講演会を聞きに旭川まで。道路は雪が積もっていたり、ブラックアイスバーンになっていたり…。車の事故にも数件遭遇。次は我が身とばかりに、気を引き締め続けなんとか無事に帰ってこられた。旭川では、いつも学びを凡師に与えて下さる友人たちとも再会。素敵な時間を過ごすことができた。快く講演会に出席させてくれた荒馬さんにも感謝!
妹が中高生のときに通っていたフリースクール。「ここにいる子たちは普通の明るい元気な子に見えるのに、学校ではそうしていられないのはなんでだろう」と、父が語っていたのを覚えている。学校という場所が、明るく元気に通えない場所になっているのはなぜだろう。教育を施す以前の問題のように感じていた。
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「義務教育の場、選択肢拡大 フリースクール法制化」という記事を見て、そんなことを思い出した。多様な教育の在り方を認めること自体は良いようにも思う。でも、不登校の子どもが12万人もいるという学校教育の側の問題は先送りにしていいのか。安心して通え、学べる、そんな場所に学校がなっていないという子どもたちの声は、受けとめなくていいのか。
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一方で、家庭学習も義務教育として認めるというこの法案。子どもの学習権の保障になっているのかという疑問も残る。子どもの学習支援が目的とされているけれど、形ばかりの就学になってしまう恐れがあるのではないだろうか。
小難しい話を3回ぐらいに分けて載せるので我慢して読んで欲しい。
鶴見俊輔著「限界芸術論」から。吉川英治の『宮本武蔵』は、身分無く体力だけで関ヶ原に登場した孤独の実力者が才能を磨き頂点を極めて、他の分野の達人と交際し、社会秩序の理念を受け入れ、支配層による人間格付けの高い位置を得る物語だと言う。
鶴見さんは、人も物も元々値打ちなんかなく、死ねばチリで上も下も無いが、ものの側からで無く人の側から、人が生きる上で格付けは必要で避けられない、と言っている。この格付けは受け入れざるを得ない、だが易々とはそうしたくない、そこが大衆文学の読者層だとも。最近、葬儀という人生総決算の場面で「格付け」を考えさせられたので立ち止まった。
鶴見さんのこの本は面白い。漫画、落語、舞踊、落書き、流行歌、言葉遊び等を、庶民の側から発生した「限界芸術」として展開する。いわゆる「芸術」と「大衆芸術」と両者より広く生活との境界線にある作品を「限界芸術」いう分類だが、ここで説明はよす。
面白さの例で「生花の位置」とは、日本家屋の狭さと動作、嫁姑の関係、平和への憧れ、女性の立場と表現方法などを語りその洞察力に唸る。中学の時に、鼻薬(ミナト式)や正露丸、中山式快癒器の新聞広告をただただ面白いから切り抜いて集めていた立男は「私の愛した広告」で膝を打った。60年代中頃、薬局の玄関ガラスに貼ってあった前田美波里や夏目雅子のポスターを無断で自分の部屋に移動したのは発情期のせいだけではなかったんだ。
気づくと、本筋からだいぶ離れている、次回は軌道修正して続く。
画像は陶板のお面。何も考えず夢中で作った。この後のは全て作為が見え全部捨てた。作為とは隠そうと思っても隠し切れない卑俗な人間の内なる格付けだと思う公式裏ブログの方も更新済、お題は「柚皮入りイカ塩辛」。
同じものの2枚目。鉢植えなので水を遣らないと目に見えて萎れる。日増しにレモン色の紡錘形に変わっている。当たり前といえば当たり前だが神秘。艶々した葉も面白い。背景に赤い色を少し置いたら緑と黄色が生きてきた。実も一人前の味がするのかな。
公式裏ブログ「波風食堂、準簿中です」、さっき更新。そろそろ、波風文庫や波風ギャラリーも更新しなくちゃ「平成28年度 波風カレンダー」の制作を予定。昨年何となく作ったカレンダーの2回目。今回は、本ブログ愛好者の方限定で。ブログ右袖「読者になる」で登録された方を条件にしたい。詳しくはまた後で。