またもや、買い集めたビデオテープを捨てる話である。
だいぶ寂しくなってきた棚から、僕は運悪く「ピンクの豹」(1963年)を掴んでしまった。
うわー、オレにこれを処分しろというのか、、いや、誰も言っていないけれど、こんなモノを残されても子供たちが困惑するだけだからな。
ピンクパンサー・シリーズの記念すべき第一作の、この楽しいジャケット写真、クルゾー警部(ピーター・セラーズ)の肩に顎を載せている超美人が、パリのトップモデルからハリウッド女優に転身したキャプシーヌだ。
キャプシーヌはクルゾー夫人役でその後、同シリーズに計3本、出演している。美貌のコメディエンヌなんて、最強だ。
下はまだ駆け出しだったウッディ・アレンが脚本を書いたドタバタお色気コメディの傑作「何かいいことないか子猫チャン」(1965年)。この、ロミー・シュナイダーがピーター・オトゥールを踏みつけているスチール写真が大好きだ。
初めて観たキャプシーヌの映画はジョン・ウェイン主演の西部劇「アラスカ魂」だったか、それとも、ウイリアム・ホールデン主演の「第七の暁」(1964年)だったか。
後者については以前書いた。第二次大戦中、マレーで抗日ゲリラとして共に戦ったゴム園主(ホールデン)と現地人リーダー(丹波哲郎)。強い友情と信頼で結ばれていた二人だったが、数年後、独立運動が激化する中、モスクワ帰りの丹波は共産主義テロリストを指揮して次々と過激な事件を起こし、ホールデンもまたその渦中に巻き込まれて行く-。
映画評ではあっさり「凡作」と片付けられていることが多いけれど、僕はこの映画が好きで、テレビにかかるたび観ていた。
大霊界へ行ってしまう前の丹波は、ホールデンを敵に回しても持ち前の押し出しの良さ(=態度のデカさ)で一歩も譲らない大好演。さすが中央大学法学部卒(ただし裏口入学)だ。
そしてこの二人に愛される役が、キャプシーヌだった。
一本前にホールデンと共演した「ライオン」(1963年)。二人は当時恋仲だったという。その後別れてしまうのだが、深酒の果てに孤独死したホールデンは遺言でキャプシーヌに5万ドルを贈っている。
原作はジョゼフ・ケッセルの小説(白水社刊)
その彼女も、1990年にうつ病が高じてスイスの自宅マンションから飛び降り自殺している。このニュースを新聞の朝刊で読んだときは心底驚き、悲しんだ。
デビュー作でフランツ・リストの伝記映画「わが恋は終わりぬ」(1960年)。リスト役のダーク・ボガードはLGBTだが、唯一、キャプシーヌだけは結婚したいと願った女性だったとのちに語っている。
この作品のビデオはボガードの小説集とともに書棚に並べている。ああ、それらもすべて処分するのか、、。
バービーになったキャプシーヌ
新幹線の駅に隣接した豪奢なホテルのロビーで、僕は厚いレザーソファに座り、人をじりじり待っていた。
彼らはまもなくエスカレーターで降りてきた。
何年もご無沙汰してしまった恩人夫妻と、その末娘の3人だ。
僕は駆け寄り、深々とお辞儀した。
やあ、井浦くん、久しぶりだね。お呼び立てして申し訳なかったけど、家内がどうしてもきみに会いたいというものだから、人生最後の旅行に、こちらへ来てみたんだ。
「ご連絡をいただいて、ありがとうございます。とても嬉しかったです。
お孫さんにはもう5年も前になりますが、お会いして、初対面ではありましたが、とにかく懐かしかったです。
どうぞこちらへ、個室のパーラーを時間貸しで押さえておきました。」
それは豪勢だね、ママ。
彼らを広いパーラーの窓際へと案内し、3人が席に着くと、僕はその前でカーペットに膝をついた。
「申し訳ありません、本当に不義理してしまって。
故郷に戻ったものの、慣れない商売のぬかるみに足を取られて結果が出ず、なんだか顔向けできない気がして、恥ずかしくて、ご連絡しないまま年月が過ぎてしまいました。」
いいのよ、井浦くん。
そうだろうと、思っていましたよ。
「ダメよ、こんなヤツ、簡単に許しちゃ。」
僕の前に進み出た娘は怒気をはらんだ低い声で言う。
「そういえばあの、きみに似て利発そうな息子さんはどちらへ進学したの?」
「京大の文学部哲学科よ。」
「京大、、か。ああ、きみの夫君は僕より頭がいいひとなんだね。」
「それはそうでしょ、あなたは私たち家族を捨てて地の果てに帰って行っちゃったひとでなしなのだから。」
「いや、捨てて行ったわけでは、、」
よしなさい、と母親にたしなめられながらも、彼女は憤怒の表情を緩めなかった。
顔を上げると、机の前にざしき童子が立っていた。
明日提出予定の補助金申請書類の細部の確認に熱中していて気がつかなかった。
「おひさしぶり。」
あまのじゃくの僕は、そうでしたか?と答えた。
