハリエンジュや柳が芽吹いて青々。

 8時に妻女山駐車場に集合で作業現場へ。妻女山は、今は亡き山仲間のKさんのログハウスの隣で作業開始です。ここは、2011年3月の放射性プルームが流れこんだ時も、山の陰で汚染を奇跡的に免れた場所なのです。地表で計測しても、0.04μSv/hぐらいでした。現在もほぼ同じ値です。まずは、冬に伐採したコナラを1mに玉切りしていき搬出します。40本は切りださなければなりません。おまけにこの冬の豪雪でコナラの大木が4本も倒れました。杉の大木も途中で折れていました。これらの撤去は次回に回して、とにかく玉切りと搬出。結構大変です。搬出は最初は一輪車を使いましたが、結局斜面を転がして落とすことに。

 搬出したホダ木にドリルで穴あけして椎茸の種駒を打ち込みます。最近、原木シイタケをほとんど見ませんが、当たり前です。原木シイタケの原木の産地が七割以上福島。そのため、全国のシイタケ産地のものがセシウム汚染されてしまったのです。そこで我々は自前でシイタケ栽培をすることにしました。2000個の種駒を打ち込む作業は、穴開け班と種打ち班に分かれて作業開始。単純作業ですが、午前中には終了。最後に足りないホダ木を三本ほど補充しましたが。思ったよりも早く終わりました。スギ花粉にめげずと書きましたが、作業は杉林の直下で行ったため、相当に厳しいものでした。ゴーグルでなんとか目は保護したものの、S氏はくしゃみが止まりませんでした。

 昼はKさんのログハウス前の周遊道路を使わせていただいて北アルプスを眺めながら。私が家で作ってきた自家製塩麹に漬けた豚バラ肉と白菜と野良坊菜と人参の蒸し物。そして焼き鳥と焼き豚。Kさんの話や、絶景の北アルプスの話、GW後に行いたいKさんを偲ぶ会の開催の話などをしながら、ゆるゆると昼食をとりました。時々シジュウカラの鳴き声。八重の紅梅と白梅が満開でした。Kさんがいた頃と変わらぬ春が通りすぎていきます。食後は、下の泉にイワナを見に。食べ残った鶏肉を小さくちぎって投げると飛び上がって食いついてきました。Kさん亡き後、餌をもらってないのですから当然です。これからは羽虫も出るので飢えることはないでしょう。

 ここから見る千曲川と北アルプスの風景は、本当に癒されます。眼下に見える千曲市の畑地は、ほとんどインターチェンジと工業地帯になってしまいましたが、古代は龍王といってこの地を治める大王の城があったと伝わる自然堤防の大地です。20日の長野マラソンの頃には、河川敷の桃の花と菜の花が咲き乱れるでしょう。西向きの明るい斜面では、オオイヌノフグリとナズナがたくさん咲いていました。

 右に鹿島槍ヶ岳、その左に爺ヶ岳の勇姿。何度見ても見飽きることのない美しい風景です。しかし、こんな美しい風景も福一の放射能で確実に汚染されているのです。森のあんずジャムから50Bq/kg、松代のじゃがいもから20Bq/kg。犀川以北の山菜やキノコは要注意です。詳細は、長野県のHPで。個人で調べてブログにアップしている方もいます。放射能は足し算。情報弱者から病気になり死んでいくのは、チェルノブイリで既に証明済みです。福一はもう収拾できません。太平洋は死にます。東京湾と仙台湾は既に死にました。江戸前を食べたら確実に死にます。確実に情報弱者や安全バイアスにかかった人から死んでいくのです。チェルノブイリ同様に、2年後に東京では必ず放射能パンデミックが起きます。

 昼食後は、種打ちしたホダ木を積んで山を下り、うちの山に地伏せしました。とにかくホダ木が重いので苦労しました。普通はこんな太いホダ木を使いません。いいことといえば長持ちすることでしょうか。10年以上経ってもまだ椎茸が出続けているものもありますから。そんなわけで作業は順調に進み、寒風が吹き始めた3時前には終了しました。腰が痛いので、明日は温泉にでも行こうかと思います。森の杏は満開だそうです。妻女山の桜の見頃は、次の日曜日20日頃だと思います。長野マラソンの日です。

