午前中の用件が長引いて、また今年もGHぽらん気仙沼恒例の芋煮会に行けなかった、と肩を落としていたところ、ホームからおすそ分けが届きました。
仙台風(みそ味・豚肉)と山形風(しょうゆ味・牛肉)の二種類を作って、本格的です。
ごちそうさまでした!
市外に出る道々も確実に紅葉してきており、とても綺麗です。
秋の深まりを味覚とともに感じられた日でした。
超大型の台風が到来予定の前日昼過ぎだった。
日曜日は事業所が休業なので、私は自宅で子供たちと昼食をとっていた。
そこに携帯電話が鳴った。
NPO法人なごやかの理事長からだった。
いつもより少し早口だったが、声は落ちついていた。
―今しがた本市担当課から情報提供があり、当法人の事業所が複数ある地区の他法人特養が、丘陵地の別の特養へ避難することになった。
当法人も、かねてから策定していた避難計画を実行に移そうと思う。
ついては明日、(私が勤務する)やまねこデイサービスを全面休業にするとともに、今日の午後4時をめどに2つのグループホーム-GHジョバンニとGHカムパネルラ、それに小規模多機能ホームジョバンニの泊りの利用者様、計20名程度をそちらで受け入れることは可能か、という打診だった。
はい、できます、と私は即答した。
「うん、それでこそきみだ。では僕は今から3つのホームの管理者へ連絡したあと現地へ向かうので、きみは休日出勤できる職員を集め、利用者様がたが一晩泊まれるようにしておいてほしい、あとのこまかいことはそちらへ集合してからだ。すぐに取りかかろう。」
やまねこデイサービスの職員たちは、日曜でそれぞれさまざまな用事があっただろうに、電話をかけるとみな二つ返事で承知してくれて、3ホームの利用者様・職員を迎える準備は順調に進んだ。
私は職員をそのまま待機とせず、各管理者と連絡を取り合って、出発準備が整ったホームから順に送迎車両を向かわせた。
相手方の負担軽減と時間短縮を図る積極策だった。
知らず知らずのうちに日々の業務のノウハウが生きていた。
まもなく車が次々と到着、組織的な避難と受け入れが整然となされた。
やり遂げた職員たちには笑顔さえ見られた。
ああ、NPO法人なごやかっていいな、と私は改めて思った。
事務員さんも出てきて寝床作りを手伝ってくれているし、なぜか、(他法人事業所管理者である)T管理者の夫君まで駆け付けてくださっている。
これが責任感と、事業所への愛情(=愛社精神)の発露なのですね。
「そのとおり。僕は(隣設するGHシグナレスのO管理者を含めて)5名の管理者たちへ電話をかけて1往復ずつ協議しただけだったけれど、こんなにきれいに収まって、これなら、どんな災害の時でも大丈夫、と今は思えるよ。」
翌日は、いつも静かなホームの利用者様をデイサービスの職員たちが歌やゲームで存分に盛り上げ、楽しんでいただいた後、キャンセルしなかった昼食用のお弁当を4事業所のみなで一緒に食べた。
そして午後2時前、担当課からの警報解除の連絡を受け、帰園することになった利用者様を、私たちデイ職員も協力して送り届けた。
「不謹慎だと受け取られては困るけれど、大震災の年に、GHジョバンニで3ホームがごちゃごちゃ同居していた折に、僕も職員たちも一様に感じていた奇妙な楽しさと同じような感覚が今回またあった。
ともあれ、本当によくやってくれたね、ありがとう。」
ねぎらいの言葉を理事長にかけられた私は、達成感と疲労感からその場にへなへなと座り込みそうになった―。
「こないだ利用者様から話されたんです、『自宅で心筋梗塞で倒れて救急車で運ばれた時にね、胸が苦しくて口はきけないし、体は動かない、目の前は暗くなってきている。ああ、とうとう私は死ぬのだなって思ったの。案外冷静だった。でも、たった一つだけ残念だったのは、もうあなたに会えないのだということ。それを、救急車の中で考えてた。あなたには長いことお世話になってきたから。思いがけずこうしてまた会えたので、今日言っておきます。あら、なんだかプロポーズみたいになっちゃったわね。』と。嬉しかったし、男女に関係なく、相手からほんとうの、本当の気持ちをいただくことがはたして一生に何回あるか考えると、背筋が伸びるような思いがしました。」
テネシー・ウイリアムズの「ガラスの動物園」(1940年)は、アメリカ現代演劇の代表作の一つである。
