シーナ&ザ・ロケッツのギタリスト、鮎川誠の訃報に接した。
1980年春、シングル「ユー・メイ・ドリーム」がJALのCMに使われ大ヒットしていたちょうどその頃に上京し、以来都落ちしてくるまでの9年間、シナロケのライブには皆勤賞がもらえるほど足しげく通った。
友達も、ガールフレンドも、自分が集めてきた知識と自分自身の価値も、みなそこで見つけた。
初めて観たのは渋谷の「屋根裏」(ピンサロの階上のライブハウス)だった。
観客の女の子たちがコートを脱ぐとTシャツやタンクトップという、すでに踊りまくる気満々のモードで、あ~、慣れてるなあ、と感心したし、気後れもしたのを憶えている。
もう何年もライブはご無沙汰してしまっていたものの、いまだカーステレオやiPhoneにはCDがつまっているし、携帯の着メロは彼らが好んで1曲目に演奏したニール・ヘフティの「バットマン・テーマ」だ。
通夜も葬儀も行けませんが、遠くの空の下よりご冥福をお祈りいたします。合掌。
1980 年
ユー・メイ・ドリーム
(作詞:柴山俊之、クリス・モスデル 作曲:鮎川 誠、細野晴臣)
あなたの事想うと
すごく胸があつくなるの
いつもはユーウツな雨も
サンバのリズムにきこえる
あさもやの湖に
水晶の舟をうかべて
ちょっとだけふれる感じの
口づけをかわす
SO IF YOU LOVE ME
COME UP AND SEE ME AFTERDARK
YOUR NAME IS CARVED ON MY HEART
FOR YOU I RESERVED A DREAM
それが私のすてきなゆめ
それが私のすてきなゆめ
ユメ、ユメ、ユメ
AND YOU MAY DREAM TONIGHT
WHEN YOU TURN OUT THE LIGHT
OF A GIRL IN THE ARMS OF A HERO
LIKE VALENTINO
WELL-HEY! THAT'S LUCKY GIRL'S ME
それが私のすてきなゆめ
それが私のすてきなゆめ
ユメ、ユメ、ユメ
こんライブも行ったっちゃね。1981年10月、日比谷野音、「ピンナップ・ライヴ」!
マコちゃんがいっぱい歌うたけん、シーナが出てこんのかち、みな心配したっちゃ(笑)
録音ばしとったとは知らんかった(翌年2月「鮎川誠/クール・ソロ」としてリリース)。
ジャケットはリチャード・ヘルへのオマージュやったね、特に裏面は。
アイラブユー
(作詞;柴山俊之 作曲、編曲;鮎川 誠 )
きみがとっても上品で
頭のいい娘だなんて
そんなことなど オレにとっては
ほんのささいなことなんだ
きみのたよりを 読むたびに
たいくつすぎて 気が狂いそう
病気見舞いじゃあるまいし
それとも恋を 知らないの
それよりもっと 素敵な恋が
あついあつい くちづけが
オレも好きだし きみだって
きっと一番 似合うはず
わかってるなら 言わないで
オレがきみにのぞむのは
そんなつかれる セリフじゃなくて
心をこめて
I LOVE YOU
ビールスカプセル
(作詞;柴山俊之 作曲、編曲;鮎川 誠 )
オレの壊れた蛇口から
噴き出る不純な飲料水
悪質なビールスのかたまり
カプセルにいっぱいつめこんで
さぁ やつらにぶちこめ
よだれ だらだら たれ流し
さかりのついた メス猫の
脳天を 叩き割れ
オレの壊れた蛇口から
噴き出る不純な飲料水
強烈な 原子爆弾
カプセルにいっぱいつめこんで
さぁ やつらにぶちこめ
鼻から チョウチン ぶらさげた
できそこないの ガキどもの
脳天を 叩き割れ
つい先日、父親が所有する賃貸住宅で高齢者の孤独死があった。親類はいるものの引き取りを拒否しており、遺体はともあれ遺品は家主が費用負担して処分することになりそうだ。
その少し前に父親が88歳の誕生日を迎え、簡素ながらも心づくしのお祝いの席を設けた。
東京でお気楽サラリーマンだった僕が都落ちしてきたのは、父親と母親が同日に入院したことがきっかけだった。
