パリ・オリンピックの開会式をぼんやり観ていたら、奇抜な衣裳の男女三人が楽しそうに路地を駆け抜ける場面に遭遇した。
これは、「ジュールとジム 突然炎のごとく」(1962年)へのオマージュじゃない?
後日SNSを検索してみると、数名のフランス人がやはりそう書き込んでいた。
もちろん、僕を含めてただの印象だが。
やがて彼らは国立図書館へ入り、それぞれが本を手に取る。
タイトルを見て、愕然とした。
そのうちの何冊かは、書斎仕舞いで泣く泣く処分した、長年の愛蔵書だったから。
この日は違った意味で、心乱されてしまった。
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ジャンヌ・モロー(左)は男装している。
「危険な関係」ラクロ
「肉体の悪魔」レーモン・ラディゲ
映画「危険な関係」(1959年)。主演ジャンヌ・モロー、ジェラール・フィリップ。
映画「肉体の悪魔」(1947年)。主演ジェラ―ル・フィリップ。
井浦「けせもい市からまいりました井浦と申します。映画祭のゲストなど、おこがましく、集客にも全く役立たないのですが、ご指名いただいたことはとても光栄に感じていますので、今日はこの「太陽がいっぱい」に主演しているアラン・ドロンに私が会ったトンデモツアーについてなど、お話させていただこうと思っています。」
本庄 ありがとうございます。では、まず「太陽がいっぱい」との出会いについて教えていただけますか。
井浦「月並みですが、最初はテレビで観ました。私が十代の頃はNHKで日曜午後に『世界名作劇場』というタイトルだったと思いますが、「駅馬車」や「荒野の決闘」「野いちご」などが繰り返し放映されていました。その中の一本としてです。」
本庄 なるほど。その時に見たアラン・ドロンや映画の印象はいかがだったでしょうか。
井浦「初期のアラン・ドロンはとてもきれいですよね。60年代中期になるとアメリカ映画出演での挫折やスキャンダルがあったりで、男っぽく変わって行きますが、若いころは端正なハンサムというイメージです。映画は南イタリアが舞台なのですべてがまぶしく、日本人の生活、日常とはかけ離れていて、まさに別世界という印象です。それは年齢を重ねた今も変わりません。」
本庄 「太陽がいっぱい」におけるアラン・ドロンの魅力はどんなところでしょうか。
井浦「一応サスペンス映画なのですが、トム・リプレーがやり過ぎたり、抜けていたり、逆にそれで感情移入してハラハラさせられます。そのうちに、彼が好きになってしまうのでしょう。」
本庄 一番好きなシーン、忘れられないシーンはどこですか。
井浦「ドロンで言えば、オーバーヘッド・プロジェクタ(投射機)と製図用拡大器を使ってサインを練習するシーンは大好きです。それから、マリー・ラフォレがギターを持っているシーンはとてもチャーミングですね。」
本庄 それ以外にアラン・ドロン作品では、どれが好きですか。
井浦「ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「太陽はひとりぼっち」は白黒で陰影に富んだ映像です。ドロンはモニカ・ヴィッティの相手役として「受け」の演技が素敵でした。あとはやっぱり「冒険者たち」、「さらば友よ」ですね。」
本庄 それではそんなアラン・ドロンに会った時のことを伺いたいのですが、どんな経緯で実現したんでしょうか。
井浦「1991年のことです。80年代のバブルのなごりでしょう、大手旅行業者が企画した、パリでアラン・ドロンに会うだったり、ローマでジュリアーノ・ジェンマに会うだったり、そんなトンデモツアーがまだ存在していました。でもドル箱企画だったようですよ。」
本庄 ツアーは具体的にどんな内容だったのですか。
井浦「8日間でローマ、ロンドン、パリの3都市を巡り、パリの日航ホテルの大ホールでアラン・ドロンのワンマンショーを観るという内容でした。あとで気がついたのですが、3都市を逆回りするツアーもあって、つまり3本分のツアー客が日航ホテルで集合するという、非常に効率の良い企画だと感心しました。」
本庄 アラン・ドロンに対面したのはどんな状況でしたか。
井浦「そのショーを観た後、いくつかの班に分かれて記念撮影するという流れです。」
本庄 実際に会ったアラン・ドロンはどんな人でしたか。
井浦「私は身長185センチの大男ですが、ドロンも180センチを超えていて押し出しがよく、酒やけなのか精悍な顔つきで、とにかく圧倒されました。」
本庄 何か会話したり、サインをもらったり、プレゼントを渡したり、ということはなかったんですか。
井浦「プレゼントを渡している女性もいましたが、私は握手だけです。それが、握力が強くてびっくりしました。その力をこめた握手に、日本人と外国人の行動様式の違いを気づかされて、一層忘れられないものになりました。」