上の写真の右上のカットは、写真の少し右にある我々が作った現代芸術「虫のゆりかご」なのですが、実際この中にアオカナブンかコガネムシの幼虫がいました。右下に見える板で囲ったものは、カブトムシの飼育場で、きのこ栽培のおがくずが50センチぐらい入っています。実際に昨年の夏は、ここからかなりの数のカブトムシが旅立った跡がありました。


◉臨床発達心理士の山口創氏の『子供の「脳」は肌にある』という興味深い本があります。
今回は、その一部を引用します。
「イヌやウマといった哺乳類は、出産してまず初めに、赤ん坊の全身を舌でなめる。これは、赤ん坊の皮膚の表面についた羊水などを拭うのと同時に赤ん坊の全身に舌で刺激を与えてマッサージをしているのだそうだ。」
「赤ん坊の循環器系、消化器系、泌尿器系、免疫系、神経系、呼吸器系などあらゆるシステムを正常に作動させるために必要なことなのである。全身を舐められることで赤ん坊は正常に呼吸し、排泄できるようになる。」
「人間の場合は、母親は赤ん坊を舌で舐める代わりに、出産のときに子宮の中でマッサージしているのだという学者もいる。長時間続く陣痛による子宮の収縮が、 胎児の全身に皮膚刺激を与える。すると胎児の皮膚の末梢の感覚神経が刺激され、それが中枢神経に届き、自律神経系を経てさまざまな器官を刺激するという。 ゆえに産道を通らずに帝王切開で生まれた子供は、後に情緒不安定など、情動面での問題が生じる可能性が高いとの指摘さえある。」
「『皮膚は露出した脳である』ともいわれる。体性感覚(触覚と温痛覚)は視覚や臭覚とは異なり直接脳を刺激していることになる。」
 スキンシップというのは、実は言葉以上の会話なのだと分かります。

 切れる子供。執拗なストーカー。恋人に振られたぐらいで相手を殺す。家庭内暴力。拒食症。その根底にスキンシップの欠如があり、求める愛と与える愛の決定的な乖離があると思うのです。江戸時代の日本人や戦後でも田舎では、お乳は欲しがるだけ与え、赤ん坊は常に誰かに抱っこかおんぶされていたものです。常にスキンシップがありました。愛に満たされた子供は、言われなくても自ら自立していくものです。外で遊ぶ様になっても、昔はおしくらまんじゅうとか馬跳びとか、スキンシップの多い遊びが豊富でした。同学年だけでなく、上下の世代ともよく遊んだものです。そういう中で育った人間がコミュニケーション障害になるはずがありません。モラルではなく、思いやりが育たないわけがありません。モラルを声高に言う輩に碌(陸:ろく)な人間はいません。思いやりで充分なのです。
 問題は、スキンシップを知らずに育てられた連中が大人になり、今や政財界官僚マスコミの中枢にいるということなのです。本当に愛されたことのない人は。また人を愛することを知らない。学生時代、村上春樹さんが面白いよと教えてくれた作家・カート・ボネガットは言いました。「愛もまた学ばれるものだ」と。今ほど愛が必要とされる時代も、ないと思うのです。

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一斉に芽吹き始めた信州の里山。杏も桜も開花。カタクリの蕾も。木の芽時の話(妻女山里山通信)

2014-04-09 | アウトドア・ネイチャーフォト
 最低気温が氷点下の日がほとんどなくなり、最高気温が15度を超える日が続くと里山は一気に芽吹き始めます。時間がないので車で登って、妻女山山系の芽吹き状況を見てきました。信州の春は気ぜわしく、ボーっとしているとあっという間に初夏になってしまうのです。この間、ダンコウバイ(檀香梅)がやっと咲いたと思ったのですが。これから最高気温が20度を超える日が出ると、壮大な自然のドミノ倒しの様に信濃の春は慌ただしく過ぎていくのです。千曲市森の杏は、12日現在でほぼ満開だそうです。

 一足早く芽生えるニワトコに続いてヤマツツジやレンゲツツジも芽生え、ミヤマウグイスカグラは花も咲き出しました。そんな中で、ひときわ緑が鮮やかなのがマユミ(檀、真弓、檀弓)の若葉です。苦味が強いので塩ゆでしてアク抜きしますが、天ぷらやおひたし、マユミ飯などで食べられる山菜です。早速摘んで塩ゆでしてお浸しで食べてみましたが、はんなりと苦い自然の滋味という感じでした。我が家の山のウツギ(空木)も芽吹きました。梅雨時に咲く純白の花は、本当に美しい。『夏は来ぬ』で「卯の花の匂う垣根に」と歌われるあのウツギです。ウツギの花が咲くとアゲハチョウやキアゲハなどが吸蜜に訪れます。また天蚕の繭をつくるウスタビガの食草でもあります。日当たりの良い斜面のタラノキ(楤木、桵木)やハリギリ(針桐)も新芽が膨らんできました。ただ山菜は、放射性物質を取り込みやすいので、充分に注意が必要です。

