新年度が始まったと思ったら、あっという間に今年の3分の1が過ぎようとしている。
残り8か月で何をするか、目標を持たないと、すぐにお盆、年末がやってくるのだろう(笑)
まずは、昨年度末に取り組んだ補助金による簡易陰圧装置と非常用自家発電設備を未設置の事業所への導入をさらに推し進める。
また、ここ数年来、国が推奨してきたICT化を、このコロナ禍の下において、当法人の各介護サービス事業所でも導入する時期がとうとう来ている。
それから、一層のブランディング。
選ばれる企業となるためにブランド力を向上させることは、この介護・福祉の業種でも必要だ。
個人的に興味があるのは、アップサイクリング。
見ている分には楽しいものの、自分自身ができるのかどうか、もう少し熟視してみたい。
ややポップアートの方に寄り過ぎているように思えるものも多い。
日々の仕事の中でメモ用紙づくりや封筒のリサイクルまでは習慣づいているけれど、それはダウンサイクリングだ。
でも、学生時代に着物の帯を蚤の市で買ってきて、それを素材にして椅子の座面を張り替えたりはした。
これは一種のアップサイクリングだろう。
もう一つは、己のもてなす力をよりシンプルに、そして相手がほとんど気づかないほどよりさりげなく、高めたい。
これみよがしなものはうんざりだ。
「モナ(アイ・ニード・ユー・ベイビー)」はローリング・ストーンズがデビュー・アルバムでカバーしたことにより広く知られるようになった曲で、作者はボ・ディドリーというふざけた名前のR&Bシンガーだ。
彼の曲に繰り返し登場する独特のリズムはボ・ディドリー・ビートと呼ばれ、多くのミュージシャンに愛され引用された。
どれだけ愛されたかというと、ストーンズのほかにザ・フーも、そして(エリック・クラプトン在籍時の)ヤードバーズも、デビュー・アルバムにボの曲を収録しているのだ。
僕も気が滅入る時など、ボのリズムを数回手拍子すると、てきめん調子が戻ってくる。オレの心音はボ・ディドリー・ビートを刻んでいる、などとバカげたことを20代のころは大真面目な顔で言っていた(実は今もそう思っている)。
この太ったメガネのおっさん、ボはなかなかの反逆児で、かの「エド・サリバン・ショー」であらかじめ指定されていた曲を演奏せず、今風に言うとエド・サリバンに激オコられ出禁になったという強者だ。
かなり時代が下ってから(1973年)の映像
ルースターズのカバー。1981年6月、久保講堂! シナロケやらロッカーズ(陣内孝則)やら出とって、最高やった。40年たったとは、信じられんちゃね。
就職してサラリーをいただくようになって間もなく、腕時計を買った。
初代ティファニー・アトラスの黒革ベルト。
それまではまさか自分のようなすべてに捨て鉢のチンピラ若造がティファニー・ブティックで買い物をするなど思いもよらなかったので、アパートに帰って改めて腕に着けてみた時はちょっと誇らしかった。
初代アトラス。一大ブームとなった。
それから35年以上が過ぎて、自分の左腕に目をやると、ティファニー・アトラスの現行型が巻かれている。
黒革ベルトで、裏面がスケルトンの自動巻きタイプだ。
ティファニーは宝飾メーカーだが自社の時計工場を持って生産しているためか故障が少なく、この2代の間に購入した他のモデル、シリーズもいまだみなしっかり動いている。
アトラスの二代目。僕にとっては初めて購入したクロノグラフでもあった。
下の写真のようにベルトが意味もなくややこしかった。
アトラスのほか、トノー型も身に着けた。ころんとしていて可愛らしく、今も愛用している。※トノーは樽の意
クラシックスクエアもいいカンジで、下の白文字にしようか迷ったが、こちらを選んだ。
これらの合い間に、ハミルトンのアメリカントラベラーやロンジン、ウォルサムも腕に巻いた。(不思議とティファニーではゴールド色を買わなかった。)
