波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

仕事って…

2014年03月17日 | 読書

詩「仕事」。今年1月に亡くなった吉野弘作。14316_5

   こんな詩だ。定年で会社をやめた方が、ボクの職場に顔を出す。「退屈だ」「一人だと落ち着かない」と言ったその人が帰った後、同僚たちは「驚いたな、仕事をしないとああも老けこむかね」「人間は働くように出来ているのさ」と話をする。僕は僕の中の「一人は肯き他の一人は拒」んでいると思う。そして後日、退職したその方がこにこして「仕事が見つかりましたよ。小さな町工場ですがね」と表れる。僕は、「これが現代の幸福というものかもしれないが、なぜかしら僕はひところの彼のげっそりやせた顔がなつかしくいまだに僕の心の壁に掛けている。」と思う。続けて、仕事にありついて若返った彼は、何かを失ったあとの彼のような気がする。「ほんとうの彼ではないような気」がするで終わる。

                ●●

 終わりの2連で止まり、初めから読み直した。何度か反芻するが納得いかない。そのうち一つ一つの言葉が自分に跳ね返ってきた。いったい自分は、何を失ない、どんな「ほんとう」から遠ざかったものか…難解な宿題だ。 「一見すじの通らない表現の中に、思いの他のリアリティーがある」(吉野弘著「詩のすすめ」:思潮社)を実感する。与えられた価値観でなく、自分が納得いく価値観で解かなくちゃならない宿題なんだろうが。「仕事」という題名が実に意味深だ。


退職前は仕事、退職後は人生の大事さを思う。やっと自分を取り戻せる機会が来た時、人は不安になるのか、と中途半端な立男は思う自画像。クレパス、木炭、6B鉛筆、葉書大の色紙。疲れ顔だが目の光は未だ大丈夫なよう。

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【その154】 春

2014年03月16日 | 【保管】一寸凡師コラム
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 朝、ハガキを書いてポストに投函。凡師の朝のスタイルはこれ。ほぼ同じ時間に投函しに出かけるため、季節の移り変わりを感じることもできる。今日の朝は天気も良かったこともあり、随分と明るくなるのが早くなったなぁとつくづく。もう「春」なのだ。
                        
                          
 「年度末の忙しさ」から「新年度の忙しさ」へとシームレスで続く日常に、時折海を眺めながらタバコをふかしたい衝動に駆られるが、春の陽気を感じる今日の朝日に心が癒やされた。いろんなことを整理しながら進めたい。
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続 漱石という基盤

2014年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_4 3年前の3月、宮城釜石の大川小のことブログに書いた。今日の新聞で「大川小 津波犠牲は人災 苦渋の提訴」の記事。同じ新聞の1面に、死者15884人、不明2633人、避難者26万7419人、仮設住宅暮らし9万7千人の数字。その裏面に「安倍首相 原発再稼働方針を堅持 経済の再生優先、心の復興に注力」伝える。事実は一つしかないのに、未だ解決の糸口もつかめないこと多く、真逆な二つの現実が進行している。そんなことが分かりやすく悲しい3年目の3.11。原発輸出さへ語る政治家もいる不思議。

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 今朝、漱石の「門」読了。主人公に対する「彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人」を、立男自身への評として読む。友人の妻を奪い二人きりの隠れた世界で生きた体験は無いが、今日できることを明日に延ばし、面倒になるような交わりを持たず、一日一日を何事も無く過ごすが幸せ……生活を不安にさせるものを忘れたいのに忘れぬままに…自分だってこんなもんだなあと思いつつ、そんな人間でも福島や宮城のことを想像すると無性に悲しい。嫌いなお笑い芸人だが、その想像力にも学ぶ今日だ。 
  小説の価値は面白さ。面白いから漱石を続けて読んでいる。新聞小説の形式が教養の押しつけ許さず、作者の絶妙なバランス感覚が読み続けさせるのだ。ママヨさんが「『羊の歌』はメルヘンだ」と面白いことを言う。ふーん、と思う。若者だと読めず、いい加減な老人になったから読み続けられるのが古典かもしれない。

Photo_7公式裏ブログ、更新してあります。どうぞ画像は白い菊。前に描いたのだが今日にふさわしい感じがして。寒さに縮こまっているような開く前の蕾。


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【その153】 楽習

2014年03月09日 | 【保管】一寸凡師コラム
Photo_2 凡師が高校生の頃。「ラジオ講座」というものをやったことがある。テキストを書店で購入し、ラジオを聞きながら学習した。最初の頃は面白がってやっていたが、そのうち撮り溜めたカセットテープが机の上を占拠するようになり、折り目のついていない綺麗なテキストの山ができた。

   あれからウン十年。NHKの「テレビで基礎英語」なる番組と出会った。凡師の欲している英語力(中学英語から楽しく学べる)にマッチする内容、飽きっぽい凡師を虜にする番組構成に、思わずテキストを購入。大学入試を睨んだ「ラジオ講座」とはそもそも方向性が違うのだが、テキストはめくっているだけでもワクワクする。とても楽しい。高校生の頃はとにかくガッツイて勉強していたが、実際はやってもやっても身についている実感は乏しかった。今は、ゆる~く、楽し~く、ホホウ、ホホウと言いながらの学習だが、なんだか、ストンと落ちる。
  きっと高校時代の凡師は、心のコップが下を向いていたのだろう。コップは上を向いていなければ、中には何も入れることができない。
 自ら「楽習」を進める凡師の姿を、高校時代の凡師に見せてやりたい。

凡師さんの新聞コメント「3/8朝日先生のつぶやき」。「先生」の文字を「戦士」と打ち間違い…これはこれで…。
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漱石という基盤

2014年03月06日 | 読書

 先月から夏目漱石読み始める。「こころ」「三四郎」「それから」終え、Photo_3
「門」をめくってる。決まって主人公は生活に困らない無職の「高等遊民」、先生、書生、お嬢さんや奥さんが出てきて、変な会話文、理屈っぽい地の文で、小さな事件始まり、合間合間に身辺や季節の鮮明な描写あり、なんとなく終わる。明治という新しい時代に、新しい日本語で、「なぜ生きるのか」をこう表現したのか。漱石享年50歳にも驚く。

                   

 退職後は、漱石、周一、ひさしを読むことに前から決めていた。人生後半は確かな言葉に触れて過ごしたい。ふと横を見るとママヨさんが「羊の歌」読んでいる。立男は最近、自分に続く祖先が気になり親戚に資料なんかを送ってもらった。老いというものは、自分の深いところ、自分の確かな部分はいったい何なのだと考えさせる力があるらしい。そして、その考える基盤が確かであって欲しいと、読書にも血肉にも求めるようだ。


学校不信の保護者の誤解が解け、「読んでもらえると嬉しい」とお礼にいただい漱石全集全巻。活字大きく、ルビつき、30年経ちやっと開く。感謝に堪えない。今、どうされているか救急車のこと書いて心配していただいた。疲れに鈍く、疲れが簡単に去らないのが老いか。

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