 山野草では、妻女山山系に多いムラサキケマンが成長。混じってひっつき虫で有名なヤエムグラ(八重葎)があちこちに群生。東アジア・ヨーロッパ・アフリカにも分布する史前帰化植物の1つです。但し、小倉百人一首の恵慶法師の「八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり」の八重むぐらは、秋なのでカナムグラ(鉄葎)のことのようです。林道の明るい斜面にはミヤマハコベ(深山繁縷)。ハコベは春の七草ですからミヤマハコベも食べられます。こういうことは食糧危機のためにも知っていおいた方がいいでしょう。山野草は有毒のものが多く、同定が困難なものも少なくないからです。妻女山で最初に咲くスミレがアオイスミレです。赤い斑入りのものも混じります。

 林道を登ると足元に毛虫がと思ってよく見ると、ヤマナラシ(山鳴)の花序でした。ヤナギ科ですが、日本のポプラなどとも言われます。妻女山山系では、主に尾根の稜線の北側にシラカバ、南側にヤマナラシが見られます。葉がやや大きめで葉柄が長いので、僅かな風でもはためいて音を立てるので山鳴らしの名になったとか。別名はハコヤナギですが、材が柔らかく加工し易いので箱やマッチの軸などに使われました。ソメイヨシノの蕾も爆発寸前ですが、今日開花しました。妻女山や象山は桜の名所です。森の杏は、9日現在、平地で5分咲き、山際で2分咲きということです。満開は来週の中頃でしょうか。天城山の北面の林道沿いではキブシ(木五倍子)が咲きました。この花を見ると信州にもやっと遅い春が来たなと実感します。

 駆け足でカタクリの群生地へ。ここは人知れず数万株のカタクリが咲きますが、信州ではこういう群生地は珍しくはありません。アリが種についたエライオソームを欲しいために種を巣まで運んで増える、いわゆるアリ散布植物ですが、一度アリが種を運んでいるところを観てみたいものです。カタクリは蕾ができ始めていました。全草が食べられますが、食べ過ぎると下します。まあ便秘の人にはいいかも。私は葉の天ぷらがモチモチして好きですが、ユキノシタの葉の方が美味しいかな・・。微妙です。
「もののふの 八十娘子(やそをとめ)らが 汲みまがふ 寺井の上の かたかごの花」大伴家持
この歌は、家持が北陸に赴任していた時に、群れ咲くカタクリを見て、都の古刹の井戸の周りではしゃぐ女官たちを偲んで歌ったものと言われています。情景と家持の都へ帰りたいようという思いが(笑)伝わってきます。

 貝母(編笠百合)もグングン大きくなってきました。でも見頃はゴールデンウィーク初めかな。4月中旬には咲き始めるでしょうけれど。やはり、あの大雪で遅くまで残雪があったため、地温がなかなか上がらなかったのが原因でしょう。その群生地の近くに、これも帰化植物ですが、オオアマナのちょっとした群生地があるのです。誰か育てていたものを持て余して捨てたのが増えたのでしょうか。ベツレヘムの星とも言われる純白の6つの花は、可憐で美しい。キリストが生まれたときに輝いたといわれる星の名です。でも毒草です。

 私が最初に発見した時は、ここは本当に酷い藪で、人が入れないほどでした。貝母は四畳半ほどしかなかったのです。二年かかって灌木や藪を切り開いてここまで増えたのですが、種が東風に乗って西へ西へと向かう旺盛な繁殖力には、最近脅威を感じています。向こうの落葉松林の先の斜面はオオブタクサの繁殖地で、去年も妻女山里山デザイン・プロジェクトの面々で除草をしたのですが、貝母が繁殖すればオオブタクサを駆逐するかもしれませんね。帰化植物同士の戦いです。ここは、第四時川中島合戦の際に、上杉謙信が七棟の陣小屋を建てたと伝わる山上の平地です。ニホンカモシカやイノシシ、時にはツキノワグマも訪れます。

