女流作家カーソン・マッカラーズの死後、編集者だった妹が単行本未収録の初期短編などを集め、「ザ・モーゲージド・ハート」というタイトルで出版している(1972年)。
直訳すると、「抵当に入れられた心」。
僕は大学時代に東京神田の古書店街でハードカバー版を見つけて読んだ。
以来、時折そのタイトルについて考えた。
作者が生前につけたものではないのだから、さほど意味があるとは思わないが、それにしては、いい。
マッカラーズの作品タイトルはどれも印象的だ。
「心は孤独な狩人」、
「黄金の目に映るもの」、
「悲しき酒場のバラード」、
「針のない時計」、
「不思議の平方根」、
それに「木、岩、雲」。
その後、抵当権や担保とは切っても切れない職業に就いてからも、僕は考え続けた。
それが「ビフォア・サンセット」(2004年)を観た時、これまでそのタイトルのイメージを的確に説明できないでいたもどかしさが解消したような気がした。
9年間再会できなかった主人公二人は、いわば抵当に入れられた心を抱えていたのだろうと。
毎日考えるわけではないが、気づくと自分のハートは抵当に入ったまま。
それで男は小説を書いた。
女性は、、それは結末近くで明かされる。
そんなこともあって、あの映画は個人的にいとおしい作品なのだ。
「ザ・モーゲージド・ハート」は1993年に抄訳が「カーソン・マッカラーズ短編集―少年少女たちの心の世界」(近代文芸社)というタイトルで出版されている。
「ビフォア・サンライズ 恋人までの距離(ディスタンス)」(1995年)は大ヒット作ではないが、観客の胸に残る佳品だった。
その9年後、同じ監督、同じ俳優で続編「ビフォア・サンセット」(2004年)が作られた。こちらも、いい作品だった。
前作のラストで、半年後のウィーンでの再会を約束して別れた若い旅行者の二人。
続編では、アメリカ人の男(イーサン・ホーク)はそのたった一晩の思い出を小説として書き、作家になっている。
自作のプロモーションに訪れたパリの書店で、男は思いがけずフランス女性(ジュリー・デルピー)と再会する。アメリカへ帰る飛行機の搭乗時刻までの間、彼らはなぜ半年後に会えなかったのか、今はどんなふうに暮らしているのか、会話を重ねて行く。
「僕はあの本を書くことで
君と過ごした時間のすべてを保存したかった。
あの出会いをいつでも思い出せるように。
あれは本物の出会いだった。」
「本は読んでくれた?」
「ええ、想像つくと思うけど、すごく驚いたわ。二回も読んじゃった。」
「でも、あの夜のことはかなり美化されてた。」
「表向きにはフィクションって設定だから。」
「ええ、でも本の中の私は、、いえ、“私”じゃなく、“彼女”よね、とにかく神経過敏よ。」
「事実だろ。」
「そう思う?」
「冗談だよ、そんな書き方してないだろ?」
「私の考え過ぎかも。
でもモデルが自分かと思うと―嬉しいけど落ち着かない。」
「落ち着かないって?」
「なんていうか―他人の記憶の中の違う自分を見てるような。書き上げるには?」
「3、4年かかったな。」
「一夜を描くにしては長いわね。」
「ああ、まったくだ。」
「もう忘れられたと思ってた。」
「まさか。忘れるはずない。」
さて、この再会の結末は。
さらに9年後の2013年には続々編の「ビフォア・ミッドナイト」も作られている。次作は2022年か?
〇イーサン・ホークについて: https://blog.goo.ne.jp/nagomi8000/e/6b0fae9522262e21341b1df2e52e5ddc
出張で私の住む街にやってきた父と、久しぶりに二人で夕食をとった。
何が食べたいか尋ねられた私は即座に牛タン、と答えた。
でもパパは肉類を一切食べないからなあ、と続けると、大丈夫、別のアラカルトもある店を選ぶから、との返事だった。
高級レストラン風の専門店の予約席に座り、私は厚切り牛タン定食を、父は松茸の釜飯とチーズ盛り合わせをオーダーした。
「お茶碗を二つね。」
父が付け加えた。
それぞれの料理がテーブルに届くと、父はしゃもじで釜飯を手際よく切りまぜ、茶碗に盛り始めた。
「あ、私は麦飯もあるから少しでいいわ。」
「麦飯は残してもいいので、こちらから食べなさい。」
「だって、、、。」
私たち兄妹は父からご飯を残さないようしつけられていた。
東日本大震災以降は特に。
「今夜はいいよ。麦飯だしね。でも、お兄ちゃんやママには内緒だよ。」
私は笑った。
料理はとてもおいしく、店の内装は素敵だった。
それから思った、こんな風に私を甘やかすひとに、果たしてこれからもう一人出会うことができるのだろうかと。
NPO法人なごみが初めて隣市への進出を試みた時のこと、地域密着型サービスは原則公募であるため、選考委員会によるヒアリングの機会が持たれた。
僕はM事務局長とグループホームポラーノの杜のY管理者を伴ってそれに臨んだ。
完全アウェイの状況下で、担当部課長や大学教授からの鋭い質問にも、僕はよどみなく答えていたのだが、介護実務に関して尋ねられ、ほんの一瞬、言葉に詰まった。
すると、隣席のY管理者がその質問を引き取ってすらすらと答え、委員たちはみなその的確な内容と丁寧な語り口に思わず大きくうなづいて、座の空気がぱっと明るく変わった。
僕はYさんの横顔を、驚きと謝意を持って穴があくほど見つめた。
実際には一秒にも満たない長さだったのだろうけれど。 そして、声に出さずに口の中で言った。 「ハロー・プロフェッショナル。」
南米エクアドルのとある港町。郵便を飛行機で運ぶ小さな会社のマネージャー(ケイリー・グラント)と巡業を終えたニューヨークのショーガール(ジーン・アーサー)が出会う。
「石を投げれば昔の女に当たる」と同僚(トーマス・ミッチェル!)に言わしめるほどのモテ男なのに硬派な彼は彼女に対して何かとつっけんどんな態度をとるのだが、ヘタなピアノをたしなめられムッとしながらも横で弾いたその確かな腕前に感心して言う、
「ハロー・プロフェッショナル。」
ハワード・ホークス監督のこの「コンドル」(1939年)は傑作とまでは行かないが、その後のホークス映画のすべての要素が散見される、大切な作品である。
ハロー・プロフェッショナル、には甘いニュアンスはない。男が、このガッツある女性を対等の相手として認め、敬意を持って仲間に迎え入れる、そんな名セリフだ。
「コンドル」。右からジーン・アーサー、トーマス・ミッチェル、ケイリー・グラント。
「スミス都へ行く」。右からトーマス・ミッチェル、ジェームス・スチュアート、ジーン・アーサー。