どうぞ掛けて。
前の家主の様子を見に行ってたの。はい、お土産。
丁寧に解いた包み紙の下から、箱に入った小ぶりのおまんじゅうがあらわれた。
可愛らしい絵柄ですね。
僕はその包装紙をひっくり返して店の住所を確かめたいという欲求を何とかこらえていた。
「訊かないの?」
なにをですか、ととぼけようとして、やめた。
「僕はそういうタイプじゃないので。
でも、僕の前のかたの家業が、きみがいなくなったことで傾いていないかどうかは、気になりますが。」
ざしき童子は箱の真ん中のおまんじゅうを一つ掴んだ。
投げつけられるのかな、と身構えたが、違った。
ノートパソコンの上に静かに置くと、じゃあ行くね、と言って彼女は消えた。
気を悪くしたろうか。
長い時間僕はおまんじゅうを手に取って眺めていたが、思い切って食べた。
むっちりとゴマあんが入ったそれは、くやしいことにとてもおいしかった。
僕はおいしいですよ、と声に出した。
地元紙に年5、6回程度、介護サービス法人の特集広告が掲載されることはこれまで何度か書いた。
当法人は事業所名をずらりと並べた、やや威圧的で嫌味なスタイルなのだが、だいぶ前から飽きてきていて、内心変えたいな、と思っていた。
それがひょんことから職員に当市出身で在京のプロの漫画家さんを紹介され、挿入するイラストを描いていただけることになった。
数点届いたラフ画はどれもチャーミングで選ぶのに一苦労したのだが、季節にふさわしい浴衣姿のものにしてみた。
第1稿は男のコも浴衣だったのが、この二人は恋人同士ではなく、当市の夏の風物詩であるみなとまつりに揃って出かけてきた当法人の同僚職員という設定にしたいので、別の画にあった半袖ボタンダウン姿に変更を依頼した。
すると先方から、シャツはタックインかアウトかとの問い合わせが来た。
僕はすぐさま答えた。
「シャツはタックインで、ベルトは添付した写真のような、いわゆるアイビーベルト、パンツはクリーム色のコットンパンツでノータック、プリーツ有でお願いします。」
要望が細かいクライアントだと思われなければいいな、と念じていると、すぐに第2稿が届いた。
おー、と僕は思わず満足げな声を上げた。
これはまさしく1978年のけせもい高生じゃないの。
当時男子高だったけせもい高校は服装自由で、生徒たちは少ない小遣いをやりくりして精いっぱいのおしゃれを楽しんでいた。
この男のコがくるりと振り返ると、シャツの背中にはVANのTシャツのバックプリントが透けて見えるに違いない。
なんだかちょっと面白くなってきた。
次回は敬老の日特集だが、これもセンセイに依頼し、バックにけせもい市の名所を入れていただこうかな、などとニヤニヤ笑いながら考えている。
遊び心でうちわに市章を入れていただいた
今月発売された『「太平洋の巨鷲」山本五十六 用兵思想からみた真価』(大木毅著、角川新書)が売り上げチャートにランクインしている。
山本についてはもはや語り尽くされており、屋上屋を架す感がするが、大木の前著「独ソ戦」は大ベストセラーを記録しているだけに、期待を持って手に取った方も多いのかもしれない。
同い年の義兄の自慢は、山本五十六の元従兵長と面識があることだった。
そのひと、近江兵治郎上等兵曹は太平洋戦争開戦前の昭和15年から山本が戦死する18年までの3年間、彼の人となりを間近に見ていた。
戦死した山本の遺品を片付けたあと内地(日本国内)に転属となって終戦を迎え、故郷の秋田で大手木工家具会社の営業マンの職に就いた。
その関係で、青森の老舗家具店だった義兄の家を訪れ、時に義父やその父たちと親しく酒を酌み交わしたのだそうだ(昔の営業マンは客の家に泊まって宿代や食事代を浮かすのが当たり前だった)。そして子供だった義兄もその座に交じり、近江元従兵長に山本や乗艦した連合艦隊の旗艦大和や長門の話をねだった。
近江はその後会社の役員兼東京支社長となり、東京で亡くなっている。
2000年に彼は「連合艦隊司令長官山本五十六とその参謀たち」というタイトルの回想録を出版し、その中のエピソードはかなりの点数がウィキペディアなどで紹介されている。
ただ、昨年読んだ戸髙一成(大和ミュージアム館長)と大木の対談の中で、この本に書かれている逸話は近江の記憶違い、あるいは言外に作り話であるというニュアンスで語られていた。
僕自身は本人にお会いしたわけではないが、実直な仕事ぶりで山本の信頼を得て、また戦後は会社役員まで上り詰めた東北人の近江がなにも作り話を書く(話す)メリットがあまり感じられないことから、やや心外だった。
近江が義父に謹呈した本は義父の死後、なぜか義母から僕の手元に届いている。
だからなおのこと、僕はこうして近江を擁護しなければならないのだ。