上の写真は、2009年11月の陣馬平です。これでも秋枯れでやっと入れたくらいなのです。樹木に絡みついているのは、ヤマフジ、ミツバアケビなどで、これらは樹木を枯らします。夏はノイバラも生い茂りとても入れませんでした。その上の現在の写真と比べていただくと、どれほど酷い藪だったかが分かると思います。里山は、手入れをしないと、すぐこんな風に荒れてしまうのです。

 父の遺品を整理していたら、『歴代草書選』全五巻というのが出てきました。父は古文書は読めないので、これは恐らく村会議員をしていた祖父のものでしょう。なかなか状態がよく、全巻を包むカバーのピンは、象牙のようです。これで、古文書を解読する助けに少しはなるでしょうか。
 しかし「春眠暁を覚えず」で、なかなか頭がスッキリしません。信州の春は寒暖の差が激しく、一日の気温差が20度もあります。気圧の変化も激しく、午後になると春の突風が吹き荒れます。すると自律神経のバランスが崩れ、体調を崩したり激しい動悸が起きたり、漠然とした不安に襲われたりします。加えて入学や入社に転居、移動など、環境の変化も激しく、余計に厄介です。
 昔の人は「木の芽時」と言って備えたものです。春は動物の発情期ですが、人間も性ホルモンが活発になり精神が不安定になるのです。加えて花粉症の季節でもあります。無理に抗(あらが)わず、こういうものだと開きなおることも必要です。苦い山菜や抗酸化作用の強い食品を食べたり(サプリメントは不可)、ぬるいお風呂にゆっくり浸かったり、アロマテラピーやマッサージやエステもいいですね。自分の一番好きなことをしたり、散歩や森林浴など、癒される色々なことをしましょう。疲れた心体をリラックスさせ休ませることも必要。でも内側に篭もらない。自分を追い詰めない。Que sera sera「なるようになる」HAVE A NICE DAY! 愛してるよ!

PCのスペックに余裕がある人は、1080pのハイビジョンで、フルスクリーンで観てください。面白うて、やがて哀しきワールド・オーダー。

ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。信州の春の花はこちらで。

妻女山里山デザイン・プロジェクトの記事のリンク集です。見出し最下部の妻女山SDP1~12の数字をクリックすると、当該記事が開きます。

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放射能情報については、左のツイッターをご覧ください。呼吸による吸引内部被曝は、ほぼ100%吸収されます。食品による内部被曝も非常に危険。内部被曝は足し算です。微量だからといって安心はできません。
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寒の戻りの妻女山では梅が満開。貝母もすくすく。岡地天満宮の立川流天才作の惣金厨子(妻女山里山通信)

2014-04-05 | アウトドア・ネイチャーフォト
 色々忙しく、なかなかゆっくりと山へフィールドワークに行けない日々が続いています。買い物帰りに妻女山展望台へ寄ってみました。晴れていますが寒風が冷たく、気温は7度ぐらいですが、体感気温は1度ぐらいでしょうか。寒かったです。

 北アルプスは、鹿島槍ヶ岳も白馬三山も稜線が雲の中で、中腹しか見えませんでした。相当荒れている感じです。戸隠や飯縄山方面は雲こそありませんが、やはり風は強そうです。写真手前の一番右にクレーンが見えますが、長野パルセイロのホームスタジアムの建設が急ピッチで進められています。完成の暁にには、ここ妻女山までサポーターの大声援や歓声が届くことでしょう。古いスタジアムでも、試合の時は太鼓の音やチャントの歌声が妻女山どころかその上の陣馬平まで聞こえていましたから。

 招魂社の裏では、やっと梅が咲きました。遅いです。去年は4月8日に森の杏が満開でしたから。キブシの花も咲いていましたからね。やはり、あの大雪のせいでしょうね。この梅ですが、実は老梅で、ほとんどが昨冬と今年の大雪で折れて倒れてしまいました。昨年は倒れながらも咲いていたのですが、今年はさすがに枯れ木のままでした。ここは集落のある旧家の梅園なのですが、もう何十年も放置されたままです。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿と云いますが、梅は剪定をきちんとしてやらないといけないのです。