休暇を取り駆けつけると、連絡をくれた臨月の妹が病室に付き添っていた。その下の弟妹たちはまだ大学生だった。事業主が倒れ、後継者がいないということで、銀行からの新規融資が止まり、家業は倒産寸前だった。妹は実家が倒産するのは困る、と泣いた。
東映時代劇の悪役のような容貌の担当医は、長男のきみが帰ってきて面倒を見なければならないんじゃない?と言った。老け顔でその時はわからなかったものの、彼は僕よりたった5歳ほど年上なだけの30代前半だったそうで、よくまあそんな若さで他人の人生に口出ししてくれたよ、と思い出すたび少し腹が立ったが、やり手だったのか彼はそののち市立病院の院長に昇り詰めた。
あれから30年以上が立ち、意外にも両親ともに健在だ。来年には母親も88歳を迎える。親不孝だった僕の親孝行は、これをもってゴールしたと考えていいのかもしれない。
今冬は初め寒かったのがその後少し落ち着いていたものの、やはりそのままでは終わらず、先週末あたりから本格的になってきました。
今年は電気料金の高騰から、節電のために家庭や職場内の設定温度を下げ、その代わりにセーターやベストなどを取り入れることが提唱されています。
僕は以前書いたように肌が弱く毛糸を着ないため、試しにオッドベストやスリーピースの残りベスト、果ては冠婚葬祭用のシルバーや黒のベストを身に着けてみたところ、これが意外に暖かく手離されなくなっていて、よく言われている、腹巻が外せなくなる、外すと風邪をひくってこんなカンジかもしれないな、と一人ニヤニヤ笑っています。
もともと貧乏学生の頃は表参道や下北沢の古着屋で千円前後のベストを買い、それをウエスタンシャツや、フリルだったりピンタックのついたフォーマルシャツに羽織ると、それなりにいいカンジになっていた(※自己満足)のですが、まさか節電と加齢でベスト着用が巡って来るとは思いませんでした、、。
「シェーン」(1952年)の敵役ジャック・パランス。衣裳はイディス・ヘッド。
「OK牧場の決闘」(1957年)のドク・ホリディ役カーク・ダグラス。やはり衣裳をヘッドが担当している。
「リバティ・バランスを射った男」(1962年)の敵役リー・マーヴィン。こちらも衣裳はヘッドだ。
「ロンドン・コーリング」(1979年)プロモーションフイルム撮影時のザ・クラッシュ。右、ミック・ジョーンズ。
三枚組アルバム「サンディニスタ!」(1980年)。右、ミック・ジョーンズ。
英国のシャツメーカー、トーマス・ピンクのシャツを初めて買ったのはもう30年以上前のことだ。
ロンドンから帰国する途中、ヒースロー空港のショッピングモールで目に留まった。
当時も今も日本未発売で、このブランドについてまったく知識がなかったのだが、とにかくあか抜けた店構えで、商品もしゃれており、ひと目で魅了された。
その時は3枚ほど購入して帰ったのだが(なかなかのお値段なのだ)、1年ほどするとむずむずしてきて、旅行がてら再訪している。
まだオンライン・ショップがなかった頃の話だ。
トーマス・ピンクのシャツの特徴は、可愛らしいブランドタグと、ピンクのガゼット。
ガゼットとは、もともとは裾の前身と後身が合うスリット部分が裂けるのを防止するための補強パーツなのだが、現在は装飾に近く、ひと手間余計に掛かっている高級品の証しとも言え(現在はルイ・ヴィトンのグループ傘下となっている)、それがブランド・カラーのピンク色なのでどこの品物か、明確に分かる。
年を重ねるにつれ僕は常にスーツ着用となって、ボタンダウン・シャツやカジュアル・シャツに袖を通すことがなくなっていたのだが、零細企業をSOHOで運営している悲しさか、ともすると曜日が分からなくなりがちで、そのマヒした感覚を正すための一計として、ここ半年ほど土日には無理やりカジュアルなシャツを着ることに決めている。
とても官公庁は訪問できない、トーマス・ピンクの派手なシャツやブルック・ブラザーズの素敵なチェックのポロカラー(ボタンダウン)シャツをクローゼットの奥から引っ張り出して着て、週の区切りとしているのだ。(決して若作りのためではありません!)