包みを開けてみると、白×ネイビーのボーダー柄Tシャツだった。
たまたま着古した、やはりボーダー柄のTシャツを着ていた僕は、ちょっと後ろを向いてくれないか、と頼むとそれを脱ぎ、ラベルも切らずに新しいものを着た。
ああ、サイズはぴったりだよ。どう、似合うかな?
じゃあ、これは捨てるね、と脱いだものをくるくると巻いてゴミ箱へ放り込んだ。
その時の彼女の表情といったら。
15年間ほぼ毎日顔を合わせていても、まだ驚かせることができるのだな、と思った。
「ここのインテリアはセンスがいいけれど、やや雑貨店のように散らかって見えたので、もう少し整理しては、と一番最初に話した。
そっけなくならないかって?
お客さんが差し色だと考えてみて。
お客さんが入っているところをイメージすると、よくわかるよ(まさに今日のように)。
あまり自分の趣味でガチガチに固めると、お客さんの居場所がなくなってしまう。
グラスは透明だけでなく、このデュラレックス社製品にはマリン(青色の商品ライン)もあるので、少しまぜると面白いでしょう。
たとえば、グループで来たお客さんに一つだけ青を出したら、当たりくじみたいで話題提供になるし。
それから、レモン水を出してはどうだろう、と。年配の方々には懐かしく、若い人たちには新鮮だ。
でもね、商売や、事業で一番大切なのは、継続して行くこと。
単にお仕着せや借り物だと長続きしない。
だから、僕はこのオーナーからその趣味や好きなもの嫌いなものを聞き取って、その中にあるもので店を強化してみたんだ。
磨いたところもあれば、薄くしたところもある、反対に濃くした部分もある。きみの目にはどう見える?」
私は恥ずかしかった。
かつて私は理事長を裏切る形でデイサービスの開設を画策し、大やけどを負った。
あの時の私には、このオーナーさんのように経験者から滋味あふれるアドバイスを求める謙虚な姿勢が欠けていたのだ。
「この方は、『マイ・フェア・レディ』に例えると、私のヒギンズ教授ね。」
笑いながらそうオーナーが言うと、理事長は顔を赤らめながら慌ててつけ加えた。
「あの映画の原作はラブロマンスではないし、イライザはヒギンズ教授ではなく、フレディと結婚するんですからね!」
K市の福祉施設等運営法人組合、略して福法組の管理者会議へ参加した私は、NPO法人なごやか理事長のお伴で次の会議までの時間調整のため近くの喫茶店に立ち寄った。
こんなお店ありましたっけ?と尋ねると、理事長は笑ってうなずいた。
決して広くない店内は意外なほど客がいて、私たち二人はカウンター席に着いた。
理事長は客の一人に黙礼した後、カウンターの中にいた女性に声を掛けた。
オーナー、ウチの上級職員です。
僕はコーヒー、きみは? 私の方を振り向いた。
オレンジジュースをお願いします。
女性は、はい、ありがとうございます、とよく通る声で言い、丁寧に頭を下げた。
スレンダーな美人だな、というのが私の第一印象だった。
小ぶりのグラスで先に出されたお水を飲んで、はっとした。レモン水だった。
「理事長さんが初めていらしたのは、一年前、開店して間もなくでした。
隅の席に座られて忙しく何かノートに書きつけていらしたのですが、お勘定の際に、ここはいつ開店したのか、グラスはあなたが選んだのか、と尋ねられたので、ここにあるものはすべて私が買い揃えました、とお答えしたら、大変いいセンスですね、とお褒めいただきました。
そのあと何となく気になって、またいらっしゃるかな、もうないかな、と思っていたところ、10日ほどしていらして。その時は私が質問攻めにしました。
開店したはいいけれど、それでエネルギーを使い果たしたようなところがあって、これからお店をどのような方向へ持って行きたいのか、行かなければならないのか、迷っていた時期でした。
その日はお勘定の際に、これからも相談させていただきたいので、と思い切って連絡先をお聞きしたら、客として一週間に一度来るので、その時に声を掛けて下さい、ですって。
ひどいと思いません?
でも、それから本当に来て下さってるのよ。
私はこまごま尋ねて、全部メモを取りました。
インテリアはどうか、メニューはこれでいいのか、アルバイト店員の服装はどうしたらいいか、とにかく、ありとあらゆることを。
それに対してこの方は出し惜しみするでもなく、全部答えて下さった。」
BGMは女声ボーカルのボサノバがゆるやかに流れている。
(つづく)
(前略)
川の向う岸がにわかに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗色のつめたそうな天をも焦がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔ったようになってその火は燃えているのでした。
「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」
ジョバンニが言いました。
「蝎(さそり)の火だな。」カムパネルラがまた地図と首っ引きして答えました。
「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」
「蝎って、虫だろう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで刺されると死ぬって先生が言ったよ。」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんこう言ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。蝎は一生けん命逃げて逃げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないで蝎は溺れはじめたのよ。そのとき蝎はこう言ってお祈りしたというの、
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命逃げた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしの体をだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなのさいわいのために私の体をおつかい下さいって言ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんの体がまっ赤なうつくしい火になって燃えて夜のやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
「そうだ。見たまえ。そこらの三角標はちょうど蝎の形にならんでいるよ。」
ジョバンニはまったくその大きな火の向うに三つの三角標がちょうど蝎の腕のように、こっちに五つの三角標が蝎の尾やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしい蝎の火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。
(中略)
「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひきだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。
「じゃさよなら。」女の子がふりかえって二人に云いました。
「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらえて怒ったようにぶっきり棒に言いました。女の子はいかにもつらそうに眼を大きくしても一度こっちをふりかえってそれからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまい、にわかにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。
(中略)
ジョバンニはああと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあの蝎のようにほんとうにみんなのさいわいのためならば僕の体なんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが言いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり言いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら言いました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川のひととこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが言いました。
「僕もうあんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるの僕のお母さんだよ。」カムパネルラはにわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
(中略)
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニがこう言いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫び、それからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。
ジョバンニは眼を開きました。もとの丘の草の中につかれて眠っていたのでした。胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙が流れていました。
ジョバンニはばねのようにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴ってはいましたが、その光はなんだかさっきよりは熱したという風でした。そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかり、まっ黒な南の地平線の上ではことにけむったようになってその右にはさそり座の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもいないようでした。(後略)
※文中の一部を新仮名遣いおよび当用漢字/常用漢字に改めています。ご了承ください。
グループホームシグナレスから管理者との各種打ち合わせを終えて外に出ると、すでに夜のとばりが下りていた。
駐車場の真ん中で、隣接するやまねこデイサービスの若い職員が星空を見上げながら携帯電話で誰かと話していた。
「―今年の七夕は晴れたね。でも、ほぼ満月なので明るくて、あいにく天の川は見えないけれど。え?うん、おやすみなさい。―あ!理事長!」
悪いね、立ち聞きする気はなかったんだけど、そこに僕の車があるものだから。
今のはボーイフレンド?
「はい。今日は七夕なので、今いる場所で空を見て、と電話したら、きみと出会って久しぶりに空を見上げる気になったと言われて(笑)キザなひとですよね。」
そうだね。いきなりおのろけ、ごちそうさま。恋人たちの、優しい静かな月夜だなと思いつつ、僕も星空を見上げた。