 その梅園の斜面には、オオイヌノフグリが咲き乱れていました。オオイヌノフグリというのは、大きい犬の金玉という意味ですが、だれがこんなふざけた名前を付けたんだろうと思って調べたら、本来のイヌノフグリに対してつけられたようで、由来は、果実の形状が雄犬のフグリ、つまり睾丸・陰嚢に似ていることからかの牧野富太郎が命名したんだそうです。イヌノフグリは、オオイヌノフグリのせいで絶滅の危機にあるようです。オオイヌノフグリは、ヨーロッパ原産の帰化植物で、1887年に東京で定着したことがわかっています。別名、瑠璃唐草・天人唐草・星の瞳で、花言葉は「信頼」「神聖」「清らか」「忠実」と大犬の陰嚢とは似ても似つかぬ可憐な名前。牧野富太郎氏は、命名のセンスがあるのかないのか、よくわからない人です。右は、ミヤマウグイスカズラの蕾。この花のシーズンは長いです。ルビー色の実は小さいけれど甘く、昔は里山に遊びに来る子供たちのいいおやつになりました。今の子供たちは里山に来ないので知らないでしょうね・・。

 時間もないのでそそくさと山を下りるついでに我が家の山へ。私が移植したヤブカンゾウと貝母(編笠百合)を見に行きました。ヤブカンゾウは、畑に移植したものより大きくなっていました。少し摘んで豚バラと白菜の塩麹蒸しに入れることにしました。おひたしやぬた、天ぷらでも美味です。また、蕾は天ぷらや中華炒めに。中華食材では金針菜といって結構高い食材です。ノカンゾウは花が一重、ヤブカンゾウは八重で少し大きめ。ニッコウキスゲも仲間です。貝母は、中旬過ぎからゴールデンウィークにかけて見頃になると思います。

 久しぶりに展望台から東の松代の風景。根子岳と四阿山は、まだ真っ白ですね。写真では分かりませんが、手前のソメイヨシノの花目は結構膨らんできました。山桜はまだまだですが、松代の向こうの東条のあんずの花は、そろそろ開花するでしょう。4月中旬から5月上旬までの短い間、信州は桃源郷になります。

 お終いに、前回の記事で触れた立川流の名作に触れます。写真は「惣金厨子」といい杏で有名な千曲市森の岡地集落の「岡地天満大自在神社」にあるものです。伯父(故人)がその天満宮の歴史を調べ本を自費出版しているので、そこから引用させてもらいます。この神社には、菅原道真の木像と、法華経妙荘蔵王品一基が所蔵されていますが、菅丞相書『法華経並びに親作木像記』によると、どちらも菅原道真自作のものと伝えられています。
 岡地に安置されるようになった経緯は非常に複雑です。もともとの所有者は、江戸城を築城した太田道灌〔「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ哀しき」の逸話で有名〕が足利学校で学んだ折りにもらい受けたとされています。ただし、道真公からどういう経緯を辿って足利学校に所蔵されるようになったかは不明です。
 第四次川中島合戦の折に、ここ岡地には観音堂の大伽藍があったそうですが、戦火のために焼失したと縁起には記されています。その後、湯島天満宮に納めようとしたのですが、不慮の変があり果たせず、徳川家康の手に渡り、三代将軍家光へ、さらに幕府の官医であった土岐長庵の手に渡ります。土岐長庵は松代藩の真田家と懇意だったようで、真田家の菩提寺の松代長国寺(曹洞宗)に遺贈されました。
 その後しばらくは、松代の長国寺にあり、長国寺十七世千丈寛厳和尚が千曲市森の岡地に華厳寺を開いて隠住したとき(1785年)に森の岡地に天満宮を造って安置したのが始まりということです。つまり、この天満宮は数ある全国のお天神さんの中でも、かなり由緒あるものだということなのです。
 現在では華厳寺は檀家も途絶えて廃寺となり、天満宮だけがあります。天満宮には、かの郷土史家で考古学者の米山一政氏が驚嘆したという平安末期-鎌倉初期の作といわれる一刀彫の像があります。さらには、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」があります。写真がその「惣金厨子」です。私も伯父の生前中に観させてもらったことがありますが、それは見事なものです。結局、善光寺五重塔は、江戸幕府の許可が降りずに建てられることはありませんでした。詳しくは、「まぼろしの善光寺五重塔」を。
 またここ岡地には、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかり材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。

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満開の節分草を求めて万葉の里・倉科へ。ほころび始めたあんずの里へも(妻女山里山通信)