本庄 井浦さんにとってアラン・ドロンはどんな存在なのでしょう。
井浦「映画の入り口、ガイドです。彼を通して、ビスコンティやロベール・アンリコ、ジョゼ・ジョバンニといった監督や作家、それにマリー・ラフォレやマリアンヌ・フェイスフルなどの女優たちを知りました。恩人みたいなものです(笑)」
本庄 ほかにどんな映画が好きですか。井浦さんは、これまでどんなシネマライフを送ってきたんでしょうか。
井浦「私は今も昔も映画小僧です。しかもミーハーな。西部劇や戦争映画から入って、ドロンとベルモンドのガイドでフランス映画へ足を踏み入れました。
好きな映画を尋ねられてすぐに頭に浮かぶのは、トリュフォーの「隣の女」です。それから、まったく毛色が違うのですが、キャロル・リードの「文化果つるところ」、「マイ・フェア・レディ」のオリジナルに当たる「ピグマリオン」、オーソン・ウエルズのシェイクスピア作品など、原作ありの映画を好む傾向はあると感じています。
本庄 ほかに好きな俳優、監督を教えてください。
井浦「この作品に出ているモーリス・ロネとマリー・ラフォレも私には特別な俳優です。監督は、なんといってもマーティン・スコセッシですね。」
本庄 この石巻名画座では皆さんに喜んでいただける作品を上映したいと思っているのですが、何かおすすめの映画がありましたら教えてください。
井浦「ぜひドロンの「冒険者たち」をお願いします。あるいは、この「太陽がいっぱい」のリメイクに当たる「リプリー」、もしくは、同じパトリシア・ハイスミス原作でヒチコック監督の「見知らぬ乗客」もいいですね。映画はしりとりのようなもので、俳優で観る、監督で観る、を繰り返しているうちに詳しくなって行く、と私は考えています。」
(2023年6月)
「ヒロシマ私の恋人」はフランスの女流作家マルグリット・デュラスがアラン・レネ監督のために書き下ろしたシナリオ本である。邦訳は、やはりデュラスがアンリ・コルビ監督のために書き下ろした「かくも長き不在」とのカップリングでハードカバーが筑摩書房からひっそりと出ていたのだが、今春「ヒロシマ」一本で文庫化されている。
映画化作品(1959年)の邦題は「二十四時間の情事」。新しい文字の旗手、アンチ・ロマンの作家デュラスの小説はどれもみな難解と言われているが、この映画も鑑賞の際に、作品へのスタンスの取り方を間違えると乗りはぐってしまうかもしれない。
実際、ヒロシマを舞台にしていながら原爆の悲劇をメイン・テーマにしているわけではないし、平和を声高に訴えているわけでもないこの映画は、封切り当時日本では興業的にさんざんだった。
ファースト・シーン-べッドで抱き合う男女の裸体が浮かび上がって来る。女(エマニュエル・リヴァ)はフランス人の女優。平和をテーマにした映画を撮るためヒロシマを訪れ、男(岡田英次)と出会った。映画はほとんど撮り上がっており、二十四時間後には帰国する予定だ。
二人はポツリポツリと独り言のような会話を交わす。
「私はヒロシマですべてを見た」女が言う。
「きみは何も見ていない」男が冷たく繰り返す。
男は出征中に原爆で家族を亡くしている。
このやりとりに喚起され、女の記憶が徐々によみがえってくる。
第2次大戦中ヌヴェールという町に住んでいた彼女は占領国のドイツ兵と愛し合った。
フランス解放後彼は殺され、彼女は群衆によって丸坊主にされた上、ハーケンクロイツ〔鈎十字〕を額に書き込まれるという辱めを受けた(フランス全土で起こったこの集団リンチは記録映画などによく登場する)。
両親は彼女を恥じて地下室に閉じ込めた。
狂ったように大声で叫んだりした彼女だったが、髪の毛が再び生え揃うにつれ平静を取り戻し、ある日こっそり家を捨てパリヘ出る。そこで彼女は原爆投下のニュースと、ヒロシマという名前を聞いた。
時は流れ、その恋と体験は彼女の意識の底にすっかり沈んでいたのだが、ヒロシマによって、あるいは新しいロマンスによって突然浮かび上がったのだった。
路上で、ホテルで、男の家で、ナイト・クラブで、過去を語り続けているうちに女はヌヴェールのイメージがヒロシマと重複するのをはっきりと感じる。
ここへとどまってくれ、と嘆願する男を逃れて夜の街をさまよった挙げ句、駅の待合室にたどりつく。
女はとうとう理解した。
「ヒロシマ。それがあなたの名前よ。」
「それは、僕の名前だ。そういうことだ。きみの名前はヌヴェール、フランスのヌヴェール。」
この映画からストーリーだけを抜き書きするのは不可能に近いし、あまり意味がないような気がする。書きながら改めてそう思った。
ところで作品のテーマだが、過去と現在にまたがった“意識”、それと“個人の戦争”だろう、と個人的に解釈している。
