新聞報道などでご存じの方も多いと思うが、国の第二次補正予算によって、介護サービス事業所職員へ慰労金が支給されることになった。
対象者は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大が顕著になり始めた令和2年2月21日から6月30日までの間に、介護サービス事業所・施設等に通算10日以上勤務し,利用者と接した職員。支給額は5万円だ。
当NPO法人なごやかでも、理事長がいち早く県への申請書類を自ら調製し、7月末の第1次締切に間に合わせていた。
それが昨日、交付決定通知が届いた。
「いやー、本当に出るんだね。」
理事長も私も半信半疑だったものだから、嬉しいというよりは驚きの方が強かった。
くすくす笑い合った後、理事長はとんでもないことを言い出した。
「ねえ、高梨さん、この慰労金を、職員一人一人に手渡ししようと思うんだ、ねぎらいの言葉とともに。もちろん、これは会社のお金ではないけれど、コロナがピークの時に、さまざまな事情や思いがあるだろうに、それでも一生懸命働いてくれた職員たちに対して。」
私は反対した。ウチの会社の支給対象者は約180名です、ソーシャル・ディスタンスや各種業務のリモート化が推奨されている状況下で、それは逆行だと思う、と。
理事長は私をまぶしそうに見て言った。
確かにそうだ。きみの言うとおりだ。でも、今回だけは感染予防の対策を十二分に行なうので、僕の思ったようにさせてくれないか。封筒と、領収証を準備してほしい。
本当は私もわかっていた。
理事長は、どこも面会禁止措置になっているため事業所の訪問を極力控えていたが、職員たちに会いたいのだ。自分が大切にしている職員たちに。
「わかりました、封筒と領収証は員数分、今日中に準備します。明日から配布できるように。」
理事長の顔が、輝いた。
東北道を一戸ICで国道4号線に降りてまもなくのことだ、道路の左側にある廃屋の窓が開いており、その中にぼうっと人影が見えた。
驚いてもう一度眺めると、「おむすび屋」と看板が出ている。
胸をなでおろした僕は車を止め、建物の前の砂利敷きの広い駐車スペースまでバックした。
いらっしゃいませ、こんにちは。
快活な声で迎えてくれたのは、白いTシャツに麦わら帽子姿の若い女性だった。
梅干し、さけ、こんぶ、赤飯、おこわ、バターコーン、焼きみそなど、さまざまな種類の大きめのおむすびが、竹かごやざるに並べられている。
迷いますね、と言いながら僕は赤飯とおこわのおむすびを買った。
茶色の紙袋に手早く入れて差し出された。
よろしければ、あちらにイートインスペースがありますよ、とうながされ、建物の隣の、急仕立ての小屋でいただくことになった。
赤飯おむすびにかぶりついていると、お嬢さんが冷たい麦茶を運んできてくれた。
「時々通るのですが、ここは廃屋だと思っていました。」
「祖父が昔ここで串餅を売っていたんです。」
「ああそう、近くに馬仙峡があるので、観光客相手だったのでしょうか。」
「そうです。結構、売れていたそうですよ。
私は仙台の大学の二年生なのですが、春休みに帰省した直後にコロナ禍で戻れなくなり、そのうちに大学もオンライン授業になってしまったので、空いた時間になにかすることはないかと考え、このおむすび屋を始めたんです。
といっても、授業があるので毎週日曜日だけの営業ですが(笑)
おむすびはおもにおばあちゃんが結んでいて、私は販売担当です。
先日、地元の新聞に取り上げられたこともあって、一日100個売れることもあるんですよ。」
へええ、と感心しながら、僕は思った。
商売屋の娘は貴重品だ。
これは僕の持論だ。
彼女たちは、親の商売の浮き沈みを子供のころから見聞きして、それを受け入れる心構えを自然と身に着けている。
そして、お金の大切さを知っている。
同い年の義兄はそういうひとにとうとう出会わなかった、とたまにこぼす。
商売の不確実性を嫌い、自営業の家には絶対に行かない、と公言していた僕の二人の妹たちは結局、寺院と歯科医に嫁ぎ、どちらもいまだふーふー言いながら切り盛りを続けている。
「帰りは平日になるので、こちらは開いてませんね。」
「すみません、そうですね。でもまたぜひいらしてくださいね。」
MG大学も二学期は通常の対面授業が始まるだろう。
そうなるとこのお店も閉店して、再びやりがいを持ったおばあちゃんもそれを失くす。
いや、案外、孫がいなくなっても、彼女が残したこのビジネスモデルをそのまま続けるかもしれない。看板娘抜きで。
それにつけても、この小柄でやせっぽちのチャーミングなお嬢さんといつか結婚する男性は、三国一の幸せ者だな―そんなことを考えながら、僕は車に乗り込んだ。
岩手日報より無断転載
今年の猛暑を乗り切るため、と言い訳しながら、津軽びいどろの麺鉢とフリーカップを買い足した。
セットで購入することもできたのだが、あえてバラで。
ブルーの麺鉢(直径19センチ)は底にきれいな渦巻き模様が入って、食べ終えるのが待ち遠しくなる。
小ぶりなカップ(180CC)は初雪というネーミングのとおりの見た目と手触りだ。
これと割り箸で毎日そうめんを食べながら、なんとか生き延びよう。
娘からユニクロのエコバッグをもらった。
え?アンディ・ウォーホルが590円?!
元々はウォーホルが、プロデュースをも手掛けたアルバム「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ」(1967年)のジャケットのためにデザインしたものだ。
右からウォーホル、ニコ、ルー・リード
以前、本当に死ぬかと思ったライヴが何本かある、と書いたが、ニコの初来日ライブも、僕にとってはその3本の指に入るものだ。
1986年4月11日、渋谷ライブ・イン。
ここはいつも定員無視なのだが、特にこの日は一目本物のニコを見ようと集まった観客で、満員電車の1.5倍の混雑だった。
市販された映像が残っている。
これは会場が静かに見えるものの、みなが圧死寸前で呼吸困難というありさまだった。
代表曲の「宿命の女」
下はルースターズの花田による素敵なカバー。
1984年7月15日、ラフォーレ赤坂ミュージアム。この日は暑い日だった。
のちに花田も上のライブに顔を見せていた。
10年前に認知症高齢者グループホーム建設資金としてメイン銀行から融資を受けた借入金が全120回、完済した。
少しして、当時の契約書が返送されてきたのだが、封筒から出してみて驚いた。
茶色く変色し、しわだらけで、ボールペンや押印のインクが大きくにじんでいる。
契約から7か月後、東日本大震災による16メートルの大津波で当法人はグループホームを二つとデイサービス、居宅介護支援事業所を失っているが、融資の窓口となった支店も同じく大きな被害をこうむり、今夏にやっと元の場所での再建を果たしていた。
この契約書はきっと支店の金庫に当日あったものだろう。
(たとえ一本とはいえ、)借入金を払い終えただけでも十分感慨があるのに、あの日のこんな痕跡が手元に届いたら、とても穏やかな気持ちでいられるわけがなかった。