2014-04-01 | アウトドア・ネイチャーフォト
 妻女山里山デザイン・プロジェクトにも協力してもらっている友人のK医師から、節分草が満開ですよというメールと写真が送られてきました。さすがにこれはエイプリル・フール・ネタではないでしょうと、取るものも取りあえず千曲市倉科の杉山に向かいました。節分草は、群生地の中程から上で満開状態でしたが、時間が早すぎて陽が差していません。西向きの斜面なので10時を過ぎないと日が当たってこないのです。仕方なく車中で一休み。途中で中学生ぐらいの少女と母親が見に来ましたが、他に見学者はなし。カケスやシジュウカラの鳴き声が聞こえます。

 セツブンソウ(節分草)は、キンポウゲ科セツブンソウ属で、本州の関東地方以西に分布する、高さ10センチほどの小さな多年生草本。花の直径は約1~2センチ。花びらに見えるのは萼です。先が黄色く見えるのが退化して蜜腺になった花びらです。山地の落葉広葉樹林の林床に生え(ここは杉林ですが)、石灰岩地を好む傾向があります。関東では節分の頃に咲くのでこの名がありますが、東京では暖冬には1月に咲くこともあります。信州では3月下旬の花です。2009年は、暖冬で3月1日には満開でした。2011年は、下旬の開花でしたが、開花中に降雪があり、雪中の節分草が見られました。今年は開花後に大雨に遭ったため、花が傷んでいるものが多かったですね。

 セツブンソウの種は、黄色い蜜と一緒にアリが巣に運んで発芽するアリ散布植物です。昔は雑木林に入って草刈りをしたので、明るい林床にセツブンソウがたくさん咲いたのだとか。カタクリも同様、人の暮らしと密接な関係にある植物だったのですね。ですから、自生地の環境が破壊されると真っ先に消える植物です。 花言葉は、気品・ほほえみ・光輝・人間嫌いだとか。高貴な花なんですね。やはり野に置け節分草。栽培ではなく山野で楽しみたいものです。知られていませんが、実はこの上の谷には、シロバナオドリコソウの群生地もあります。普通に熊も出る谷なので、熊鈴は必須ですが・・。日が高くなって来ると、次々に車が訪れてきました。山野草の愛好家は多いですね。

 次に近くの三滝へ。大雪の後の雪解け水でしょう。こちらのページの写真と比較していただくと分かるのですが、今まで見たことがないほどの水量で轟音がしました。谷にはまだ大量の残雪もありました。一番上の三の滝へ行こうとしたら、二の滝の上の橋が冠水していて危険で渡れませんでした。写真左が一の滝と二の滝。右が二の滝の上部から撮影した三の滝です。この谷を詰めて鏡台山まで登山道があります。真冬にも真夏にも登ったことがありますが、息子達と登った真夏には、巨大なイタドリの藪に行く手を阻まれ、鎌で切りながら登りました
 「三瀧山 岩の苔間に 住ながら 思ひくらせし 瀧の水かな」(西行) 此歌里俗の口碑にして、確乎たらず。(倉科村誌)

 三滝からの帰りに林道から見えた白馬三山。中央の尖った峰は、白馬鑓ヶ岳です。こんな風に、思わぬ場所から北アルプスの絶景が眺められるのが信州の素晴らしいところなのです。先日、長男から退官する先生の研究室を整理した時に出た地図や本が送られてきました。その中に石沢清さんの書いた『北アルプス白馬ものがたり』という一冊があり、白馬連峰に名をつけた年寄りという文章がありました。明治になって地図を作るために役人が来村し、アルプスの山名を聞かれたのですが、そんなものはなく、ただ岳山とか西山と呼んでいたので応えられなかったと。そんな馬鹿なことがあるかと怒られたので、一計を案じ古老に頼んで適当な名前を付けてもらったと。代かき馬の雪形ができるので代馬岳とか。ところがなぜか地図表記では白馬岳と変わっていたとか。山名は、沢名が元になっているものも多いのですが、それは沢は村人の生活の場なので、細かな沢まで名前があったのですが、高山の頂上は日々の生活とは無関係なので、名前などどうでもよかったのです。里山でも、山の反対側で呼び名が異なるのはいくらでもありました。地図化するにあたり、無理やりひとつにさせられたのです。どの名が採用されるかは、その地の力関係が大きく影響しているということのようです。
 山名についての考察に興味がある方は、『川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。』や『埴科郡(長野市松代町・千曲市)における山名の考察』の記事とリンク集をご覧ください。