零落した南部美女の母アマンダと、足が悪く引っ込み思案の娘ローラ、そして鬱屈とした毎日を送っている文学青年の弟トムがひっそりと暮らすアパートへ、トムの倉庫勤めの同僚で、かつてはハイスクールのヒーローだったジム―紳士の訪問客(ジェントルマン・コーラー)が夕食の招きに応じてやってくる。偶然にもジムはローラの憧れの元級友であった。
料金未払いのため部屋の電気が止められ、ろうそくの明かりの中で、ローラが語る良き時代の思い出話に気をよくしたジムは彼女と踊るのだが、テーブルにぶつかり、ローラのささやかなコレクションで最も大切にしていたガラス細工のユニコーン(一角獣)が床に落ちて角が取れてしまう―。
ローラ:これで、ほかの馬と、すっかり、同じになりましたわ。とれましたわ、角が。でも、いいんですよ。かえって、この方が、当人には、しあわせかも知れませんもの。
この子、手術をしてもらったんだと、そう思えば、いいんでしょう。
角をとってもらったおかげで―変わりもののひけ目を感じなくてすむようになったんですもの。《舞台を左へ行き、小卓に腰をかける。》
これで、本人も、ほかの、角のない馬と、気らくに、おつきあいできるでしようよ…‥
ジム(紳士の訪問客):なかなか、ユーモアを解するんですねえ、きみは。安心しましたよ。
そう―僕も、今まで、いろんな人と附き合ってきましたがね、きみには、なんか、普通の人にないようなものが、ありますねえ?
《音楽が、はじまる。》
いいですか―こんなことを言って? 僕、本当のことを言ってるんです。きみと、こうしてると、僕は、気もちが―さあ、なんていうのかなあ!
僕は、たいてい、どんなことでも、うまく言えるんですけど、ねえ―さあ、こいつは―どう言えば、いいんですか、ねえ!
誰か、今までに、きみのことを、きれいだって言った人がありますか?
ま、とにかく、きれいですよ! 普通と違ったきれいさですねえ。違ってるだけに、なお、すばらしいんです。
きみが、僕の妹だったら、ねえ! そしたら、僕は、自信の持ち方を、しっかり教えたげるんだが、なあ。ほかの人と、違ってるってことは、なんにも、恥ずかしいことじゃないんですよ。だって、ほかの人なんてものは、大したこと、ないでしょう。何万人でも、ざらにいますよ。ところが、きみって人は、世の中に、たった、一人! ほかの人ってやつは、地球上、到るところにいますよ。だが、きみは、ここにしか、いないんです。まったく、ありふれてますよ、ほかの人だなんて―まるで、雑草みたいに。ところが、きみって人は―そう、きみは―青い薔薇(ハイスクール時代にジムがローラヘつけたあだ名)!
ローラ:でも、青いってのは―薔薇には―変ですわ……
ジム:きみには、変じゃないんです! ―きみは―きれいだ!
ローラ:わたし、きれいって、どこが?
ジム:どこでも―眼もと、髪の毛。きみの手―きれいだなあ! 僕が、お世辞を言ってると思ってますね、きみは―ご馳走になったんだから、お礼のつもりだろうってんですね、そりゃあ、僕だって、お世辞も、言いますよ! 心にないことを並べ立てもします。しかし、今夜は、ちがいますよ―心から、言ってるんです。きみには、例のインフェリオリティ・コンプレックス(劣等感)ってやつが、ある―さっき、気がついて、言ってあげましたね―そいつがあるから、人と気がるに附き合えないんですよ。だれか、きみに、自信をつけたげなくちゃあ―うんと、自分を、高く買うように―うんと、高く!
《ローラの体を差しあげて、小卓の上に立たせる。》
そんなに、恥ずかしがったり、目をそらしたり―あかくなったりしないように、誇りを持たせてあげる人間が―だれか―いなくちゃあ。
(田島博訳、新潮文庫刊)
大震災当日、施設へ戻る前に自宅へ立ち寄ると、個人事務所も書斎も、書類や蔵書がめちゃくちゃに散乱していた。
その中から、ふと目についた「ガラスの動物園」と「華麗なるギャツビー」(どちらも新潮文庫版)を拾い上げ、リュックに放り込んだ。
結局、数か月間背負い歩いただけで一度も取り出すことはなかったのだが、あれは当分自宅へは戻れないと思ったためか、あるいはお守り代わりにと考えたのか、とにかく、それほど好きな作品だ。
1950年版映画化作品。
ローラ(ジェーン・ワイマン)とジム(カーク・ダグラス)
1987年版。ローラ(カレン・アレン)
1973年テレビ映画版(日本未公開)。