札幌市 漢方相談薬局(有)中村薬局~地域医療・医薬品・漢方・サプリ・調剤・AGE測定~

札幌市白石区南郷通7丁目北5-1 ℡011-861-2808
    地下鉄(東西線) 南郷7丁目駅3番出口すぐ横

新聞に・・・・

2007年10月29日 | ニュース

 先日、北広島市で講演をしてきました内容が、新聞に出ていました。本人は知らなかったのですが、知り合いの方が届けてくれました。過分な紹介の記事に恐縮しきりです。

Cimg1734


近所の保育園から差し入れの焼き芋

2007年10月16日 | まち歩き

 近所の市立保育園児が炭で焼いた焼き芋をさめないように、ジャンバーの中に入れて持って来てくれました。  

 今日の札幌は、小雨が降る少し肌寒い天候です。  ほっぺの赤い園児が冷たい手でお腹に入れて持って来てくれた、ほかほかの焼きいもを渡してくれました。  

 心も暖かくなる焼き芋を、母と家内でいただきました。  

 丁度、祖母の仏前にと、とらやの羊羹を切っていた時で、御先祖様がタイミングよく届けてくれた気がしました。    

 虎屋の羊羹に思い出があります。

 私が店に戻り仕事をはじめた頃に、東京で勉強会があり、意気揚々とおのぼりさんをしていました。20歳代の私は以前からの夢であった銀座三越で買い物をしてみたく、懐に三越の商品券を1万円分を入れ見物していました。が、地上階で1万円で買える物がほとんど無い事に気が付き、接客で寄って来る店員に笑われ、顔を真っ赤にして地下へ。普通はいくら高価なモノを販売しているところでも、食品が1万円以上と言う事もないだろうと・・・・  

 考えが甘かったです・・・・・。

 当時、虎屋の名前も聞いた事も見た事も、ましてや頂いた事もない我が家では、羊羹1本が5000円(昭和60年当時)は、信じられない状況でした。

 でも、家族にお土産にと、意を決して、清水寺から飛び降りる覚悟で、その羊羹を1本買って帰りました。

 で、家族全員が集まり、その貴重な羊羹を取り囲み、薄く切り透けて見える位、ようやく羊羹が立つか立たないかギリギリの厚さに切り、その日の為にとって置いた(来客用の)玉露で頂きました。

 まるで、ちびまるこちゃんのアニメに出てきそうな、オールウェイズ3丁目の夕日みたいな雰囲気でした。

   その想い出の虎屋の羊羹を初七日がすまない祖母の仏前に・・・・


10月13日(土)営業時間変更のお知らせ

2007年10月12日 | ニュース

10月13日(土)の営業時間が変わります。通常は午後8時までですが、急用の為、この日だけ午前中の営業になります。御用の方は薬局の電話に伝言をお願いいたします。皆様に御迷惑をおかけいたしますがお許しください。


漢方の極意

2007年10月05日 | アート・文化
風の男 白洲次郎 (新潮文庫) 風の男 白洲次郎 (新潮文庫)
価格:¥ 420(税込)
発売日:2000-07

 白洲次郎と言う人を知ってますでしょうか?日本人で初めてジーパンをはいたと言うおしゃれな人です。

 この白洲次郎の奥さんは、白洲正子と言いまして、これまた興味津々の方です。先日、何気なくテレビを見てましたら、細川元総理が子供の頃、かわいがってくれた正子の思い出話をしていました。(NHK教育)。正子は骨董の世界でも有名で、ショーケースに入れて鑑賞したり、投機目的で購入する物でも無い。実際の生活で使わないといけないと。そして骨董を見極める心眼の極意は色々な人生にも応用が利くと言われています。私もそう思います。

(「白洲正子 私の骨董」と言う本があり、そこからの抜粋です)

 バブルがはじけて、今度は文化だということになり、私などのところにまでブンカブンカドンドンとマスコミが押しかけて来る。そんな事に一々驚いていては身が持たない。彼ら---といっても、私の場合はおおむね編集者であるが、まず訊くのは、どうしたら骨董がわかるか、ということである。
 さあね、と私は考える。
 あたしにもわからないよ。自分が好きなものを知っているだけ。
 それをどうやって見つけたんですか?
 好きなものと付き合っている間に、骨董の方から教えてくれたの。五,六十年もやって、やっと骨董にも魂がある事を知ったの。その魂が私の魂と出会って、火花を散らす。といっても、ただ、どきどきするだけよ。人間でいえばひと目惚れっていう奴かな。そして、どきどきさせるものだけが美しい。ずいぶん色々のことを教えて貰った。あたしの欠点も、長所も、いかに生くべきか、ということまで。
 大抵はそこら辺で退散するが、私は笑談をいっているつもりはないのである。
 編集者にしてみれば、私がおかしなことばかりいうので、この頃では「白洲正子の美学」なんて書かれる時もある。何でも不可解なものは「美学」にしちまえということらしいが、私ほど美学から遠いところにいるものはないのである。
 そもそも美学というものが何だかわからないので、字引をひいてみると、「自然や芸術における美について研究する学問。美的事実一般を対象として、それの内的・外的条件と基礎を解明・規定する」とあるり、いよいよわからなくなってしまう。たしかに、あらゆるものは研究の対象になるに違いないが、個人の感覚にだけ訴えるものを分析したり研究したりする事ができるのだろうか。「その内的・外的条件と基礎を解明・規定する」とはいったいどういうことなのか。
 たとえばここに唐津のぐのみがあるとする。その陶土を見てそれが唐津であり、鉄砂で絵を描いたことは判る。物識りはその上に、高台の作り方とか、火加減とか、窯変の面白さなどに薀蓄をかたむけるであろう。だが、それらの綜合の上に成り立っている一個の器について何も説明したことにはなるまい。いかにそれが美しいか、絵が面白いか、千万の形容詞をつらねても美そのものを語る事はできない。そこでは知識も学問も何の役にも立ちはしないのだ。
 もちろん知識や経験はあった方がいいにきまっている。それはただし都合がいいだけの事で、美とは関係のないことである。一般の人々が間違うのはそこの所で、陶器を「勉強」すれば陶器がわかると思っていることだろう。だから展覧会はいつも盛況だが、そこではものを見るより先にまず解説を読む。そして全部理解したつもりになり、うつろになった眼で流れ作業式にちらっと横目で眺めて会場を出る。頭では解説でいっぱいになっているから、ものを見る余裕なんか残っている筈はない。
 美術品ばかりでなく、このことはあらゆるものに共通する現代の風潮といえよう。ひと口にいえば情報過多の時代に生きているためで、私たちは精神的に消化不良を起こしている。消化不良を直すには、充分な手間と時間をかけて治療をする以外にない。骨董だって同じ事である。今まで得た知識や情報を全部忘れて、裸の心でものに接する。そして相手が心を開くまで黙って待つのである。

 

私は、白洲正子さんからの言葉に医療、特に東洋医学の極意を感じます。