 その後、せっかくなので千曲市森の「あんずの里」の開花状況を見ておこうと、向かいました。杏の蕾は結構膨らんで、中にはほころび始めたものもありました。杏畑の中にある大ケヤキの芽も膨らんで来たようです。

 スケッチパークに寄ると、魯桃桜が満開でした。ロトウザクラは、日露戦争の時に満州から持ち込まれたという説があります。桃の一種だそうです。山茱萸(サンシュユ)の黄色い花も咲き出しました。割りと花期が長く、杏が満開の頃にも見られます。垣根のレンギョウも咲いていましたね。あんず祭りも始まりました。今週中には一斉に咲き始めるのではないでしょうか。千曲市の開花予想は8日。ということは、見頃は15,16日頃? 週末ではないですね。13日は麓は結構咲いていると思いますが。山際は週末にかけてでしょうか。千曲市観光科のサイトで確認してお出かけください。

 左からロトウザクラ、サンシュユ、一番右が種類はちょっと分からないのですが、八重の紅梅ですね。家の近くの紅梅も満開でした。向こう隣のお宅の白梅も少しほころび始めたようです。こうなると信州の春は気ぜわしいのです。梅・杏・桜・林檎と一気に咲き抜けるのです。

 その後は、祖母の菩提寺のある大城山・興正寺へ。彼岸のお参りついでに山門の「子持龍」を撮影に行きました。「子持龍」は天才・立川和四郎富昌の作。嘉永二年(1849)、薬医門形式の山門を建てるにあたり、村では当時名声を誇っていた諏訪出身の立川流内匠二代和四郎富昌に白羽の矢を建てました。
 和四郎富昌は八幡の武水別神社の再建中でした。そこで、森出身の弟子・宮尾八百重を案内役に住職、世話人、名主らが建築現場に赴き建築を依頼。引き受けた富昌は三月頃から、父富棟が寛政二年(1789)に建築した善光寺大勧進の表御門形式を参考に絵図面を制作。四月には八百重の家に投宿し近くの薬師山に登って酒宴を催し、満開の杏花を愛でたといわれています。夜は篝火の下で鼓を鳴らし謡曲の「鞍馬天狗」を吟じ、見事な龍を描き上げ、村人や近郷近在の話題をさらい、村では日本一の宮大工が来たと喜んだそうです。
 和四郎富昌の作品は、京都御所の建春門の「蟇股(かえるまた)の龍」、遠州の「秋葉神社」、諏訪の「諏訪大社下社拝殿」、善光寺大勧進御用門「江梁の龍」、松代町西条の白鳥神社の「神馬」などがあります。善光寺の幻の五重塔建立の根拠となった千曲市岡地天満宮惣金の厨子は富棟の作ですが、その前の唐獅子は富昌の作です。また、同市屋代の須々岐水神社、土口の古大穴神社にも富昌の作があります。(出典:生前伯父が執筆した『岡地探訪乙路の県天満大自在天神とその周辺』岡地天満宮刊より)

 周遊道路を巡り、岡地方面へ行くと北方の景色が開け、別名戸隠富士と呼ばれる高妻山と右に飯綱山が見えます。手前には、古代科野国と舞台となった雨宮田んぼが広がります。緑色の畑は何でしょうね。もちろん水田ではないです。千曲市名産の美味しい小麦・ゆめせいきの畑でしょうか。JAのスーパの産直売り場に行くと、ゆめせいきの粉が2キロ300円位で売られていますが、これで手打ちうどんを作ると、もう壮絶な美味しさです。仲間がそれ以上に濃い幻の伊賀筑後オレゴン(通称いがちく)を作っています。うどん好きなら絶対に食べておきたい幻のうどんです。これを埴科や更科では、冬に辛味大根の絞り汁に味噌を溶いてつけ汁にしていただく「おしぼりうどん」が名物。これもうどん好きを自称するなら、必ず食べておかなければならない逸品です。他のレシピは、男の料理レシピ集:MORI MORI RECIPEをご覧ください。

2012年の森の杏のスライドショーです。関連動画に11,10,9年もあります。杏の花期は短いので、満開時が晴天の週末とうまく重なるかがポイントなのです。できればYoutubeのページを開いて、720HDでご覧ください。


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★福島第一原発の現況や日本の放射能汚染の実態は、原発村から巨額な資金を得ているマスコミでは絶対に語られることはない。真実を知りたければ、死にたくなければ、愛する人を死なせたくなければ、左のサイドバーのツイッターを見てください。
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