今となってはどこが出処なのか不明なのだが、十代の頃、「ボタンダウン・シャツはカジュアルなので金属=カフスボタンやネクタイバーはつけない」と読んで、なるほどな、と妙に納得、以来一度もつけたことがない。というか、ビジネス・シーンではボタンダウン・シャツを着ないので、元々セーフだ。
こちらの出処ははっきりしている。
ジョン・F・ケネディ大統領が、公務では一度も着なかったとされているから。
その理由は二説あり、アイビー・リーガー(ハーバード大卒)のケネディはボタンダウン・シャツ(ポロカラー・シャツ)を好んで着ていたが、有権者からエリートだと反感を買うことを恐れたからだという説と、カジュアルなボタンダウン・シャツを公務で着ることは、マナー違反と考えていたからだという説だ。
最近の話題で、ロバート・ケネディJrを厚生長官に承認しないようにと上院議員たちへ従妹のプリンセス・キャロライン・ケネディ元駐日大使(のちにハーバード大と統合する名門女子大のラドクリフ大卒)が書簡を送っているそうだが、公聴会で熱弁するロバートJr(ハーバード大卒)はしっかりボタンダウン・シャツを着ていた。レガシーを大事にしないで、ダメでしょう。
プリンセスから「プレデター(捕食者)」呼ばわりされているそう。マリファナ所持で逮捕歴あり。
高校生の頃、日曜にテレビで放映されていた小津安二郎の「彼岸花」(1958年)を観た。
今となっては誰も信じないだろうが、70年代、小津はもう忘れられた過去の映画監督で、入手できる研究書はほぼ一冊、地方で作品が上映されることは皆無だった。
もちろん、家庭用のビデオはまだない。
母が後ろに立ち、画面を眺めながら不規則発言を始めた。
「山本富士子、いいわよね。でも私はこの映画より次の『浮草』(1959年)の方が好きだな。若山先輩が出ているから。」
「この映画ね、面白いんだよ。女優さんたちの帯が、全部無地なの。せっかく大映から山本を借りてきて、カラーで撮った(小津監督初のカラー作品)のに、もったいないよね。」
「たぶん、監督さんの好みなんだと思う。着物のデザインは全部このひと。」
母はテーブルの上にあった愛読誌の「美しいキモノ」を指さした。
その表紙には「特集 浦野理一」と書かれていた。
僕が本格的に小津映画に観始めたのは、その数年後、進学のため上京し、火災前の国立フイルムセンターで催された「小津安二郎特集」(1981年1月~)に日参してから。
入場券は当日先着順に販売だったので、熱狂的なファンが残っていた原節子主演の作品は毎回売り切れていて入れなかった。
それが2008年、筑摩書房から出版された中野翠の「小津ごのみ」を手に取って驚いた。
「彼岸花」での女優たちの帯がすべて無地だ、と母と同じことを述べていたので。
さらには、フイルムセンターで観た際に度肝を抜かれた、「お茶漬けの味」での小暮実千代のひょうたん柄の浴衣についても言及していた。
映画狂を自認するわれわれ男たちより、着物好きの女性たちの方が、小津映画に対する洞察が深いのではないか。
なんだか足をすくわれたような気がした。
―小津監督から、贈り物もあったと伺いました。どのようなものでしたか。
撮影に入る前には、どの作品でも衣裳調べというのがありまして、監督、俳優、衣裳さん達と、衣裳を選ぶのですが、『彼岸花』の時は、小津先生が事前に私の衣裳を全部選んで下さっていました。その中のファーストシーンで着た、浦野理一さんという着物作家の方の着物を、撮影が全て終了した後、記念にとプレゼントして下さいました。その時の嬉しかったこと、感激したことは、今も忘れることができません。今も、私の大切な宝物でございます。
(小津安二郎学会HPより、山本富士子のインタビュー)
弟もなかなかのコレクターで、年齢的に会社ではそこそこの役職に就いているというのに、休日は都内の古書店や中古レコード店を巡り歩いている。
彼の野望は、自分の死後、コレクションが散逸しないよう、すべてアテネ・フランセへ寄付することだそう。かなり大胆だ。
この正月に帰省した際には、ロバート・アーサーというB級ミステリー作家の自選短編集をお土産代わりに持参してくれた。
この名前、見たことあるな~、と言うと、「本書は本邦初の短編集」(解説より)だってよ、と弟。
書斎から、アルフレッド・ヒチコックが編んだというアンソロジーのペーパーバックを何冊か持って来て目次を開くと、やはり名前があった。
へええ、と驚きながら弟は、タイトルと作者名が並んだ目次をしっかり携帯で写真撮影している(同じ解説によれば、ロバート・アーサーはヒッチのゴースト・アンソロジストだったそうだ)。
ヘンリー・スレッサーの名前もあるね。
うん、ヒッチといえば、スレッサーでしょう。
このやりとりを、自宅のリビングでテレビをつけっぱなしのまま交わしていたのだが、流れていたのは再放送のドラマだった。
あれ、キョンキョンが「快盗ルビイ」読んでるよ。
あー、脚本家がオレたち同様、宮城県から上京したひとだからなあ。(このオマージュも)わかる気もするね、和田誠ほどしゃれてなくてさ。
無数にあるヒッチ編集のアンソロジー本
「そして八月三十日の午ごろ、わたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着き、そこから汽車でセンダードの市に行きました。三十一日わたくしはそこの理科大学の標本をも見せて貰うように途中から手紙をだしてあったのです。わたくしが写真器と背嚢をたくさんもってセンダードの停車場に下りたのは、ちょうど灯がやっとついた所でした。」
宮沢賢治「ポラーノの広場」より
センダード駅に隣接する高層ビル内のクリニックでの人間ドックを終えた僕は、商業ビルの自由通路の飾られた大きなツリーに見送られるようにして帰路についた。
パルコ前のものも撮影するつもりだったが、あまり美しくなかったので、ホテルメトロポリタンのロビーまで足を延ばし、そちらを写真に収めている。
「クリスマス・ツリー」(1968年)、悲しい映画。
今年もまた人間ドックを受検した。
昨年と同じ日に設定したことで、データとしては確実この上ない。
県都のJR駅に直結する高層ビルにテナントとして入居しているこの最新のクリニックは、システムもホスピタリティも面白く、学ぶことも多々ある。
とはいえ、健康に留意することが、ゴルフやカラオケと同じくらい「ロックじゃない」イコール、ダサい、とひそかに考えている僕が毎年、きちんきちんと人間ドックを受検するにはそれなりの理由がある。
ご存知の方も多いと思うが、経営者の多くは自身に万が一のことがあった時のために、銀行借入残高を目安にした経営者向け生命保険に加入している。
その保険は大半が年々保障額が目減りして行くため、借入額が思うようにシンクロせず減らなかったり、逆に事業が拡大して借入額も増えた場合などは本数を追加することになる。
その加入に際して、保険会社の事前査定を健康診断か人間ドックの結果表扱いとすることができるのだ。
自分のためでなく、いわば周囲のため、と思えば我慢できることもある。
この一年、食事量の調整や毎日のウォーキングなど、自分なりによく努力した。いい数値が出てくれることを心から願う。