こうして振り返ってみると、飛び抜けて高価なものは購入しなかったものの、自分の腕時計ライフはそれなりに素敵だったな、と楽しい気分になっている。
追記:
年上のインテリアデザイナーのヒモ生活を送るこの若い小説家は、ミス・ホリディ・ゴライトリーに連れられて初めてティファニー・ブティック(本店)を訪れた。残念ながら、僕は一人だった。
昨年6月末、一本の営業の電話が入った。
コロナ禍で個人事務所にいる時間が格段に増え、こういった電話を取ることが多くなっていた僕は、またか、と舌打ちした。
電話は東北電力からだった。
電気使用量に応じた新しい料金プランができたので、ぜひ申し込みしないかという。
僕は思い出した。
何年も前から、運営する事業所すべてを一括で申し込み、スケールメリットを生かして電気料金を下げることはできないかとぼんやり考えていた(考えているだけだった)ことを。
ただ、新電力会社に高齢者施設を任せてしまうのはリスクが大きく、何度かそういった話はあったものの、お断りしてもいた。
その時たまたま時間があったからだと思う、個人住宅への勧誘だったこの電話に対して、自分は小さな事業所をたくさん運営しており、それを試算してみないか、と持ち掛けた。
はじめ相手は面食らっていたが、話すうちに声が興奮気味になり、ぜひやらせてほしいと言う。電話を切ると、僕は相手に三法人の全事業所リストをFAXで送った。
そのあと何回か電話のやり取りがあり、届いた試算データは、紙のボリューム以外あまり驚きのない内容だった。バラバラで煩雑な提案プランの上にセーヴされるのはこの程度か。
そんな思いが声に乗らないよう気をつけながら、相手の言うとおり、各事業所の電気使用量に応じたそれぞれ最安のプランを契約した。8月末のことだった。
それが、年度が変わって4月、税理士事務所の担当者と仮の決算書を組み上げる作業の中で、おや、と思った。水光熱費が昨年度比で92万円余り下がっている。
調べてみると、原因はすべて電気料金だった。
7か月でこれだと、年間に換算すると158万円の節約となる。
それも、工事も新たな加入金も、なにもなしで。
この金額は、ホーム一棟分の年間の料金に匹敵していた。
昨年度末には(先日書いたように)補助金で三棟へ平時も稼働する非常用自家発電設備を搭載しているので、今年度はより成果が表れてくるだろう。
あの時電話を取り、話を聞き、気が乗らないながらも契約を結んだ。
それがこんな結果になったことを、少々の反省とともに面白く感じてここに書き残している。
「その壁に掛けてある二枚の写真を見比べてみるといい。
一枚目は1919年、ニューヨークのリトルイタリーで、聖ジェナーロのお祭りの日のもの。
この若き父親は住民に恐れられていた地回りのヤクザを単独で殺害し、以後みなに畏敬の念を持って接せられるようになる。
もう一枚は6年後の1925年、一家が父親とともに、彼の故郷シシリー島コルレオーネ村を訪れた時のもの。
家族が一人増えているね。
全員身なりが格段と良くなり、父親も別人かと思うほど自信に満ち溢れている。
古い知人たちと旧交を温めた後、父親は両親と兄を殺したマフィアの親分とその子分たちを一人一人殺し歩く。
親分を殺した際に、幼なじみはショットガンで足を撃たれ、車イス生活となった。
父親はそんな友人を終生大事にした。
きみに何を言いたいかというと、人まで殺さなくてもいいけれど、一時期でも、このヤング・ビトー・コルレオーネのように一生懸命頑張れば、家族の生活も良くなるということ。
この写真の間にある6年という年月に彼が頑張ったように。
自分のためでなく、他者のために頑張れば、必ず結果はついてくる。
しっかりしなよ。」
20年後の1945年、末娘の結婚式にて。