グレーのスーツにキャンディ・ストライプのシャツ、レジメンタル・ストライプのタイ
足しげくライブに通った(いや、皆勤した)ブルー・トニックのテレビ番組出演時の映像が最近再度、違法アップロードされているのに気付いた。
何度か書いたが、1984年の後半はブルー・トニック&ザ・ガーデンのライブへ着飾って踊りに行くのが最高の楽しみだった。ひょっとすると、生涯で一番楽しかったのかもしれない。
バンドはその年の暮れにわずか半年で解散、87年にバンド名をブルー・トニックと改め、メンバーチェンジも行なって再デビューする。ライブ会場が渋谷から六本木や芝浦に移ったせいもあって、メンバーも客もさらにおしゃれになった。
結局、二枚のスタジオ録音アルバムと12インチシングル2枚、それに解散ライブを収めたライブアルバムを残してブルー・トニックは89年4月に解散する。
僕らは一つのバンドが始まる前から終わりまでを見ることとなった。
リーダーだった井上は現在、ソロ活動のかたわら佐野元春や布袋、桑田佳祐などのバックでベースを弾いており、スタジオミュージシャンとして、サポートメンバーとしてひっぱりだこの存在だ。たまにテレビで見かけると、同い年だけに、ちょっと嬉しい気分になる。
後ろにしっかり居る
「ブルースはロックの親父やけん、リズム&ブルースは叔父さんや。6月9日はロックの日やろ? 6月10日はブルースの日ったい。」
昔、マコちゃん(鮎川誠)が下北沢音楽祭のステージ上で言い放った。
以来、僕はこの日が来るたび、ぼんやりとだが、今日はブルースの日やね、と思う。
初めてブルースの生ライブに行ったのは高円寺のライブハウスJIROKICHIで、1981年の冬だった。
まだ二十歳そこそこだった僕は、入場した途端、あー、やめればよかったと後悔した。
スカスカの客はみな長髪の年長の男性たちで、むさくるしいことこの上ない。
さらに、テーブルに着くと、常連らしい隣の客からさっそく話しかけられた。
おにいさん見かけない顔だけど、初めて?
はい、こちらに来るのは初めてです。
どんなレコード聴いてるの?
(来たよ、ここで間違えたらさらに地獄の時間になる。)
「スリム・ハーポとか、ジョン・リー・フッカーとか、ブギーが好きです。「ラスト・ワルツ」を観てポール・バターフィールドがカッコいいなと思っています。」
この返答が意外にも気に入られたらしく、若いのにセンスいいねと褒められた。
嬉しかった。
さらに嬉しかったのは、ステージに登場したホトケ(永井隆)の1曲目が、リトル・リチャードの「シェイク・ア・ハンド」だったこと。
当時スぺシャリティ・レコードから復刻発売されたばかりの初期オリジナルアルバム3枚の、3枚目に収録されているロッカ・バラードだった(のちにポール・マッカートニーもカバーしている)。
マディ・ウォーターズやウイルソン・ピケット、ルーファス・トーマスのカバーで大いに盛り上がったこの夜を境に、僕はさらにブルースのレコードを買い漁って行くことになる―。
再結成されたウエスト・ロード・ブルース・バンドの、たぶん1984、5年の映像。ホトケのスーツに見覚えがある。マディ・ウォーターズの「Ⅰjust want to make love to you」。
マーティン・スコセッシ監督「ラスト・ワルツ」(1978年)より、ザ・バンド+ポール・バターフィールド(ボーカル&ハープ)の「ミステリー・トレイン」。
今年1月に「1976年の新宿ロフト」 (星海社新書)という本が出版された。
ライブハウス、新宿ロフト開設者平野悠の回想録。
収録された写真を懐かしく眺めていた。
僕がロフトに通い始めたのは1980年から。
開設してまだ4、5年だったはずなのに、記憶の中ではもうかなり雑然として、あちこち傷んでいた。
やはり多い時は500名ほどがすし詰め状態になるくらい押しかけるのだから、そうなってしまったのかも。
新宿西口からロフトまでの途中に「餃子の王将」があって、ライブ前の腹ごしらえをしている演者や観客をよく観かけたものだ。
誰も彼も、お金のない、それでいて楽しい時代だった。
これは1986年の写真だそう。
こちらは1978年。左端レック(フリクション)。
階段を下りて行くともぎり役の店員さんが当日券を売ってくれた。
1983年8月13日、ザ・ルースターズ3デイズ二日目。死ぬかと思った。
1983年12月31日、渋谷西武劇場。
40年前、自分がどこでなにをしていたかがわかるのは便利なものだ。
この日夜通し一緒にいたライブ友達はみな、今どうしているだろう。
SAD SONG
作詞作曲 大江慎也
あの娘のおもかげが
とめどなくあふれだし
うすぐもった胸を
真白に 塗りつぶす
水しぶきが岸を越え
君の顔にふりかかるころ
僕はふるえる霧靄をしずめ
この胸ははりさける
Sad song
あの娘の声がひびきわたる
Sad song
あの娘の唄がきこえてくる
やさしい風がふきぬけて
閉ざした心をひらいてゆく
その体にふれたとたん
たじろいで身をかたくする
永遠に凍りついた
白い肉体がさめた火をともす
真夜中にたたきおこされ
目の前がまぶしく光る
ベッドのまわりは すき間なく
とりまいた冷酷な顔が
Sad song
あの娘の声がひびきわたる
Sad song
あの娘の唄がきこえてくる
やさしい風がふきぬけて
閉ざした心をひらいてゆく
やさしい風がふきぬけて
閉ざした心をひらいてゆく
1960年、ニューポート・ジャズ・フェスティバルのステージに登場したマディ・ウォーターズは「アイ・ガット・マイ・モジョ・ワーキン」、「フーチー・クーチー・マン」など、大音響に猥雑でユーモラスな歌詞を載せたエレクトリック・ブルースを披露して、観客の白人インテリたちの度肝を抜いた。
I Got my Mojo Workin'
オレのモジョが効いてきた
でもお前にだけは効かない
オレのモジョが効いてきた
でもお前にだけは効かない
お前をひどく愛したくて
でもどうすればいいかわからないんだ
オレはルイジアナに行って
モジョを手に入れてきた
オレはルイジアナに行って
モジョを手に入れてきた
何マイルも向こうから
女たちが寄ってくるぞ
モジョが効いてきた
モジョが効いてきた
モジョが効いてきた
モジョが効いてきた
オレのモジョが効いてきた
でもお前にだけは効かないんだ
ジプシー女が
オレに火をくれた
ジプシー女が
オレに火をくれた
オレはそいつ全部を
氷で冷やして持ってきた
モジョが効いてきた
モジョが効いてきた
モジョが効いてきた
モジョが効いてきた
オレのモジョが効いてきた
でもお前にだけは効かないんだ
「アイ・ガット・マイ・モジョ・ワーキン」はマディの代表曲となり、数えきれないほどのカバーが生まれたが、僕のお気に入りは、ザ・ディスカバリーズというイギリス、ダービシャーの若いロカビリーバンドのものだ。ウッドベースとギターは姉弟だそうで、他にも面白いカバーをたくさん歌っている。