延々と続く静かなダイアローグ〔対話〕の間ヘ、ヒロインの脳裏をよぎる過去の記憶をやや断片的にインサートしたスタイルには観ていて想像力を非常にかきたてられたし、“意識の流れ”を描いたブルーストの心理小説に似た印象を受けた。
またレネ監督独特の長い移動撮影はじっと観ているうちにヒロインの意識の深層の中ヘ落ち込んで行くような錯覚を起こさせる。
それからこれは二次的なことだが、夜のヒロシマの街並みが(昭和三十四年の日本でありながら)全く馴染みのない場所―まるでトワイライト・ゾーンのように撮られているのがものすごく面白い。無機的で、冷たく、暗く、そしてなにか知的ですらあるのだ。
ジェーン・バーキンが8年ぶり三度目の来日公演を9月6日、仙台でも行なった。昨年、彼女の「無造作紳士」がテレビドラマの主題歌に使われたことでベストアルバムが三十万枚以上売れ、それが今回の時ならぬ(?)来日につながったようだが、それはそれでいいだろう。
※ ※ ※
実に11年前(1989年)の初公演は、五反田ゆうぽうとで観た。
日本ではひと握りの熱烈なファンというか、マニアの間でのみ知られていた彼女のこと、来日はそれこそ奇跡、もう二度とないだろう―そんな興奮と緊張で、当日は朝から心臓が口から飛び出しそうだったのだが、そのうえ、席に着くと斜め後に(ジェーンの大ファンとして知られる女優)小林麻美を見つけ、さらにクラクラめまいがした。
一方、前回1991年の再公演(於昭和女子大学人見記念講堂)は、その前年に急死したジェーンの二番目の夫で、彼女に歌手のキャリアを授けた才人セルジュ・ゲンズブールの追悼コンサートという性格のものだった。厳粛な雰囲気の中でしずしずと進行していくステージは、一種忘れがたい印象を残した。
※ ※ ※
ピンスポットライトを浴びて登場したジェーンは、黒いタンクトップにグレーのカーゴバンツ、バスケットシューズと、いつも通りの超シンブルな服装。一曲目はセルジュの「フォード・ムスタング」だった。
バックバンドは四人編成ながら非常に厚く重い音を出す。この意外な選曲には驚かされたが、二曲目以降は「バビロンの妖精」、「シック」、「コワ」、そして「 無造作紳士」と、まさにベスト・オブ・ジェーン・バーキンだ。その合い間に、アラン・スーションと共作したという新曲や、セルジュの「コーヒー・カラー」、さらにはアップテンポのビート・ボップ調にアレンジした「さようならを教えて」(セルジュがフランソワーズ・アルディに書いた大ヒット曲)など、珍しい曲も織りまぜたリラックス・ムードの楽しいステージ構成だった。
アンコールを求める拍手に応じ、ジェーンは一人ア・カペラで「ジャヴァネーズ」を歌った。セルジュがジュリエット・グレコのために書いた初期(1962年)の代表曲。グレコやセルジュ自身のバージョンとは違った、素朴さが胸にしみた 。
僕は立ち上がり強く手を振った。さようならジェーン・B 。コマン・トゥ・ディル・アデュー(「さようならを教えて」の原題―「さようならを言うのは苦痛だ」の意)。
(2000年9月)
ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」(1966年)登場シーン。
まだ痩せていた主演のデヴィッド・ヘミングスと。
NPO法人なごやかの事務局員が困惑顔で報告にやって来た。
さきほど、石巻市の〇〇様と名乗る方から、そちらの理事長さんは映画に詳しい井浦さんという方ですか、という電話がありました。それで私は、映画に詳しいかどうかはわかりませんが、確かに当法人の理事長は井浦と申します、と答えたところ、相手は石巻市で小さな映画館を兼ねたホールを運営しており、今度そこで「太陽がいっぱい」を上映する映画祭を企画している、ついてはひとづてにフランス映画にお詳しいと聞いている井浦さんにトークゲストとして上映後に15分ほどお話ししていただけないか、というお話がありました。どのようにお返事したらよろしいでしょう?
確かに、その井浦は僕のことだと思う。どうやら指名手配がかかったようだね。人前に出るのはいやだけど、求められたらそれに応えるのが僕のモットーでもあるので、お受けする、当日は万障繰り合わせて参加します、とお返事してください。
でも、なにを話そう?
パリでアラン・ドロンと握手した一生の自慢話?
マリー・ラフォレのレコード・コレクションのこと?
原作には、ニューヨーク出身でプリンストン大卒=アイビー・リーガーのフィリップ(ディッキー)・グリーンリーフの行きつけの店がブルックス・ブラザーズだという記述があるって豆知識?
フィリップのレジメンタルストライプ・ジャケットを羽織って自己陶酔のトム(ドロン)
マリー・ラフォレの娘は映画監督になり、孫は女優になった。驚きだ。