「未知への飛行」より。中央の大男がマッソー。
きれいに髪を撫でつけ、タキシードへ黒のボウタイを締めて鏡をのぞき込むたび、「未知への飛行」(1964年)のウォルター・マッソーに似ていないだろうな、と心配したものだ。
極端な反共思想を独特の話術で披露してその場を支配する大柄な政治学者。怖いキャラクターだった。
「がんばれベアーズ」(1974年)の、お人よし監督と同一人物とはとても思えない。
マッソーが一番怖かったのは、カーク・ダグラスとキム・ノヴァク主演の「逢う時はいつも他人」(1960年)だ。ダグラスとノヴァクがひっそりと逢瀬を重ねる中、その関係を察知してダグラスの妻にニヤニヤ言い寄ってくる隣人。唾棄すべきキャラクターだった。
面白いことに、ダグラスは次作「脱獄」(1962年)でもマッソーを起用している。脱獄犯の自分をジープでヘリで、どこまでも執拗に追ってくる保安官役として。
実を言うとそれ以前にダグラスは自身が設立した独立プロダクション、ブライナ・プロの記念すべき第一作「赤い砦」(1955年)へもマッソーをキャスティングしている。こちらもかなり嫌な悪役だ。
のちに生涯のライバルとなる名優バート・ランカスター唯一の単独監督作「ケンタッキー人」(1955年、ヘクト=ランカスター・プロ作品)で映画デビューを果たしたマッソーを観ての起用だった。抜け目のないダグラスらしい。さらに、自伝「くず屋の息子」にはまだ映画慣れしていなかった若い舞台俳優のマッソーへ映画撮影のイロハを教えたエピソードが披露されており、このへんがダグラスの嫌われるゆえんだ。
ともあれ、ハリウッド有数の気難し屋ダグラスが三度も使ったのは、よほど才能を認めていたからに違いない。また、ギャラも安かったのだろう。
「逢う時はいつも他人」より。ダグラス(右)の鉄拳制裁。
「コマンド戦略」(1967年)というウイリアム・ホールデン主演の戦争映画がある。
内容は大したことがないのだが、大物作曲家アレックス・ノース作のメインタイトル曲はとても分かりやすく耳に残る。
オープニングでは、荒くれアメリカ兵と規律正しいカナダ兵の混成軍が特殊任務にあたるというストーリーから、(スコットランドからカナダにも伝承した高名なトラディショナル・ソング)「スコットランド・ザ・ブレーヴ」とメドレーになった楽しいアレンジだ。
監督のアンドリュー・V・マクラグレンはジョン・フォード一座の重鎮ビクター・マクラグレンの息子。
この、乱闘から手が止まるシーンはフォード映画のできそこないにしか見えない。
騒ぎの中心にいる大柄なブ男は、(何度も取り上げている)名脇役クロード・エイキンスだ。
アメリカ大統領選挙を扱った映画「影なき狙撃者」(1962年)は鬼才ジョン・フランケンハイマーの監督作品で、60年代最高の政治スリラーと称賛するひともいる。
朝鮮戦争でソ連・北朝鮮側に捕虜になった米軍兵士たちが洗脳され、彼らのかいらい候補を大統領に当選させるため暗躍するというストーリー。原題は「モンゴル人の候補者」だ。
副大統領候補の上院議員夫人を演じるアンジェラ・ランズベリーの怪演を超えた名演は、観る者の記憶に残り続ける。
加えて、洗脳の後遺症に悩むフランク・シナトラを優しく理解するジャネット・リーのキャラクターも魅力的だ。
(ネタバレ注意)
シナトラとリー
就職して3年、サラリーがそこそこ良かったことで僕の生活水準はちょっとだけ上向いていた。
日本企業が海外の有名な不動産を買収したり、アメリカの高名な工業デザイナーへロゴデザインを依頼してコーポレートアイデンティティに躍起になるなど、世の中すべてが浮かれていた。
そんなころだ、学生時代の友人から電話をもらい、休日にランチを一緒にとることになったのだが、待ち合わせ場所は銀座の老舗デパートの前にするという。
混むからやだな~と思いつつ承知して、当日出掛けた。
少し前に着いた僕はライオン像から少し離れて立ち、交差点の雑踏から颯爽と出現する友人をイメージしてあたりを見回していたのだが、、時間になっても現れない。
そろそろそわそわし始めたころ、なんとなく後ろにひとの気配を感じたので振り返ると、ショーウインドウの中に彼女がいるではないか!
少し前から僕に気づいていたらしく、口をパクパクさせ、身振り手振りでちょっと待ってね、と言いながら、マヌカンと一緒にマネキンが着ているジャケットを脱がせている。
驚いた僕は、やはり声を出さずに「略奪?」と尋ね、相手は違う違うと顔をしかめて手を振った。
おいおい、「マネキン」(その年に大ヒットしていたラブコメディ映画)か、と苦笑しながら待って、現品限りのアイテムをゲットしてご満悦の友人と、パスタを食べた。
あれから何十年という長い長い年月の中で、とんでもない経験もさまざまあったけれど、それでもなお、思い出すたびぷっと吹き出してしまう特別な出来事だ。
キャシー・オドネルの話題を続ける。
彼女はスクリーンデビュー間もなく「我等が生涯の最良の年」(1946年、ウイリアム・ワイラー監督)での演技で注目を浴びたのだが、ワイラーの兄(脚本家)と結婚したことによりそのキャリアは思わぬ方向へと転がって行く。
帰還した兵士とガール・ネクスト・ドア(閲覧注意)
ワイラー監督の「探偵物語」(1951年)での脇役。衣裳はイディス・ヘッドだ。右の後姿は主演カーク・ダグラス。
ワイラーの大作「ベンハー」(1959年)での、ベンハーの妹役。母親とともに地下牢に幽閉され、ハンセン氏病にり患してしまう。
オドネルのキャリアで、これらワイラー映画とは別の流れが、前回紹介した「夜の人々」(1948年)だ。座っているのは父親役のウイル・ライト、右はちんけな強盗ジェイ・C・フリッペン。どちらも筋金入りの脇役俳優で、こういったむさくるしい野郎どもの顔と名前を覚えるのがB級映画の醍醐味だ。
「夜の人々」の翌年、再度ファーリー・グレンジャーと「サイド・ストリート」で共演している。
監督はB級映画を撮っていたアンソニー・マン。
この翌年、マンは名優ジェームス・スチュアートとコンビを組み、次々ヒット作を生み出して一躍A級監督となった。
その最後のコンビ作が「ララミーから来た男」(1955年)で、ヒロインにはキャシー・オドネルが起用されている。
前出のジェイ・C・フリッペンはマン映画の常連なのだが、「グレン・ミラー物語」(1954年)は仕方がないとして、なぜか本作にも顔を出していない。たぶんどこか違う組のB級アクション映画で悪役でも演じていたのだろう。