一人掛けのソファに座りながらついうとうとしていたのが、目を開くと、僕の正面、至近距離に二つの物体が並んで立っていた。
アマビエだった。
きみたち一体どうしたんだ!
あわてて声が上ずってしまった。
「ハイ、私たちは縁あってざしき童子さまにお仕えしているのですが、あの方は現在被災地支援に忙しく、まだ手が離されないので、代わりに私たちが赴いてあなたさまのお手伝いをしてくるようにとのご指示でした。」
なんだか嬉しいのか悲しいのか分からないなあ、と思いつつ、ひとの厚意は素直に受けよう、と気を取り直した。
きみたち名前は?
「ハイ、私は盛岡生まれのアマンダです。」
「私は仙台生まれのビエラです。」
しゃれたお名前だねえ。じゃあさ、事業所の管理者に欠員が出たので、アマンダは管理者、ビエラは計画作成担当者を務めてくれるかな。」
「よろこんで。」きれいにハモっている。
おお、素直で大変よろしい。
いい二人をよこしてくれたものだ。
それにしても、千珠姫は大丈夫なのだろうか。
あのひとはいつも頑張り過ぎるから。
「私は大丈夫です。」
頭の中に声が響いた。
いけね、考えていることを読み取られてしまった。
ドナ・リードはAクラスとBクラスの映画を行ったり来たりしながら(させられながら)も、最後はテレビシリーズ「ウチのママは世界一(ドナ・リード・ショー)」(1958年~66年)が大ヒットして、そのキャリアをいい形でゴールさせた稀有の女優だ。
フランク・キャプラ監督の「素晴らしき哉、人生!」(1946年)やジョン・フォードの「コレヒドール戦記」(1945年)、アカデミー助演女優賞に輝いた「地上より永遠に」(1953年)などで忘れられないヒロインを演じながら、その前後にはどうでもいい西部劇などにひょっこり出ていたりする。
初めて観た彼女の作品はたぶん、「雨の朝巴里に死す」(1954年)、F・S・フィッツジェラルドの傑作短編「バビロン再訪」を映像化した凡作だったと思う。
終戦の日、カフェで出会った米兵に惹かれるも、彼は自宅で引き合わせた妹(エリザベス・テイラー)に夢中になってしまう。そのほろ苦さこそが、この映画のあまり語られることの少ない見どころだ。
この軍服はブルックス・ブラザーズ社製ではない(ジョーク)
アカデミー授賞式で、フランク・シナトラと。
「コレヒドール戦記」。負傷し入院したジョン・ウエイン(右)と恋に落ちる野戦病院のナース役。
「素晴らしき哉、人生!」。こんな生き方ができたら。
25歳の宮沢賢治が花巻農業高校に着任したのが大正10年、やぶ屋の創業は大正12年。
新し物好きの賢治先生が、新築二階建てのそば屋の常連になることは必然だったであろう。
「今日はブッシュ(藪)に行きましょうか。」
そう言って同僚を誘い、好物の天ぷらそばと当時高価だった三ツ矢サイダーを食す。
なんてハイカラな。
盛岡のフェザン(駅ビル)にやぶ屋のテナントが入っている。
「今日はブッシュにしようか。」
二人の子供たちからの返事はなかった。
確かに、彼らは「宮沢賢治被害者の会」(家族や友人に熱心な賢治ファンがいて、興味もないのに繰り返し話を聞かされ続けたため心底ウンザリしている方々)の正会員だ。
メニュー化されている「宮沢賢治セット」
うらぶれたNサーカスの団長は、猛獣使いも兼ねたKというしがない初老の男性だった。
Kの手法は他の猛獣使いと違い、ムチをくれたり、エサで釣ることもなく、猛獣たちの誇りを大切にし、また炎の輪をくぐるときなどはまず自らが実践してみせたりした。
若い団員たちはそんなKを時代遅れと陰であざけり笑った。
ある時Kは自動車にはねられ、あっけなく世を去った。
サーカス団は二束三文で大手に買収された。
新しい猛獣使いは気の荒い男で、Kの身の上に起こった変事を知ってか知らずか、うなだれている猛獣たちを怒鳴り散らしながらステージに上げた。
男は見せしめのつもりだったのだろう、猛獣たちのリーダーの、ひときわ毛並みの美しい雌ライオンに容赦なくムチをふるった。
ライオンはすうっと立ち上がると、次の瞬間には猛獣使いに跳びかかっていた。
ゾウもゴリラもトラもグリズリーベアもあとに続き、あっという間に男を八つ裂きにしてしまった。
観客の悲鳴が充満する会場から猛獣たちは悠然と立ち去り、それぞれの生地へと帰って行った。
古参の職員たちとホームの思い出話に花が咲くことがある。
ただ、楽しいことばかり話しているわけではなく、天を仰いだ重大事故についても振り返り、決して忘れないよう心掛けている。
夜間に離園した利用者様を探して崖下を懐中電灯で照らしたところ、ちょうど頭頂部に光があたって反射したおかげで見つけることができた、さらには駆けつけたCMが坂の途中でしりもちをつき、そのまま「サンダーバード」のスライダーでの搭乗シーンさながらにまっすぐ滑り降りて来て、笑いをこらえるのに一苦労した、などとユーモアを交えてはいるものの、当時の必死さは話すたびまざまざとよみがえってくる。その利用者様を背負ってホームへ戻った際の、安堵した管理者の愛らしい泣き笑い顔も、一生忘れることはないだろう。